旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

田原本を歩く

2022-12-29 06:38:09 | 国内
↑卑弥呼の墓かもしれない箸墓古墳が三輪山のふもとに見えた。
三世紀後半、日本でも最古級の前方後円墳。


↓大和川の堤防には昔の港の名残が刻まれている。昭和53年に護岸工事がなされた。

あの古墳が建造された時代からつい百年ほど前まで、大阪湾につながる大和川は奈良盆地の繁栄の源だった。

「蔵人(くらんど)」という地名もそれを表しているし、

今も立派な蔵が受け継がれている。

田原本のマルト醤油さんに泊まった朝、御当主が朝食前に近くを案内してくださった。
話をしていただいてはじめて地域の物語に気付いた。

こちらも日本最古級の村屋神社が徒歩二分。

村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)が正式な名称で
三穂津姫(みほつひめ)とその夫である大物主(おおものぬし)も祀られている。

三穂津姫はそのなまえのとおり、天上世界から三本の稲穂を持って地上の大物主に嫁して実りをもたらした神。
※神社の公式ページにリンクします
大物主はさっき遠望した三輪山のふもとにある大神神社(おおみわじんじゃ)に祀られている。

↑あとから訪れたがこちらはバスが何十台もやってくるような大型神社だった↑
比べて田原本の村屋神社はバスが止められるような駐車場はない。

とりかこんでいる林はしかし、天然記念物である。
特におもしろいと思ったのが椿灰の話。

椿の葉を焼いてつくる灰はなによりもアルカリ性が強く、ご飯を椿灰で発酵させると緑色になって日本麹ができるのだそうだ。田原本にマルト醤油が存在するのもあるいは村屋神社に椿が群生していたことにはじまるのかもしれない。

今はどんぐりの海だが、椿がいっぱいに咲く一月二月を見てみたい。

田原本は能楽発祥の地でもあるという。
周辺の田畑に楽器の名前もつけられているのだそうだ。
※「田原本まちづくり観光振興機構」の詳しい解説にリンクします
世阿弥の妻・寿椿は田原本の出身。
余談ながら五代友厚の妻・豊子も田原本の出身※「広報たわらもと」の頁にリンクします

御朱印をくださる社務所は神官の自宅。
「こちらは六十七代目で守屋さんといいます。このあたりは物部氏の拠点だった地域です」

境内に物部神社があり、聖徳太子に滅ぼされた物部守屋大連(おおむらじ)が祀られている。

今は水はなくなっているが池の中にある小島のような場所だった。

神主の「守屋」さん宅で、頬を赤くして走り込んでいく少年と出会った。六十八代目さん?(^^)

マルト醬油さんまで戻る。

入口の古い金具は目の高さぐらいにとりつけられている。
馬を繋いでいたのだ。かつての初瀬街道だった道である。


朝食も醤油をテーマにしたメニューが用意されている。麹甘酒いただきます(^^) 「のらのわ自然卵」はことさら濃い色ではないが味わいがある。ミルクプリンに柿ジャム。
特に撮影はしなかったけれど、ご飯がおいしくておいしくて、御櫃からっぽにしてしまいました(^^)

季節を変えて、またマルト醤油さんの醤油テーマのコースを楽しみたい。
※マルト醤油さんのHPにリンクします
その時もぜひまた田原本案内に参加したい。

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奈良最古の醤油蔵マルトに泊まる

2022-12-25 15:05:07 | 国内
七十年間使われていなかった蔵に、麹菌は生きていた。

マルト醤油は元禄二年(1689)の操業だが、戦後のモノがない時代に一度蔵を閉じている。大豆と小麦の調達が困難になり、代用醬油をつくるのを潔しとせず、苦渋の決断をした。
※マルト醬油のサイトにリンクします
「祖父がどんな想いで店を閉じたのか…」
その時代を知らない孫が蔵を復活させようと決意しても、それが可能なのかはやってみなければ分からなかった。
「発酵がはじまったときはほんとうに嬉しかったです」
案内してくださった現18代目の言葉から喜びが伝わってきた。
2020年、約七十年ぶりに醬油蔵+宿として復活。
※奈良の情報発信サイトにリンクします

↓奈良盆地の中央を流れる大和川が、蔵から50メートルほどのところにある↓

↑家の間から大和川の土手が見えている↑商都大阪まで直結。
川の港が大きな役割を果たしていた時代・鉄道や道路が発達する以前の隆盛を思う。

「子供がたくさんいた時代には土手に大きな鯉のぼりを立てていたんだそうです」
↑作業場の梁に、指摘されなければわからない鯉のぼりの竿が布にくるまれていた↑

↑現在客室になっている扉の入口が鳥居の形状↓

この棟にある三室は醤油の原材料となる大豆、小麦、塩の貯蔵庫だった。
原材料に敬意を払うためのデザインである。

蔵から重い材料を出し入れするのに使われていた滑車が見える↑

↑滑車の下あたり↑今は埋め込まれてしまった桶の跡がある

↑当時からの井戸は今も同じ水を供給している
あとから思い出した時、このなにげない水こそがマルト醤油にとって代えられない要素なのではないかと思った。

昭和になってから使われていた搾り機↓

↑後ろの巨大な木の穴にテコの棒があって醤油を絞っていたのだろう。


小松も絞りを体験させていただいた。

ゆっくり、ゆっくり…

この生醤油をもっとも効果的に味合わうために用意してくださったのが…

↑少し炙った葛餅。
ちょっと垂らすと、予期しない甘さがひろがった。
醤油がこういう味わいになるんだ。
どこの冷蔵庫にも入っている類の醤油ではこういう味はしない。

たぐい稀なファミリー・ヒストリーも、
醤油蔵見学も興味深いけれど、
醤油をテーマにして供される食に大きな魅力がある。

※こちらに写真入りでできるだけ書きました。ぜひご覧ください(^^)


中庭から見上げる空に冬のオリオン

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天理教本部を訪ねる

2022-12-22 08:47:49 | 国内
勧誘など一切ない、寛容な場所だった。

天理市は昭和二十八年にはじまる「昭和の大合併」によって誕生した。
宗教教団の名前が自治体の名前になった例は他にないらしい。
政治と宗教は分離しているが、街を支えてきた天理教について知っておきたいと思った。

信仰の中心「ぢば」が↑この神殿の中にある。
意外なことに?信者でなくても・誰でも、24時間365日近くへ行くことができる。
※写真撮影なし

靴を脱いで上がると畳の海に圧倒される。
これまで見たことのない広さ。3157畳あるのだそうだ。
そこここで正座して祈る人々。
四回の柏手(かしわで)の音。
中央の少し明るくなった場所「じば」に、公式ページにも図解されている「かんろだい」が見えた。
※公式HPの解説にリンクします

これは天から授けられる「甘露」を受けるための台で、台のある場所は天井に穴が開いていて光も雨もはいってくる。

この神殿のある場所はもともと普通の村で、その中の中山家に嫁したみきが近くに暮らしていた。
彼女が「お隠れになった」場所には教祖殿があり、隠れてはいるけれど生き続けているので毎日食事も供される。
この神殿と教祖殿・祖霊殿を結ぶ800メートルの回廊はみごと。
常にぴかぴかに磨き上げられている。

「親神様(おやがみさま)の啓示(おつげ)を受けて、人間が生まれてきた意味を伝え、「ぢば」を明らかにしてくださったのが、教祖(おやさま)・中山みき様です。」(HPより)
「ぢば」は親神様が人類をつくった場所とされ、それゆえにすべてのひとは「おかえりなさい」と迎えられる。

↑天理駅から神殿へ続く長いアーケードをぬけたところに「ようこそおかえり」と書かれたインフォメーションセンター

荒唐無稽だとか・真実であり得ないとか、宗教の教理を批判する意味はない。
それぞれの人の心に、それぞれの神があるのだから。
どんな神を信じていようと・いまいと、大切なのはまっとうな暮らしをすること。
天理教はそれを「陽気ぐらし」と形容している、(と、小松は理解した)。

この「陽気」が天理教のキーワードだと感じた。

神殿を中心にして同じような和洋折衷なビルがたくさんある。

これらの建物は(まだ半分ほどではあるが)神殿をぐるりと囲むように建設がすすめられ、全世界からやってくる信者を受け入れる場所として機能している。スポーツでもよく名前のでてくる天理学園や大学も集まっている。宗教施設というよりも人間がよりよく生きる総合空間を目指しているようだ。

「天理参考館」は博物館としても評価が高い↑この展示も見てみたかった。

また来ます(^^)
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なら文化財修復センター見学、個性的なマルカツ

2022-12-20 12:40:39 | 国内
「文化財」は保存するだけでは朽ちてしまう。
未来に受け継ぐための作業を見学した。
※地下の公益財団法人は唯一国宝を修復できる組織、全国で十の団体が活動している
写真撮影不可
●當麻寺仁王像
★搬出時の様子をスタッフの方がブログに載せておられます

スタッフブログにも書かれているように、阿形像は身体全体がミツバチの巣になっていた。
「口から出入りできたので『阿』を選んだのでしょう(笑)」
ニホンミツバチは希少なので駆除せず、「ひっこし」してもらうように近くに巣箱を置いて促した。
なかなか思うようにいかなかったので強制的に女王バチに「ひっこし」してもらって、仁王像を空にした。
木造下部には三十年の間新陳代謝してきた巣が堆積していた。
頭の内部にも巣があり、仁王のガラスの目からミツバチが動いているのがみえるほどだった。
解体してみるとガラスの眼球は昭和の修理で埋め込まれたものでその時の彩色はすっかりなくなっていた。
修復現場で解体された仁王像の部材を見ることができる。
頭部も鼻の部分から左右に真っ二つになっており、昭和のガラス眼球が意外に大きいのがわかった。


●當麻曼荼羅
(たいまでら)といえば天平時代の巨大曼荼羅(国宝)が有名。
これが今ここにあるのかとおもったら、江戸時代に製作されたレプリカの修復なのだそうだ。
「レプリカ」は時代のちがういくつものヴァージョンがあり、どれも国や県の重要文化財指定をうけている。
※當麻曼のHPにリンクします
巨大な「レプリカ」が裏返しに置かれているのが遠目に見えた。
「間近に見てどうでした?」と質問したら
「修復のほとんどは裏打ちされた古い紙を丁寧にはがしてあたらしいモノに代えていく作業なので、表から見る機会は私たちでもほとんどないのです」とのお答え。
たしかに刷毛でたんねんにトントンやっている。
修復には専用に作られた宇陀紙を使うと指定されているのだそうだ。
宇陀紙はしかし今では一軒しか製造しているところがない。
※福西和紙本舗にリンクします
そして、宇陀紙は「選定保護技術」に指定されているが、材料をつくる人々が消滅するのが危惧されている。


●光道寺木造四天王立像★大和郡山市の修復開始のニュースにリンクします
無住の寺なので通常は公開していないし、現地では暗い場所にかたまって置かれていてよく見えなかったらしい。
今、目の前にある広目天は解体されて両腕がない状態ではあるがはっきりと見ることができる。
「腕の接合部をはずしてみた結果、どうやら別の像の腕がつけられていたとわかりました」
なんと、江戸期?あたりの修理で解体された際に別の像の腕がつけられたらしい。
それが他の三っつの像のうちどれなのかは、今後の解体でわかっていくだろう。
奥の方に光背をつけたままの二体が見えた。

●西大寺の軸
全長七メートルの軸が巻いたまま置かれていた。
何が描かれたものかはわからない。
「これはどこからも文化財指定を受けていないので修復費用は全額私費になります。文化財指定をうければ、費用の半額が国や県などから援助されますが、そうでないものは所有者がたいへん苦労されます」
この軸を修復するにも五百万円はかかるのだそうだ。
「こちらの場合はクラウドファンディングを募集され、幸い成功されました」

一階の天理市文化財課
●多坐弥志理都比古神社(おおいますみりしつひこじんじゃ)

なるほど↓この社を修復していたのか

地域の文化財課が担う役割はとてもおおきい。

今朝訪れた石上神宮(いそのかみじんぐう)で出土した銅鐸は、当時の慣習として「すばらしいものが出てきたから皇室へ献上」されたのだそうだ。それが今修復のために地元?へ里帰りしていた。
*******
修復センター前のある敷地に一軒だけあるレストランが「まるカツ」

ここしか選択肢がなかったので入ったが、壁一面の張り紙が気になる↓

「前世で働いていた気がするとんかつ屋ランキング一位(当社調べ)」って何(笑)
そこそこ待たされているあいだに端から読んでしまった。
これをずらりと並べる店長ってどんな人なんだろう?

やがて↑はこばれてきた牡蠣フライとロースの定食+大和とろろ芋
食べようとしたとき、テーブルにソースがないことに気付いた。
てきぱき動いている慣れた店員さんに声をかけると、「はい!ただいまうかがいます●番さんにソース」と新人さんに声をかけた。根拠などないのだが、マニュアルでやっているのではなく心から仲間のスキルをあげようという気持ちが感じられた。「やらされている感」がまったくなかった。
仕事はお金のためにすることかもしれないが、まったく楽しめないで仕事をするのは心にワルイ。

ボリュームだけでなく、めっぽう美味しい。待つ価値がある(^^)
はぐはぐ食べている間に会計のほうから「店長からワイロです」という声がきこえていて、なんだろうと思っていたら…
自分も会計で「賄賂」を渡された↓

もちろん次回以降のクーポン券などです(笑)

店を出る時にはすっかり「また来たい」気持ちになっていた。

あとから調べてみると、「まるかつ」の店長金子さんはテレビ番組「逆転人生」にもとりあげられた人だった。
HPも、彼の気持ちが満載だ。特に従業員募集の頁に書かれている言葉を読んでほしい。
※まるかつのHPにリンクします

「まるかつに合わない人」の項に下のような言葉がある
仕事に命をかけようと思っている人、自分を犠牲にしようと思う人(そこまで頑張って欲しくはありません)
命をかけてナニかをやるというと聞こえはよいが、周囲の人にそれを求めてはいけない。
金子さん自身が自分を大事にしている人だから、周囲の人も自分自身を大切にしてほしいと思っている。
それが伝わってくる店だった。








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峯塚古墳石室に入る

2022-12-18 13:29:05 | 国内

石室に入れる古墳は多くない。



奈良駅から車で一時間弱のマリオットホテルに到着。
レストランはないが道の駅がすぐとなり。電子レンジとちょっとした調理台のような場所がある。部屋はシンプルでシャワーオンリー。洗面台も最小限の大きさ。必要十分だと感じる。

今回ここを選んだのは敷地内に「文化財修復・展示棟」があるから↑
こちらは明日の解説ツアーに参加する。

夕食は近くのフレンチへ。車がないと近くのレストランにいくにもたいへんな立地ではある。

↑古民家と言うには立派すぎる家と敷地がまるごとフレンチレストラン。



高い天井にはもともとの太い柱を生かしてある。

ここはランチが大人気だというネット情報があった。
それは夜のメニューに魅力がないのではなく、夜になると公共交通や徒歩で宿泊地から訪れるのはむずかしい立地というだけのことだと、よくわかった。
**

翌朝、「日本最古の神社のひとつ」だという石上神宮(いそのかみじんぐう)を訪れる。

参道を少し歩くと、ニワトリの元気な声がきこえてきた。

立派なにわとりたちが朝ごはんのまっさいちゅう(^^)

「神代の昔、天岩戸開きの神話に、「常世長鳴き鳥(とこよのながなきどり)」を鳴かせて闇を払い夜明けを告げ、天岩戸を開いたという神話により、鶏は神道と大変関係の深い吉祥の霊鳥とされています。この謂れにより当宮には鶏を放し御神鶏として大切にしております」なるほど。
鳥居とは岩戸開きの時に鳥を止まらせておいた木だという説があるそうな。なるほど。


入口のこの門は文保2年(1318)醍醐天皇によるそうな。
※公式ページにリンクします
公式ページより→「当神宮の御神体である神剣「韴霊(ふつのみたま)」が禁足地の土中深くに祀られているという伝承があったため、明治7年8月に当時の大宮司 菅政友(かんまさとも)が官許を得て調査したところ、多くの玉類・剣・矛などが出土すると共に神剣「韴霊」が顕現され、伝承が正しかったことが証明されました。」

↑公式ページに言及されている「禁足地」は↑あの柵の向こうか↑明治七年によくぞ発掘する決断をしたと思う。多くの物事が変わった明治のはじめだったからできたこと。保守的な気風が支配する今なら、果たして可能だろうか。
***
マリオットホテルから石上神宮へ行く途中に峯塚古墳の小さな看板があった。
車一台がぎりぎり入れる程度の畑の中の道だった。
少々距離はあったが、石上神宮から歩いていくことにした。


畑の中を歩き、六地蔵がある分かれ道でイノシシよけの金網がある竹藪へ。
一見入れないように見えるが金網は開けることができる。
さらに竹藪を分け入ると…

石室の入口が見えた。

「入口付近は土砂が流入している」という解説があったが↑これがそれか。

少し頭を下げる程度で内部に入ることができた。

奥行きは11メートルとあった。
石室に至ると立ち上がれた。

振り返ると羨道の向こうに竹藪がみえる↑
携帯のライトで照らすと

見事な石組みがうかびあがった。
横一線を統一した石組みは今年五月に訪れた小谷古墳を思い出させる※その時のブログにリンクします

解説版によると、

特定の誰が埋葬されていたのかはわかっていないが物部氏ゆかりの場所だと推察されている。
さっき訪れた石上神宮(いそのかみじんぐう)も「物部氏の総氏神」だったと解説されていた。
この天理市周辺地域は古代には物部氏の本拠地だったということ。

↑地形調査によっていちから土を盛って造成されたのではなく、山の端の部分を丸く削り出して古墳にしたと判明している↑
入口は真南を向いている。
当時は竹藪などはもちろんなく、葺石をほどこされてぴかぴかに目立っていた、だろう。

千三百年も経てば、石舞台のように盛り土がなくなったり、地震で崩落したり、土地開発で消滅したりする。
年月を生き延び、さらに一般人でも入ることができる石室はそう多くない。


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