絵画館はアウグスト一世(ポーランド王としてはアウグスト二世)が建設したツヴィンがー宮殿の一角にある。「ツヴィンガー」とは「空堀」を意味するのだそうだ。かつてこの場所は空堀だった。ちょうど四角になっているのはそれで、か↓ゼンパーオペラハウス(焼失前の先代)を設計したゴットフリート・ゼンパー(つまりお父さんの方です)による↓
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この四角い宮殿の一番目立つ位置に王冠の形が見える↓
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ポーランド王となったことを見せつけるための装飾なのだそうだ、なるほど。
どんな強気な王様だったのだろう?
歴代ザクセン候が描かれた、「君主たちの行列」と呼ばれる長さ百メートルのマイセンタイル壁↓ここに描かれている↓
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馬を後ろ足で立たせていちばん威勢がよいのが彼↓
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馬の足元を見ると、プロテスタントのシンボルである白いバラを踏みつけているのだそうだ
どれどれ↓
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ルターを庇護したプロテスタント諸侯のリーダーだったはずのザクセン候がなぜ?
彼は伝統的にカトリックでなければならないとされるポーランド王に立候補するために、カトリックに改宗してしまったのだった。
当時のザクセンは公爵の国で、王国よりは下。なのでここに記された名前はポーランド王としてのアウグスト二世なのであります。
今よりもずっと宗教と政治が密接だった時代に、おもいきったことをします。
**アルテマイスター絵画館には数多の名品があるけれど、有名作品をちょこっと紹介。
いちばん有名なのは
●ラファエロの「システィーナの聖母」だろうか↓
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一見よくある聖母子像に見えますが・・・一番下のところに描かれた二人の天使だけが、いろんなモチーフに使われて大人気になってしまった↓
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実際に目にしておもったのは、後ろの聖母がふわふわした雲の上に乗っている表現があるからこそ、前景の二人の天使が際立っているということ。
人気が出たの、分かりますね(^.^)
●ジョルジョーネとティチアーノの共作したヴィーナス↓
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ジョルジョーネは後に巨匠と呼ばれることになるティチアーノと同じ時期にヴェネチアで画家になった。十歳ほど年長でベッリーニ工房での兄弟子との説もある。長生きして巨匠となるティチアーノと比肩される名手だったが三十代前半で没した。このヴィーナスは1510年頃、ジョルジョーネが未完で遺したものをティチアーノが完成させたとされているのだ。
秀でた兄弟子からの影響は大きかったのだろうなぁ、後にティチアーノが描く「ウルビーノのヴィーナス(フィレンツェのウフィッツィ美術館所蔵)1538年」の原型のようではないかしらん。
☆余談☆
ジョルジョーネの数少ない作品からは、ティチアーノにはないメランコリックと表現したい憂鬱さが感じられる。それが彼の個性であり魅力になっている。
個人的に、ジョルジョーネ作品にうたれたのは「カステルフランコの聖母」に出会った日。ヴェネチアから日帰りでカステルフランコまで行ったのにそこにはコピーが飾られていた(それでも行っただけの価値はあったのだが)。
ちょっとがっかりしてヴェネチアへもどってアカデミア美術館に入ったら、最後の暗い部屋にびっくりするほど鮮やかな「カステルフランコの聖母」のホンモノが待っていたのだった。わざわざ行かなくても滞在していたヴェネチアにあったのか。どこの案内にもちっともそんなことは載せられていなかったのに?
※理由はあるのです。この日の日記ももう見られなくなっているようなので、復刻させたいと思っております
●フェルメール二点のうち、今日は一点だけが展示してあった。フェルメールらしい構図とはちがう、若い頃のもののようだ↓
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●カナレット1720-1780の筆になるドレスデンの風景↓
※ヴェネチアの有名なカナレットの甥(母が有名なカナレットの妹だった)で、27歳でアウグスト強王に招かれた
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今回の旅で訪れた三つの都市(ヴィーン、ドレスデン、ベルリン)の美術館すべてで、カナレットの作品を見た。
写真の無かった時代、風景を描く絵はどうしても誇張した美しさで描かれがちである。
カナレットは「嘘」にはならない程度に美しくその町を描いて、その町を知らない人にも・よく知った人にも、好評を博していた。
数百年後の我々にもそれは伝わってくる。
ザクセン候のコレクションのうち彫刻は別の美術館に所蔵されているのだそうな、いつか見てみたい(いつ?)。
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美術館を出ると夕景↓
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バスで走り出してすぐに巨大なモスクがそびえていた↓
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※訂正!2020年再訪時、これは旧たばこ工場の建物でモスクに似せて建築された1908年の建築と判明
**二時間半ほど走ってベルリンのホテルに到着↓「ベルリン」とは「小さな熊」という意味です↓
ロビーにこんな装飾が↓
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夕食はホテルのダイニング「マレーネ」にて↓
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マレーネ・デートリヒはベルリン生まれ。第二次大戦前にアメリカへ渡りハリウッドで活躍していた。ヒトラーはマレーネにドイツにもどってくれるように要請したが、ナチスを嫌った彼女はアメリカ市民権をとり、アメリカ軍兵士を慰問して「リリー・マルレーン」を歌った。
戦後、ナチスから解放されたが分断されてしまったベルリンにはもどらず、パリに住み、1992年にパリで没した。墓はベルリンにあるのだそうだ。
長く長く分断されていたベルリンが1989年に一つになるのを見られて、ほんとうに喜んでいたという。
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