旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

パタン~門、ゴールデン・テンプル、千仏寺

2020-07-28 08:16:37 | ネパール
2004-2010《手造の旅》ネパールより

パタン旧市街への入口の門のひとつ。
形状からみるとそれほど古いものとは思えないが、古い写真を見ると二十世紀はじめに同じ場所に門ができていたことがわかる。

1910年はだいぶんカタチがちがう。最初は同じ場所かといぶかしんだが、門の向こうに見える建物が同じなので建て替えられたのだとわかった。

1930年には現在と同じカタチになっている。
それにしても、周囲はのんびりした田舎から大きく変貌してしまったのか。
**

パタンは別名「ラリトプル」=美しい街と呼ばれる。
通称●ゴールデン・テンプルと呼ばれる↓12世紀からの仏教寺院。
現在の建物は14世紀ごろからのものとのこと。

↓ここには三十日交代で十歳ぐらいの少年僧が修業している。
小松が訪れた五回で2008年11月に一度だけ目にした↓

ネパールでは仏教もヒンズー教も生活に生きている。

これはネワール族の使っているビクラムサンバット歴の表。
我々には暗号のようにしか見えないが、吉凶なり由来なりが事細かに書かれている。
日本の寺社にも吉凶が書かれた表があって外国人にはなかなか理解できないのと似ているかも。

この寺はネズミを飼っている寺として知られていて、二十年ぐらい前の旅行者のコメントにはとんでもない数のネズミがいつでも祭壇前にも出没していたそうだが、小松が訪れた五回の間に見ることはなかった。
ちかごろは衛生的に問題あるからお寺としてもそのままにはできなかったのかしらん。

この中庭には動物の皮をつかった履物で降りてはいけないとされている。

見事な木彫

屋根から垂れているこれを伝って神様の恵みが降りてくるとか。
避雷針の役割もしているとか?

上の写真の鐘がどうも西欧的で、キルティプルの寺にあった英国製のモノを思い出した。
由来を知る人がいなかったのだけれど。

**

旧市街にぽかんと広場があらわれる。

ヨーロッパの旧市街を歩くのと同じ感覚。
古い井戸ものこされて↓

いまでも周辺住民が使っている。

小松が訪れていた十数年前でも断水がけっこう起きるので井戸は現役だった。

***
●千仏寺=マハーボダーは実際に千以上の佛がある

通り過ぎてしまいそうな小さな路地を入ると

開けた中庭に仏塔が聳えている。

表面を陶器のようにしたレンガを積み重ねているのだろう。

そのひとつひとつにブッダがいる。
●14世紀にここにあった修道院からアバヤ・ラジ(発音が合っているか自信がありません…)という僧がインドへ巡礼した。
ブッダが悟りをひらいたブッダガヤでみた巨大な仏塔を故郷にも再現したいと思った。
※次の写真がインドのブッダガヤの仏塔→
ラジは国王から銅貨鋳造を命じられ、それによって得た利益をこの仏塔建設に投じた。
彼自身が亡くなってはるか後の1601年に現代の姿になったとされている。

近くには小さめの塔がいくつかある。
かつてはもっと大きな仏教修道院だったのだろう。

これこれ、けんかしないで。

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モスクになったアヤソフィアのモザイク画はどんな状態なのか

2020-07-25 17:22:10 | トルコ
2020年7月24日、モスクになったアヤソフィア。
「キリスト教の図像は礼拝中だけ布で隠し、観光時には見てもらえる」
と言っていたが、実際にはこんな状態になっている。トルコの友人が教えてくれた。

ここには東ローマ皇帝レオン六世がキリストに跪く9世紀のモザイク画がある↓

一日五回の礼拝の時以外に、この覆いをほんとうに外す?
また、内部で最重要の内陣上のドームに画かれている聖母子はこんな布で隠されている↓

↓この下にある聖母子のモザイク画↓

礼拝の度にこの布を、ほんとうに動かす?

モスクは床に座って礼拝するので、石の模様を考えて敷かれた大理石の床も

絨毯で隠されてしまった

かつて皇帝が礼拝の時に立つ位置を表す丸い色大理石の部分

ここだけは幸い絨毯に覆われずにすんだ↓

**
エルドゥアン大統領はアヤソフィアを祈る人のためには二十四時間解放すると発言。
観光場所として・宗教を問わずイスタンブールの歴史を内外に誇るべき場所としての役割は終わらせるのだという意味にきこえる↓新たに設置された看板「ジャーミー」とはモスクを意味するトルコ語↓


法治国家であり宗教国家ではないトルコを実現させた国父アタチュルクの意志は、こうしてなしくずしにされていくのだろうか。

●1453年にコンスタンチノープルを征服したオスマントルコのメフメット二世がアヤソフィアをモスクにするために入ってきた時の図を想像でえがいたもの↓



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2013トラブゾンのアヤソフィアはかつて…

2020-07-23 17:23:06 | トルコ
2008、2013《手造の旅》トルコ~黒海沿岸
明日、2020年7月24日、イスタンブルのアヤソフィアがモスクに変えられてしまう。
黒海沿岸トラブゾンのアヤソフィアのようなことにならなければよいと願う。
以下は2013年に、まだ博物館だった時のもの。この二年後には引用するYOUTUBEで見られるようにモスクに変えられ、装飾はほとんど見ることができなくなっている。※こちらからご覧ください

黒海の海岸から少し高くなった場所に位置しているアヤソフィアはビザンチン時代のマヌエル一世コムネノス(1238-1263)時代に建設された教会。

色鮮やかなフレスコ画が残されている。

内部の床も見ることができた

モザイク石の床は、今は絨毯の下で見えない。

キリストの業を記したフレスコ

↑これは水をワインに変える奇跡

↑こちらはパンを増やす奇跡
天井から吊り下げられた板によってほとんど見ることが出来なくなってしまったようだ。

この教会はコンスタンチノープルが陥落した後に逃れてきたビザンチン皇帝の一族が1461年まで教会として使用していた。メフメット二世はこの年の10月26日にトラブゾンを占領してモスクに変えた。
その後荒廃し第一次大戦当時には病院兼倉庫として使われていた。
戦後再びモスクとして使われはじめたが1958-62にエジンバラ大学が調査修復し、その後は博物館としてビザンチン時代の教会の姿を感じることが出来る場所だった。

入口の柱はもっと古い古代のモノの再利用かもしれない


1997年の発掘でハドリアヌス帝時代のエルメス神殿を紀元後二世紀のフラヴィウス帝が修復したものが発掘された。

教会⇒モスク⇒博物館という経緯を、イスタンブルのアヤソフィアもたどっている。
現代トルコは建国の父アタチュルクの敷いた政教分離を守っている筈だが、熱心なイスラム教徒にとっては「ここはかつてのようにモスクであるべきだ」と思う人はいるだろう。
日本にたとえるならば、戦後に国粋主義を牽制するために靖国神社を博物館に変えられてしまったようなもの、なのかもしれないから。




コメント (1)
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パタンで「イヒ祭」に出会う

2020-07-22 11:11:15 | ネパール
2004《手造の旅》ネパールより

1月17日、カトマンドゥの隣町パタンで女の子たちの祭にであった。

着飾った親が、着飾った娘を膝の上に乗せている。

手を出してお金を受け取っているのはお坊さんなんだそうだ。

「果物と結婚する祭りです」と説明されたが、それは?
ずっとよく分からないでいたが、今回調べなおして自分なりに理解できた。
果物はシヴァ神の息子またはヴィシュヌ神の象徴とされていて、
ネワール族の少女たちは五才から十才の間に「イヒ祭り」に参加して、この神と結婚したことになるのだそうだ。
「一生未亡人になりません」
ということなのだそうだが、未亡人にならないことはヒンドゥー世界では特別な意味がある。
★「サティ」という悪習を避けること
ヒンズー世界は夫が死ぬと妻が火葬の火に飛び込んでいっしょに死ぬのを美徳と考えていた。
インドではムガール帝国時代に支配階層のイスラム教徒もやめさせようとしたが、なかなか止められなかったのだそうだ。なんと1983年にもニュースになった。未亡人は大量の麻薬を呑まされ、夫の遺体を抱いて焼かれたのだそうだ。
ヒンドゥー文化と仏教文化が交錯するネパールでも「こんな習慣はやめさせなくては」と考えたのだろう。
そこで「あらかじめ神様と結婚させる」という奇手がこのイヒ祭なのではないかしらん。
人間の夫が死んでも、妻はもともと神と結婚しているのだからサティの犠牲にならなくてもよいという理屈である。
宗教に基づく悪しき慣習というのは、宗教によって解き放つのが好手にちがいない。

**
パタンのダルバール広場はネパールを代表する旧市街の風景。

↑シカラ様式の石造のパゴダ(左手)と木造の塔が共存している。

2015年の大地震で倒壊した塔もある。

王宮に向かって祈るのは王の化身とされるヴィシュヌ神が乗るガルーダの像

パタンの王のなかで最も人々に敬愛されたシッディ・ナラシンハ・マッラ王↓

善政を敷き、神を敬ったこの王は求道の旅に出てもどらなかった。
今もまだ生きているとされ、食事が供されているとのこと。
彼は「自分が死んだらこうして知らせる」と言い置いた。
※それについてこちらに書きました
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ジョムソンを飛び立ち、ポカラ経由、カトマンドゥへ エベレストホテルのギャコク鍋

2020-07-21 06:45:07 | ネパール
2006《手造の旅》ネパールより
11月29日、ニルギリ・ノース峰(7,061m)の夜明けをジョムソンから見ていた

宿泊したマウンテン・リゾート自体が2800mほどに位置している。
晴れて、ポカラまで飛べそうだ。

名物のリンゴをフライにしたのとお粥の朝ごはん
ホテルスタッフのみなさんお世話になりました<(_ _)>

ふたたびトラクターの引く青い車で空港へ向かう。

薄暗い空港のチェックインロビー

外は圧力を感じるような青空だ。

お土産屋さんの前に置かれているのは

名産のリンゴ!

1970年代に日本から近藤亨さんという方が農業指導をされ、ジョムソンから下ムスタンにかけての農業事情を一変された。
※2012年に野口健さんが訪れて91歳の近藤さんとお会いになっているブログにリンクします
こういう方の強い意志があってあのリンゴ畑が存在しているのだ。


お土産には輪切りのリンゴを干したものがおすすめ(^.^)


十人ほどしか乗れない小さなプロペラ機が飛び立つ

曇った窓の向こうに輝くニルギリ峰がたちあがってきた

三十分ほどで標高800mほどのポカラ空港に着陸。ずいぶん暖かい。空の色がまったく違う。

三十分も待たずにカトマンドゥ行きの大きな(笑)飛行機に乗換える

イエティ(雪男)航空に乗って

標高1200mほどのカトマンドゥに到着し、空港近くのエベレストホテルへ。

最上階のレストランからはポカラとは違うヒマラヤの尾根が見える。

ネパールの餃子「モモ」は、いわば味噌だれで(^.^)

メインには大大好きなチベットのギャコク鍋!
ここのギャコク鍋、ああ、もう一度食べたいです。






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