旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

2011年3月《手造》シチリア~アグリジェント遺跡と博物館

2022-09-11 06:41:48 | イタリア
高さ七メートルを超える石のアトラス像が復元してある

これはいったいどこにあったモノなのか?

復元されたゼウス=オリンピア神殿を見ると↑柱の上部にこの巨人がはめ込まれているではないか↑神殿は20mを超える高さだったと想像されている。

博物館の外・遺跡エリアには同様のアトラスも発掘されて、放置?↑↓

BC480年の「ヒメラの戦い」に勝った記念に、負けた側にいたカルタゴ人奴隷をつかって建設されたと推察される。

巨大神殿は18世紀の地震で崩壊し、多くの石材は建材として持ち去られたが、今も石の山として残る。



アグリジェントには今も多くの神殿廃墟がのこされている。

「神殿の谷」と呼ばれる一帯は、実際には街を護る自然の壁の端に沿っている。

↑復元された絵をみるとどのようなかたちだったのかが想像できる↑
ひときわ大きいのが冒頭のゼウス・オリンピア神殿↑
ギリシャ人の入植した大都市「アクラガス」=現代のアグリジェントである。

紀元前五世紀の通貨↑その名前が刻まれている

独自銀貨を発行するにはそれだけの経済力と信用がなければならない。

↑ニューヨークの古銭収集協会と個人コレクションに同様のデザインのものが収蔵されている↑

↑もっとも保存状態がよいコンコルディア神殿は、冒頭のゼウス・オリンピア神殿と同時期の紀元前五世紀ごろのもの。
コンコルディア=和合と書かれた碑文が見つかったからこの名前で呼ばれるようになったが、実際に何の神にささげられた神殿かはわかっていない。

間近で見ると↑内部の構造まできれいに残されている↑強調しておきたいのはこれは「発掘・復元されたのではない」ということ。

二千四百年の年月ずっとここに立ち続けているのである↑横からみたところ↑
それが可能になったのは、紀元後六世紀に建物が教会に転用されたから。

現地ガイドさんと共に「神殿の谷」を歩く。

海が見える。
ダイヤモンドの単位の元となったカラット豆をおしえてくださる。

街の端にある城壁は、その後の平和なローマ時代には埋葬場所に使われるようになった。

↑アーチの中がその場所だった。

ローマ人たちは街を出入りする人々が目にする場所に一族を誇る墓や記念碑を建てていた。

神殿がたくさんありすぎて覚えきれないが、

この環境を利用して展示されていた現代作家のブロンズ作品にはぴったりの場所だ。

絵画も彫刻も、作品の価値の半分は展示される環境に依存している。
***

遺跡のど真ん中に20世紀はじめのイギリス人の邸宅が残されている↑ヴィラ・アウレア(黄金のヴィラ)
↑胸像はここに住んだアレキサンダー・ハードキャッスル卿↑
1921年に英国軍艦の船長としてアグリジェントを訪れ・魅了され、すぐに移住し1933年にこの地で没した。
考古学者でもあった彼が私財を投じて保護・発掘・復元したからこそアグリジェントは現代の我々が見学すべき場所になっているのだ。

↑彼が発掘し再び立てたヘラクレス神殿の八本の柱↑

↑アグリジェントの考古学博物館はギリシャ時代の半円アゴラの上に建てられている。


入り口部分は中世の集会場⇒教会修道院の祈祷所として使われていた建物。
これらを利用して1960年代に建設された。
冒頭の巨大なアトラス像の他にも見るべきものがたくさんある。

↑シチリアをあらわす三本足の「トリナクリア」の最古例はこれだとされている↑
シチリアの三つの岬、冬のない温暖なシチリアの三つの季節。
ギリシャ文化をあらわすメドゥーサが真ん中にあるはずだけれどよく見えない。

↑大地女神デメテル?の小さな像がたくさん見つかった。
神殿に詣でた人へのいわばお土産だったと推察されている。
昔も今も、旅する人の気持ちは変わりません(^^)

1980年に子供用の墓から見つかった飲み物入れ↑

どの時代のどんな家族にとっても、子供の死ほど辛いことはない

↑平和なローマ時代に子供を埋葬した棺↓

悲嘆にくれる父母や祖父

↓棺の短い面には羊に引かれて冥界へ?導かれていく様子が描かれている↓


世界中、どこの博物館を訪ねても
その時の人の心が伝わるモノに出会うことに意味がある。

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2011年3月《手造》シチリア~パラッツォ・アドリアーノ

2022-09-08 06:12:33 | イタリア
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988)の映画館はこの広場に建てられたセットだった。
この映画の舞台になっていなければ行くことはなかっただろうけれど、訪れればそれ以外のモノも見えてくる古い町だった。
**
セリヌンテから田舎道を走ると雲行きがあやしくなってきた

放牧の羊が映画のように道をさえぎる


町への看板が見えてきた

人口二千人程という町の広場は思ったよりも広い。

これといった写真映えする建物があるわけでもない、シチリアの田舎町。

二十年以上も前に映画の舞台になって突如有名になったので↑こんな看板もとりつけられた↓

広場のカフェ入ると、復活祭の卵チョコとバッチチョコが積んである



映画の時に建てられた「映画館」が写された写真が飾ってあった↑
↑街角の陶器絵に描かれていたのと同じ。

映画の主人公トト少年はこの町のほんとうの住人で、今やりっぱなおぢさんとなっているのだそうだ。

イタリアの街でよくみかける↑おぢさんばかりの集会所で予期しなかったモノにであった↑
入口の双頭の鷲は何?
囲んでいる「スカンデルベグ・サークル」のイタリア語。
15世紀アルバニアの英雄の名前がなぜこんなところに?
好奇心に引かれて近寄ると「どうぞどうぞ」と歓迎してくれた。

↑スカンデルベグの肖像と十字架↑
スカンデルベグはアルバニア人領主の父とセルビア人の母をもつとされる。
少年時代にオスマントルコの人質となり、トルコ宮廷のいわばエリートとして教育され、トルコ軍の軍人となった。
勇猛さからアレキサンダーの名前=イスカンダル=スカンダル+トルコ人の役職尊称であるベイを合わせて⇒スカンデルベグの名をもらった。イスラム教徒に改宗していたが、故国でオスマントルコ支配に対する反乱がはじまるとキリスト教徒に再改宗してそのリーダーとなった。キリスト教徒の最前線としてオスマントルコと対峙し続け、1468年の病死まで二十年以上アルバニアの独立を維持した。アルバニアはその死後再びオスマントルコ支配下になり、二十世紀まで独立できなかった。

オスマントルコの支配下になったアルバニア本国からは多くの難民が逃れ、1482年にはアルベレッシュと呼ばれる一団がこのシチリアの山の中に住みついた(Wikiや複数の辞書を読んでの要約)。

↑1968年スカンデルベグの死から五百年を記念して設置されたプレート
「アルバニアの伝説的な英雄であり擁護者であり、イスラムの強大な軍隊に対抗して、カトリックの信仰の自由とキリスト教とヨーロッパ文明の無敵の防波堤となった人物」

四百年も経つが、彼らは今もアルバニアの言葉を母語のひとつと認識し、イタリア国家も保護すべき少数言語として町の公式記録言語に認めている。たとえそれが現代のアルバニア語とはだいぶんちがってきているのだとしても。

パラッツォ・アドリアーノには1959年まで列車が通っていたが廃止され、いまは車でしか行くことができなくなっている。
***

戦争によって故郷を追われる人々は21世紀にもなくならない。
20世紀以降はむしろ多くなっている。
日本人のために日本という土地があることに疑いをもたない日本人には理解しにくいことだけれど、難民が故国に戻れることのほうが実は少ない。

難民は同情はされるが歓迎されない。
異邦人として疎まれながらもそこで生きる術をみつけるしかない。
避難した先で生まれる第二世代第三世代が活躍するようになってやっと、避難先を「自分の街」と感じることができるようになる。

もし、幸運にも故国に戻れるチャンスがやってきたとしても、第二世代第三世代にとってどちがら住みやすいのかは、分からない。
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2011年3月《手造》シチリア~セリヌンテ

2022-09-06 08:12:56 | イタリア
紀元前六世紀ごろとされるヘラ神(ゼウスの妻)のためのE神殿↑
セリヌンテはシチリアに殖民したギリシャ人たちの二番目の都市。
紀元前6世紀頃近くにメガラ・イブレアに到達していたギリシャ人がここにも町をつくった。

古代の人口が9万人と推察される。
大都市だったから遺跡も広範囲にひろがり、観光のためのトラムも走っている。※上の図の線がそれ

見学でいちばんは写真栄えするのが、三つ並んだ神殿E/F/Gのうち、
1958年に復元されて全体像が誰でも理解できるかたちで見られるヘラ神殿=E神殿(冒頭写真と下の写真)。

F神殿は倒壊したまま復元されていない。

G神殿はゼウス神のものと推察されもっとも大きいが、

復元途上である。


十年前の通常ツアーではこのエリアだけしか見ていなかった。
今日もアクロポリス地区へいくには時間が足りないと思っていたが、今回大きな利点となったのは小さな20人乗りのバス。
これならば、時間間遠いシャトルバスを待たずに移動できる!

よって、はじめてセリヌンテのアクロポリス地区を訪れる事ができた。

●アクロポリス

事前に調べていた時には、アクロポリス地区で見るべきものは城壁・土台でしかないように思えていたが、実際に訪れてみると、ひとびとの暮らしも感じられる、なかなかおもしろい場所であった。

神殿?住宅?重厚な石積みの内側によじ登る↓詳しい現地ガイドさんに誘導されなければこんなところへ入らないだろう↓

現地のガイドさんに教えてもらわなくては分からないのは、神殿の廃墟の一角にモザイクで描かれたカルタゴ人たちが信仰していた神の絵↓見えますかしらん…

↑左の方に白い点々で描かれた子供の落書きみたいなのがそれ↑
セリヌンテはギリシャとカルタゴの間で数回征服合戦が行われ、紀元前306年に最終的にカルタゴが自分達の街にしてしまった。
その時に、ギリシャ神殿はカルタゴの神々を祭る場所として転用されていったのである。

春の花が毎年この廃墟を飾ってきたのだろう。

ここに住んだギリシャ人・カルタゴ人・ローマ人たちも、この海を眺めていたにちがいない。


***
近くのホテルで昼食


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2011年3月《手造》シチリア~エリチェの霧が晴れると

2022-09-04 21:16:01 | イタリア
朝食前、エリチェの旧市街を歩く。
前日からの霧が朝日に薄まりはじめ、青空がひらけかけている。出発前に皆さんを街歩きに連れ出そう(^.^)
**

前日午後、標高七百メートルほどのエリチェ旧市街にたどり着いた時は霧がかかりはじめていた。

バスは城門の外まで。

くぐって歩きだせば、大聖堂の鐘楼も霧にかすんでいた。

町のお菓子屋さん

復活祭の時期なのでこんな↓お菓子も



エリチェ旧市街は三角形の城壁に囲まれている↑

絶景の見えるはずの先端も、夕方が近くなるにつれて濃い霧に覆われてきた。

今日は旧市街のホテル泊↑夕飯の前菜バッフェ↑茄子にズッキーニに米のコロッケ=アランチーニ↑あぁ、いくらでも食べられてしまう(^.^)

地元のワインと共に(^.^)

明日になれば霧も晴れているだろう。
***
翌朝、06:15過ぎに窓を開けてみると空が青いので急いで散歩に出ることにした。

旧市街の路地に出ると、たしかに空は青いが道や広場にはまだまだ霧が残っている。
それでもきのうよりはずっと見通しが良いし、空の青さがだんだんと広がっていく気がする。

中心のウンベルト広場から、きのうは行かなかったカルミネ門の方向へ歩く。

程なくたどりついた城門は説明を見ると12世紀ごろのものということだが↑そばの城壁は紀元前八世紀、ギリシャ、フェニキア以前の先住民エリミ人時代からのものだという。

まだ霧は晴れない。

そろそろ朝食の七時半だからもどらなくては…。と、ホテルが見え始めた頃、急に街の色が明るくなった。太陽の光が射し込みはじめたのだ。ああ、もうあと一時間すればきっとあの絶景が見られるのに惜しい…。

忙しいパッケージツアーなら8時半の出発を簡単には変えられないが、《手造の旅》はそのあたりを柔軟に変更できる。
朝食にこられた皆さんに十五分だけ早く出発できるようお願いした。
***
08:15再び外へ出てみると、街の色ががらりと違った。
石の色は明るく黄色になり、そらの青さも本格的な青になっていた。
今度は最短距離で崖の先端へ向かう。

路地を抜けて、さっき見た洗礼者ヨハネ教会のドームが見えてきたときには、そのうしろに遥かな水平線が見えてきた。

トラパニの街と港も



14世紀の大聖堂も青空に映える
あさの出発を三十分遅らせるだけで、エリチェの街の印象は何倍もすばらしいものになったに違いない。


↑下に降りてエリチェ旧市街を見上げる↑ノルマン人支配の時代築かれた中世の城の塔が見える。
ギリシャ人の時代まではあそこに神殿があったという崖の先端↑
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2011 3月《手造》シチリア~モツィア島

2022-08-30 22:37:38 | イタリア
まるで能面のような紀元前四世紀・古代カルタゴ人のつくったマスク。
耳の上に穴が開いているから顔につけて演じた?踊った?いや重すぎるから儀式用?
彼らは日本人と似たデザイン感覚を持っていたのかしらん?

ローマ人がやってくるはるか以前から栄えた島には、紀元前八世紀のカルタゴ人たちが残した興味深いモノがたくさん出土している。
**
モツィア島の近くにはマルサラの塩田がひろがる。

塩は古代からこの地方の重要な産物。
風車は水を汲み上げると共に、出来上がった塩の塊を砕く事にも利用されてきた。
熱波の夏には一面白い塩の小山でいっぱいになるのだが、今はない。

↑この瓦はいったい何?
夏に出来上がった塩を冬から春にかけて降る雨から守るため、この瓦屋根で覆う。
この下には出来上がった塩が積まれているのだ。

島に渡る前にお昼ごはんにした

茄子にオリーブに魚の身をほぐしてボールにしたもの、新鮮なチーズ、そしてトマト。
シチリアそのもの。

小さな船で浅い海を十分ほど渡る。
※2014年に訪れた時のブログで、カルタゴ人がつくった「海の中の道」について載せています(後半)

周囲2.5㎞ほど。古代には島ごと城壁で囲っていたと推察されている。

この島の必見がこの大理石像↑
※こちらにもっと載せました

物置のような(失礼)博物館に、珠玉の収蔵品。

島に車はない・必要ない。歩けば古代の港の跡と

生き生きした花が迎えてくれた。

実際ここは自然保護区にもなっているのだそうだ。



この島は19世紀はじめにイギリス人ウィトカ氏に島ごと買い取られた。

島を往復する短い船時間でその名のついたマルサラ酒をふるまってくれた。



近くの崖の上には↑こちらも古代からの街エリチェが見える。
標高750mほどで、よく霧がかかる場所↑
この日のホテルがあるあそこへのぼってゆく。

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