2006年アメリカ東海岸の旅より
1877年に造られた「ピーコック・ルーム(孔雀の間)」がアメリカに移築されている。
ここはリバプールの船舶富豪フレデリック・レイランドのロンドンの邸宅。
集めた東洋磁器を飾る為につくられた。
飾られている「 The Princess from the Land of Porcelain.(磁器の国のお姫様)」の画家ホイッスラーJames McNeil Whistlerが「勝手に」装飾した。もともと別の建築家が手掛けていた部屋だったのだが、ホイッスラーは飾られた自分の絵に合っていないと感じた。
「絵に合ったようにちょっと手を加えてもいいですか?」
とだけ承諾をうけて、部屋まるごとを巨費を投じて別物にしてしまった。
ホイッスラーは自信をもっていたのだろうが、仕上がり途上と請求書を見せられたレイランドは不機嫌になる。
乗りかかった船を下りるわけにいかなかったホイッスラーはレイランドに抗議する寓意をこめて↓
↑上のような「対決する二羽の孔雀」を向かい側の壁に出現させた。
左の頭に角のような羽が突き出している(ホイッスラーは頭髪のてっぺんに白髪があった)のが、ホイッスラー?
右の孔雀は胸に金貨のようなものをたくさんつけたレイランド?
「金払ってくれよ」
「勝手に好き勝手やっといて、そんなに出せん!」
と言い争っていいるみたい(^.^)
ホイッスラーは完成後二度とこの部屋を見ることはなかった。
レイランドはお金は払わなかったが部屋はそのままにしていた。
1892年にレイランドが亡くなる。
1903年にホイッスラーも亡くなる。
二人と親交のあったチャールズ・ラング・フリーアは部屋ごと買い取り、デトロイトの自宅に移築した。
1919年にフリーアが亡くなると、彼の東洋コレクションを公開する博物館をワシントンDCのスミソニアンの一角に建設することとなり、「ピーコック・ルーム」として移築された↑
※小松が訪れてこれらの写真を撮った時はブラインドが閉められていたが、この部屋はもともとダイニングルームで自然光のもとでの部屋も美しい。それをみてもらいたいと思った美術館が月に一度だけブラインドを開いているのだそうだ。こちらYoutubeのビデオでそれを見せてくれています
ホイッスラーが死の前年1902年に画いたフリーアの肖像。この時まだ五十歳前なのですが^^;
**
「ピーコック・ルーム」は日本の影響を受けた西洋人の作品.
この時代の日本美術ブームは↓こんな作品もうみだしている
フリーアの庇護をうけていたトーマス・デューイングの「四つの森の音」
1896年、フリーアがはじめて屏風を手に入れた直後に画かれたと推察される。
アメリカ人流の屏風絵ですね(^.^)
フリーア美術館には多くのホンモノの日本美術作品がある。
最近の研究ではこの木彫は快慶のものではないか?とされている
「ヨコハマ商会を通じて田中伯爵から購入」と履歴にあるが、もともとどこにあったものかは不明。
↑こんな素晴らしい四天王もどこから売りに出されたものか分かっていない
廃仏毀釈で破壊されなかっただけよかったのか…
↑これは大阪堺の江原寺の山門を護っていた仁王像の一体↑等身大以上の大きさがある↑
フリーアはアーネスト・フェノロサとも親交がありったからこそこれだけ質の高い日本美術品を集めることができたのだろう。
1877年に造られた「ピーコック・ルーム(孔雀の間)」がアメリカに移築されている。
ここはリバプールの船舶富豪フレデリック・レイランドのロンドンの邸宅。
集めた東洋磁器を飾る為につくられた。
飾られている「 The Princess from the Land of Porcelain.(磁器の国のお姫様)」の画家ホイッスラーJames McNeil Whistlerが「勝手に」装飾した。もともと別の建築家が手掛けていた部屋だったのだが、ホイッスラーは飾られた自分の絵に合っていないと感じた。
「絵に合ったようにちょっと手を加えてもいいですか?」
とだけ承諾をうけて、部屋まるごとを巨費を投じて別物にしてしまった。
ホイッスラーは自信をもっていたのだろうが、仕上がり途上と請求書を見せられたレイランドは不機嫌になる。
乗りかかった船を下りるわけにいかなかったホイッスラーはレイランドに抗議する寓意をこめて↓
↑上のような「対決する二羽の孔雀」を向かい側の壁に出現させた。
左の頭に角のような羽が突き出している(ホイッスラーは頭髪のてっぺんに白髪があった)のが、ホイッスラー?
右の孔雀は胸に金貨のようなものをたくさんつけたレイランド?
「金払ってくれよ」
「勝手に好き勝手やっといて、そんなに出せん!」
と言い争っていいるみたい(^.^)
ホイッスラーは完成後二度とこの部屋を見ることはなかった。
レイランドはお金は払わなかったが部屋はそのままにしていた。
1892年にレイランドが亡くなる。
1903年にホイッスラーも亡くなる。
二人と親交のあったチャールズ・ラング・フリーアは部屋ごと買い取り、デトロイトの自宅に移築した。
1919年にフリーアが亡くなると、彼の東洋コレクションを公開する博物館をワシントンDCのスミソニアンの一角に建設することとなり、「ピーコック・ルーム」として移築された↑
※小松が訪れてこれらの写真を撮った時はブラインドが閉められていたが、この部屋はもともとダイニングルームで自然光のもとでの部屋も美しい。それをみてもらいたいと思った美術館が月に一度だけブラインドを開いているのだそうだ。こちらYoutubeのビデオでそれを見せてくれています
ホイッスラーが死の前年1902年に画いたフリーアの肖像。この時まだ五十歳前なのですが^^;
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「ピーコック・ルーム」は日本の影響を受けた西洋人の作品.
この時代の日本美術ブームは↓こんな作品もうみだしている
フリーアの庇護をうけていたトーマス・デューイングの「四つの森の音」
1896年、フリーアがはじめて屏風を手に入れた直後に画かれたと推察される。
アメリカ人流の屏風絵ですね(^.^)
フリーア美術館には多くのホンモノの日本美術作品がある。
最近の研究ではこの木彫は快慶のものではないか?とされている
「ヨコハマ商会を通じて田中伯爵から購入」と履歴にあるが、もともとどこにあったものかは不明。
↑こんな素晴らしい四天王もどこから売りに出されたものか分かっていない
廃仏毀釈で破壊されなかっただけよかったのか…
↑これは大阪堺の江原寺の山門を護っていた仁王像の一体↑等身大以上の大きさがある↑
フリーアはアーネスト・フェノロサとも親交がありったからこそこれだけ質の高い日本美術品を集めることができたのだろう。