旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

スミソニアンのフリーア美術館~ホイッスラーの「ピーコック・ルーム」

2021-06-17 07:23:15 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より
1877年に造られた「ピーコック・ルーム(孔雀の間)」がアメリカに移築されている。

ここはリバプールの船舶富豪フレデリック・レイランドのロンドンの邸宅。
集めた東洋磁器を飾る為につくられた。

飾られている「 The Princess from the Land of Porcelain.(磁器の国のお姫様)」の画家ホイッスラーJames McNeil Whistlerが「勝手に」装飾した。もともと別の建築家が手掛けていた部屋だったのだが、ホイッスラーは飾られた自分の絵に合っていないと感じた。
「絵に合ったようにちょっと手を加えてもいいですか?」
とだけ承諾をうけて、部屋まるごとを巨費を投じて別物にしてしまった。

ホイッスラーは自信をもっていたのだろうが、仕上がり途上と請求書を見せられたレイランドは不機嫌になる。
乗りかかった船を下りるわけにいかなかったホイッスラーはレイランドに抗議する寓意をこめて↓

↑上のような「対決する二羽の孔雀」を向かい側の壁に出現させた。
左の頭に角のような羽が突き出している(ホイッスラーは頭髪のてっぺんに白髪があった)のが、ホイッスラー?
右の孔雀は胸に金貨のようなものをたくさんつけたレイランド?
「金払ってくれよ」
「勝手に好き勝手やっといて、そんなに出せん!」
と言い争っていいるみたい(^.^)

ホイッスラーは完成後二度とこの部屋を見ることはなかった。
レイランドはお金は払わなかったが部屋はそのままにしていた。
1892年にレイランドが亡くなる。
1903年にホイッスラーも亡くなる。
二人と親交のあったチャールズ・ラング・フリーアは部屋ごと買い取り、デトロイトの自宅に移築した。

1919年にフリーアが亡くなると、彼の東洋コレクションを公開する博物館をワシントンDCのスミソニアンの一角に建設することとなり、「ピーコック・ルーム」として移築された↑
※小松が訪れてこれらの写真を撮った時はブラインドが閉められていたが、この部屋はもともとダイニングルームで自然光のもとでの部屋も美しい。それをみてもらいたいと思った美術館が月に一度だけブラインドを開いているのだそうだ。こちらYoutubeのビデオでそれを見せてくれています

ホイッスラーが死の前年1902年に画いたフリーアの肖像。この時まだ五十歳前なのですが^^;
**
「ピーコック・ルーム」は日本の影響を受けた西洋人の作品.
この時代の日本美術ブームは↓こんな作品もうみだしている

フリーアの庇護をうけていたトーマス・デューイングの「四つの森の音」
1896年、フリーアがはじめて屏風を手に入れた直後に画かれたと推察される。
アメリカ人流の屏風絵ですね(^.^)

フリーア美術館には多くのホンモノの日本美術作品がある。

最近の研究ではこの木彫は快慶のものではないか?とされている

「ヨコハマ商会を通じて田中伯爵から購入」と履歴にあるが、もともとどこにあったものかは不明。

↑こんな素晴らしい四天王もどこから売りに出されたものか分かっていない
廃仏毀釈で破壊されなかっただけよかったのか…

↑これは大阪堺の江原寺の山門を護っていた仁王像の一体↑等身大以上の大きさがある↑
フリーアはアーネスト・フェノロサとも親交がありったからこそこれだけ質の高い日本美術品を集めることができたのだろう。

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アーリントン記念墓地と朝鮮戦争記念碑

2021-06-15 11:44:49 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より
「嫌がらせに、南軍のリー将軍の邸宅敷地に死体を埋葬しはじめたがはじまりです」と解説されて驚いた。今も丘の上にある「アーリントンハウス」が、そのリー将軍の邸宅↓

ロバート・リー将軍は妻が初代大統領ワシントンの孫娘だった縁でこの広大な敷地を手に入れた
奴隷制度には反対だったが南軍の将となったリー将軍は戦地となった首都から避難する。
戦争が終って自宅に戻ってくると周囲が墓場になっていて唖然としただろう。
住むのを断念し国に寄贈されたことにより、戦没者を埋葬する公式な墓地になったのである。

「アーリントンハウス」のふもとにあるこの墓は↑JFK暗殺されたケネディ大統領のもの

妻のジャックリーンが灯した「永遠の火」は、彼女自身の墓との間に位置している。

1961年のケネディの有名な演説「アメリカの同胞たちよ、国がなにをしてくれるのかではなく、あなたが国のためになにができるかを問え。世界の人々よ、アメリカが何をしてくれるのかではなく、人の自由のために共になにができるのかを考えようではないか」

入口のビジターセンターには暗殺を報じる当日の号外↑

司法長官を務めていた弟のロバート・ケネディも暗殺され↑近くの一角に簡素に葬られている↑


同じヴァージニア州側にあるペンタゴン(国防総省)
**

↑1995年に完成した「朝鮮戦争記念碑」があるのは、ポトマック川を渡ったワシントンDC(コロンビア特別区)、リンカーン記念堂の近く↑

十九人の兵士がぬかるみ(田んぼ?)の前線を進む姿↑

磨かれた黒い壁に写って三十八人=三十八度線をあらわしているそうな。

FREEDOM IS NOT FREE
自由はただで手に入らない


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ワシントンDCで~ワシントン、ジェファーソン、リンカーンのメモリアルへ

2021-06-12 10:31:31 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅より
高さ169mの世界でいちばん高い石の塔「ワシントン・メモリアル」は1884年に建造された。
古代エジプトのオベリスクは高くても30m。これはその五倍以上の高さで青空を突いている。

↑途中で色が変わっているところが46m付近。
資金難と南北戦争で一時建設がストップし、石材が変ったのでこうなったのだそうだ。


その日の朝、NYのペンステーションからアムトラックに乗った。

駅の名前はペンシルヴァニアからきている。

ペンシルヴァニアの州都↑フィラデルフィア方向へ行く駅だから。
古い街の門の名前がそこをでてたどり着く街の名前からとられたのと同じ。
今回の旅でフィラデルフィアを訪れたかったのだが無理に入れると日程が厳しくなるので泣く泣く割愛していた。
2021年になってもフィラデルフィアをいつか(いつ?)ちゃんと見学していと思い続けている。

ユニオン駅に到着。1907年に建造された古典的なデザインの駅舎。

古代ローマの「コンスタンチヌス帝の凱旋門」の影響を受けているのだとか。

少人数なので地下鉄も使って移動。

ナショナル・モール=THE MALLと呼ばれる、若きアメリカの歴史を勇壮に感じさせてくれるモニュメント群のただなかへ。
19世紀半ば、建国百年に満たない時期にこれだけの都市計画で祖国を誇る場所を出現させている。

モデルは古代ローマ。

このリンカーン記念堂に入ると

まるでコンスタンチヌス帝かと思わせるような

リンカーンの巨像が見下ろしている。

足元の人間と比較してもらうとその巨大さがわかるだろう。

記念堂の売店に売られていた本の表紙に暗殺される間近のリンカーンの写真があった。

南北戦争という試練はすごいストレスだったのが感じられる↑

記念堂の前には映画でもよく出てくるあの池

マーティン・ルーサー・キング牧師の「I Have a dream」スピーチのあった場所

**



ポトマック川沿いにある半人工の遊水池で、

足こぎボートに乗りました(^.^)
↑後ろに見える神殿みたいな建物は何?
↑第三代大統領ジェファーソン記念堂だが…
↓この建物にそっくり↓

↑これはローマの「パンテオン」紀元後二世紀のオリジナル建造物。※紀元前一世紀の建造をハドリアヌス帝が新たなデザインで建てなおしたとされる
これをモデルにしているのがひと目でわかる(^.^)※ジェファーソン記念堂公式サイトでは「ヴァージニア大学」と「モンティチェッロ」の影響と書かれているが、この二つがローマのパンテオンの影響をうけているのだ
オベリスクといいリンカーン記念堂といい、ワシントンDCはいたるところで古代ローマを模範している。

足こぎボートを下りてジェファーソン記念堂に入った。

1943年に建設。ローマの建物は教会になっているが、ここは第三代アメリカ合衆国大統領ジェファーソンを讃える場所。

独立宣言の起草が有名

身長高い人だったようです(^.^)

**

最後にアメリカ議会=キャピトル・ヒルへ

このドームは、やはりローマのサン・ピエトロ大聖堂を思い出させるあるいはロンドンのセント・ポール大聖堂
この場所で行われる大統領就任式では、聖書に手を置いて宣誓されるのだ。

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ブルックリン橋を歩いて渡り、国連やウォール街も

2021-06-09 21:46:00 | アメリカ東部
2006年アメリカ東海岸の旅よりブルックリン橋を歩いてわたるのは《手造の旅》で実現させたかったこと(^.^)

1883年にイーストリーバにはじめてかかった、全長1.8㎞の、当時世界最長の吊り橋。


「自由の女神」からマンハッタン島の南端「バッテリー(砲台)パーク」に戻り、すぐ近くのウォール街まで歩いた。

ウォール街はその名の通り城壁があった場所。
オランダがニューアムステルダム(現ニューヨーク)を建設した当時、イギリスの攻撃に備えて壁を建設していたあたりと伝わる。
※別説:オランダ人たちのなかでもフランス語を話す人々はwaalと呼ばれているので(ベルギーの「ワロン地方」もこの由来)、彼らが住んだあたりを「ウァール・ストリート」と呼んだ
かつて白人たちはこの壁の南側のちっぽけな地域に固まって住んでいたのだ。

それが今や世界の経済を動かす場所になっている。

↑すぐ近くにあるギリシャ神殿風の建物は「フェデラル・ホール」。
イギリス領時代のニューヨーク市役所、独立後にははじめての議会として使われ、初代大統領ワシントンが選出された場所※再建されてますが
正面に立っている像はワシントン。
**
冒頭写真のブルックリン橋はマンハッタン方向へむかって歩いた方が景色がよいというので、まずは車に乗ってブルックリン橋を渡る。

↑途中右手に1907年建造の「アンブローズ灯台船」が見える↑
海峡を通る船のための目印となる船だったが、1932年にラジオ無線が導入されるとその役目を終え、第二次大戦では偵察船として使われたそうな。幸い沈没せず、最初の場所にもどってきて博物館船となっている↑

ブルックリン側で車を降りて↑橋の上部=車道の上の道へあがっていこう↑

けっこう広い

木道となっている。自転車もOK。
太く長いワイヤーが張り巡らされている。


マンハッタンに向けて歩いていくと、正面に摩天楼のパノラマがひろがる(^.^)


***

「グランド・ゼロ」も訪れた

かつてのワールド・トレードセンターにも一度だけ訪れたことがあった。
次に何が起きるかなど、誰にもわからない。
****

四十二丁目の国連ビルへ。
ここはセキュリティをうければ誰でも入ることができる

シャガールのステンドグラスもある。

イラクの国連事務所が攻撃された時、現場に掲げてあった傷だらけの国連旗が見られる。

立派なお土産屋さんもある。

*****

少し早目の夕食を終えて、NY最後の夜はミュージカル「CHICAGO」

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リバティアイランドで見上げる「自由の女神」

2021-06-08 10:58:59 | アメリカ東部
2006年アメリカ東部の旅より
「1884年から1924年の間に一千四百万人の人々が移民としてニューヨーク港にやってきた。女神が高く掲げたトーチは(製作者の意図とは関係なく)、ついに希望の国へたどりついたことを感じさせた」現地の案内版より

↓リバティ島で展示されていた実物大のトーチ↓


一般的なニューヨーク観光でマンハッタンの南端から見る「自由の女神は」けっこう小さい。
↓(自由の女神のある)リバティ島からマンハッタンがこんな風に見える距離なのだから

《手造の旅》ならもう少し近くから見上げたいではないか。
「自由の女神」入場券を買ってリバティ島行きのフェリーに乗った。

↑途中に見えるこのエリス島は移民たちが検疫を受ける場所。

映画「ゴッドファーザーPartⅡ」で、
故郷シチリアで敵対するマフィアに親を殺されひとりでNYにたどりついたヴィトー少年。

入国官に名前を訊ねられ言葉が分からず、出身の村の名前「コルレオーネ」と答えてそれがファミリーの名前になる。感染症隔離されたエリス島から「自由の女神」を見上げる姿。

※ここの見学は別の機会にしました

リバティ島に上陸し

「自由の女神」に入場しようと思ったら、大きな荷物は預けなくてはならない。
9.11からまだ五年。安全検査はとてもきびしい。

↑このコインロッカーはなんと指紋認証式!
預けた本人が来ないと取り出せない

女神の立つ台座は博物館になっている実物大を間近にするとその大きさにびっくり。
入るとすぐに女神のキビシイお顏が↓これは作者のフランス人バルトルディが母をモデルに製作したそうな↓
※出身のアルザス地方コルマールの村の入口で大きな自由の女神にであった2011年のブログをこちらからごらんください

フランスからの巨大なプレゼントは

こんな風に組み立てられていった。

9.11の後、内部に登ることは禁止されていたが、真下から構造を見上げることができるた↓

鉄骨で組み上げられたビルのようだ。

外に出て台座のすぐ下から↑見上げると、近すぎて顔が見えない。

当時のカメラだとこのぐらいやらないと全体が入らなかった。

台座のその下の星形を出てやっと全体が入る。

「自由の女神」はフランス製だけれど、アメリカ的なモノの象徴
ジーンズや時にアメリカ国債の販促にも使われた。

マンハッタン島に戻ると、バッテリーパークでもたくさんの女神たちが小銭を稼いでいた↑






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