旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

「あなたの知らないルーブル美術館」見学

2013-08-26 17:24:16 | フランス
《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ+シャルトル 七日目。
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一般的なパリ観光でツアーに含まれているルーブル美術館観光というと、「ミロのヴィーナス」「モナリサ」「ナポレオンの戴冠」の三大作を含む約一時間から一時間半程度である。

ルーブルはとても広いから何度来ても一般ツアーで解説付きで見学できるモノはおんなじで…という話をいままでもよく聞いていた。ルーブル美術館の持つ深遠な力を知っていただくために、もっと違う解説をきけるコースはないのか?と、今回は、先にあげた三大作品はまったく見ない行程にした。しっかりした解説があれば、それでも充分おもしろいのです。

その時たまたまやっていて出くわす企画展示も楽しい。「地中海のモザイク」展では、こんな★「どや顔」のライオンも「やられた!」と声が聞こえてきそうなシカイスラエルから持ってこられた紀元後三世紀頃のモノだそうな

★ギリシャのブロンズ像のセクションで見つけた「どうもありがとう!」と観衆に応えるようなミノタウロス

★この部屋の天井は2007-2009年にサイ・トゥオォンブリーというアメリカ人の美術家によって装飾されたものなのですが…彼は2011年に定住していたローマで亡。

★14世紀フランドル画家ジャン・マルエル作とされるこの二作品の事ははじめて知った左側は以前からルーブルが所蔵しており、ジャン・マルエルの真筆。

14世紀フランドル生まれの画家、ジャン・マルエルは「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」の作者として有名なランブール兄弟の叔父にあたる人物。※マルエルの雇い主であるブルゴーニュ公フィリップ二世豪胆公もまたベリー公の弟にあたる。

右の作品は、かつて上に別のカンバス画が貼られていた。所蔵していた教会は「よくある一枚」と思って財政難で売却。手に入れた骨董商がフレームを修理していた時、下にもっと古い絵が隠れているこの絵を発見した。

ルーブルに持ち込まれたこの作品が、すでに所蔵されいているジャン・マルエルの作品であることが「ほぼ」認定されるのにも相応の年月がかかり、2012年になってやっとここに展示されたのである。ルーブルが買い取る為の資金は保険会社のAXAがメセナ活動の一環として負担した。

この二つの絵、比べて見ると「なるほど、同じ作者の作品だなぁ」と素人目に納得させられる。


★魚のパテナは、ずいぶん以前に雑誌「芸術新潮」に紹介されていて一目で好きになった。緑の深い海にそれぞれ個性的な動きと表情を見せる金の魚が泳いでいる古代のキリスト教儀式用のものだが、周囲を囲む奇石の装飾は中世にとりつけられたもの。よく見るとヒビが入っていて一度割れた事があるようだ。

★象牙の群像彫刻

一体一体がすばらしい表現力を持っていることは、近づいてぢっと見ていると伝わってくる。

右側の二体は今年やっとここに揃う事ができた。もともとひとつの作品の一部であったことが分かっても、それぞれ別の所有者があれば、並べて展示されることでさえ簡単な事ではない。百人を超えるメセナの寄付によって、2013年今年このようなかたちで展示が出来るようになったものである。彼らの名前全部が掲示されていた。

★ブルゴーニュ公の家臣の墓等身大の尼僧たちが運ぶこの姿は一度見たら忘れられない。

★ハンムラビ法典をつくらせた王のブロンズ像溶かされずに現在に伝わった事は実に幸運。

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午後は二日間有効のミュージアムパスをお渡しした。モデルコースとして小松がお連れしたのはオランジェリー美術館。ここに収蔵されている睡蓮の大壁画はもちろん素晴らしいが、地下の階に展示されているポール・ギョームとジャン・ウォルターのコレクションも必見である。

ポール・ギョームがパトロナージュしたモディリアーニやスーチンの作品がたくさんある。もともとは彼個人が家にどのように置いていたのか、このミニチュアがよく理解させてくれるだろう
彼は事業に失敗して早世したが、未亡人と結婚したジャン・ウォルターは、妻の前夫のコレクションを売りとばしたりしなかった。
その未亡人の肖像画をマリー・ローランサンが描いているいつもの毒気がぜんぜん感じられないこのタッチはぎゃくにほほえましい。

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地下鉄のポスター

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夕食は少しアジア風の味付けのお店へ
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昼までシャルトルゆっくりしてから電車でパリへ

2013-08-25 07:38:18 | フランス
《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ、+シャルトル六日目。
シャルトル市内を歩く
昨夜はシャルトル大聖堂の夜景と地下訪問で遅かったので、少しゆっくり出発。

大聖堂は川を見下ろす丘の上に建てられている。後ろ手から「下の街」を見晴らすとそれがよく理解できる。古代にはこの斜面を利用して劇場が建設されていた。その名残も発掘されている


上と下はまさに身分の差↓この階段は階級をつないでいる。

「上の町」へ水を売りに行く「水売り人」がこの階段を上り下りしていた。


今も新鮮な湧き水をたたえる井戸がこれ


洗濯場

川は上流から水をきれいにつかう順番・職業別に住分けられていた。

通りの名前はその職業が残っていることが多い。
この「マサクル」は英語でも「大量虐殺」を意味する単語。
ここは動物の屠殺が行われていた
そのひとつ上流にある「タヌリ」は「皮なめし」の意味

川のすぐ外側には二十世紀にはいっても城壁と城門が残されていた。
その門の絵が看板に描かれている(写真内左下:拡大してご覧ください)

そして、その残骸が写真内右上に見える。これを壊したのは第二次世界大戦時に占領していたドイツ軍。撤退が決まると爆破したという。

「上の街」へあがっていく、雰囲気のある道


大聖堂近くの路地に「牛乳通り」と「ハーブ通り」


大聖堂の彫刻、地獄へ行かされる人々の方がいつもおもしろい


ファサード裏側のステンドグラスから「エッサイの木」の部分

「シャルトル・ブルー」と通称される美しいステンドグラスは、こちらの首を傾けた聖母のまわりの青空のような透明なブルーをさす
この中心の四枚だけ1194年の大火災以前から大聖堂にあったもの。
その後の時代に制作されたものとははっきり違う青。
かつてのもう少し小さめの大聖堂で主祭壇後ろにある最重要のステンドグラスだったのではないかと想像されている。

大聖堂の床に描かれている巨大な迷図の写真がお店にあった

近所のひとがワンちゃんつれて来店している。おや?シバ犬と甲斐犬ですね


昼食は、近くのビストロへ。選んだメニューで小松がいちばんおいしかったのは、ホタテとアボカドのケーキ

レモンとバルサミコでさっぱりいただきました。

15:00、ホテルに置いてあった荷物をとって、駅へ向かう。
そのために駅から近いホテルにしておいた(^^)

チケットを打刻機に入れる。

今日は一等車へ

約一時間半、のんびりローカル列車の旅。
この粋なベレー帽の人は車掌さんです

二階建てで座席もたくさんある

モンパルナス駅へドライバーさんがむかえに来てくれた。
お昼にスーツケースだけ載せて先にパリへ出発してくれていたのである

ルーブル美術館から徒歩すぐのホテルへチェックイン。ルーブルの地下カルーゼルのモールなどご案内

ほんとに便利な場所です。

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バイユー、そして「林檎の礼拝堂」を見てからシャルトルへ

2013-08-24 21:06:49 | フランス
「林檎の礼拝堂」を訪れることは、この旅を企画した理由のひとつだった。

《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ+シャルトル四日目、午後。

朝、ノルマンディー上陸作戦の海岸とアメリカ兵の墓地を訪れ、その後すぐちかくのバイユーにて記念館訪問。

バイユーに来たらどうしても見ておかなければいけないのは、現存でも全長六十メートルを超える11世紀の「バイユーのタピスリー」。1066年ヘイスティングの戦いで勝利したウィリアム王の異母兄弟司教がオーダーしたものと言われている。大聖堂の柱に渡して展示したと推定されている。伝説ではウィリアム王の妃がつくったというが、これだけのものは素人のものではありません。
タピスリーと呼ばれていても、いわばシーツの上に毛糸で絵を描いたというようなものです。

ここにあります↓

が、写真撮影禁止なので、こちらのサイトでもごらんください。

もともとこのタピスリーを展示していたと言われるのがこの大聖堂↓


<mg src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/dd/c4b069a676106218c19a1c0864cba7a2.jpg">
ロマネスク的な彫刻が美しい
今見えている部分はしかし、11世紀にはなかった。
11世紀の部分で残されているのは、主祭壇の地下にあるクリプト。
ここの雰囲気は中世そのものだった↓


**
バイユーから南へバスを走らせ、ウィリアム征服王誕生の地ファレーズ近郊へ。今日はとなりの小さな村にある小さな15世紀からの礼拝堂を訪れる。

以前から気になっている場所だったが、今回の旅へ参加希望された方が、「林檎の礼拝堂」は近いのでは?と言われて、行程を一日増やして訪れることにした場所である。

こんな細い道を通って

すぐに礼拝堂があらわれた


荒廃していた礼拝堂を現在みるように美しくしたのは日本人美術家の田窪恭治さん。
ご本人が書かれたその名も「林檎の礼拝堂」という本は、美術制作とはなにかを考えさせてくれる本だった。

一枚の絵を描くのとはちがい、建物を相手にするにはお金がかかる。
人が仕事として働き、材料を買い、それなりの年月がかかる。
それを美術家個人が出せるとは限らない。
ましてや、完成したものは売りに出せないし、日本に持ってくることもできない。
それでもこの事業にお金を出す人々の心意気とでもいうものが、この礼拝堂に結実している。

破れていた屋根は美しい色ガラスで補修された

提供したのは日本の企業


美しいリンゴの木の絵

内部の絵を描いたのは田窪さんだが、昔の構造は出来るだけ残そうとしている。
この天井の梁はむかしのまま


本の中で印象的だったエピソードのひとつが、床の鋼鉄材について。
入口にそのサンプルが置かれていた↓

この材料も日本の企業により提供されたのだが、これに対する輸入関税が数十万もかかる事がわかり、フランス政府に免除してくれるように働きかけたのだそうだ。
詳しくは本をお読みください。

***
今日の宿泊地はシャルトル。
休日なので道は空いていて三時間ほどで麦畑の向こうに大聖堂が見えてきた↓

この大聖堂の風景は、昔の巡礼が見ていたのと変わらないのか、そう思うと感慨深い


まだまだ明るい時間にホテルへ到着

旧市街大聖堂へ近いホテルにした。

大聖堂で戴冠した唯一のフランス王アンリ四世。

暗くなる前に街歩きにお連れして、大聖堂からホテルへは自分で帰れるようにしてもらわなくては。

第二次大戦時代のレジスタンスの闘志ムーラン市長の記念碑。
彼はドイツ軍によって殺された。
古い荒れた教会はシャルトルにもまだまだある

休日の商店街はおやすみ


各自夕食の後、いよいよ、シャルトル大聖堂のライトアップ!そして、得難い体験となったのは大聖堂の地下へろうそくを持っての訪問だった。
こちらに書きました。すばらしいシャルトル大聖堂のライトアップと共に、ご覧ください!
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ノルマンディー、上陸作戦の海岸

2013-08-24 20:38:09 | フランス
《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ、+シャルトル 五日目朝。

MSM(モン・サン・ミッシェル)へ行くツアーは数えきれないほどあるが、ノルマディー上陸作戦に触れたコースはほとんどみかけない。しかし、ノルマンディーを訪れる人々が必ず思い致す事柄ではないのか? ならば、しっかり理解していただける行程で訪れたい。


MSMを出て一時間半、オマハビーチが近づいてきた。1944年6月6日に敢行されたノルマンディー上陸作戦のなかでも、もっとも苛烈な戦闘が行われた場所である。この近辺には大小たくさんの博物館がある
こちらは最近開館したところだそうだ

遠い昔でなく、現代の戦場だった場所をどのように訪れ、感じてもらうのが良いのか。案内の方法には確かにむずかしいものがある。

半世紀も経てば多くの遺構はなくなってしまっていたりするし、残っていてもそこから現代につながってゆく手触りのようなものを得られる場所は限られている。

アメリカ人墓地は、あの戦闘が現代につながっている場所なのだと、一瞬ではっきりと認識させてくれる場所だ。

白い十字架が整然とならんでいる。

以前、はじめてここを訪れたのは2000年の6月だった。上陸作戦が行われた6月6日のすぐ後ということで、多くのアメリカ人が来ていた。いつもは陽気な若いアメリカ人たちも、ここを訪れる時には一様に神妙な顔をする。

今日でも、アメリカは世界中にたくさんの兵士を送っている。
彼らにとって、ここに葬られている人々は、明日の自分かもしれないとひしひし感じるに違いない。

「海を越えた若者」の像が置かれている

両方の壁には上陸作戦後の侵攻経路が描かれている

戦争が終わった当時、アメリカ人兵士の墓はそれぞれの戦闘のあった場所にばらばらに埋葬されていた。それを1か所に集めて、このようなかたちで埋葬しなおしたのは1956年になってからである。

175エーカーの土地が、永久にアメリカへ譲渡され、この土地はアメリカになった。つまり、ここへ埋葬された9386人のアメリカ兵は、故国に埋葬されたという事になる。

アイゼンハワー将軍はここを訪れ、タイムカプセルを埋めたこれは、2044年の6月に開けられることになっている。上陸作戦の書類や当時の新聞が入れられた。

少しバスにのり、海へ出てみた
ゆるい弓形になった砂浜を丘が見下ろしている

ここへ上陸するのでは、確かに狙い撃ちされる危険が大きいと感じさせる地形である。

市内へ戻り、記念館を訪れる

イギリスに亡命したド・ゴール将軍が、ラジオを通じてフランス国民にメッセージを流す写真

イギリス人墓地また、ドイツ人のための墓地もある。

ここを訪れると、日本はドイツの同盟国であった事をどうしても意識せざるを得ない。居住まいを正して対するべき場所である。
外国を旅していれば、時にそれは必要な事。楽しく気楽に過ごすことだけが「観光」なわけではない。


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ブルターニュのロスコフからモン・サン・ミッシェルへ

2013-08-23 18:11:15 | フランス
《手造の旅》あなたの知らないロンドン、パリ、+シャルトル 四日目。

朝、青空のロスコフ(ブルターニュ)へ入港下船の時も乗船と同じ階段があるのかと心配したが、それよりも桟橋が壊れていてなかなか下船できなかった(笑)。結局エレベーターで一番下の階まで降りて車と一緒に下船。スーツケースを持ってです。ターミナルまでのバスに乗り込みのんびりした入国審査をうけます

下船に思わぬじかんをくってしまったが、ロスコフの街は一時間では足りないぐらい魅力ある古い小さな町だったこれは街のモットー?それとも店のモットーかしらん?

歩いていく道すがら、すべてが絵になる遠くに教会の塔が見えてきた
ルネサンス式の塔は16世紀のノートルダム教会

来るときに見つけたパン屋さんで朝食をたべることにする
ブルターニュ語でKOUIGN-AMANNと書かれていたペイストリー

KOUIGNはケーキの意、AMANNはバターだそうです。おいしかった(^^)

**
二時間半走って、世界遺産都市サン・マロへ到着。ルイ14世時代の築城の名手ヴォーヴァンが築いた城壁がぐるりと街を取り囲む島
その堅い守りよって20世紀まで陥落したことはなかったが、ノルマンディー上陸作戦後ドイツ軍がたてこもってしまうという事態をまねく。

中世ではない。なかなか壊れない城壁を飛び越え、性能の良い大砲によって、街の中はほぼ完全に破壊されたのだった。

今の街は慎重に昔を復元したものだが、それは当時の市長が「お金がかかってもそうしたい」と強く望んで実行したからだそうだ。誰かの強い意志がなければ出来ない事なのです。

堅い守りの街を攻略しようと、18世紀のイギリス軍が爆薬を満載した無人の船を向かわせたことがあった。しかし、干満の差がはげしいこのノルマンディの海岸で城壁にたどり着く前の浅瀬で座礁し、爆風で吹き飛んだのは城壁を歩いていた猫一匹だった。
この通りの名前が「踊る猫通り」となっているのはその話に由来する


潮が引くと歩いて行ける外の砦

もうひとつの島には詩人として有名になったシャトーブリアンが立ったまま海を向いて葬られているそうな

私掠船の船長として大金持ちになったシュールクーフの像。主な敵は英国であったので、そちらを指さしている。第二次大戦にここを占領したドイツ軍はブロンズ像をほとんど溶かしてしまったが、この像だけはイギリスを敵にしていた人物ゆえ、そのままにされたそうである。


街にはブルターニュとサンマロのシンボル「シロテン」が埋め込まれた観光モデルルートが設置されている。世界遺産になってからどっと人が増えたそうである。

***
おなじみ、モン・サン・ミッシェルへ到着。今日はここ近くへ泊り。
夕食にてカルバドスを一本とって飲んでみる。「ペリエとカルバドスで、カクテル『モン・サン・ミッシェル』になる」と言われて一瞬信じてしまいました(笑)
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