旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

2010ハルシュタット

2022-08-03 10:33:22 | オーストリア
10月初旬にハルシュタット湖のクルーズ船に乗った。

ザルツカンマーグートの「奥座敷」に位置し、湖面標高五百メートルほど。

湖畔の木々が湖面に映る

帰国後にこんな風に画いてくださった方があった

絵画は時に、写真よりも心象をよみがえらせてくれる。

↑湖畔と山の間に細長くつくられたハルシュタット村↓

「Hall」はケルト語で「塩」を意味すると言われている。ここは新石器時代から岩塩を採掘していた。


↑湖上から見えた急なケーブルカーが導いてくれている先に塩鉱の入口がある↑
人気の観光コースも用意されている。

↑村の入口ロータリーにあった石像は古代ケルト人の時代から岩塩を運び出していた労働者の姿↑
岩塩が入った重いカゴを背負っている。

細長い村を奥へ歩いている↑壁に灯りを手にする鉱夫とケルト模様の渦巻が画かれている↑

お土産にもこの渦巻がよく使われていた↑

↑いちばん大きな「ハウプト・プラッツ=中央広場」

老舗の宿レストランで昼食を

新鮮なマスが名物


上の道をあがっていくと教区教会に至る。

↑教会前のテラスは村と湖を見晴らせる



教会内部へ

二つの主祭壇があるのが珍しい。

↑右は鉱夫のための祭壇↑聖母マリアの左に塔を手にした聖バルバラ(鉱夫の守護聖人)が立っている↑
ミサの時も住民と鉱夫をしっかり区別していた。

村の住民のための墓は教会敷地にあるが、土地が足りないので十年経ったら掘りだして場所を開けるのが習慣だった。
掘りだされた骨はきれいに洗浄されて礼拝堂に納めてきた↓それがここ

1200もの頭蓋骨が並び、その多くの額には生前の名前や仕事が記されている。
希望すれば現在の住人でもここに納めてもらうことは可能で、最後にこのスタイルで埋葬された人は1983年に没し1995年に掘りだされてここに入ったと解説されていた。




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ザルツカンマーグート2009,2010ツヴェルファー・ホルンへのゴンドラとシャーフベルグへの登山列車

2022-08-01 05:31:50 | オーストリア
ザルツブルグ郊外の湖水地方=ザルツカンマーグート(「よく塩が出る」の意味)は楽に絶景が楽しめる場所(^.^)

ザルツブルグを出発して三十分ほど、ザンクト・ウォルフガング湖にさしかかるとすぐに、前方で道を横切るゴンドラが見えた。

ツヴェルファーホルン(1522m)山頂へ上がろう。
20世紀前半からスイス並みに登山設備が建設されたオーストリア。有名でなくてもびっくりするような景観に、楽に出会える。

1000メートルほどを十分ほどで上がれば気温もぐっと低くなる。

ハイキングルートになっている尾根道を少し歩いた。あぁ、もっと時間がほしかったなぁ…。

ザンクト・ウォルフガング湖が千メートル下に

顏をあげれば、対岸の山頂にもポツンと小屋が見える

地図を確かめると、映画「サウンド・オブ・ミュージック」で出てくる登山電車が至るシャーフ・ベルグだと分かった。ガイドブックで紹介される時には鋭角に突き出した印象的なカタチなのだが、見る方向によってまったくちがう表情をしている。
※後半でここへ行った2009年の写真を載せます

短い「登山」だったが、記憶に刻まれる時間になった。

ふたたびゴンドラに乗って下山し、小さなザンクト・ギルゲン村の中心へ↓

市庁舎前の↑子供のころのモーツァルトの像
ここはモーツァルトの祖父が働き、母の生まれ故郷で、姉のナンネルが嫁いだ村。
たとえモーツアルト自身は来たことがなくても「モーツァルトの村」として宣伝している。

↑湖畔のカフェでひと休み(^^)

↑ザンクト・ギルゲンはラテン語でSaint Aegidius
**

湖の対岸に見えたシャーフベルグの登山鉄道には2009年に乗った。

三つの湖が見渡せる山頂は19世紀前半から登山家に人気だった。

1893年8月1日に蒸気機関車で観光列車が運行された↑
↑これは当時のモノではなく百年後の1990年代に新造された蒸気機関車。

↑一時間に一本以上の頻度で運行されている。

アプト式のギアが噛む音と共にゆっくり高度をあげてゆく。
景色はどんどん広がりをまして

標高1783mの頂上近くの駅へ

五月初旬、まだ雪が残っていた

↑この鋭角に尖った山影がシャーフベルグたる所以

モンド・ゼー(月の湖)の三日月のようなカタチが見下ろせる↑さっきのザンクト・ウォルフガング湖とは逆側に位置する湖になる↑
あの湖畔にある教会では、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の結婚式シーンが撮影されたと、いつもガイドさんが話してくれていたっけ(^.^)

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ザルツブルグ近くの塩鉱に入る2004,2005

2022-07-22 21:01:19 | オーストリア
トロッコが坑道入ると「グリュック・アウフ!」。
これはドイツ語圏鉱夫独特の挨拶(^.^)。英語で言うなら[on the good luck]幸運の上に。「安全に上に上がって来いよ」という意味。地底の労働はいつも命がけだ。

観光ツアーはかつての鉱夫と同じ服を着て、同じトロッコにまたがって坑内に入ってゆく。

ここはザルツブルグから南へ三十分ほどのハラインという町↓絵地図のいちばん下↓川沿いに鉱山の黄色いマークが見える↓

↑ドイツとの国境で↑後方の山々はすべてドイツ↑
15世紀半ばから20世紀までザルツブルグの経済的基盤だった塩鉱山。

だから鉱夫が実際に働いていた環境を見学できるツアーになっている。
受付を済ませると着替え
坑道入口まで降りる

かつて鉱夫が乗っていたトロッコにまたがり出発!

トロッコから降りないこと!立ち上がらないこと!
冒頭の「グリュックアウフ」看板はここで見えてくる。
400mほどで下車。ガイドさんの解説ととも歩く↓
↓塩の結晶が岩の中に筋になっている↓

塩自体ではなく岩を運び出すトロッコ

初期は岩塩をそのまま砕いて運び出していたが、現代では坑内に水を入れて溶かし、塩水にしてパイプで運び出すようになっていた。
何百年もかけて坑道は掘り進められ、ついに地下でドイツ国境を超えることになった↓それがここ↓

1829年にオーストリアとドイツ(当時はバイエルン王国)の間で「塩協定」が結ばれ、採掘権と交換で木材を提供することやドイツ側労働者の雇用がとりきめられた。この協定は1957年に更新されている。つまり、二十世紀にもまだ有効だったのである。

ツアー中いちばんの人気体験がこの滑り台↓

四十メートルもの長さがある。

いっしょになった学生たちはおおはしゃぎ↑数人いっしょの方がスピードが出ておもしろい

地底までびゅーん!


自然に止まるまで待ちましょう↑
この滑り台は遊びのためにあるわけではない。
当時、鉱夫たちの労働時間=賃金は、実際に地下で働いている時間に対して支払われていた。
何百年も掘り進むうちに坑道は何百メートルという奥になり、そこまで行くだけで相当な時間がかかってしまう。
この滑り台は少しでも労働現場へ行くのを早くするための工夫だったのだ。

現在の一時間半の観光では二カ所しか体験できないが、観光ツアーがはじまってすぐの1960年代には七本の滑り台を使って坑道4キロを歩いていたのだそうだ。※現在は1キロほど

塩鉱山の歴史を解説するコーナーが所々にある
塩水の池をボートで渡る

こんな地底から戻るにはどれだけ長い階段を登らなくてはいけないのか…という心配はご無用

↑最後はエスカレーターが設置されております(^^)

付属売店には↓

岩塩のランプや

いろいろなモノを混ぜた塩が用意されている。

ザルツブルグから行けば半日はかかるから通常の観光ではなかなか組み込まれないけれど、行けば必ず楽しめる・ザルツブルグの歴史もよく理解させてくれるツアーです。

音楽祭でゆっくり滞在するツアーが再開するようになったらまた訪れたいなぁ(^^)
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ザルツブルグ音楽祭2004オープニングで

2022-07-17 14:45:41 | オーストリア
小澤 征爾の指揮をはじめて見た2004年7月25日
この年はドボルザーク没後百年だったので、オープニング曲は9番「新世界より」。

↑当日のプログラムに演目が書かれている↑
いっしょに演奏される二作品は全然知らなかった。

↑ホールの入口は着飾った欧米人でいっぱい
7月のザルツブルグは午後八時半でもまだ明るい↑

↑ザルツブルグ城が近くに見える↑

このツアーは現地のガイドさんが小松に「良い席をとってあげられるからお客さん連れておいでなさい(^.^)」とずっと言ってくださっていたから企画した↑ほんとに正面のちょうどよい距離の席だった。

一曲目、いきなり「新世界より」。
超有名曲は最後なのかと思っていたので意外だった。
耳慣れたメロディーが豊かな音でホールを満たす。
ロビーのカラヤン像

休憩の後の二曲はまったく知らないので楽しめるか心配した。
プログラムをひらくと、二十世紀初頭にニューヨークに住んだチャールズ・アイヴスという作曲家(左)↓英語の解説ページには「日曜作曲家」と紹介されていた↓

つまり、アイヴスは音楽で食べていけなかったということだ。
「夜のセントラルパーク」という曲
不気味な静けさから徐々に影が歩き出すような旋律が大きくなっていく。
主旋律を待ったがいつまでたっても口ずさめるようなメロディはでてこない。
それどころか不協和音がどんどん積み重なっていき、
激しさを増し、まるでフリージャズを聴いているよう。
クラシックが保守的な音楽だなんてことはない。

アイヴスはこの曲を作曲した1906年ごろに保険会社を設立して経済的に成功している。
語録にこんなことばがあると後日知った↓※ウィキペディアより
(If he has a nice wife and some nice children, how can he let the children starve on his disonances?) ⇒素敵な妻や子供があるのなら、夫の不協和音のために飢えさせるなんてありえなだろう?

オーケストラは「新世界より」を演奏していた時とはぜんぜん違う緊張感がある。
指揮も別格の没入ぶり。
「あぁ、小澤征爾はこっちの曲を聴かせたかったのか」と思った。

ドボルザークの「新世界より」のわずか十数年後に、
アメリカではここまで先進的な音楽が造り出されていたのである。
いわばアメリカという土地でなければ生み出せなかった新しい音楽。

もう一曲のエーリッヒ・ウォルフガング・コルンゴールドも当時のオーストリア帝国の出身だが、ナチス支配の時代に亡命し、その才能をブロードウェイ・ミュージカルなどエンタテイメントの世界で発揮した。それ故に戦後ヨーロッパのクラシック界からはじき出され、アメリカで死去している。

21時開演で夜中近くになったが、眠気など感じない。
ウィーンフィルの演奏力、それをじゅうぶんに使って表現する小澤征爾。
オーケストラを指揮する意味を深く理解させてもらった気がした。

ホールを出て、ライトアップした城を見ながらホテルまで歩いて帰った。

生涯忘れないだろうザルツブルグの夜である。








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ウィーン、古楽器博物館

2020-03-17 14:31:59 | オーストリア
18世紀のピアノは強く弾くと壊れてしまいそうだった↓

もちろんこれは復元したレプリカだが、鍵盤を「叩く」なんてとってもできない。
バロック音楽が静かなめのは、当時の楽器というのが強く弾くことに適していなかったからなのかもしれない。

ウィーンのリンク通りに面した旧王宮には、現在たくさんの博物館がはいっている。その一角に、古楽器を集めたコーナーがある。今回、専任のガイドさんの解説付きで一時間半の見学をする機会にめぐまれた。
↓バイオリンはもっとも古くから現在の形になった楽器だと言われているが↓これはよくみると何かに似せてつくられている↓

あ!胸がある↑
よくみると女性の身体に似せていた。
裏側が年配のおぢさんの顔になっているのでびっくり※写真撮ってませんが
↓バルブのない金管楽器がたくさん↓これでどこまで音階を出せるのかしらん

↓ポータブルの鍵盤二種類が折り畳みになっている↓

↑よく見ると裏面でチェスやチェッカーができるようになっている

それにしても、どうしてウィーンは「音楽の都」になったのか?
古楽器博物館を解説していただくなかでそれがみえてきた。
ガイドさんのお話しを要約↓
ハプスブルグ家は15世紀末のマクシミリアン一世のころから「何かひとつ自分の専門楽器を持つ」という教育方針だった。
その孫のフェルディナンド一世が集めた楽器コレクションがこの「古楽器博物館」の基礎になっている。
「君主自らが楽器を演奏する国ならば、音楽家への理解もあり庇護されるにちがいない」
音楽家たちが自分を売り込みにウィーンを目指すようになっていった。
なるほど。
ハプスブルグ家のメンバーは何かの職業でプロ並みの腕前であることを教育方針だったそうだが、楽器についても同様だったのか。

↓もっともおもしろい、他に見たことがない楽器がこれ↓

ハルモニアという名前で、ガラスのボウルのふちを濡れた指で鳴らして音階を奏でる。
※演奏しているところがyoutubeにのっておりました
1781年にこれを発明したのはアメリカ百ドル札のベンジャミン・フランクリン!
雷の日に凧をあげて電気でできているのを発見したぐらい好奇心のある人ですものね(^.^)

↓「ジラフ型と呼んでいるのです」というのでどんなピアノかと思ったら↓

なるほど、キリンみたいです(^.^)

↓この龍みたいなのはオーボエのような楽器。舞台で使われていたとおもわれる。衣装に合わせてデザインされていたのですね。


↓フランツ・ヨーゼフ皇帝の即位五十周年にベーゼンドルファーから献上されたもの


いくつかの楽器は複製がつくられていて、演奏を試すこともできる。
解説してもらいながらまわるとかなりおもしろい博物館です。

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