旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

尾道「なかた美術館」

2020-03-27 09:15:55 | 国内
「リビングにかけてあったのよ」と、なかたさんがおっしゃる。

この梅原龍三郎の力強い富士山はそんな風に飾られていたのか。
「もともと家にかけてあった絵だからここに置くとどれも小さく見えるのわね(笑)」↓

なるほど、そうですね(^.^)

絵画というのはもともと美術館に飾られるために描かれるものではない。
たとえば、美術館の一階に併設されているレストランに↓こんな風にあるのが自然な場所なのだ↓

※お昼にここでいただいたメニューもあとから載せます
↑ガラスの向こうの庭園は美術館と共にこんなふうに位置している
※美術館のHPへ、こちらからごらんください

↓コローとその周辺の画家

フランスの近代、ルノワールやフジタなど誰でも名前をきいたことがある画家の作品も多い。
いちばん多い作家は2016年に亡くなったポール・アイズビリ
「主人とヨーロッパに行ったときにご本人にもお会いしたわね~」
ナカタさんは骨董としての絵画コレクションではなく、「今」活動している作家を支援しておられたのか。
その結果としてこの美術館が1997年に開館したのだと理解できた。

↑この南仏の海を路地の部屋から見通した連作、かの地の空気を感じます

併設されているフレンチレストラン
★L'ocean(ロセアン=海)

お昼にダブルメインのコースをいただきました
○前菜三品↓

↑左はサトイモとベーコン、中は玄米と赤米をひと口おこわみたいにしたもの、右はじゃがいものミニパンケーキ
↓ヴィシソワーズ(ジャガイモのクリームスープ)

↓メイン魚、付け合せのマイタケが小松のツボ

↓メイン豚、マスタードソースがよく合う。日本ならこのぐらいには焼かなくてはいけないのでしょうね。

↓デザートはこの五種類の中から三種類まで選べる

↑右上がクレメブリュレというのだが焼かれていないなぁ、と思ったら、オーダーがあってからバーナーで焼くのだそうです。
↓小松のチョイス

↑左は桜のブランマンジェ、中はピスタチオのクリームケーキ、右がパリブレスト
「パリ・ブレスト」は1891年のパリ⇒ブレスト(ブルターニュ半島(ノルマンディの西)の先端にある都市)間の自転車レースにちなんで、自転車の車輪型の生地にアーモンドを砕いたキャラメルテイストのクリームを挟んだデザート。
↓ここではフルーツが入っていて、キンカンがとても日本的にフレッシュ!

ここでなければ食べられないデザートです(^.^)
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尾道「ガウディハウス」

2020-03-26 17:23:45 | 国内
坂の街・尾道の斜面にへばりつくようにして黒い木造家屋が建っている↓
↓ガウディ本人とは関係ないけれど、建物内部を解説していただいているうちに「ガウディハウス」という名前もアリだと思えてきた↓

急な階段を上って見下ろすと、狭い地面に器用につくられた建物だと理解できる↓
「わずか十坪です」と、あとからきいた。
↓写真右下、鳥居のように見える一階玄関から入って階段を上り、
↓写真左上、二階の廊下から直接道路に出られる扉が開いている↓

玄関から入る↓

↓いきなり見えたのは登りたくなる急な階段とそこに開かれたモノ入れのとびら↓

「この家はとっても収納が多いんですよ」と、この家を再生させたNPO法人「尾道空き家再生プロジェクト」の豊田さん
★尾道空き家再生プロジェクトのHPはこちらから
いちばん最初「01」にこの「ガウディハウス」があります

↓階段をのぼった右手にもこんな収納が見えた↓

↓まずは下の階から拝見↓壁前面が戸棚収納になっている↓飾られているのは当時の和泉家が所蔵していたセットの食器類もとはもっとたくさんあったのだそうだ↓

↓お釜!こういう時代の建物なのだ↓

↓斜面にあるのでどの窓からの眺めもよい

いつごろ建てられたのだろう?
昭和八年に建てられた時のいわば勘定帳が見つかった↓

当時の尾道は裕福な商人たくさん暮らしており、この建物は和泉家のセカンドハウスとして建てられたものなのだそうだ。
なので、本格的な台所は必要なく、お茶をたてたりするために最小限の水場だけだったのですね。
この台所は一階の筈なのに、さらに下へ続く階段がある↓

↓これはいったい?

なんと、防空壕だったのだそうだ↓二畳ほどのスペースに↓当時アタマにかぶっただろうモノや

↓「敵機一覧」とはすごい冊子

↓この図面は再生した際に描いたもの↓地下の部分が見える


↓階段をあがって

二階は解放感がある広間↓

↓逆面のふすまが斬新!

上半分の月形の部分はオリジナルの紙を生かし、明るい夜空のような深い青色は豊田さんのオリジナルデザイン

↑このベッドで夜空を見上げてみたくなりますねぇ。
近日、宿泊予約できるようになるそうです(^.^)

↓泊まるとなると洗面所は必要↓この部分は屋根が落ちてしまっていたから新しくデザインしなおしたのだそうだ


↓こだわりの猫脚のバスタブ

↑ガラス窓にして斜面の石組みを見せる

「和」のテイストを強くかんじさせるのがこういう窓↓


二階から張り出した路地を見下ろす小さなテラス↓

↓「このタイルはひとつひとつ自分で貼ったんです」と、豊田さん

※ガウディのグエル公園についてブログ書いています。タイルを埋め込んだ場所がたくさんあります。

この家の魅力は、ガウディがおこなったように「よくある材料」をつかって「ここにしかない」細部を造りこんであるところにある。
↓たとえばこの洗面台は狭い三角コーナーをこんなに区切って、オーダー主のこだわりに応えているようだ↓

↑何故こんなに分けなくてはならなかったのでしょう?
↓丸いちゃぶ台を壁にぴったり立てて収納できるように工夫されている↓


↓前出のバスルームへの扉は

(動かしてもらわないと分からないけれど)↓ぴったり収納できるようになっている


ここにしかない「ガウディハウス」
いちど滞在してみたい場所です(^.^)
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九十九里で見つけた「寿司屋の版木壁」、ぽつんと立つお堂に鎌倉時代の大きな四天王像。

2020-03-23 12:00:58 | 国内
連れて行ってもらった寿司屋のカウンターに目が吸い寄せられた↓

神棚の下横一列に版木が飾っている。
コマ割りで何か物語が画かれている様子だが内容は分からない。

垂木の様な天井の装飾と柔らかい光が木彫りを暖かく感じさせてくれる。
ここのご主人が地元に住む作家さんにお願いした特注品だという。
お店には他の版木も見せてくださった↓これはいったいどんなシーンを画いているのだろう?

「地元の民話だそうですよ」
ご主人も詳しいお話は知らないそうな。
作家の方は今も犬吠埼の近くにお住まいで現役。
今年五月には奈良の東大寺で展示会も開催される。
ううむ、一度お会いしてみたい(^.^)
**
寿司屋のご主人に「鎌倉時代の四天王がありますよ」とおしえられた。
予約していかないと開帳してもらえないお堂にあるとのこと。
ダメ元で訪れた、浜から遠くない田んぼの中にぽつんとあるお堂↓

となりの社務所の扉をたたくと、幸い開けてくださる方があった。
昨年の二度の台風で傾いてしまったというお堂の扉が開くと、おお、いきなり四天王の筋肉もりもりの肩が見えた↓
↓しばらく正面に座って解説していただくと、
↓七百年以上も現代に生き延びてきた幸運をおもった↓

鎌倉時代、慶派のつくったものだとひと目でわかる作風。
細部を漆で補修してある部分はあるが堂々たる体躯は圧倒的。
中央の本尊は何度も修復された跡が見える。
弘法大師が大陸からもたらしたというさらに古いご本尊は実はもっと小さなもので、今は近くの檀家さんの家に祀られているのだそうだ。

境内に立つ大きな地蔵象は、シャルトルやブールジェで見たロマネスク彫刻を思い出させる↓
※こちらにブールジェ大聖堂の写真を載せています



「こんなものがあるなんて知りませんでした」
今回の訪問で車を運転してくれた元旅行業の友人も、このお堂の存在などまったく知らなかったという。

有名観光地をとびまわっても充実した旅にはならない。
知られていなくても美しいモノはたくさんある。
重要なのはその場所を慈しむ人と話をしてこそ伝わる。
そういう旅をつくりたい。

九十九里の旅一泊二日、もう少し暖かくなったら企画してみたいです(^.^)





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ウィーン、古楽器博物館

2020-03-17 14:31:59 | オーストリア
18世紀のピアノは強く弾くと壊れてしまいそうだった↓

もちろんこれは復元したレプリカだが、鍵盤を「叩く」なんてとってもできない。
バロック音楽が静かなめのは、当時の楽器というのが強く弾くことに適していなかったからなのかもしれない。

ウィーンのリンク通りに面した旧王宮には、現在たくさんの博物館がはいっている。その一角に、古楽器を集めたコーナーがある。今回、専任のガイドさんの解説付きで一時間半の見学をする機会にめぐまれた。
↓バイオリンはもっとも古くから現在の形になった楽器だと言われているが↓これはよくみると何かに似せてつくられている↓

あ!胸がある↑
よくみると女性の身体に似せていた。
裏側が年配のおぢさんの顔になっているのでびっくり※写真撮ってませんが
↓バルブのない金管楽器がたくさん↓これでどこまで音階を出せるのかしらん

↓ポータブルの鍵盤二種類が折り畳みになっている↓

↑よく見ると裏面でチェスやチェッカーができるようになっている

それにしても、どうしてウィーンは「音楽の都」になったのか?
古楽器博物館を解説していただくなかでそれがみえてきた。
ガイドさんのお話しを要約↓
ハプスブルグ家は15世紀末のマクシミリアン一世のころから「何かひとつ自分の専門楽器を持つ」という教育方針だった。
その孫のフェルディナンド一世が集めた楽器コレクションがこの「古楽器博物館」の基礎になっている。
「君主自らが楽器を演奏する国ならば、音楽家への理解もあり庇護されるにちがいない」
音楽家たちが自分を売り込みにウィーンを目指すようになっていった。
なるほど。
ハプスブルグ家のメンバーは何かの職業でプロ並みの腕前であることを教育方針だったそうだが、楽器についても同様だったのか。

↓もっともおもしろい、他に見たことがない楽器がこれ↓

ハルモニアという名前で、ガラスのボウルのふちを濡れた指で鳴らして音階を奏でる。
※演奏しているところがyoutubeにのっておりました
1781年にこれを発明したのはアメリカ百ドル札のベンジャミン・フランクリン!
雷の日に凧をあげて電気でできているのを発見したぐらい好奇心のある人ですものね(^.^)

↓「ジラフ型と呼んでいるのです」というのでどんなピアノかと思ったら↓

なるほど、キリンみたいです(^.^)

↓この龍みたいなのはオーボエのような楽器。舞台で使われていたとおもわれる。衣装に合わせてデザインされていたのですね。


↓フランツ・ヨーゼフ皇帝の即位五十周年にベーゼンドルファーから献上されたもの


いくつかの楽器は複製がつくられていて、演奏を試すこともできる。
解説してもらいながらまわるとかなりおもしろい博物館です。

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ベルリンフィルでベートーベン「オラトリオ」とシュトラウスの「オーボエ協奏曲」

2020-03-05 22:35:36 | ドイツ
最初の一音から聴衆を魅了するホール

二年前にいちばん後ろのこの席で聴いた時も↓※2018年1月


↓この席で聴いた今回も

同じように「届く」音楽を楽しめた。

●一曲目 シュトラウス「オーボエ協奏曲」
モーツァルト的に、のびやかで明るい曲調。
オーボエの旋律のうしろから聞こえてくるカウンターメロディがよくきこえる。
バイオリンはもちろんだが、その下で地味になりがちなヴィオラの音がくっきりむりなく聴こえる。
1945年に作曲されたものだけれど、18世紀の宮廷で演奏されても無理のないオーソドックスな美しさがある。
●二曲目 ベートーベンのオラトリオ「オリーブ山上のキリスト」
題名からもわかるように最後の晩餐の後に弟子たちをつれて近くの小高い丘・オリーブ山にのぼった時の「ゲッセマネの園」でのエピソードを詩にしている。
もちろんドイツ語。なので聴いていても理解できない。
字幕が同じくドイツ語で出ているが、読めない。
音楽の力は感じられるが、歌詞のあるものについては言葉を理解できるかで楽しめる度合いが大きくちがってくる。

コンサート・マスターの樫本氏のファーストヴァイオリンのぐいぐいひっぱっていく様も見ものだった。


会場で無料配布されているA4の簡単な英語解説がおもしろい(^.^)↓

有料のコンサートパンフレットよりも書き方が自由で、音楽家の人柄や歴史的背景から解説されるストーリー。
「若きベートーベンと老年のシュトラウス~それぞれのゲッセマネ」と副題がつけられている。
「ゲッセマネ」とは「困難な時期」の比喩である。

●八十歳をすぎたリヒャルト・シュトラウスは祖国ドイツ(ナチス・ドイツ)が壊滅した1945年の10月、スイスに居た。
ナチス政権下で音楽監督までやっていたので戦犯容疑がかけられていたシュトラウス。
従軍していた24歳のアメリカ人オーボエ奏者ジョン・デ・ラーシンが彼を訪ね「オーボエのための曲をかいてもらえませんか」と頼んだ。
戦勝国だが若造音楽家の頼みを、シュトラウスは言下に断ったが、モーツァルト風の楽器用曲を書くのが好きだったので、一月ほどで書き上げてしまう。
初演は1946年チューリッヒにて。オーボエはマルセル・タブトウ。きっかけをつくったアメリカ人に演奏の機会はまわってこなかった。
●三十三歳のベートーベンは「オラトリオ~オリーブ山上のキリスト」上演日当日の朝までトロンボーンパートに手を入れていた。
リハーサルは当日の朝八時から午後までかかった。
初演はウィーンのアン・デア・ウィーン劇場(※後にはミュージカルを上演する劇場となり「エリザベート」もここで初演された)。
三年前に書かれたばかりの協奏曲一番、そして協奏曲第二番、ピアノコンチェルト三番、までが同日に演奏された。
ベートーベンは指揮をしピアノも弾いたのだから、実に圧巻のコンサートだっただろう。
入場料は当時の普通のコンサートの三倍とったことが話題となった。
ベートーベンはしかし、この当時すでにかなりの難聴に陥っており、前年には有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いている。
「オラトリオ」はその後少なくとも二回はスコアを大幅に書き直された。
ベートーベンがこの曲に生涯課題を抱えていたのがわかる。

今日の演目は
八十歳を超えたシュトラウスがノスタルジックにさっと書き上げた曲と、
三十歳そこそこの若きベートーベンの壮大な挑戦曲、だったのか。

音楽といえどもただ音楽を楽しむだけでは不十分な時がある。
背景を自分なりに理解して聴くことは大切だ。
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