旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

オシオス・ルカス修道院

2020-04-30 08:54:33 | ギリシャ
2002,2007年ギリシャの旅より
アテネからデルフィ方向へ二時間ほどの山の中に10世紀からの修道院が残されている。

↑左の大きめのドームがルカの墓の上に10世紀から建てられたとされる本堂。
↑右のもう少し小さい教会はルカの生前にも教会であった場所が元になっている。
世界遺産に指定されてからずいぶんきれいに修復された。

↓まずは左の大きい方のオシオス・ルカス教会に入ってみよう

ビザンチン時代だからイスタンブール(当時のコンスタンチノープル)でつくられていたと同じタイプのモザイク画で飾られていた



↑写真上に見えるドーム裏側はモザイク画が剥落した後にフレスコ画で画きなおされているが、さらに奥の内陣(写真下)に「聖霊降臨」とマリアのモザイク画が見える↓このマリアはイスタンブールのアヤソフィアのものとよく似ている。

職人集団は都会からやってきていたに間違いない。
修復はされているがオリジナルの画法は維持されている


一度出てから、正面左奥に位置するノートルダム教会へ向かう↓

↑アーチ型の支え壁がなければ倒れてしまう、ロマネスク期の建物なのだ
↓こちらがこぶりなノートルダム教会の入口

こちらのほうが教会として使い続けられている

↑ギリシャ正教ではミサをする僧たちはこの扉の向こうに居る。
ミサは見るのではなく「聴く」ものなのだ。

ドームは剥落したままだが

礼拝堂の一部にはモザイク画がのこっている。
両手を広げたこの人物にルカの名前が書かれている↓

ルカは10世紀に没した人物。このモザイク画がつくられた時期には面影を知る人物がまだ生きていたかもしれない。とすれば、この姿に似ていたのかもしれない。※上の人物は聖ヤコブと書かれている

聖堂の一角(「モザイク画の下から」という解説があったがどのようにかよく分からない)、旧約聖書のヨシュアを画いたフレスコ画が見つかった↓

モザイク画の聖人たちとはあきらかに違うスタイルで、違う何事かを伝えようとしている。
説によれば、ルカが「クレタ島は異教徒から解放される」と予言したことを示しているのだという。
この修道院を興した聖ルカは西暦958年に没したが、その三年後の961年にビザンチン帝国(東ローマ)がアラブ人の手からクレタ島がとりもどされるのを予言していた。

そして、実際にクレタ島がキリスト教徒の手に戻ったことを知った弟子たちが「ああ、ルカ様の予言は的中した」と喜んでこの絵を描かせたのかもしれない。
旧約聖書のヨシュアはモーゼの後継者として約束の地・カナンに入り、エリコをはじめとする町を戦闘の末に獲得しているから、クレタ島奪還を記念して描かれるにふさわしいのだ。
**
地下聖堂の一部に入ることができる。

ひと目でここが最も古い時代の構造だとわかる。
使い続けられている場所は年月と共にその時代に美しいと感じられる装飾がほどこされていく。

現在もここに↓住み続けている修道僧もまた、現代の美意識で教会を美しく飾りたいと思っている筈だ。


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コリントス

2020-04-29 05:38:23 | ギリシャ
2004年ギリシャの旅より
ペロポネソス半島の付け根にあるコリントス運河は1893年に開通した↓

海面まで約80m。
長さ六キロ運河をコリントス地峡に通す計画は紀元前七世紀からあった。
ギリシャのポリス時代に二度構想があり、ローマの支配下にはネロ帝によって途中まで工事も進められていた場所。

地峡から二キロほど離れた場所にある古代コリントスの遺跡

古代都市コリントスは地中海航行の要所としてミケーネ時代=紀元前13世紀ごろから栄えていたといわれる。

伝説によれば、太陽神ヘリオス(=アポロ神)の孫だったコリントス王によって街が建設された。
BC6世紀のアポロ神殿↓元は36本あったらしい柱は数本だけ残されている↓

最も古い時代のドーリア式円柱なので↑まるまる一本の石から柱を削りだしている
※アテネのパルテノン神殿などは輪切りの石を積み重ねて一本の柱にしてある(この方が新しく効率的な建築方法)

同じくギリシャ時代からあったとされるペイレーネの泉↓

神話によると、ペイレーネの息子ケンクリアスが競技会で女神アルテミスの投げた円盤に当たって死んでしまった。
それを悲しんで泣いて泣いて、溶けて泉になってしまったそうな。

コリントスは紀元前146年に共和制ローマによって征服され、一度都市は壊滅させられてしまった。
紀元後一世紀になってユリウス・カエサルによってローマ都市として復興。
現在見られる遺跡のほとんどは最盛期の帝政ローマ紀元後二世紀ごろのもの。

紀元後二世紀にハドリアヌスによって十分な水が確保できるようになり、上水も下水も完備された。

現代と同じように舗装された道の地下に通されていた。

↑これは公共の水洗トイレ

紀元前一世紀にローマが再建した街にはラテン語を話す人々やユダヤ人も多く入植した。

↑これはユダヤ教徒の「メノーラ(七本の燭台)」だ。

港町として歌舞伎町の様な盛り場もあったコリントスは、新約聖書の「コリント人への手紙」で使徒パオロが戒めている。

見事なモザイクは邸宅か店の床を飾っていたのだろう。


併設されている博物館の展示品。見事な肉体表現の彫刻。これはアマゾネスとの戦い?


当時の屋根につけられていたみごとな瓦↑
↓こういう身体のパーツは?

病気平癒を願って、その部分のレプリカを奉納していたようなのだ。

石に刻まれたギリシャ文字は現代のギリシャ人にも読める↓
↓これは何と読む?

「ディミトリウス」と読める。
十字架が刻んであるからキリスト教が公認された紀元後四世紀以降のものだろう。
名前の左右にも十字架が刻みこんである。


港から続いていただろう大通り

後にあるアクロコリントスの山↓

難攻不落のあの山頂にも古代遺跡と神殿がある。













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ミケーネ

2020-04-27 18:00:17 | ギリシャ
1999、2002年ギリシャ旅より
二匹のライオンが柱を挟んで遠吠えをしているようなデザイン↓の城門

1999年撮影
小高い丘を石垣でぐるりと囲ったミケーネの王城?への入口だったと考えられている。

ライオンの門を裏からみると↓

分厚い石の門には木製の扉がはめこまれていたのだろう

↓このゆるい坂をあがったところがライオンゲートがある場所

シュリーマンがいちから発見したトロイ遺跡と違い、ミケーネの古代都市がここに存在することは西暦1700年には分かっていた。
紀元後二世紀・ローマ帝国時代のギリシャ人パウサニウスが言及していた冒頭のライオンの門が発見されたのである。

この門をくぐるとすぐ右手に↓

直径三十メートル以上になる円形墳墓がみつかった↑
門以外の本格的発掘はシュリーマンが行った↓

ここから発見された黄金のマスクはアテネ考古学博物館に展示されている↓

これを見つけたシュリーマンはすぐに「アガメムノンのマスク」と名付けてしまったが、
現在の研究では、トロイ戦争があったBC13世紀よりも二百年近く古いものだとされている。
※アガメムノンはトロイ戦争のギリシャ側総大将で、帰国後に妻とその愛人に浴室で暗殺された。
と、神話で語られている人物。

他のマスクも出てきているが、名前など一切わかっていない。

ミケーネは黄金の文明と呼ばれる。
クレタ島のクノッソス宮殿と同時代、同じように牛を崇拝していたと推察され、牛をモチーフにしたモノがたくさんみつかっている。
牛についての発掘品でもっとも興味深いのがこの黄金のカップ(ミケーネと同じペロポネソス半島の南部ヴァフィオにて発掘)↓

↑よく見ると牛が二頭重なって画かれている。後ろの牛がメスで手前がオス。
これが何を表したシーンなのか?考古学者たちは分からなかったが、牛飼いがすぐにピンっときた。
「これはメスを囮にしてオスを捕まえているところだよ」
その証拠に、メスの牛が発情して尻尾を上げているのを、オスの背中越しに尻尾だけ見えるように画かれている。
牛飼いは一目でそれがわかった。
**

ライオンの門の他にもいくつかの入口がある



丘の上の街は、水をどう確保するかがいつも課題。

ライオンの門とは逆の目立たない城壁際に地下へ降りる秘密の階段があり、その奥深くで今も水が湧き出していた。

**
一キロも離れていない場所に人工の円筒形石組みに土を盛った遺跡がある↓

ミケーネ文明は「巨人が積んだ」といわれるほど巨石を組み積んでいる。

↑巨石を円錐形に組み上げた墳墓は、シュリーマンによって「アトレウスの宝庫」と名付けられ、その名前で呼ばれ続けている。アトレウスはアガメムノンの父だが、この場所が何だったのかまったくわかっていない。
↓内部もきっちり頑丈に組み上げられている

こちらはシュリーマンがやってくる以前からその存在は認識されていた。
内部で火を焚いていた跡がしっかりわかる。
ここは土に埋もれていたわけではなく、地元に住む人々や羊飼いが住んでいたのだろう。
土の中から見つかる遺跡よりも、こういう場所の方が実際に何だったのか解明するのは難しいものだ。
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クレタ島のクノッソス宮殿

2020-04-27 06:07:00 | ギリシャ
2004,2007,2011年《手造の旅》ギリシャより。
クレタ島は地中海で五番目の大きさ(シチリア、サルデーニャ、キプロス、コルシカに次ぐ)現代ギリシャではいちばん大きな島。広島県ほどの面積。

イラクリオン港にヴェネチア領時代の城壁が見える。

1669年にオスマントルコに征服されるまで、ヴェネチアの地中海の要だった。

ヴェネチアのシンボル=聖マルコのライオン(羽の生えたライオン)↑は復元の際にはめこみなおしたのだろうけれど。
**
クルーズ船停泊中に観光客が訪れるのは五キロほど離れたところに位置するクノッソス宮殿の遺跡。

ギリシャ神話でミノス王が住み頭が牛の怪物ミノタウロスを閉じ込めた迷宮があったとされていた。
神話の中の宮殿が発掘されたのは1900年。イギリス人富豪研究者エヴァンスによる。

すぐ近くに住み、生涯をかけた発掘だった。
私費で発掘を進めたので自分の思うような発掘・復元が可能だった。
クレタ島内の他の遺跡に行ってもこんなに建物が復元されていない。
「復元しすぎ」という批判はあるが、
紀元前14世紀の遺跡が我々素人にもおもしろく理解できるのは、エヴァンスが強引に復元を進めた「成果」なのである。

たとえば、有名なイルカの絵は↓現場ではこんな風に展示されているが

博物館に展示されているのはこれだけ↓発掘された本物のフレスコ画部分は下のイルカの前ひれの部分などごくごく一部でしかない。

このわずかな破片から全体を想像して描いた「想像図」を現場に復元して見せている。
現場の絵で下の方に画かれている黒いウニは完全に想像だったのか!
たしかに…復元しすぎかもしれない?

クノッソス宮殿最上階の玉座の間↓

床石はホンモノだが、フレスコ画は復元。
実際に本物がかなりの部分残っていたフレスコ画もある。
そういったもっとも美しく貴重なものは
↓アテネ考古学博物館にまるまる運ばれて展示されている↓

ツバメですね

紀元前14世紀ごろにもこれだけのデザイン感覚があったのか。
発掘現場の近くの博物館にて展示する方がより良いのだが、
アテネにあることでより多くの人に見てもらえるし、保護の観点からもアテネの方が安全なのだろう。

掘り出された宮殿には屋根など残っていなかったし、木材はぜんぶ朽ちていた。
よくここまで立体的に復元できたものだ↓

↑紀元前14世紀の神殿下の階まで光を届かせるための構造で「光の井戸」と呼ばれている。
柱が赤く特徴的なカタチをしているが、もともとこのかたちだったと分かったのはなぜか?
↓当時の人々が模型をつくっていたいたのが発見されたから(写真内右上)


宮殿の給水システムがおもしろい

雨水を溜めて使う上水。使用後の水をトイレにもつかっていたので「水洗でした」とガイドさんが解説する。

**
イラクリオンの博物館にも見るべきホンモノがたくさん収蔵されている。

↑蜂二匹が蜜の球を抱えているブローチ?耳飾り?は、現代でもじゅうぶん通用するデザイン。
↓これはぜんぶホンモノのフレスコ画。20世紀のはじめの女性たちの服装と変わらない↓

↓イノシシの牙をあつめてつくられた兜

※↓下はアテネ考古学博物館に収蔵されている同様のもの↓


↓見つかった文字のなかで最も古く、解読されていない「フェイストスの円盤」

この遺跡からは「線文字A」「線文字B」二種類も見つかっていて、その解読に至るストーリーがおもしろい。

↓宗教祭事をしている女神と推察されている「蛇女神」

地震の多いギリシャでは地中にいる蛇を地震の神とみていたと推察されている。

遺跡から発掘された貴重なものを収蔵する博物館が遺跡の近くにあることは普通ではない。
20世紀はじめならばこれらが大英博物館やルーブルにあっても無理からぬ時代だ。

宮殿の敷地内に見つかった↓世界最古の舗装道路とされる「王の道」

少し離れた王の住まいだったかと推察されている「離宮」につながっていた。
この周辺にはまだまだいろいろなモノが埋まっているだろう。

遺跡が完全に発掘されることはまず、ない。
土地には現在の所有者があり畑や建物がある。

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船でサントリーニ島に至る

2020-04-24 06:00:52 | ギリシャ
2004、2007、2011年の《手造の旅》ギリシャの写真を併用しております

火口カルデラのリムが海上高く突き出した島。三日月形のその輪の中に近づくと…

いちばん上に雪が積もっているように見える。

強い風にもかかわらず、近づくサントリーニ島の絶景をみようとデッキに集まるいろんな国籍の人々。
この景色は船ならではの楽しみ。

↑上↓下の写真は夕方に島を離れるテンダーボートから撮影



上の街までジグザグにのぼっていく道が見える。


テンダーボートに乗換え、

小さな港に上陸

ロバたちが待っている

上の街まではロバにのるか、ゴンドラに乗るかの二択。

ロバを選ぶと、人をみて乗る相手を選んでくれる。

この階段坂をのぼってゆくのだが、ロバ引きがついてくれるわけではない。

道草を喰おうとするロバをそれぞれが鼓舞してのぼっていくのです(^^)

慣れれば景色も楽しめる(^^)

一方、ゴンドラ乗り場



ロバを鼓舞する人を見下ろしながら

五分ほどで到着↓ロバだまりがみえる

ロバ組とゴンドラ組が合流



リムの尾根に出来た絶景の道を歩きはじめる

今は水道が完備されているが、かつてはこんな場所に住むのはたいへんだっただろう


ギリシャはどこへ行ってもネコ優勢

窓が開いていてふと見えたペンションの中にも

でも、もちろんワンこもおります

リムの道を散歩する我々を

ワンちゃんが先導してくれた

ギリシャ正教の教会も覗いてみよう



あてなく歩いてもいいのだが、絵や写真になっている有名な場所がひっそりあるのでお見せしたかった

ここは看板もない、民家の上の小さな広場。





夕方、傾いてきた太陽の光。
眺めの良いカフェでサントリーニの白ワイン↓

夕陽が沈むと

灯がともった街

クルーズ船で夕食は出るのだけれど、サントリーニ島のこの時間をできるだけ長く楽しんでいたい。






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