旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

サンフランシスコ~ウォー・メモリアル・オペラハウス

2016-08-28 23:36:57 | アメリカ西部

次にサンフランシスコに来たら、是非見ておきたいと思っていた場所があった。

それはオペラ・ハウス。戦後日本が独立を回復し、国際社会に復帰したサンフランシスコ条約が締結された場所だから。

二十年近く前になんどもサンフランシスコへは来ていたが、その時この建物を見学したことはない。一般的な観光で訪れる場所ではないのである。

この立派なクーポラのある建物は市庁舎。

オペラハウスは道路を挟んで向かいに位置している。

内部はどうなっているのだろう?何か記念するようなプレートでもないのかしらん、そう思って立派なロビーを覗いていると・・・

係員がきてくれた。「今、上演中だから静かに。こっちに記念プレートがあるから。」と入れてくれるた。

ゆっくり読むのはあとにして、とりあえず写真だけ撮らせてもらった。係員が言うには「隣の建物にはもっと見るべきものがあるよ。調印式はあっちでやったんだ。」とのこと、それじゃ、行ってみよう。

外に出てみると、オペラハウスの壁にはこんな風に刻んであった↓

隣の建物は、今日はひっそりしている。ロビーを覗くと、ひとりだけ警備の人が居た。来訪の理由を告げると、こちらもなんと、見ず知らずの我々を中へいれてくれたのだった↓

そこには、先ほどと同じ内容のプレートが掲げられて、調印式の様子が描かれた絵があった・・・でも・・・このシーンは??

絵についての解説があった↓

日本人にとっては、「戦後にサンフランシスコで調印された条約」というのは、1952年に日本が独立を回復したもの」を指すのだけれど、これは、どうやらちがうらしい・・

解説版の要旨を意訳。

「1945年4月25日から6月26日にかけて、ここサンフランシスコ・ウォー・メモリアル・オペラ・ハウスにて、多くの連合国と国々の会議が行われた。6月25日に参加五十カ国により、国際連合憲章が調印されたことを記念して、このプレートを設置する」

そうか、これは、第二次大戦後に「国際連合」をつくるべく、連合国五か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国)が主催した会議の記念画だった。

画かれた人物は、トルーマン大統領のほかもアメリカ合衆国の重鎮ばかり。アメリカ主導で行われたものだったのが良く理解できる。

それにしても、ベルリンが陥落しドイツが完全降伏したのは1945年の5月5日、日本は8月15日だから、それよりもずっと以前から、この国際連合構想というのがアメリカによって考えられていた、ということ。

留守番をしていた係員は、この絵を見せてくれたあと、親切にも会議が行われた劇場内部へも我々を入れてくれた。

***

しかし、我々日本人が記憶しておきたい1951年の方のサンフランシスコ講和会議(※条約は1952年発効し、日本は独立を回復した)につては、どこにもそれを記憶する記念プレートは見つからなかった。

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サンフランシスコの「日本人墓地」

2016-08-27 09:25:53 | アメリカ西部

6月に忙しすぎて書けていなかったことを追加・・・

サンフランシスコの日本人墓地は、ダウンタウンから南へ三十分ほどのコルマという街にある。ここは日系人だけでなく、いろいろな民族・宗教、各種団体ごとの膨大な墓が集められて出来ている。 まず管理棟を訪れると、民族や出身地、あるいは教会宗派ごとに台帳があった。下の写真、右はキプロス系の台帳↓

左のオリベットというのはキリスト教の宗派のようだ。民族だけでなく、各グループが、どんな歴史をたどってここに埋葬地をもっているのか、分かりやすく概略を理解することができる。

日系人の台帳にもそのスタートから、現在までの活動の記録がしっかり記してある

歩いてすぐ近く、日本人墓地の入口↓

入ってすぐに、最初にサンフランシスコで亡くなった日本人、咸臨丸の乗組員三人の墓がある。勝海舟艦長、通訳にジョン万次郎、福沢諭吉も乗船していた三十七日間の航海は、大嵐に翻弄された旅で、多くが疲労困憊していたのだそうな。

咸臨丸のサンフランシスコ滞在中に富蔵と源之助の二人が亡くなり、病床で帰路につけなかった峯吉が出航後に後をおった。

遺体は海軍病院の敷地内に埋葬され、その後ローレル・ヒルにあった最初の日系人墓地に移された。

コルマの墓標、表の表記は英語で、富蔵はTOME-TZO 咸臨丸はKAN-DIN-MARROと表記されている。1860年、最初に埋葬された時に建てられたものが、目の前にあると思ってよいだろう。

ここ、コルマに1901年に設立される以前にも多くの日系人は亡くなっていたから、古いものの多くは改葬されたものである。日本人墓地は市内のローレル・ヒルという場所にあった。今は住宅地である。

●国府田敬三郎は、アメリカに稲作を根付かせた人。探して見つけた一族の墓はとてもきれいに整備されていた。

1882年に福島県に生まれ、教師まで務めたが二十五歳の時にサンフランシスコに渡る。いくつかの仕事を経て三十代の終わりに父がやっていた稲作をはじめたのだそうだ。

第二次大戦中には日系人収容所に入れられ、戦後になって「国宝ローズ」という品種の開発に成功した。

この墓石の裏にまわると、ひとまわり小さな墓がくっつけてあるのに気付いた↓

「国府田米子」とある。調べてみると、敬三郎には三人の子供があり、米子は兄二人に次ぐ三番目、唯一の女の子だった。 ちょうど稲作に没頭していた四十代はじめに授かった娘に、米子と名前をつけたのだろう。 しかし、没年は1956年。三十才でなくなった末娘をこうしてずっとそばにおいていたのか。※フローレンスとは、米子のアメリカ名である。

●萩原眞(まこと)という人物は、現在中華料理屋で食後によく出される「フォーチュンクッキー」を考案した人物であるそうな。

市からの要請で、ゴールデンゲートパーク内に日本庭園を設計し、最終的にそこに住んだのだそうだ。

これらの墓はどれもよく手入れされていて、今も親族の方々が訪れている雰囲気が伝わってきた。

***

サンフランシスコのダウンタウンへ戻り、金門橋が見える丘に「リージョン・オブ・オーナー美術館」がある。※この名前はフランスの最高勲章「レジョンドヌール」からきている。フランス文化に傾倒した人物が建てた美術館なのだ。

入口のすぐ近くに「咸臨丸記念碑」があり、そこから遠く金門橋も見える。

咸臨丸がやってきた当時はもちろんあの橋などなかったのだが。

 

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サンフランシスコのコイトタワー

2016-08-23 14:05:06 | アメリカ西部

2016年6月は忙しすぎたので書ききれていなかった事を追記。

★サンフランシスコ湾を見晴らす展望台として、登ってみる価値があるコイトタワー。

フィッシャマンズワーフから海を左手に見て車で十分ほど走ると、丘の上に見えてくる。

かつて、港の船へ手旗信号を送っていた場所。だからテレグラフ・ヒルという名前なのだ。

この場所にタワーがつくられたのは1933年のこと。近づいてみると、消防用のホースのノズルの形をしている。

これは、遺産の三分の一を使ってこの塔をつくらせたリリー・ヒッチコック・コイトという女性の生涯と関係がある。

1843年生まれの彼女は、八歳の時ホテル火災から消防士によって救出された。以後、彼女はサンフランシスコの消防団のマスコットになっていったのだった。男勝りの彼女は、ズボンをはき、葉巻をくゆらせ、ギャンブル場にも出入りした。消防士たちに並ならぬ敬意と羨望?を持っていたかもしれない。コイトタワー入口に飾られた彼女の写真は、よく見ると消防団の帽子をかぶっている↓

あのサンフランシスコ大地震が起きた1906年には、かつて子供だった自分自身をすくってくれた消防士たちが、献身的に活躍する姿を間近に目にした事だろう。 生涯、彼女はサンフランシスコの消防士たちへの感謝を忘れる事はなかった。

だから、1929年八十六才で亡くなる時、「サンフランシスコにもうひとつの美を付け加える」塔をつくる事を決め、そのデザインをこの消防ノズルにした。

彼女が亡くなったのは、くしくも大恐慌のはじまった年。塔の内壁にはニューディール政策で雇われた絵描きたちが、びっしりとサンフランシスコの日常を描いている。

  塔は1933年にオープンした。

入場料を払うと、手にスタンプを押してくれる。よく見ると「 I ♥ S F 」ですね(^^)↓

エレベーターで頂上へ上がると・・・

360度の展望を楽しめる

**タワーの入口にあるこの像は誰?説明を読んでみると、コロンブスだった↓

 

 

 

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新潟へ日帰り

2016-08-10 07:18:26 | 国内

9月の《手造の旅》ペルーとイグアスに新潟からご参加の方があり、日帰りでその説明会をしにいった。

新潟は、国内《手造の旅》に佐渡と村上をとりあげようとしていることもあり、もう少し興味を深めたいと思っていたところ。短い時間で地元の方に案内していただくと、ガイドブックを開いて得られるのとは違うアイデアに出会える。

最初に南米の旅の説明をするのに訪れた場所は、「燕喜館(えんきかん)」という元は豪商のお屋敷

移築され、増築されているのでもともとの姿ではないが、実際にイベントに積極利用されているきれいに整えられた場所である。博物館というよりも、きちんとした茶屋のたたずまいか。オリジナルの建物は明治40年建造といわれている。洋風な雰囲気が感じられるのがその時代らしい。

庭に面したガラスは一部が古いもので、ちょっとゆがんでいる。

もともとの建物の部分がこちら→これを見ると、たしかに明治四十年だと実感。人間のサイズに合わせているのか、小作りである。

***

次に、同じ齋藤喜十郎という豪商が建てた別邸へ案内していただいた。

街の真ん中にこんな高低差のある庭園があるとは、入口からはいるまでわからない。

渡り石は再利用されたものなのだろう。ただきれいな石をつかうより雰囲気がある

**

朱鷺メッセのタワーは新潟市内を一望できる場所、展望台は無料であがることができた さすが新潟おせんべい屋さんがスポンサー。

ちょうどNHKの「ぶらタモリ」が新潟を「砂丘の街」としてとりあげていたので、よく理解できた。

日本でいちばん長い信濃川は新潟県内を流れる時の呼び名。長野県の千曲川と同じもの。流れる県で名前が変わっている。

***

古い蔵を改装した漬物屋さんへ 売られていた「梅ゆずの出汁」が気に入って購入。

フィールドワークの成果を、いつか《手造の旅》国内で使いたいと思っている。

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ラスヴェガスのスナップ

2016-08-08 06:40:42 | アメリカ西部

モニュメント・ヴァレーから七時間走り続けて、スタートのラスヴェガスに戻ってきた。※一般ツアーでは珍しくない走行時間だが、《手造の旅》としてはちと長すぎると思っている。今回はこの日だけ。THE VIEWホテルがどうしてもその日しかとれず、この走行時間になってしまった。

さぁ、ラスヴェガス連泊を楽しもう!

二泊してラスヴェガス空港へ行く間の写真をご紹介いたします。

モンテカルロホテルにチェックインして、部屋の窓からとなりの「ニューヨーク・ニューヨーク」ホテルが夕陽に輝くのを見る

そのまたすぐとなりには、「ARENA」というシアター。今晩はバーブラ・ストライザンドが出演!

今日の日暮は19:40なので、それにあわせてラスヴェガスの夜景見学に出発!

「パリス」↓

「フラミンゴヒルトン」の有名な電飾も小さく感じられるようになってしまった↓

ラスヴェガスには珍しい子供たちウエルカムの「サーカスサーカス」明日夜はここの有名なステーキハウスTHE STEAKE HOUSEで食べたいとおもってます。↓

「ストラトスフェアー・タワー」はラスヴェガス唯一の展望タワー。夕暮れの時間に合わせて登りましょ。

上にはこんなアトラクションがあるし↓

ダウンタウン「フレモントストリート」の電飾ショーは、この時期午後八時から毎時ちょうど↓

その下をジップ・スライドの乗り物が!こんなの良く考えますなぁ

**翌日夕方、「サーカスサーカス」のステーキハウスへタクシーのる。今回二回乗ったタクシーのドライバーは二回ともエチオピア人だった。たった十分十五分の間でも、話をしてみると、実際にアメリカへ出稼ぎに来ている人々の感じている事が伝わってきておもしろい⇒  

モノレールの下をくぐる⇒ラスヴェガスにはいくつかモノレールが走っている。一回五ドルと高かったので「バスの方がやすいや」と言っていたら、今はバスが一回乗車六ドルにどーんと値上がりしていた。

サーカスサーカスでは、一日になんどか無料のサーカスショーを開催している。間近で見ごたえがある ステーキハウスで小松がたべたのは16オンスのこれ!⇒※別に書きます。

がっつりステーキを食べてから、MGMグランドのショー「KA」へご案内↓

小松は歩道橋をつかってモンテカルロホテルへ戻る

戻る途中に「ニューヨーク・ニューヨーク」の中を通る 

ARENAの横 ホテルの部屋にもどって、おやすみなさい。

***

帰国便は午前8時前なので、夜明けのラスヴェガスを見ながら空港へ

離陸して、そらからストリップ通りがみえた

 

 

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