旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

チェスターのタウンクライアー

2021-08-08 08:48:42 | イギリス
2009年イギリスの旅より


中世のイギリスでは町々にニュースを伝える「タウンクライアー」という人々がいた。

※現代に復活させた動画を2009年に一分ほど撮影していました

チェスターの「タウンクライアー」がやってくるのはTHE CROSS(交差点)と名付けられたローマ時代からの中心↑
←中世にはあっただろうTHE CROSSのシンボル

※当時書いたブログにその時の様子を解説しています
今は観光用のトークをしてくれるけれど、昔はコワイお役人さんのおふれだったのではないかしらん。

チェスターにはその時代から残る木組みの家々もたくさんのこされている。

特徴的なのは二階部分がアーケードになっていること。

雨の日もずっと濡れずに歩ける。

こんなカタチにつくられたのは商店が効率よく衛生的に商売をするためだっただろう。

↑アーケードを歩きながら向かいの古い木組みの家を見たところ↑


↑チェスターは今もぐるりと城壁に取り囲まれている↑

↑古代ローマの時代⇒中世⇒19世紀と、城壁も姿を変え↑この城壁の上の時計はヴィクトリア女王の行幸を記念して設置された。
※城壁とノルマン様式の大聖堂については2016年に書きました

↑ローマ時代の遺構は今も発見・発掘され続けている。

小さな町に不似合なほど大きな教会がいくつもあり↑中世ノルマン時代=ロマネスク様式の名残も見られる。
聖職者たちの座席周辺の木彫は↓じつにおもしろい

↑これって↑誰がなにをのんでいるのかしらん?
※こちらに近影を載せました。下に小さな悪魔がいたんです(^.^)

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世界はグリニッジ天文台で東西に分けられた

2021-08-06 10:43:11 | イギリス
2011年5月イギリスの旅より
1833年以来、「タイム・ボール」と呼ばれる赤い玉が「フラムスティード・ハウス」の屋根に設置されていて、毎日午後一時に落ちる↓テムズ川に停泊している船はそれを見て、搭載するクロノ・メーター(今では「時計」と呼ばれる)を合わせたのだった。

※2011年5月に書いたブログはこちらからごらんください
北極星をつかった南北緯度の計測は古代から行われていた。緯度は自然科学の問題だから誰がどこで行っても似た結果が出る。
一方、緯度と違い経度は人間が決めること。東西経度を正確に測る方法は19世紀に世界の海を支配した大英帝国においてもなお課題だったのである。
いったいどこを世界東西の基準と考えればよいのか?

↑王立協会の天文学者ジョン・フラムスティードJohn Flamsteed, (1646-1719)がここグリニッジに住み・観測し・亡くなったのは、日本なら元禄の徳川綱吉の時代。その場所が世界の東西位置の基準=本初子午線と認められたのは1884年のこと。

ニュートン(1643-1727)は自分の仮説を証明するのにフラムスティードの観測データを使おうとしたが、提供されたデーターは予想と違った。ニュートンはフラムスティードが間違っているかわざと間違ったデーターをよこしたのだと疑ったが、今ではニュートン発見できなかった法則によってフラムスティードの観測の方が正しかったことが判明している。

ハレー彗星を発見したエドモンド・ハレー(1656-1742)からも観測データーの公表を求められたが「まだ未完成」として応じなかった。1712年ハレーはしびれをきらしてフラムスティードの古い観測データを無断出版して訴訟となる。勝利したフラムスティードは無断刊行四百部のうち三百部を回収して焼却してしまった。あくまで実直な科学者であろうとしたフラムスティードの残したデータは現代でも基準になっている。各国の天文台は自分たちの観測データをフラムスティードのものと比較してその経度を割り出すことができるのだ。

フラムスティードはここグリニッジで1719年に亡くなる。
後任・第二代観測所長に就任したのは、かつてフラムスティードのデーター無断出版したハレーだった。

↑「世界の本初子午線」で、世界は東西に分けられた。

↑天文台入口には1852年世界ではじめての電動二十四時間公共時計が設置されている↑正午Ⅻは真下を指す
当時のヤードやインチなどの長さ基準器も下に設置されている。


テムズ川を見下ろす丘の上、グリニッジは今ではロンドンの中に飲みこまれてるほど近い。

**
冒頭の「タイム・ボール」はスコットランドのエディンバラでも見た記憶がよみがえった↓

カールトンヒルに登ると、市外からは見えない港が見える↓

↑この港に停泊していた船に見せるために設置されていたのか。
調べてみるとこれと同タイプの「タイム・ボール」はインドのムンバイや大西洋の孤島=セント・ヘレナ島(ナポレオンが亡くなった島)にもあったと知った。訪れる機会があるかしらん。


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18世紀のバース、古代ローマのバース

2021-08-03 15:23:34 | イギリス
2008年イギリスの旅より
パリの街並みはバースをモデルにしたとされている。
計画都市バースの中でももっとも印象的な「ロイヤル・クレセント」↓

↑弓なり=三日月(クレセント)型のアパートは1767年から1775年に建設された。日本なら江戸、田沼意次の時代。

地震のない英国。この時期はまだ基礎なしで建設されたので短期間で完成した。
三十戸の住宅が地下一階から地上三階まで縦割りで入っている。
常時住むというよりも、
貴族や金持ちがバースという歓楽都市にやってきた時のいわば別荘として使っていた人が多かったそうな。

産業革命がすすみ煤煙で真っ黒のロンドンやバーミンガムなどから逃れたい当時の「ニューリッチ」もやってきた。

街を流れるエイヴォン川にかかる「パルトニー橋」も1774年に建設された↓

およそ百年後に大改造されたパリが、このバースをモデルにしていた空気感じられます(^^)↓

社交の中心になっていたのは「パンプ(=ポンプ)・ルーム」↓

何がポンプから出ているのかというと、温泉!今も試飲させてくれるのです↓

社交場の服装やマナーを決めて仕切っていた↑リチャード〝ボーBeau(=フランス語で「伊達男」の意)”ナッシュの石像(二つ前の写真で壁に埋め込まれている全身像)が今も部屋を見張っている(^^)
↑だるだる二重三重顎の肖像画も

これらの街が建設された当時のイギリス王はハノーヴァー王朝のジョージ一世・二世・三世。同時代に生きた作曲家ヘンデルは人生の後半をイギリス皇室に庇護されていた。彼はこのバースに来ているのかしらん?
2012年にガイドしてもらったキャロラインさんとそんな話をしたことを↓当時のブログに書いていた
※元のページこちら
「褒められたらがっかりしよう」そのまま↓載せておきます↓
写真はバースの街を案内してもらったガイド、キャロラインさん。いかにもイギリス人的な雰囲気の物腰やわらなか彼女の印象が、今回のみなさんにはバースの街の印象とイコールになる。ガイドする人それぞれの持つ雰囲気はとても重要。(我々もそう言える、自戒)。
時間も足りない滞在だけれど、それでも通りいっぺんのガイドブックに載っているような話ではないものを話してほしくて、いろいな質問をしてみる。
「ヘンデルはバースに来たのでしょうか?」
「そうねぇ、ヘンデルは近くの街に四回ほど来た記録があるようよ。バースは大建設中だったけれど、きっと王様に拝謁にきたでしょうね。」
こういう言い方は優れた回答である。つまり、バースに来たという記録はないという事実ははっきり告げたうえで、隣町に四回滞在したという事実から自分の推察を付け加える。聴き手に誤解をあたえない言い方だ。
いろいろコミイッタ話を英語で質問するのに、小松もつまりながら単語をさがしながら、表現を考えながら話す。それを辛抱強く待って、彼女は回答してくれていた。
昼食レストランまで送ってくれて、別れ際に彼女が言った。
「いろいろお話できて楽しかったわ。また、お会いしましょう。それと、あなたの英語は上手でしたよ。」
こう褒められたら、がっかりしなければならない。
だってそうでしょう?本当に日本語がうまい外国人にあったら、その人に「日本語お上手ですね」なんて、言う気にもならない。
語学を褒められたら、それはつまり、たいして上手くないと証明されたという事になるのです。


ヘンデルのコンピレーションCDを買った旅だった

イギリスゆかりの音楽として小松が選ぶものに、ヘンデルの「水上の音楽」がある。
今回やはり持ってくるのを忘れてバースの街のHMVで買った。四枚組の二枚目がほとんどまるごと「水上の音楽」である。※写真参照
他の三枚についてはなにが入っているのか確認しなかったが、帰国してからゆっくりかけてみると、おお!知っている曲がぽつりぽつりとあるのです。
特に、一枚目にはOmbra Mai Fuオンブラマイフ。ずいぶん昔にCMでキャスリーン・バトルが歌っていたのを聴いて耳に刻みつけられていた。
オペラ的歌唱をほんとうに素晴らしいと感じたはじめての事だった。そうかこれも、ヘンデルの作曲だったのか。
※以前からの教会トラディショナルのメロディと詩だという話もある。
その次の曲、See The Conqu'ring Hero Comesも、題名は知らなくても聞けば誰でも知っているメロディだ。
そう、運動会の表彰式あたりで表彰状授与の時にかけられる定番曲。そうか、これもまたヘンデルの作曲だったのか。


**
18世紀のバースに人々が集まる基礎は古代ローマ時代にBATH=浴場が建設されていたから。

↑19世紀に元のかたちとはだいぶちがって再建された施設だが、すばらしい博物館になっている。

プールを囲む雰囲気のある建物は完全に19世紀の創作なのがわかる↑それでも良いのです(^^)
入場のためのトークン↑

古代ローマのバースは↑こんな城壁のある軍団都市だった↑

中心にあったのは「アクア・スリス」という女神にささげられた神殿でそこがイコール温泉場の中心↑発見されたブロンズの女神像が展示してある↑この博物館は展示物も解説も超一級で何度訪れても新しい発見がある。

↑もっとも印象的だったのはこの「カメオ」↑当時のブログからそのまま転記します↓
今回もいくつも面白いものに出会えたが、この美しい石もそのひとつ。多くの発掘品と同様にこれらも十九世紀の下水工事の際に発見された。キリスト教以前、バースの湯には「アクア・スリス」と呼ばれる女神が住んでいると信じられていたので、その神に奉納する目的で湯の中に投じられたのかもしれない。
もうひとつの説は、単に古代の入浴客が入浴中に紛失したものだというもの。
十九世紀では発見当時の状況をしっかり記録などしていないから、まったく意味の違う推察も成り立ってしまうのだろう。
いずれにしても美しい細工の石で、古代ローマのバースの様子がこの石から垣間見えるようだ。


中世のバースに建設された大聖堂もあるのだが↓

いつも古代と近代にばかり目がいって、ちゃんと見る時間がとれていません。
いつかちゃんとした解説付きで見学できるチャンスが…やってくるかしらん。


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ソールズベリー大聖堂 十年前の宿題を調べる

2021-08-01 16:08:45 | イギリス
2011年5月《手造の旅》イングランドより
コンスタブルの絵で有名な大聖堂がみえてきた

123mの尖塔は完成した14世紀から現代まで英国一の高さ。

 大聖堂の壁に埋め込まれたま新しい黒人の像は誰なのか?

2011年に訪れた時ブログにこう書いていた↓
「ローカルガイドさんにいろいろな話を聞きながら歩く。建物の壁にあるたくさんの彫刻に、いくつか明らかに真新しいものがあり、今も存命中のアフリカの司教の像だときいてびっくりした。※もう少し調べてみたいです」
そのまま十年間、忘れていた宿題を調べた。
Ezra Baya Lawiri(1917-1991)
あ、ガイドさんは存命だと言っていたが、十年前にはすでに亡くなっていた。
スーダン人の司教で聖書をはじめてモル語に翻訳した人物。
スーダン中南部の出身で1959年に渡英してロンドンの神学校で数年学んだ。
スーダン南部独立を目指す内戦がはじまり、ウガンダに逃れた時から聖書を彼らの言葉=モル語への翻訳をはじめた。
ドイツでは16世紀にルターが聖書をドイツ語に翻訳したが、同じことが現代のアフリカで今なお進行中ということか。
1973年に帰国するが、1989年にクーデターでイスラム原理主義政権が成立。キリスト教者がふたたび脱出するなか、南スーダンに留まる。1991年に殺された。
※スーダン内戦は1950年からはじまり断続的に繰り返されている。2012年から2013年には日本の自衛隊も派遣された。
2020年に和平合意が成立。
ソールズベリー大聖堂のこの像は2008年に設置された。並んでいる百七十を超える人物と同じようにキリスト教にとって歴史的な役割を果たした人物だと認められた、ということなのだろう。
**

大聖堂内部にある聖オズムンドの棺↑
1066年ヘイスティングの戦いで勝利したウィリアム征服王の甥とされる人物。今はソールズベリー郊外となった丘の上にあったオールド・セーラム大聖堂を建設したとされる人物。1220年から現在の大聖堂が建設されはじめ、彼の墓も移された↑

この教会は地区の住民の手によって生き生き運営されている。

訪れた日も近くの学校の吹奏楽部が演奏していた。

↑エドワード・シーモアの墓1675年建造~有名なヘンリー八世王の三番目の妻=ジェーン・シーモアの甥。また、1553年に9日間だけの女王として担ぎ上げられ・処刑されたジェーン・グレイの姉妹を妻としていた。

この回廊の一角に、有名な「マグナ・カルタ」が納められた部屋があった。
2011年に訪れたが、写真撮影がかなり制限されていた記憶がある。
その時のブログに↓こう書いていた↓
「この聖堂は修道院としては使われなかったけれど四角い回廊が敷設されており、そこに隣接するチャプター・ハウスと呼ばれる司教たちの会議室にあの「マグナ・カルタ」のオリジナルが保管・公開されている。現在オリジナルは四部しか現存しておらず、その中の最も保存状態の良い物がここにある。
ロマネスクの柱頭彫刻がかこむその部屋の一角に暗くした展示スペースがあり、小さな端正な文字で埋められた「マグナ・カルタ」があった。皮の上に書かれているのだが、羊ではなく牛なのだそうだ。」


今ならもっとちゃんと理解できる事々がたくさん見つかる。
ふたたび訪れる機会、やってくるのかしらん…。

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ドーバー到着の夕方と夜

2021-07-14 11:42:04 | イギリス
2011年《手造の旅》イングランドより
5月19日 ※こちら当時書いた別ブログ。同じ文章を使います★文中に出てくるクラウディウスは(紀元前ではなく)紀元後一世紀の第三代ローマ皇帝です

ドーバーの海に面したホテルにチェックインしたのは午後八時前だった。陽が長いのでまだまだ明るい。

海を見下ろす崖の上にはドーバー城の城壁が長々と続いている。


《手造の旅》イングランド9日出発。飛行機はJL401便11:45発。料金はBAやVSの方が安かったのだが、帰国日を有効活用できるのでJLを選択。

15:30ロンドン・ヒースロー空港到着。
入国などの後16:30過ぎにドーバーへ向かう。ロンドン周辺の道路混雑はあったが二時間強でドーバーの海が見えてきた。

「ドーバー海峡」という言葉は誰でも知っているが、実際にそこに何があるのか、説明してくれる人はほとんどいなかった。
結果、およそ15年前にブライトンから日帰り観光ツアーをつくって訪れた時に手に入れていた資料がかなり役に立った。「断捨離」ブームだけれど、捨てないでおいてよかった(笑)。

ドーバーは大陸と最も近い場所で、紀元前一世紀クラウディウス帝時代からローマの町が建設されていた。さらにそれ以前の青銅器時代の船なども発掘されており「ラングドンの財宝」と呼ばれる。それは旧市街中心部・マーケット広場にある「ドーバー博物館」が収蔵しているのだそうだ。
**
夕方八時半から町へ散歩に出る。

↑地下道に描かれているバイキング船↑ドーバー海峡両眼は中世はノルマン人たちが支配していた。

対岸のフランス、ノルマンディーはリンゴ酒=シードルが名産。
「サイダーではありません」(笑)なるほど

・・・続く
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