1582年、ジャン・ムロワとルイズ・プルール夫妻は、死後この館をトリニテ修道院に委託し孤児院として運営することを決めた。
孤児院は自立のための職業訓練として紡績工場を兼ね、職人を育てる場にもなっていった。
この理念があったため、フランス革命時にも孤児院と工場は護られた。
移転はすることになり、この建物は兵舎として使われた。
1920年からは印刷会社が入った。
その後、オーブ県で最初の歴史的建造物に指定され、1966年にトロワ市が買い取った。
1974年にポール・フェラー氏が集めていた職人の道具を展示する博物館となった。
こういう博物館はフランス全土でも珍しく、
今回の旅で見学したいとは思ったのだが…
解説されても小松がすぐに理解・解説できるとは思えず、見送った。
次回(いつ?)、しっかり時間がある時に訪れたい。
↑周辺の路地の木組みの家々↑いちばん上の切妻下にロープをかける場所がある↑
*
ガイドのクリスティンさんが通りに面した扉の鍵をがちゃがちゃ開けて我々を招き入れた。こんなところのカギなんか持っているんだ↑
ツーリスト・インフォメーションを通じてガイドをおねがいしているから、この場所も見られる。
「黒いライオンの館」と名前が付けられている。
↑この紋章が二階の古い部屋にある暖炉に刻まれているそうな。
「黒いライオン」は道路にむけてあったそうだが失われている。
大通りに↑コロナ禍で閉店したデパート跡↑
**
↑サン・ジャン・ウ・マルシェ教会は9世紀には木造存在していた記録がある。
それは西暦889年から892年まで続くノルマン人の侵略によって破壊された。
その後、遠来の商人たちがやってくる市(いち)で栄えるようになったトロワの街の真ん中に石造りで再建されはじめた。
13-14世紀の石造りが今も見られる。
1524年の大火では聖歌隊席と翼廊に被害をうけたがその後も建設は続けられた。
市のど真ん中にあったので石壁には多くの商店がくっついて建てられていただろう。
1911年に教会の外側に並んでいた小屋が撤去され、南西角の鐘楼塔も崩壊した。
幸い塔の中にあった鐘は無事で、今は教会内部の床におかれている。
1420年、百年戦争中にイギリス王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリンの結婚がここで行われ、「トロワ条約」が締結された。発狂していたシャルル6世の死後にイギリス王がフランス王の領土を継承する内容だった。※シャルル6世の叔父のブルゴーニュ公による策略とされる
↑小松がはっとしたのは↑2018年にカナダのケベックを訪れた時に覚えていた名前を教会の前でみつけたこと。
※2018年秋のケベックのブログごらんください
★マルグリット・ブルジョワは1663年と1673年に、ルイ14世統治下のニューフランス=現在のモントリオールに渡った。
770人もの「王の娘たち」を選び・教育し、男ばかりだった入植者と結婚させた。
数年後にニューフランスの人口は三千人から一万人に増えた。
マルグリットは二十歳の時神の啓示をうけて修道院に入っていた。
友人・ルイーズ・ショムディの弟がモントリオールの初代総督になり「女たちとその教師がニューフランスに必要だ」と相談したので推薦されたのである。彼女は先住民の子供たちにも教育の機会を与え、モントリオールには今も彼女興した施設がある。
※モントリオールの初代総督メゾヌーヴの像の夜景を見た日のブログにリンクします
堂内には聖母マリアとカナダ先住民の子供たちの像↑
***
カフェでランチブレイク
****
NHKの「世界ふれあい街歩き」でもとりあげられたアンティーク店をみつけた
※番組公式HPにリンクします
実際に店内に入ると予想以上に「時の欠片」がつみあげられていた
孤児院は自立のための職業訓練として紡績工場を兼ね、職人を育てる場にもなっていった。
この理念があったため、フランス革命時にも孤児院と工場は護られた。
移転はすることになり、この建物は兵舎として使われた。
1920年からは印刷会社が入った。
その後、オーブ県で最初の歴史的建造物に指定され、1966年にトロワ市が買い取った。
1974年にポール・フェラー氏が集めていた職人の道具を展示する博物館となった。
こういう博物館はフランス全土でも珍しく、
今回の旅で見学したいとは思ったのだが…
解説されても小松がすぐに理解・解説できるとは思えず、見送った。
次回(いつ?)、しっかり時間がある時に訪れたい。
↑周辺の路地の木組みの家々↑いちばん上の切妻下にロープをかける場所がある↑
*
ガイドのクリスティンさんが通りに面した扉の鍵をがちゃがちゃ開けて我々を招き入れた。こんなところのカギなんか持っているんだ↑
ツーリスト・インフォメーションを通じてガイドをおねがいしているから、この場所も見られる。
「黒いライオンの館」と名前が付けられている。
↑この紋章が二階の古い部屋にある暖炉に刻まれているそうな。
「黒いライオン」は道路にむけてあったそうだが失われている。
大通りに↑コロナ禍で閉店したデパート跡↑
**
↑サン・ジャン・ウ・マルシェ教会は9世紀には木造存在していた記録がある。
それは西暦889年から892年まで続くノルマン人の侵略によって破壊された。
その後、遠来の商人たちがやってくる市(いち)で栄えるようになったトロワの街の真ん中に石造りで再建されはじめた。
13-14世紀の石造りが今も見られる。
1524年の大火では聖歌隊席と翼廊に被害をうけたがその後も建設は続けられた。
市のど真ん中にあったので石壁には多くの商店がくっついて建てられていただろう。
1911年に教会の外側に並んでいた小屋が撤去され、南西角の鐘楼塔も崩壊した。
幸い塔の中にあった鐘は無事で、今は教会内部の床におかれている。
1420年、百年戦争中にイギリス王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリンの結婚がここで行われ、「トロワ条約」が締結された。発狂していたシャルル6世の死後にイギリス王がフランス王の領土を継承する内容だった。※シャルル6世の叔父のブルゴーニュ公による策略とされる
↑小松がはっとしたのは↑2018年にカナダのケベックを訪れた時に覚えていた名前を教会の前でみつけたこと。
※2018年秋のケベックのブログごらんください
★マルグリット・ブルジョワは1663年と1673年に、ルイ14世統治下のニューフランス=現在のモントリオールに渡った。
770人もの「王の娘たち」を選び・教育し、男ばかりだった入植者と結婚させた。
数年後にニューフランスの人口は三千人から一万人に増えた。
マルグリットは二十歳の時神の啓示をうけて修道院に入っていた。
友人・ルイーズ・ショムディの弟がモントリオールの初代総督になり「女たちとその教師がニューフランスに必要だ」と相談したので推薦されたのである。彼女は先住民の子供たちにも教育の機会を与え、モントリオールには今も彼女興した施設がある。
※モントリオールの初代総督メゾヌーヴの像の夜景を見た日のブログにリンクします
堂内には聖母マリアとカナダ先住民の子供たちの像↑
***
カフェでランチブレイク
****
NHKの「世界ふれあい街歩き」でもとりあげられたアンティーク店をみつけた
※番組公式HPにリンクします
実際に店内に入ると予想以上に「時の欠片」がつみあげられていた