旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ケアンズからキュランダへ

2021-08-30 22:09:07 | オーストラリア
2003,2006オーストラリアの旅より
熱帯雨林を見下ろす全長7.3㎞のロープウェイ。
ケアンズはだいたい南緯十七度。北緯ならフィリピンぐらいに位置する熱帯。

1993年に開通した世界最長の観光用ゴンドラだった。

一方、1891年に開通したキュランダ鉄道は鉱山用の線路。往路はこれに乗った。

銅と金を産出していたそうな。

今はしかし、最新のロープウェイとレトロな鉄道でキュランダまで往復するのがケアンズから定番の一日観光になっている。


当時線路を走っていたこんなトロッコも展示されている。


キュランダに到着すると

先住民族アボリジニの人々が彼らの文化をおしえてくれる。

「ブーメランはこうやって投げるんだよ」↑

ヤリはそのままなげるのではなく↑別の棒の先にひっかけてより遠くまでとばす


動物園もある↓この足は誰?

ああ、君だったんだ(^^)


ちょっとコワモテも↓

かなり大きいです


熱帯らしいジャックフルーツ



オーストラリアらしいこのこをだっこできるのはクイーンズランド州だけになっていた
***

熱帯雨林の中を歩くトレイルも用意されている。


キュランダからケアンズへ、帰りはロープウェイで

熱帯の上をいくゴンドラは途中二つの駅を経由する。


こんなジャングルからいきなり海が見えてくる不思議

ケアンズでの夕食は↓「ダンディーズ」

1987年の映画「クロコダイル・ダンディー」からの名前かしらん。

名物のマッド・クラブの爪はもちろん

ワニ、エミュ、カンガルーの尻尾までメニューにある↑※どれがどれか忘れました

これらは保護動物ではないので↑空港でジャーキー肉も売られている。
特にカンガルーはオーストラリアの人間の倍の数ぐらいいるといわれ、農業者にとっては農地を荒らす害獣。
駆除もされるのだが「肉はあんまりおいしくない」そうな。
おいしかったら…ここまで増えなかったのかもしれません(笑)




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ブルーマウンテンはもともと炭鉱だった

2021-08-29 21:13:49 | オーストラリア
2002,2003,2006オーストラリアの旅より
シドニーから西に一時間半ほどで緑の大渓谷「ブルーマウンテン」に至る。

↑断崖の下へいくアトラクション「シーニック・レイルウェイ」

↑これはもとは炭工夫が現場へ降りてゆくための乗り物だったのでけっこうスリルがある乗り物。
↓下へ着くころには座りながら仰向いているかんじ↓

1873年にスタートしたカトゥンバ鉱山は↓こんなかんじだった

掘り出した鉱石を乗せる線路ものこされている。

20世紀前半になると鉱山としての役割は終わり

1933年からは観光客の乗り物となった↑


↑シーニック・スカイウェイというもうひとつの乗り物

カトゥンバの滝が崖を流れ下るのが見える↑

着いたところにある展望台「エコーポイント」がちかづいてくる↑
三つめの乗り物「シーニック・ケーブルウェイ」もあるけれど、こちらはもう少し時間があって崖下のトレイルを歩く行程でないと使いにくいかな。
**

炭鉱から観光へ、人がやってくるとそこに町ができる。

小さな、しかし百年の歴史をもつカトゥンバにある「パレ・ロワイヤル」ホテルで一度ランチをした↓
↓以下三枚の写真すべてに入口の円柱が変わらず写っております↓


↑「パレ・ロワイヤル」は1896年に完成した時には平屋で二つの棟に分かれていた

1912年に二階建てに増築↑ずっとホテルだったわけではなく最初は女子校だったりした。

かつての雰囲気が濃厚に残るボールルーム
二階への階段、誇らしげに案内してくださったホテルレストランのスタッフ(^.^)

今も記念Tシャツを売っております↓

***

シドニーへ戻るのにいちどだけ列車にしたことがある。



レトロな車内

シドニーの中心部の古い駅に到着


****
2003年↓「ルーラ」(と発音するのがちかいかしらん)駅のホームにて

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シドニーの始まりと今

2021-08-28 11:27:47 | オーストラリア
2002,2003オーストラリアの旅より

今はビルの林立するシドニー入江だが、18世紀には流刑地としてはじまった。
1783年にアメリカ植民地の独立が決まり、イギリスはオーストラリアの開発に力をいれると決める。
1788年1月、フィリップ船長に率いられた船団はシドニーに入植を決めた。上陸した千五百人のうち七百八十人が囚人だった。
死刑の代わりに七年の労役として送られてきた男たち↓

その記憶を留めるモニュメントが↑港に立っている↑シルエットだけではわからないがひと目で囚人とわかるスタイル。

砂岩を切り出すためのつるはしを持っている↑丈夫ではあるが着心地の悪い黄色と黒の囚人服が博物館に展示されている。

マッコリ―提督の妻がホームシックになって毎日岬で海をながめているので、囚人に砂岩を削らせてつくった椅子↑いまや観光客の定番訪問地となっている。

複雑に入り組んだシドニー湾の要所要所には敵に備えた砦が築かれた



初期には欧米の植民地競争のためであり、第二次大戦においては日本軍への備え。
実際1942年には日本の潜水艇が攻撃してきた※朝日新聞の記事にリンクします

砂岩を切り出してつくったロックスという地区には19世紀前半の街並みがのこされている。


↑「ワーテルローの英雄」ホテルは1843年創業。船長の泊る宿だったそうだ。

中は今もイギリス風のパブ。でも、19世紀にはアブナイ場所でもあった…

19世紀は船の時代。船員は常に不足していたので寄港地のパブでリクルートの声をかけ…
相手が飲んだくれて眠ってしまうと同意していなくても船にほうりこんで出航していたのだそうだ。
**
現在のシドニー湾。

南には庶民的なボンダイ・ビーチ↑

北にはおしゃれなマンリービーチ。


マンリー近くでランチしにいったことがあったっけ。
***

シドニータワーは高さ約三百メートル。

夜景も美しい






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ウッツォンのオペラハウス外観

2021-08-26 18:32:55 | オーストラリア
2002,2003,2006オーストラリアの旅より
ひと目でそこがシドニーだと理解させてくれる、これ以上の建物はない。

2006年9月早春。湾内クルーズの船から、刻々移り変わる夕刻の光に照らされるオペラハウスを見ていた。

船の帆をあらわしているともいわれるが…

建築家本人が言う「貝殻型」がしっくりくる。
1957年に奇抜なアイデアとデッサンだけでコンペを勝ち抜いたものの、建築するための方法論に達したのは三年後だった。真偽はわからないが「最初のひらめきはみかんを剥いた皮がテーブルの上に重なっていたのを見た時だったのです」と説明してくれたガイドさんもあったぐらい。ピンっときたイメージはあっても実現させる具体策は後付だったのですね。

デンマーク人建築家ヨーン・ウッツォンは
「幾何学的思考に三年費やした結果、貝殻型を実現する方法としてスフェリカル・ソリューションspherical solution(=球形的解決策)に至った」と、1961年に語っている。

直径七十五メートルの球体を基本とし、それを解体した十七のアーチを重ね合わせている。

建築はスタートしたがコストは積み上がり、予定額をあっという間に超えていった。
1966年にオーストラリアに政権交代があり、前政権の容認した計画が予算からストップ・変更が決められた。
デンマークの建築家は自分の設計どうりに建築されないことを容認できず、帰国!

二つの建物の外観はそのままだが、内部四つの劇場は後任の建築家によってウッツォンの原案とはぜんぜん違うものになっている。

外観はしかしウッツオンのこだわりが生きている。
スウェーデン製のタイルはよく見ると二色↓

↑合計百五万枚以上はめこまれているのだ。

完成したのは1973年10月20日、エリザベス二世女王ご臨席のもとオープン。
小松が2002年に訪れた11月の春はジャカランダの花が盛りだった。

1973年に訪れたエリザベス二世女王も、南米から持ち込まれたこんな花を見ていたかしらん。

四十歳そこそこでこの設計をしたヨーン・ウッツォンはしかし、自分の代表作となったオペラハウスが完成した姿を見ていない。
シドニー市も建築家となんとか和解しようと、2002年に内部改装の一部屋をウッツォンに依頼した。

依頼は受け入れられ、三十五年を経て両者は和解。
2004年にはじめてオペラハウスの内部にウッツォン設計の部屋が出現した。

シドニー市はそのオープンにウッツォンを招待したのだが…

高齢のために(八十五歳だけど)辞退されてしまった。

部屋にはウッツォンが2004年に受賞したプリツカー賞(建築界最高の名誉)のメダルをさげてにこやかにほほ笑む写真が掲げてある↑背景のデッサンは三十九歳の時にひらめいたオペラハウスのデッサンだ↑

ヨーン・ウッツォンは2008年九十歳で故郷デンマークで死去。
完成した自身の代表作を一度も見ることはなかった。
※デンマークの首都コペンハーゲンにウッツォンが設計したオペラハウスがある

1932年建築のハーバーブリッジとぴったりの風景。2007年に世界遺産に認定されたのも納得。





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2005メルボルンF1

2021-08-25 12:12:19 | オーストラリア
2005メルボルンではじめてF1レースを観戦した。

※レースについては言及しません
スポンサー企業の招待旅行だったのでシケインの上席(^.^)
直線コースだとびゅんと過ぎていくだけだが、ここだと減速・加速があって、さらに順位の入れ替わりも目のあたりにできるかもしれないのだ。

テレビで観ているだけだと爆音ノイズに思えていたのだが、レースの現場で聞こえてくるエンジン音は大きくはあるが心地よい音だった!
これがいちばんの驚き(^.^)↓こんな耳栓も配られたが必要なし↓

やはり現場に来ないと分からないことがたくさんある。

パドックツアーにも入れてもらえた↑なにもかもが真っ赤なあの有名なチーム

今回はウエアもお揃いで支給していただきました(^.^)応援団のフェイスペイントも過熱ぎみ(^.^)

F1開催四日間の入場券は毎日違う色になっている

それプラス複数で使い回しできないように腕にタッグもはめられる

パドックツアーにはさらに別の認証カード
**
レースそのもの以外でも楽しめるアトラクションがいろいろ

往年の有名レーサーのサイン会も

いちばんびっくりしたのはレース後にコースに入れてしまったこと

ここまでしてもよいのかしらん



***

夜のメルボルン↑1910年開業のフリンダースストリート駅

↑このモダンな建物は?


2001年、駅のすぐ近くに建設されたフェデレーション広場の建物。
オーストラリア連邦(フェデレーション)百周年記念だった。

広場はその後2006年に大きく拡張されたようだ。
メルボルンが都市の建設時に中心となる広場をつくらなかった後悔を、百年越しにとりもどしたのだとか。
****

街のど真ん中のホテルだが、すぐ近くの公園にはこんな生き物が

有袋類の「(オ)ポッサム」です(^.^)


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