旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》近江長浜と間人~鶏足寺エリアから雨森集落へ

2022-11-29 10:34:08 | 国内
林を抜けると茶畑だった

己高庵(ここうあん)を宿に選んだのは、
湖北きっての紅葉の名所・鶏足寺まで歩いて行けるから。
朝食会場もなんだかそんなイメージ?

鶏足寺へむかうまえに、こちらもホテルからすぐ近い己高閣の前にも行ってみる。
※収蔵されている十一面観音の写真がこちらにあります
↑このサイトにはコロナ禍で閉館していると書かれているが、実は村落の人々が混雑に辟易したためときいた。
2019年、某観光会社が鶏足寺の紅葉写真を掲載すると何十台の観光バスと何百台もの一般の車がやってきて村の人は家からも出られない事態となった。己高庵の駅までのシャトルバスも通常二十分の道に一時間かかったと嘆いておられた。鶏足寺も、鶏足寺の珠玉の仏像を収蔵する己高閣も、翌年のコロナ禍と共に閉まり、2022もそのまま…

閉まっていることは予想していたが、やっぱり閉まっていた。
※2014年に訪れた方のHPに詳しく解説してあります
ふたたび公開される日を待ちたい。

こちらのお堂も閉まっていたのだが↑隙間から真っ暗な中に…
iPhoneの目でこれだけ見ることができました(^^)

鶏足寺への道↓

己高庵に宿泊の方には周辺散歩ということで黙認されている。

サンショウウオの住む小川を超えて

林に入って間もなく、茶畑が見えてきた

「己高茶(こだかみ茶)」の茶畑


↑丁寧な解説版↑なるほど、比叡山と共にはじまり、石田三成の出世のきっかけになり、戦後の復興のために復活した茶畑だったのか。

小振りの雨でも美しい

少し登り道にさしかかる。

紅葉は盛りを過ぎ、今日は太陽の光もないが、それでも来てよかった。
↓鶏足寺への参道が不意にあらわれた

ここを朝いちばんに撮影した紅葉の写真が大混雑を呼ぶ原因となったのか…。

階段自体には立入禁止柵があり、今日も下から↑(この写真の位置から)数人がカメラを構えていた。

↓石赤寺(しゃくどうじ)のお堂の前にでた↓

ここは井上靖の小説「星と祭」でとりあげられた観音像がある↓

ほんとうならこんな風に開けてもらえる筈だったのに↓※長浜市のパンフレットより

やはり閉められたままでした…。

**
己高庵から回送してもらっていた車に乗り、雨森集落へ。

↑雨森芳州庵は、この集落の出身で対馬藩に仕えた儒学者にちなんでつくられた「東アジア交流ハウス」※HPにリンクします
通り抜けようとした集落の神社前に無視できない巨大なイチョウがあって車を止めてもらった。


調べてみると「天川命神社」という式内社。

誰もいない境内だったが、石畳の参道だけをきれいに見せてくれていた(^.^)
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《手造の旅》近江長浜と間人~西野水道と西野薬師堂

2022-11-28 15:43:23 | 国内

手掘りで山の下を220m掘り抜いた水抜き穴

穴の高さは160㎝ほどのところが多い。少し頭を低くして歩き続ける。

途中で高くなったところがあるが、それは方向を間違って修正した跡だそうな。
両方から掘ってよく接合できたものだ。
一説には、掘りはじめるしばらく前に伊能忠敬がやってきたことがあったので、測量の技術を学んでいたのではないか、とのこと。

なんどか曲がりながら琵琶湖側に抜けた

すぐとなりに昭和23年に建設された二番目の水抜き穴が見える

↑案内のNさんが子供の頃はこちらからどうどう水が流れていた。

「昔はここで泳いでいた場所ですよ」
↑その水が流してきた土砂が溜まって↑こんな地面になっている。

1980年にさらに大きな三番目の水抜き穴=トンネルがつくられ、現在の余呉川はここから琵琶湖に注いでいる。

昭和23年の二番目の穴を通って戻る↑

この水道ができたことで西野地区の収穫量は格段に増えたのだそうだ。

水道建設を指揮した恵荘上人がおられた寺へ

ここにも村の人々が護ってきたお像がある

もともと天台宗の泉明寺という寺があったが兵火に焼かれ焼失。
村人が救い出したお像二体が簡素なお堂に伝わっている

共に平安時代の作とされる、元国宝(※文化財法の改正により現重要文化財)。
十一面観音の頭の顔は小さすぎるので別物を移植したのかもしれない。足元に焼けたような頭が置かれていた。身体の表面が褐色なのはあとから漆が塗られたから。
幾多の変遷を経てもともとのカタチではなくなっているが、千年以上大切に護られている。

薬師堂のすぐ横に●正妙寺のお堂があり↓千手千足観音が祀られている。

ここでは撮影禁止だが、今年「東京長浜観音堂」にお出ましだった時には撮影したもの↓

※千手千足の由来などを書きました


●冷水寺には焼けこげた木像がある。

※2020年9月にはじめて訪れて知った話が興味深い
自称世界一小さな博物館で、今回も西嶋さんにお話していただいた(^^)


***
北國街道、木之本を少し歩く。

↑まだ緑が残る杉玉はつい先日今年のモノにしたばかりだった。
こちらの酒屋は「七本槍」が有名。

それをシェリー酒で使った樽を再利用して「純米シェリー酒熟成」という新商品を開発されている。
一本買いました(^^)

↑「本陣薬局」は大名行列が宿泊していた宿↑明治には薬局となり、新設された薬剤師の第一号さんがここに居られた↓



↑木之本地蔵の交差点がこのあたりの中心

※片目のカエルの話をこちらに載せました
高さ六メートルの「木之本地蔵」


もう一軒、老舗の酒屋さん↓

↑杉玉はまだ換える前のもの

↑こちらの名物は桑酒

普通のお酒というより養命酒・保命酒※瀬戸内の鞆の浦で保命酒の蔵を訪れた日のブログはこちら
ラベルもそんな感じ↑
↓これを使ったカクテルを試してみることにした

けっこうどっぷり桑酒を入れ、炭酸水で割って、レモンとライムを

桑酒そのものよりぐっと飲みやすくなりました(^^)

11月末、午後五時をすぎるとぐっと暗くなる。

歩いてすぐの「すし慶」へ

大きな大津絵が迎えてくれた

★湖北の味満載
●びわマスの昆布〆 ●丁子麩のからしあえ※農水省の頁に解説がありました茗荷がのっています ●海老豆 ●バイ貝 ●栗とサツマイモを練って  ●チーズと干し柿(ぐるぐるしたカタチ) 
●鴨

こぶりな焼き鯖そうめん

●鯖寿司は肉厚で酢で〆すぎていない


上皇様ご夫妻が皇太子時代に来られた際に「すし慶」が料理を出していた。

↑あぁ、ぜんぶ食べたい(^^)


秋の旅の宿泊には己高庵を選んだ。
さて、明日の朝のお天気を祈ります。

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《手造の旅》近江長浜と間人~米原から高月へ、西野水道入口

2022-11-28 09:09:24 | 国内
ヘルメットをかぶって西野水道に入る直前、目の覚めるような紅葉に出会った


朝。米原駅では「BIWAICHI(=びわ湖を一周する)」の宣伝をしている。
約240㎞(※実測はもう少し短いとか…)早い自転車で十時間強。

↑米原周辺だけで営業している井筒屋でもそれに合わせた弁当を売り出した↑

↑我々の今日のお昼も井筒屋の「湖北のおはなし」。これ、下見で食べて即決した。
※今年二月のブログにリンクします

今は(ほぼ)ぐるりと一周道路があるびわ湖だが、昭和に入るころまで湖岸に道路はなかった。

駅前ロータリーにある「米原湊跡」の碑がそれをあらわしている。
琵琶湖と切り離された小さな湖だったところを1603年に水路を掘削して内港にした。

米原駅から湖にでるあたりにその名残の水路がある↑「干拓博物館」一度見学してみたいです。

湖岸道路を北上すると

高さ28mの「長浜大仏」が立っている↑
「湖岸道路ができる前に建てられたのでお尻をむけています」
調べてみると現在のモノは1994年の二代目だが、初代は1933(昭和八年)に建てられていた。
当時は北國街道がまだ主要道路だったのか。

左手に長浜城が見えてきた↑外見はお城だが現代の博物館↑
※2022年2月に訪れた雪でいっぱいの長浜城をごらんください

↑さらに北上し尾上(おのうえ)が近づくころ↑左手に竹生島が大きくみえてきた↑
今日は最初に渡岸寺を訪れるのでトンネルをくぐってから右折。
トンネルの上の山には二十五年も続けて飛来しているオオタカがいるそうで、巨大な望遠レンズを構えた人が並んでいた。

最初に訪れるのは高月町の国宝の十一面観音立像。

像を管理しているお寺の名前は「向源寺」だが、このあたりの地名を「渡岸寺(どうがんじ)」という↑
赤い紅葉と黄色のイチョウが門の背に映える。

山門の中に立つ阿吽の仁王像は平安時代からのモノ↑筋肉を誇張し過ぎていないが迫力十分↑彩色ははがれているが見るべき木彫↑

ここに収蔵されている十一面観音立像はもとは天台宗の大伽藍に祀られていたと伝わる。
信長は比叡山と天台宗寺院を目の敵にし、姉川の合戦・小谷城攻め、さらに賤ヶ岳の合戦と続く戦火で二百以上あったという堂宇はすべてなくなった。

炎のせまる寺院から助け出された仏像たちは地元の人々のてによって様々に隠されて生き延びた。
↓この国宝指定された二メートル近いお像も境内の地中に埋められた↓

江戸時代に浄土真宗として復興した寺々では、天台宗の祀った十一面観音をそのまま寺にいれるが難しかった。
※浄土真宗は基本的に阿弥陀如来が本尊
そこで村の人々が建立した祠で護られていた。
向源寺の十一面観音は厨子の中に祀られているのではなく、特別な観音堂を建設し博物館のようにぐるりとまわって見ることができる。ほどよい照明も当てられている。

徒歩すぐの「高月観音の里歴史民俗資料館」へ

長浜の観音研究の中心がここ。
長年中心となって研究してこられたSさんに今回も解説していただくことができた。

二階ではここ出身の雨森芳洲の特別展示。江戸時代に釜山に三年留学し、対馬藩で朝鮮通信使対応の実務を担当した人物。いちどこの人物の元実家=現「東アジア交流センター」も訪れてみたいとおもっているのだが、まだ機会をもてていない。
長浜の集落ごとにある「おこない」と呼ばれる冬の行事に使うモノも展示されていた。「おこない」は雪の多い時期なので観光で訪れるのはたいへんだが、春の曳山祭は2023年に訪れる《手造の旅》を実現してみたい。
※「長浜キャピタル」のページに両方の様子が載せられています

資料館の入口に何気なく展示されている古い柱は↑かつて国宝の十一面観音を祀っていた藁ぶき?屋根のお堂のモノ↑
この建て替えに尽力した人のリアルな木彫が展示されていたのを思い出した。

「湖北のおはなし」弁当を境内でいただきます。

春の桜も、秋の紅葉も、お天気で幸いでした(^^)※今年四月の旅にリンクします

★西野水道~江戸時代の農民の悲願を今回も歩いていただきました(^^)
手掘りで220mの岩盤を掘りぬいた水抜き穴。当時のまま現代に伝わっている。

今の天皇陛下が皇太子時代に案内したNさん↓

皇太子様は歩いて抜けたそうだったが、御付きの方々が止めて最初の数メートルしかお入りになれなかったのだそうだ。

冒頭写真の紅葉の下と通り、いよいよ穴へ。

きのうけっこうな雨が降っていた。貸していただいた長靴越しに冷たい水溜まりを感じる。

次に続く
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屋久島、巨岩の森

2022-11-24 10:56:48 | 国内
巨木ではなく、巨石の森だ。

「尾野間文化の森」は名前からうける印象とはまったくちがう場所。昭和20年3月、沖縄に侵攻してきたアメリカ軍は屋久島南部の小村にも機銃掃射をかけ、原村は焼夷弾で焼かれた。村の人々は巨石の間に仮住まいをつくって逃げ込んだ。

そういう岩屋が二十以上のこされている。

県道沿いの小さな標識は見逃しがち。大きな車は止められない。

一歩踏み込むと最初は自然そのものにみえるが、歩いているうちにかつてそこに人が暮らした痕跡にであう。現在も道は整備されているので、楽とは言わないがちゃんと歩けるルートになっている。


案内してくださったのは、ゴーシュ直子さん。
ヨガのインストラクターをしておられる※2017年にサンカラホテルでヨガ教室をしていただいた時のブログをごらんください

前日の「シドッチ上陸記念祭」で偶然再会し、「ちょっと寄っていきませんか」と森の中?の自宅庭まで行った。屋久島の旅のアイデアを問うといつも自然をつかったプランを提案してくださる。「焚火はいいですよ」と東京で言われてもぜんぜんぴんとこなかったのだが…この場所に立つと、「ここで焚火をみつめるのは良い時間になるだろうな」と思えた。自分とちがう感性を持った人の話を素直に聴くことで世界は広がる。

月桃の実とトゥルシーの葉のお茶をいただいた(^^)


さて、「尾野間文化の森」の奥へはいってゆく。

赤いリボンが道の目印。

けっして歩きやすい道ではないが、周遊ルートになっている。

今日は晴れて穏やかだが雨の時期はどんなだろう。湿度は高く苔がいきいきしている。

立ち止まって周囲をみまわすと、巨大な岩がごろごろ。

その上に木々が縦横に根をひろげている。

↑これなんかアンコールワット遺跡に根を張る巨木を思い出した。

ところどころに案内版がある

屋久島はもともと花崗岩の島だった。

↓細長い葉をひろげるオオタニワタリは保護植物

「植物を持ち帰らないで」と何度も書かれている。

倒木を超えてすすむと清流の音がきこえてきた。

おもいがけない水の流れ。

往復一時間もかからず、車のところまでもどってこられた。
お天気にもよるが、この雰囲気はこれまでのどの屋久島とも違う。
通常の観光ツアーで訪れるルートではけっして感じられない空気がある。
お天気にも人にもよるけれど、山登りでなく屋久島を訪れる目的になりえる体験だと感じた。
***
ゴーシュ直子さんに「オススメの宿、ありませんか?」と訊ねると
独立コテージ四軒で運営している宿をおしえてくださった。
「今から行ってみたらどうですか?」
たしかに、今を逃すと自分の目で確かめる機会はそうそうないだろう。

海を左に見ながら十五分ほど県道を走り↑この道を入った奥にその宿があった。
●「てぃーだ」さん※沖縄方言で太陽のこと HPにリンクします
突然の訪問にもかかわらず、幸い部屋をみせていただくことができた。

一軒で五人まで宿泊できる。

一階部分にもベッドになるソファーがある。しっかりしたキッチンも。

棟によるがちょっとした渡り廊下の先に海に向かって開かれた浴室があった。

「五右衛門風呂」というのがどんなのだろうとおもっていたが、なかなかおしゃれなつくり。

二階からの眺めはどこもシーフロント(^^)
二階寝室のベッド四人分ある。
ファミリーで使うのにも適している。
こちらのコテージはレストランのシェフがオーナーで、ゴーシュ直子さん曰く「食にそれほど興味のないわたしが『おいしい』と思った」とのこと。他日、確かめに来なくては(^^)

部屋にあった「ガジュツ」の紹介がきになった。
ウコンの一種だが黄色ではなく紫色をしているそうだ。
植物は葉っぱの真ん中に赤い線が入っているのがちがい。

玄関先に植わっているのを教えていただいた。

*****

屋久島空港まで戻る途中に「道の駅」に寄る。

桜島小ミカンと、巨大なシイタケを買った。

ここにもガジュツを解説してある。

これまでまったく知らなかったが屋久島ではこういう植物も育てられていたのか。



午後二時半発の大阪伊丹空港行きに搭乗。

眼下に種子島がよく見える↑屋久島とちがって平たくて耕作に適している。種子島はとなりでもまったく地形が違い、したがって違う歴史を歩んできた島。
一時間半ほどで大阪の市街が見えてきた。遠くに「太陽の塔」も見える↑

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屋久島でシドッティ上陸記念祭

2022-11-23 14:00:18 | 国内
屋久島の南端。シドッチ教会と小島公民館の前からモッチョム岳が青空に映える。

この時期にこんなにきれいに花が咲くのは偶然ではなかったと、記念式典に参加して知ることになった。

★シドッチ(シドッティ)がどういう人だったかについて、2021年12月に訪れた時のブログをお読みください

雨の東京から鹿児島空港を経由して屋久島行きのプロペラ機に乗りこむ。

航路はずっとどんよりした雲り

眼下に屋久島へ向かうフェリーがみえた。
この飛行機が屋久島に着陸できなかったら、鹿児島からあのフェリーにのることになる。
そしたら式典にはとても間に合わない…

雨は降っていたが幸い屋久島空港に着陸(^^)

小さな到着エリアはツアーを迎えるガイドさん、ホテル、レンタカー会社でいっぱいだった。

小松は今回カーシェアを利用。空港すぐ外に島を周回する公共のバス停があった。
一時間に一本。
今回この車で約26時間の屋久島訪問。
一時間ほど走って島の南端・小島(こしま)地区に到着。
冒頭のヒマワリが咲いていた。

雨はすっかりあがり、モッチョム岳のひとつ「マドンナ岳」とも呼ばれる「耳岳」がくっきりとみえる。
たしかに耳のカタチだが、上陸した宣教師シドッチの目にはキリストを抱いた聖母マリアに見えただろう。

教会前のシドッチの記念碑↑これは2001年に建設された新しい方。
※こちらに詳しく解説されています

午後二時からの記念ミサにも参加した。
ここは、1990年代にイタリアからやってきたコンタリーニ神父がおられた場所。

↑堂内のステンドグラスは1708年にシドッチが上陸した時携えていた小さな袋に入れられていたメダルのデザインからきている。
↑このホンモノは上野の国立博物館が所蔵している↑小松はどうしても見たくて「見せてくれませんか」と電話したことがあるがにべもなく断られた。間近に見られる機会はいつやってくるのだろう。

一時間ほどのミサの跡、坂を下って1980年に設置された記念碑の前へ移動。

↑1980年に建立された最初の「シドッチ上陸記念碑」

↑神山小学校の教員をしていた斉藤邦彦氏が設置に奔走されたそうだが、その名前は刻まれていない。
※こちらごらんください
新井白石がシドッチと交流したことで表した書物がきっかけになり、八代将軍吉宗は洋書の禁止をおおはばに緩和した。それが日本の近代技術の発展の契機となった。

式典は小島区と教会が交代で毎年行われている。
小島区長が「この日に合わせてヒマワリが満開になるように植えようとしたのですが、先月の台風で一週間遅くなっています。」と挨拶された。そうか、ヒマワリもコスモスも偶然に花盛りだったわけではなかった。

37回目となる式典には日本全国ならずイタリアから参加された方もあり、新しい動きがはじまる胎動を感じる。
シドッチ神父の出身地シチリアのパレルモで列福にむけて運動をしておられるマリオ・トルチヴィア神父の手紙が読み上げられた。シドッチの信念を貫いた生き方を、バチカンが正しく評価してくれる日はきっとくる。

宣教師・神父シドッチが屋久島に上陸した1708年は、
わかりやすく言うなら赤穂浪士討ち入りの六年後。
江戸幕府のキリスト教禁止政策は盤石で
潜入すれば生きて帰れないと思っていただろう。

それでも、四年間をマニラですごし、
※マニラには追放された日本人切支丹のコミュニティがあった
日本語を学び、わざわざ侍姿に偽装して、日本を目指した。
上陸した時の様子は彼を乗せた船長の日誌に書かれていたのではっきりわかっている。

※シドッティ記念館設立のためのNPOのHPにわかりやすく書かれています

小松も屋久島の旅を造っている時↑引き寄せられるようにこの本を読んだ。
島の「里めぐり委員会」を通じて著者の古居さんにお会いし、2021年12月の《手造の旅》でシドッチについてお話をしていただいた。

三百年前にここに上陸した一人の異邦人が、その貫いた信念で人を呼び寄せているようだ。
種子島と屋久島の巡回司祭をしておられるパク神父が朗々とCaro mio benを歌われた。

小島公民館へ移動。
四時から古居さんの講演会。

会場には「シドッチ記念館」の模型が飾られている。

実際に入っていく気持ちで接写(^^)


↑奥の壁に掲げられた世界地図は、江戸で新井白石がシドッチの前に広げて見せたもの。
白石自筆のメモ付箋がついているものが東京の国立博物館に所蔵している。

東京の博物館はシドッチが上陸の時に持っていた「親指の聖母」も所蔵しているが、特別な時以外には公開していない。「シドッチ記念館」が完成したら、この場所にこそあって、希望する人が見られるように展示するべき品なのではないだろうか。

↑古居さんの講演は昨年よりも厚みを増していた。

↑シドッチを乗せてマニラを出航した船=サンタ・トリニダード号はシドッチをどこで下ろすべきか迷いながら北上しているように見える↑この時の航海日誌がバチカンにあるのは分かっていたが、

↑なんと日本の天理市にも保管されているのをつきとめ、撮影してこられていた。
↑左ページに平仮名が書かれているのはなぜ?本筋と違うので訊きそびれてしまったが気になっている。


「シドッチ記念館」是非とも実現させてほしい。
今後も小松に協力できることをしていきます。

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