旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ブノワ・デュトゥールの« Larmes de joie »(喜びの涙)を見てから空港へ

2023-02-15 17:07:37 | フランス

マドレーヌ教会の天井から光の粒が降り注いでいた※こちらにもう少し写真を載せています


「すばらしい作品なんです」
旅の最後にこの作品を見せたいと思ってくださったガイドさんに、まず感謝。
ガイドさんだからといって知っていて当然ではない。

さらに、パリ観光でマドレーヌ教会はコンコルド広場から近いので必ずそばはとおるが内部はまず訪れない。近くに駐車場はなく止まることもない。
定められた場所以外で乗降させると罰金をとられたりするので、ほとんどのドライバーさんは止まってくれない。

ところが、今日やってきたドライバーさんはとても親切で、コンシェルジュリを訪問する時にも目の前で降ろしてくれた。
「彼なら、マドレーヌ教会の側で降ろしてくれるかもしれないですね」
ガイドさんが説得してくださった。

予定にはなかった場所をちょっとだけでも見せてあげたいと思ってくださったガイドさんと、予定ない場所でもちょっと乗降させるのをOKしてくれたドライバーさんがあって、我々がこの「喜びの涙」を見ることができた。

美術館でこの作品は成立しない。
ここに来なければ感じることができない空間作品。


マドレーヌ教会はルイ15世時代に計画がスタートしたがナポレオンの統治時代にナポレオンに捧げる神殿に計画変更されていた。だが、ナポレオンの失脚後も長く完成せず、王政復古時代の1842年に完成。

↑主祭壇上の絵、赤いマントの後ろ姿はナポレオンにちがいない↑これが描かれた時にはセントヘレナ島の遺体もパリに戻されていた。

↑反対側・入口の上のパイプオルガンは、「白鳥」の作曲者として知られるサンサーンスが弾いていた。

↑扉を押して外にでると、真っ直ぐ先にコンコルド広場のオベリスクが見えた↑
**
空港での免税手続きはほぼこの機械で完了する。

JL46便は19時過ぎにド・ゴール空港を出発。
中央アジアの上を飛んで羽田空港へむかった。
昨今、入国時にvisit japanを使って検疫と税関の手続きをすることを求められるようになっている。日頃スマホを使わない人にも、スマホを貸し出してまで手続きをさせている。事前にvisit japanにアカウントを持っていないと、飛行機を降りてから入国審査にたどり着くまでとんでもなく時間がかかってしまう。
スマホを持たない人には海外旅行もムズカシイ時代になってきた…ということなのだろうか。


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パリ~コンシェルジュリーをガイドさんと

2023-02-15 15:56:23 | フランス
マリー・アントワネットが最期の朝に水を飲んだとされる水差し。
小さな十字架はローマ法皇ピオ七世から幽閉中に贈られたもので、真ん中には「本物の十字架の破片」が納められている。


「パリでいちばん美しいステンドグラス」があるサント・シャペル↑その尖塔が見えている。今日訪れるのはそのとなりに位置するコンシェルジュリ↑ギリシャ神殿風の柱がある場所は現在も裁判所として使われている。フランス革命時代・二百年前から裁判が行われており、マリー・アントワネットも法廷に立たされた。

コンシェルジュリはシテ島にある、もとのPalais de la Cité(シテ王宮)。いつも衛兵がいることからコンシェルジュリと通称されるようになった。フランス革命の時代に巨大な監獄となり五百人から千人を収監していた。

↑半地下の巨大な部屋は「衛兵の食堂」と解説されていたが、区切られて雑居房だったこともある。
囚人の待遇は金次第で、お金さえ払うことができれば個室に暖かい布団が用意され、美味しい食事も差し入れが可能だった。

↓革命のスローガンがフリギア帽(古代ローマで解放奴隷が被ったとされる)をかぶっているポスター↓

↑「共和国と不可分なもの、自由、平等、博愛、それなくば死を」↑下ではフランスを象徴するニワトリが大砲を持っている↑

断頭台に送られる囚人はここで↑髪の毛を短く切られた↑ギロチンの刃を妨げないためである
←1793年の1月にルイ16世がコンコルド広場で処刑された時のニュース版画。
王の処刑をきっかけに各地で反革命の暴動が起き革命政府は恐怖で民衆を統治しようとする。3月10日には「革命裁判所」が設置され、二年ほどの間に二千七百人もの人々が死刑判決をうけ、ここから処刑場へ運ばれていった。

夫が処刑された同じ年の8月、マリー・アントワネットは子供たちと引き離されコンシェルジュリに移送された。
結果、処刑までの最期の76日間を過ごした。
↑裁判でマリー・アントワネットを追いつめたのがこの↑検事フーキエ・タンヴィル。胸像はいつごろつくられたモノだろう?彼自身も二年後には処刑されてしまったのだから。

マリー・アントワネットを救出しようという計画があって、小さくたたんだ手紙をカーネンションに仕込んだものが元女王の手元にまでいっていた。 直前で露見した「カーネンション計画」の後、彼女は24時間体制で見張られることになり、死刑の朝を迎える↑卒倒しているのはコンシェルジュリで世話をしたロザリー・ラモリエールかしらん↑

「女囚の中庭」には出してもらえなかっただろう

↑「12人の場所」と呼ばれた一角↑処刑される人々を12人単位で集めていたのだそうだ↑

↑「名前の小部屋」には1793-95年の間に収監された四千人以上の名前が刻まれている↑マリー・アントワネットの名前もCAPET(「カペー」王朝の家名)のところで見つかる。


↑元女王が使っていたという編み棒↑

↑最後の日々に使っていた椅子↑
後の時代、彼女にまつわる品々は伝説的に取り扱われるようになる。
次々に「新発見」される品々のうちホンモノとお墨付きを得たものが買い取られる。
冒頭の水差しと十字架は三十年前から変わらず公開されつづけている。

↑マリー・アントワネットが収監されていた部屋は↑のちの王政復古時代に礼拝堂に改築された↑
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パリ~帰国日の朝にパサージュめぐり

2023-02-15 09:38:07 | フランス
都市計画がはじまったばかりの19世紀なかばのパリに、すでにパサージュがあった。

オペラ座近くに滞在するといくつものパサージュが近い。
今日夜には帰国便に乗るけれど、チェックアウトまでの時間で楽しめる。
歩き出すと道路わきに水がながれている。
溝に設置された蛇口を開けて水を流し、ゴミを下水道に落として掃除するのもパリならでは。

馬車が主要交通手段だった時代の道路は馬の糞でいっぱい。
清潔で安全に歩けるパサージュは大人気になった。

↑お店が開く前のひっそりした時間
アンティーク屋が多いけれどモダンなインテリアを展示している店もある。

気軽に入れる小さなレストランも↑

●パサージュ・ジェフロアは1847年に完成と解説してあった

めずらしくクランクに折れ曲がったパサージュで↑その角には1882年から営業している「グレバン蝋人形館」がある↑

となりは同じぐらい古そうなホテル「ショパン」


※パサージュのお話を「世界ふれあい街歩き」でやっておりました※番組ページにリンクします

↑一度大通りを超えて、向こうの建物の中にもパサージュが続いているのが見える↑

大通りをまたいで続くパサージュ。かつては百以上もあったのだそうだ。


↑これは列車のダイニングをそのままもってきた?ようなレストラン

↑古い絵葉書を売っている店は多いが↑ここは映っている場所ごとに整理してあった。

↑上の階は新しく直されても生き残っている●パサージュ・パノラマ

↑突然あらわれた巨大な建物はパリ証券取引所↑渋沢栄一が「合本主義」を考えるきっかけもここで得たのだろうか。
公衆トイレ、以前は有料だったが今は無料。開け閉めがややこしくて子供が閉じ込められる事件も起きたのだそうな。

↑区役所の前をとおり

『いちばんきれいなパサージュ』と紹介されることもある●ギャラリー・ヴィヴィエンヌへ。

1825年にオープンした場所だが

↑このドームは1961に復元。

↑ジャンドメニコ・ファッキーナはヴェネチア系のモザイクを製作・修復する会社をやっていた。
1855年のパリ万博で評判を呼び、オペラ座ガルニエ宮の装飾にもつかわれた※ウィキペディアより
この装飾もそのころのスタイル?

オペラ座うしろのオスマン通り沿いのホテルを9時に出発して一時間半。
四つのパサージュをめぐりパレ・ロワイヤルまできていた。

パサージュという発想は王政時代の18世紀末に↑ここパレ・ロワイヤルからはじまったと書かれた本もあった。

王の弟であるオルレアン家が私有地の庭を解放し・庭をめぐる回廊を店に貸し出して人気になり、家計の足しにしたとか。

地下鉄ピラミッド駅から一駅だけ乗ってホテルに戻ろう。
スーツケースをまとめて正午までにじゅうぶんチェックアウトできる。
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