旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

マドリッド

2015-04-23 12:35:09 | スペイン
《手造の旅》「スペイン中部小都市めぐり」も最後は大都市マドリッド。
ホテルを出て徒歩でアトーチャ駅へ。
古いドーム型の駅は、現在植物園空間に改築されている
ここから地下鉄に乗ってSOL=太陽の門広場をめざす。
マドリッド地下鉄のドアは自分であける方式

ソル広場、スペインのゼロ㌔地点表示
ここからマヨール広場そして周辺の路地を入ったところに、刺繍や生地といった布製品・材料の店ばかりがあつまっている一角を教えてもらった。

調べてみると、この店は百年以上の歴史をもっている。

ポンテホスというエリアになるそうな。ここがこの名前になっているのはこういった製品があつまっているからなのか、それとも場所の名前をとっているのか?


こんな道路標示も
あのゴヤも「ポンテホス子爵夫人像」というのを画いているし。

今日はデスカルサス修道院へ行く事にした。
現役の女子修道院で今でも二十人ほどが日々生活している場所。なので、見学も限られた時間に限られた人数ずつ専属のガイド付きでのみ可能となる。

開館時間を待つ行列ここを創立したファナ・デ・アウストリアはカール五世の末娘にしてあのフェリペ二世の妹にあたる。

ポルトガルの王太子ジョアン・マヌエルに嫁いだが、18歳の時に16歳の夫が没し、生まれたばかりの息子(のちのポルトガル王セバスティアン1世)をリスボンに残してスペインに呼びもどされていた。

マドリッドに戻った彼女は、四年後の1559年、自分が幼少期をすごした場所を修道院にして住み始めた。それがこのデスカルサス修道院である。
生まれてすぐに引き離された息子セバスティアンの肖像は、マドリッドの母のところに送られて、母は手紙を書いたが、実際に会う事はなかった。
セバスティアンはちょっと変わった性格の王に育っていき、1578年にはモロッコで戦死してしまった。
その知らせも、ファナはこの修道院できいた筈である。


この修道院は日本にも関係がある。伊達正宗の使節としてやってきた支倉常長が、1615年2月に修道院付きの教会にて洗礼を受けている。

入場時間を指定されて、待ち時間の間に有名なチュロス屋さんへ
一人前の量何本とかいう規定はない? もってきてくれた彼女は、皿からチュロスの一本が床に落ちても気にしない、拾いもしないで去って行った。そして、二人で一人前でもとても食べきれない量のチュロスであった。

**
お土産を何か…ということで百貨店の地下食品売り場を訪れて見つけたひと品。
丸い缶の中に12粒のブドウがはいっている。これはスペインらしいスペインでは年越しの鐘にあわせて12粒のブドウを食べる習慣があるのです。
中身、どんなのかまだ開けておりません。。

***
昼食は王宮近くの広場に面したカフェでピンチョスをいろいろこれ、きのうの夕方よりもずっと美味しかった。見た目は似ていても店によってずいぶんちがいます

****
午後は定番のトレドへ。
今回スペインははじめてという方もおられる。ならば少しは定番箇所もおさえておこう。トレドは「もし一日しかスペインに居られないのならトレドを見ろ」と言われる町。

まずは、町を見渡す有名な展望台
何回も来ているが、このすぐ近くの丘の上を発掘しているのにはじめて出会った。かなり大きな遺構のようだ。

ローカルガイドさんにきけば、アラブ時代の砦の跡があることは以前から分かっていたのだそうだ。
やっと予算がまわってきて発掘できているとのこと。
さらに下の川の近くには、新しく公開されたというアラブ時代の浴場の跡が見えた

*****
トレド街中を定番観光をして、18時過ぎにマドリッド市内のホテルへ戻る。
今晩はフラメンコのオプションを設定した。
フランメンコのオプションは店によってずいぶん違う。「雲泥の差がある」といっても良いかもしれない。

「まぁ、ちょっとどんなものか見てみよう」というのならばなんでも良いのかもしれないが、小松が設定するからにはお勧めできるところでなくてと思った。
当然、料金にも何倍ものひらきがあるが、今回は妥協せず、マドリッドで最高と言われる店を予約した
二十年も前になるだろうか、この店で見たブランカ・デル・レイというフラメンカの踊りは忘れられないものだった。当時は夜中のセカンド・ショーを見なくてはホンモノのすごいフラメンコは見られないといった時代で、団体客がいなくなっても眠さをこらえてなんども来ていたが、彼女のパフォーマンスは圧倒的で、ほんとうに目が覚めた。

今、この店はコンセプトを一新して、ダイニングとしても楽しめるようにしたとマドリッドの手配担当からきいていた。アメリカのNews Week誌にて「死ぬ前に行きたい世界の千の場所」のひとつにも選ばれたと友人が教えてくれた。ならば、小松も行ってみましょう。

★トリュフのエマルジョン入り野菜のオーブン焼き
トリュフの風味がふわっと香り、今回食べた料理でいちばん洗練された味わいでした。
●アンチョビ、焼きピーマン、イディアサバルチーズ、ピクルスビネガーのサラ ダの”コカ” (パイ生地ベース)
●地鶏肉(59℃の真空調理)ポートワインソースかけ、トリュフポテトとベラ産パ プリカ風味ミガス(パン、オリーブオイル、ニンニクとパプリカを使った代表的 なスペイン料理)添え


******
翌日、帰国便に乗る日だが、夕方の飛行機にしたのでゆっくり見学時間がある。
最近リニューアルした考古学博物館を訪ねた。ここでのいちばんの見ものは改装前も今も、「エルチェの貴婦人」紀元前5世紀ごろ、ローマがやってくるずっと前の時代に製作されたとされている。

顔の横の大きな飾りは、いまでもエルチェのある地方の女性民族衣装とに受け継がれているそうな。
発見された当時はフランスがルーブル博物館に所蔵していたのが、1941年にスペインに返還されたとなっていた。

この年代には隠された意味が読み取れる。
1941年は第二次大戦中、フランスがナチス・ドイツの支配を受けていた時代にあたる。
ヒトラーは、友好国であるフランコ将軍のスペインに、フランスが「強奪した」ルーブルが所蔵するスペインの宝を返還する事でひとつ恩を売ろうと思ったのだろう。
フランコ将軍のスペインは結局最後まで第二次大戦には参加しなかったのだが。

この像のとなりには全身像である「バサの貴婦人」もある。こちらは発掘のもようをもっと詳しく紹介していたこの東洋じみた雰囲気のある像は奉納者たちだとされている

今回訪れたサモラからの品もあった。この象牙の箱はアラブかもしくはそれ以前のヴィシ・ゴート時代のものと考えられている。ふたの部分にアラビア語の文字が書かれていて、これゆえにイスラム教徒の工人によると思われているが、そうなのだろうか。

博物館入口の庭には地下へ降りる部屋があり、ここがアルタミラ洞窟を再現した展示となっている

英語の解説も併記されているので、時間があればもっとゆっくり見学したい場所だ。売られていた英語の博物館ガイドには個々の作品の十分な解説はなかったので。

*******
博物館からすぐちかくのコロンブス広場。これはコロンブスが最初に乗っていったサンタ・マリア号をあらわすモニュメント

ここから二ブロックほどのところに、小松が十に年前に行ってずっと記憶に残っているレストランがあった 大昔に撮影した料理の写真を見せると「ああ、今もありますよ」。この老舗は、幸いにも当時とほとんど変わらないメニューを置いていた。それだけ人気がありいつも注文してくれるファンがいるという証だ。
海老の網焼きは定番 飴色たまねぎがとろとろのイカの墨煮 二人前からの牛肉

★デザートの中に、Cuajadaクワハーダという羊のチーズのメニューがあった。
バスク地方でよくつくられているもので、羊でもぜんぜん癖のない味である。添えられている蜂蜜とともにシンプルにいただきます。

容器のかたちは、バスク地方でこれをつくるときに使っているというカイクという木製の容器をかたどっているそうな。知っていなくちゃ分からない事ですね。

今回の旅の最後、おいしくいただきました<m(__)m>
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トロの参事会教会

2015-04-21 10:59:02 | スペイン
様式的でありつつ、いきいきした足運び。手の動き。この「踊る天使の行列」を見るだけにでもTOROの町へ行く価値があった。
**
サモラのパラドールの朝食は07:30からこれは他のパラドールより三十分早い。食べてから市場へ歩いていこう。道すがら、マヨール広場のファサードが朝日に美しい入口の花の模様はひとつひとつ違う 市場はしかし、観光客が買えるようなものはほとんどなく、買ったのは白インゲン豆だけ(笑)でも、おいしそうです手前の赤いのはパプリカのパウダー

***
今日はマドリッドへ向かう日。だが、午前中に宿泊したサモラから三十分ほどの距離にあるTOROの町へ寄っていく行程にした。ここには後期ロマネスクの参事会教会がある。

今回訪れる町のなかではいちばん知名度が低いだろう場所。
しかし、経験則で「有名な場所へ行けば満足度が高い」とはまったく言えない事はわかっている。むしろ知らないでいきなり遭遇するモノの方が驚きをあたえてくれるに違いない。

TOROは今では小さな町だが、けっこう大きな要塞がある。そこでバスを降りて、広場に掲示されていた地図を見ながら旧市街の小道を曲がると、突然「参事会教会」がそびえていた。

堂々たるロマネスク。サモラのカテドラルように後代にいじりまわされていない。
この姿を見られただけでTOROの町を訪れた価値があるというものだ。
近づいて南の入り口を見上げる誰かが「アンコールワットの彫刻みたいですね」と言った。確かに仏教の僧侶の姿に似ている。
踊るような天使の描写

この門だけでもずうっと見とれていられるが、この教会最大の見ものは、西側の門にある。と、ミシュラングリーンガイドに記載されている。

外側からまわってみるのかと思ったら、教会の中からそこへ導かれた。
ロマネスクの西門は、製作されて百年経たないうちにひさしがつけられ、さらに大きく囲う礼拝堂がつくられたので、今は教会の堂内に位置していたのだ。
これが、それ。

ミシュランの解説によると18世紀になって彩色しなおされたとある。が、現地の方のお話しでは「十七層にもなる厚い塗りによって、汚れを落としてゆくとこの彩色が残っていた、そうな。


下は地獄のシーン。こういうシーンがいちばんおもしろく描写されている。


ゴシック時代になってロマネスクよりずっとリアルな聖母マリアの描写
ゴシック期以降になるだろう妊婦姿のマリアの像もあった

小松の個人的所感だが、彩色されたこの西門よりも、色がほぼなくなってしまい風化も進んでいる北門の彫刻の方が静謐で美しいのではないか。

**
さて、ちょっと早いが教会前のバールで軽食としよう 
小松はもう一回教会を見に行く。
美しいクーポラ
川を見下ろす位置にある聖堂

管理人の話によると、北面と西面にくわえ、南面にも彫刻があるという事だったが、その位置には新たな礼拝堂がくっつけられていて内部は見えなかった←写真の右側がその敷設された礼拝堂にあたる位置。

参事会教会のすぐ近くにはこんな木組みの家ものこされている ちいさなよろず屋さんで売っていたグラン・コレギウムというトロ産のワインを購入。参事会(コレギウム)教会の絵がラベルに見える。11ユーロで充分良いものが手に入る

***

マドリッドまで三時間ほどのバス。
途中のサービスエリアで見かけたポテトチップス。
左はパリ・スタイルで食べるとふつう、右が東京・スタイルでテリヤキ味なのだそうだ
午後三時すぎにマドリッドの市内に入る。かつての郵便局が今は市庁舎として使われている

プラド美術館見学の後、ホテルへチェックイン。近くのピンチョス(つまようじ)バーで食事
終わってからバスでベネベント広場まで行き、マヨール広場近くの有名なマッシュルームのお店へも行ってしまいました
帰りはソル広場から地下鉄でアトーチャ駅近くのホテルへ。
ソルの駅はヴォーダフォンがスポンサーになっているので、ヴォーダフォン・ソル駅と表示されております。

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また訪れたいサモラの町

2015-04-20 16:52:16 | スペイン
《手造の旅》スペイン小都市めぐり五日目、午後。黄色い菜の花の中をはしってゆく

川を見下ろす崖の上のサモラ旧市街。

ここはポルトガルのポルトを流れるドゥエロ川の上流になる。川を見下ろす崖という立地はどこも古代から人々が住んていた場所だ。

通常観光バスは旧市街には入れないが、今回はど真ん中のパラドールに宿泊するので特別。ドライバーが警察に電話すると、なんと白バイが先導してくれてパラドールまで連れて行ってくれた.


途中、市場や

マヨール広場に建つロマネスクのサン・フアン教会

パラドールはヴィリアート広場に面している

高い建物がないので空がひらけていて気持ちが良い。

もともとアルバとアリステ公爵家の建物だった建物で最高の立地。
これはある部屋からの眺め

後年孤児院に転用されたりしていたものを1960年代にパラドールとしてオープンさせた。
午後二時近く、予定通り遅い昼食

アミューズはハッシュドポテトにバカリャオ(塩タラ)を練り込んだもの。さくっといただきます

前菜が絶品!パプリカを焼いてオリーブオイル漬けにしたものにバカリャオをのせてある。

スペインではよくあるひと品なのだが、瓶から出しただけのものとは全然違う。

メインは二種からチョイス。サーモン

サモラ・ライスは肉を炊き込んだ汁とパプリカパウダーの味がしっかり染みたお米。写真を見ていた時にはパエリアみたいに思えたが、味はまったく違った

もちろんデザートもいただきます

部屋へもどって一時間ほど休憩。
16:30から現地ガイドさんと徒歩観光スタート

実に美しい春の青空。少し田舎の雰囲気が、観光客でいっぱいのアヴィラの町よりも好もしい。到着してあるきはじめたばかりなのに、誰かが「この町はまた来たいわねぇ」とつぶやいた。

サモラは「ロマネスクの町」と呼ばれたりする。歩いているとどんどん出会う

、でも多くはいつも入れるわけではない。

こちらは11世紀の城壁の跡

町の西端にあるカテドラルへむかう。ひときわ大きな広場に面して建っているこれがカテドラル

鐘楼はロマネスクだが、入り口やその周辺はルネサンスからバロックの時期に改修された雰囲気がありありと感じられる。
実際、内部もロマネスクらしいところはあまりなく、唯一このドームがいい雰囲気で残っていた

 内部の装飾で目に留まったのはこの古びたタピスリー

祭りの時期にだけ出されるもので、かつては主祭壇の前に下げられていたのだそうだ。日本でも寺社にこういう絵があった。

カテドラル内部でいちばんおもしろかったのは、この壁に造り込まれたたくさんの貴族の墓。13世紀ごろのものから幅広い時代に分布している。

19世紀にペストの流行を怖れて、遺体が埋葬されていた壁の墓は墓碑ごと塗り込まれてしまった。その時にプレートを設置していつの時代の誰の墓なのかを分かるようにしてある。
それをやっと最近になって開け始めたのである。
壁に切れ目を入れ、そこからマイクロスコープで何があるのか確認し、慎重にはがしてゆくと・・・

時にはこんな色鮮やかな中世の墓碑があらわれる。
これもつい数か月前に発見されたとのこと。見ると、壁にはまだまだ開けていない墓碑がいくつもあるではないか。これからまだまだロマネスクの彫刻が見つかるやもしれませぬ。


この教会の解説をよんでいくと、どれでも必ず言及されていたのが宝物館のフランドルのタピスリーであった。
小松はそれほど織物装飾に趣味がないが、それでも実際に目の当たりにすると「おぉ」と、声をあげるほどの出来映えであり、保存状態もののだった。場面はトロイ戦争。

アキレウスが矢で射られるところ

服装は製作当時のフランドルのものになっているのはしょうがないです。

この大聖堂で、唯一ロマネスクのオリジナル彫刻を留めていたのは西側の入り口

かなりおもしろい植物装飾にかこまれているマリア像


**
川を見下ろす見晴場所へ



古い橋の上を観光用のプチ・トレインがはしってゆく。

「乗ってみた~い」と声があがった。
では、時間調べてみましょ(^^)《手造の旅》ならなんでもありです。
**
マヨール広場に戻る途中、さっき閉まっていたマグダレーナ教会を覗く

ここは内部よりも入口のこの彫刻が必見。

植物が生い茂る天国で、皆笑顔に彫られている。かつてはこれらも彩色されていたことだろう。


サモラの町で有名なのはセマナ・サンタ(聖週間)の行列。この時期には市内に十七ある「コフラディア」と呼ばれる町内会組織が活躍する。これはその一つの本拠地

描かれているような顔の見えない服装は「善行は誰がしたのか分かっては売名行為になる」という考え方から中世に考え出された。

街並みに出窓が多いのがサモラ風

***
さっき橋の上を走っていたプチ・トレインは毎時ちょうどにマヨール広場を出発すると分かった。最後の回が20:00広場発。お茶して待っているとやってきました

午後八時でも日本なら午後五時ぐらいの雰囲気。

料金はなんと1.2ユーロ!
これで45分もサモラの町をまわってくれる。城壁の外側へおりて

川の向こうへ渡ると

夕方の光が丘の上の旧市街を照らしている

なんと美しい空。

さっき訪れた12世紀からの大聖堂が夕日を浴びている

二両の小さな車両に、乗っているのは我々十数人の日本人だけ。街のみんなが手をふってくれる




マヨール広場にもどり、夕食代わりにカフェで軽く
パラドールに戻った21時半ごろ、やっと夕焼けサラマンカとサモラの二都市をゆっくり訪れた一日だった。
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大学の町サラマンカ

2015-04-20 10:30:29 | スペイン
《手造の旅》スペイン小都市めぐり五日目。アヴィラを出て一時間ほど走ると、堂々たるサラマンカの大聖堂が見えてきた。

イベロ族の町をカルタゴそしてローマが占領し継承し繁栄した拠点都市だったが、レコンキスタの時代には戦乱が長く続いて荒廃していた。

イスラム教徒の手から完全に町を奪回したアルフォンソ六世は娘のウラカと婿のレイムンドにこの町を与えた。
1218年にサラマンカ大学を創立したアルフォンソ9世は、彼らのひ孫にあたる。

現在でもヨーロッパ屈指の名門サラマンカ大学は、町の人口16万ほどのうち3万人以上を占めている。

バスを降りてしばらく行くと旧市街の中心となるマヨール広場へ出た。


ここはスペイン継承戦争に勝ってブルボン王朝ではじめての王フェリペ五世が、自分に味方してくれたサラマンカに感謝して造成したのだそうだ。アーチにはスペイン史で有名な人物の胸像が。これはセルバンテス⇒
この広場、もともとはアーケードのすぐ南にあるサン・マルティン教会の付属広場だったものを拡大・改良したそうな。ロマネスク様式のアーチが美しい教会だが、ひっそりと扉が閉まっている裏側へまわってみると、建物に埋もれてしまって、もとがどのようなものだったのかも見えない。地元ガイドさんによると「いつも閉まっている」のだそうな。

マヨール通りを大学方向へ歩いていくと「貝の家」が右手にみえてくる。これはスペインの守護聖人サンチャゴ(英語ではジェームス)のシンボルである帆立貝。巡礼路ではよく見られる。この建物もサンチャゴ騎士団に属するファミリーが自家の紋章にある帆立貝の図案を入れてデザインさせたのだそうだ。

「貝の家」の中庭を見下ろしているのは、すぐ向かいにある巨大なクレレシアの塔を持つ建物。イエズス会が1617年に建設し、現在はPontificia(法王の)大学となっている。

サラマンカ大学には中世以来の伝統で、卒業が決まった学生が赤字で壁にVICTORという文字と名前を書いている(もともとは倒した牛の血で書いたのだそうだ)。
天皇皇后両陛下も訪れた時に、その名前が書かれた

サラマンカ大学を代表するルイス・デ・レオン氏の像。
16世紀半ばに大学総長を務めた人物だが、その直前には宗教裁判によって四年ものあいだ獄につながれていた。現代につながる開明的な考え方をする人は、すぐに「異端」と難癖つけられてしまう時代だったのだ。それに負けない意志を示し、スペインが新たに征服した地の住民の人権などにも言及したという人物。

ESCUELAS MENORES=ミシュラン日本語版では「大学予備学校」と訳されていたが、単に「小さい校舎」ととらえる方がよいだろう。いずれにしても15世紀からの大学の建物の一部になる、美しい中庭である。

その一角に「サラマンカの空」と題されるフレスコ画が隠されている。

1480年代にフェルナンド・ガジェゴが描いたフレスコ画が暗い部屋にうかびあがる天球に星座が描かれたこの作品は15世紀に描かれたとは思えない現代的な写実性を感じさせたもとはこの場所ではなく、図書館の天井の為に描かれていたが、18世紀にそこが教会に改築されることになり設置された天井のために隠されてしまっていた。この教会がその場所
20世紀の半ばに移設しようとした時にはすでに三分の二は劣化してどうしようもない状況だったのだそうだ。つまり、ここに見られるのは制作された当時の三分の一だけなのである。

カトリック両王の時代にに設置された装飾壁には、その当時に流行したちょっとグロテスクな文様が描かれている。この中にカエルを見つけられれば学業成就するという伝説がある。どこ?
ここ・見つかります?※骸骨の頭の上です⇒
そうか、だからカエルをお土産に売っていたんです


この壁から入ると、中庭を囲んで当時は学部ごとの講義室があった。教会法、市民法、医学、文学なとと色別で別れている当時は宗教がいちばん上位にきていたのだろう、現在でも教会法の部屋は大ホールとして大学の行事につかわれていた青色の文学部は・・・偶然だろうがトイレになっていた
このアラブ様式の天井は書庫だった部屋

前出のルイス・デ・レオン氏が講義した16世紀の教室。木製の棒のような机が並んでいるだけだが、当時はこれでも上等な部屋で、普通は床に座っていたのだそうだ。ここにはスペイン王にして神聖ローマ皇帝のカール五世も聴講に来たと解説されていた。


●当時の卒業試験は、ひとりひとり教授に囲まれて質問攻めにされるというスタイル。その部屋の中央にはなんと司教の等身大の墓碑?が横たわっているなんでも歴代の司教の中でいちばんの知恵者だっただった人だそうな。受験者はこの人物と足の裏を合わせて座る。

知恵を分けてもらいながら、質問に答えるそうな。へぇ~(^^)

**
中世において、大学というのはまずは教会から派生した。
大学の教室が並ぶ界隈のすぐ南には、共に巨大な新旧二つの大聖堂がとなり合って聳えている。バスがこの町に近づいた時に最初に見えてきた塔がそれだ。
新大聖堂は1513年から建設がはじまり約半世紀で一応完成。堂々たるゴシックの天井を見上げる
旧大聖堂は1149年から百年以上かかって建設されたロマネスク建築。
主祭壇は16世紀に新調されたものその上部のフレスコ画もその時に画かれたものらしい近くの壁にはロマネスク時代からの墓やフレスコがたくさん見られる付属博物館に、昔主祭壇に置かれていたというマリア像。
そして、「雄鶏の塔」という名前の由来になった雄鶏もいた

現代の大聖堂は古いものばかりで構成されているわけではない。
現代の修理彫刻家が手掛けた部分には、なんと宇宙飛行士!そして、グレムリン?まで居ました(笑)↴

**

午後になって、今日宿泊のサモラの町までさらに一時間ほど走る。
四月。雨が降る事も多いこの季節だが、カラカラ猛暑の真夏に来るよりずっと良い。

幸いここ数日ずっと素晴らしい春の青空に恵まれ、菜の花が美しい道をゆく。
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聖女テレサとアドルフォ・スワーレスの町、アヴィラ

2015-04-19 21:44:36 | スペイン
アヴィラはスペインの守護聖女とされるテレサが生まれた町。
それはちょうど四百年前の1515年3月28日だったとされている。
今年は例年以上にたくさんのキリスト教徒が訪れる。

テレサの生まれ育った家は、南のラストロ門を入ってすぐのところにあった。今、その場所は教会と修道院となっている中には彼女のベッドルームと小さな庭だけが当時のままに保存されている

彼女は裕福な家庭で敬虔なキリスト教徒として教育を受けて育った。祖父が元ユダヤ教徒だったことも反動としてあるかもしれない。伝え聞く「聖者のように生きたい」と思った彼女は、七歳の時弟と共に街を出たが、城壁の西はずれ「クワトロ・ポステス」で叔父に連れ戻されたという

城壁の一角を占めるカテドラルはテレサも見ただろう


大聖堂横に城門を出たところにあるテレサが訪れていたサンタ・トマ教会。「1515Avila」の旗が出て、今はこの町の郷土博物館となっていた。入り口には「ギザンドの牛」のひとつが展示されている。古代ローマ以前の民族がつくったという石の動物は牛のかたちをしているものばかりではないが、総称して「ギザンドの牛」と呼ばれているのだ。

博物館の展示は多彩。面白かったのは現在サン・ニコラ教会がある城壁外の南地区に、イスラム教徒の埋葬地があったという展示。
イスラム教はキリスト教徒違ってモスクに墓はつくらない。白い布に巻いてそのまま地面に葬る。そのしるしとして置かれていた墓石の数々
そして、埋葬殿だったと思われる建物の跡が復元されていた
奥の石に月と星のしるしが見える。
復元のビデオが分かりやすい。

あとから城壁の外を歩いた時、サン・ニコラ教会とその埋葬地だったあたりが見えた


郷土博物館本館は、教会すぐ近くの貴族の邸宅を改装して建設されているこちらもたいへん興味深い展示がいっぱいあったが、ひとつ目に留まったのがこの青銅製の水差し?
レコンキスタ以前、おそらくヴィシ・ゴートかその後のムスリム時代に製作されたものと推察されている。


**
アルカサル門を出たところにあるサン・ペドロ(ペテロ)教会もロマネスクの美しいかたちをしている後陣からみると、塔の下部にもっと古い時代と思われる石材が使われているのが分かる。

すぐとなりに見えたロマネスクの後陣に惹かれてとなりの建物へ足を向けたが、今はリタイア・ホームになっていた。ううむ、中はどんななのだろう。

****
街中で突然出会った等身大のブロンズ像。

誰なのか? マドリッドから来たガイドさんも気付かなかったが、カテドラルで見つけた新しい墓を見て思い当たった「そのひと」だった。

「融和は可能だった」と一番下に書かれている。

★アドルフォ・スアーレスは、1976年から81年までスペインの首相を務めた。
長いフランコ独裁体制の後、スペインを民主化する国王の意志を最前線で実行した人物。
この時期のスペインを率いていくことが文字通りの命がけであった事は、「23-F」と呼ばれる1981年2月23日に起きたクーデターの映像を見るだけで理解できる。

共産党が合法化され、政党政治が推進される中、フランコ独裁を支えた軍部が国会を占拠してクーデータを起こそうとした。
印象的な角形帽子をかぶった中佐が銃を手に国会へ乗り込み、抵抗する議員たちに威嚇発砲する。
YOUTUBE画像。多くの議員が机の下に隠れる中、最前列右端に平然と座っている人物がスワーレス。

1968年にセゴビア県知事をしていた36歳の時、訪れた31歳だった当時の皇太子ファン・カルロスの知己を得た。
1975年にフランコが死去し、国王となったファン・カルロスが翌年首相に望んだ。
独裁体制の後、ともすれば再び内戦にも陥りかねなかったスペインの融和を可能にした実力は、現在の左右どちらを支持する人であっても評価している。

昨年2014年に亡くなるまでの十年は認知症を発症し、勲章を自ら手渡しに訪れた国王のが「私は君の古い友人だよ」と自己紹介しなくてはならなかったのだそうだ。
⇒こちらにもう少し書きました。

マドリッドの空港はアドルフォ・スアーレス・バラハス国際空港と改名された。


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