旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

須貝TOMOO農園見学と手作りランチ

2023-04-25 14:27:00 | 国内
サクランボの花が盛り(^^)
シンガーソングファーマー須貝智郎さんの畑を案内していただいた。

↓静かなブーンという羽音は自然受粉のために飼っているマメコバチの働く音。

↑この中に住んでいる↑

「瀧波」を出てすぐ、大きな前方後円墳の近くを通った。

【稲荷森古墳】は古墳時代前期・4世紀のもので全長96m、県内最大。

十五分ほどで須貝さん宅に到着↑
↓築二百年?の茅葺母屋は葺き替えの材料を常に用意しておかねばならない↓

カヤはとっても貴重。どうやって確保しているかお訊ねすると、奥様・啓子さんがおしえてくださった。
「茅場(秋に茅を刈り取る私の実家の近くの原野)を毎年10月下旬頃に家族で刈り取り、翌年の葺き替えのために蓄えます。使い残した茅はその翌年に使います。」

↑大量の材料と、葺き替える職人さん両方が貴重↑

旧家にはそれぞれ、家を護ってくれる小さな社がある。

↑「何を干しているのですか?」
「精一郎さん(須貝さんの御父上・90歳を超えてもたいへんお元気です!)が、くきたち(菜の花の花が咲く前のもの)を干しています。 山形では春の山菜、ワラビやゼンマイなども干し物にして冬に備えます。」
今回の旅で、山形はどんな草も食べるという印象ができた(^^;

↑いちばん元気よく咲いている草↑「これは食べますか?」
「オドリコソウは外来種で食用にはしないようです。日本の野原は日本の原種の姿がすっかり少なくなりました。クローバーもヨーロッパからコーヒーカップなどの洋食器と一緒に日本にやってきました。」
しらべてみると、ヒメオドリコソウ(姫踊子草)は明治時代中頃に記録されているそうだ。在来種のオドリコソウに似ていたので「小さい=姫」をつけられていた。これが美味しく食べられる草だったら、悪者扱いされないだろうになぁ(^^;

↑かわいいオオイヌノフグリも外来種で、もっと小さな在来種のイヌフグリを駆逐しているのだそうな。

↓サクランボは佐藤錦がいちばん人気だが佐藤錦だけ植えてもダメ。

↑そして、佐藤錦は接ぎ木で育てられる
↑根元の太くなったところの下が「台木」のヤマザクラ↑

↑これは台木が芽吹いたモノなので↑すぐに摘みとる必要がある↑

↑「え?アスパラガス」こういうのも混じってくる↑
後日、解説していただきました。
「サクランボの木の根元にでたアスパラガスは、以前栽培した畑からの手作り『たい肥』に交じって引越ししたものです。」
なるほど、さすがに勝手には生えてこないですよね(笑)
※追記コメント:「路地栽培のアスパラガスは種を蒔いて2年は収穫をせずに株成長させます。3年目から収穫しで5年から7年くらいが収穫ができ、その後株が老化するようです。」とのこと


↑ラ・フランス=洋梨も山形の人気フルーツ↑

毎年開催しておられる「大地のコンサート」のステージで↑記念撮影
畑見学が良いお天気に恵まれてほんとうによかったです(^^)

**  

手作りのお昼ご飯解説(^^)

  ↑いちばん上の黄色いのが「卵カンテン」左が「フキノトウの天ぷら」。
その間にある黒いのは★「アケビの甘みそクルミ添え」
※黒く映る食材は昨今不利だけれど、ここでしか食べられない・また食べたい味でした(^^)
↑下「くきたちとカニカマのワサビマヨネーズ和え」その右「ウルイの酢味噌和え」
食材の調達先を奥様(啓子さん)よりおしえていただきました「アケビは庭先から、フキノトウはTOMOOと一緒に野原から集めて保存しておきました。
クルミ・あずき・じんだん用の青豆は精一郎さん(お父様)作です。
三つ葉・ウルイ・くきたちも自家菜園です。」
※「じんだん」とは⇒ネット辞典によると「茹でた枝豆をすりつぶし、砂糖と塩を加えて餡にしたものです。 山形県や宮城県などの南東北一帯や北関東の一部地域に伝わる郷土料理で、地域によっては『ずんだ』」
なるほど(^^)

↑「ぼたもち三種(粒あん・じんだん・黒ゴマ)」
↑訪問する度にいただくこの味(^^)小松の記憶にすっかり刻まれています。
↑笹に包んである「タケノコごはん」※タケノコをこんなふうに料理したい!
「粕漬け」もお手製。

↑粕汁(大根・人参・タケノコ・こんにゃく・豚肉・みつば)

↑「熱々の玉こんにゃく」
+「自家製桃シャーベットのヨーグルトのデザート(カステラ・キュウイ添え)」
飲み物は「桜湯・中国茶・コーヒー」  
↑今朝出発した「瀧波」で出されたプロの調理した芸術的な夕食・朝食と対極にある家庭料理だが、まったく甲乙はない。
どれもが山形の食の恵みだった。


↑母屋すぐ隣の蔵がスタジオになっていて↑ミニライブをやっていただいた(^^)
シンガーソングファーマー須貝さんでなければ歌えない唄(^^)


午後五時、赤湯駅。

土地の魅力とは=人の魅力です!
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南陽スカイパークから赤湯温泉の恵みを知る

2023-04-25 09:39:06 | 国内
米沢盆地を見晴らす南陽スカイパーク(十分一山じゅうぶいちやま482m)からの眺望。
雪山は飯豊山(いいでさん2105m)。
あの向こうは新潟県。
2016年下見に訪れた時に予想した何倍も価値がある訪問になった※2016年4月22日にリンクします
↓AR山ナビのアプリを起動して撮影すると↓すぐに情報が表示された

↑飯森(いいもりやま1595m)のむこうは福島県。

↑山形県HP内置賜地域紹介の頁の地図より引用※元サイトにリンクします
↑地図上「米沢盆地」と表記された楕円の上のほうに「南陽」の文字が見える。
↑その場所から南南西を見晴らしているのである。
↑「南陽」の左にのびた山のふもとに湧き出したのが「赤湯温泉」だったのか
「瀧波」の須藤さんにお連れいただいた朝の「ミステリーツアー」で、景色と共に解説していただいてはじめて理解した。

↑途中で訪れた源泉記念碑↑

朝08:45「瀧波」のミステリーツアースタート

宿の入口の「薬居門」には400年の歴史がある。

みごとな木目。
2011年の地震で、門を閉めてもいちばん下がぴったり合わなくなってしまったのだそうだ。
**
結城豊太郎という人をはじめて知った。

昭和12年から19年まで日本銀行総裁をつとめた人物。
安田善次郎が暗殺された後に請われて安田財閥を率い、東大安田講堂を完成させた。
昭和10年58歳の時、故郷赤湯に彼の蔵書をもとにした臨雲文庫を開設。

臨雲とは米沢藩時代の学者の庵の名前に由来していたのか。

現記念館の入口は江戸薩摩藩邸の表門を臨雲文庫開設時に移築したもの。

西郷隆盛はじめ維新の志士たちがくぐった門を故郷赤湯に移し、結果的にその後の戦火から守った。
その西郷隆盛の書と伝わる「敬天愛人」

記念館は地元の人々の交流の場になっている。

↑この二階の窓からは「烏帽子山」の千本桜が楽しめる時期…の筈だったのだけれど今年の桜は早すぎた(^^;

全国の名木から分けられた木々が集っている。

花盛りの頃に訪れる機会をつくりたい。

****
明治23年に遷座してここに来られた烏帽子山八幡宮

↑明治35年に奉納された日本一大鳥居↑12.7mの横木が一本の凝灰岩からつくられている↓

「烏帽子山」の由来になった巨石が境内に置かれている↓

↑由来は分かっていないが、
もともと崖に刻まれていた大きな摩崖仏の一角が崩れて残ったように見えた↑
神社のある丘の下にも似た碑文?が残っていた。
この疑問に答えてくださる方にお会いするチャンスはあるのだろうか…。

大鳥居を登りきったところにある狛犬が秀逸。

↑台座に奉納した人の名前が刻まれている
「須藤瀧蔵」「須藤なみ」
↓宿泊した「瀧波」の初代夫婦が大正年十年に奉納したものだった。


そして、白竜湖の横をとおり

シーズンが近づくサクランボのネットを見ながら、
冒頭の景色の場所=南陽スカイパークにあがっていった。

最高のお天気に感謝!



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山形座「瀧波」の夕と朝

2023-04-24 20:14:55 | 国内
朝食後、部屋への廊下。
焼杉「浮(う)づくり」床の光溜まり。二階への階段と柱の焼かない木の色が、暗すぎない空間にしている。

きのう行程のさいごに「草岡の大明神桜」を訪れた。

例年なら見頃の筈だったのだが…。

山菜が元気よく育っていた。

**
午後四時半前「瀧波」到着↓

↑「母屋は、今から350年前に上杉藩の山守を務めた大庄屋の曲がり屋を移築したもの。
釘を一本も使わずに太い梁と柱を組み合わせ、
豪雪にも耐えうる力強い構造を持ち合わせている。」
※たいへん詳しくこだわりが解説されているHPより
↑この基本構造が、この場所の魅力の土台である。

チェックインのボールペンはレイズ

↑ウェルカム・ドリンクは「ずんだ豆シェイク」
リンゴのコンフィは不思議な味だった。

客室への途中で↑好きな部屋着をチョイス


↑客室は大正時代の小学校の校舎をリノベーションしたのだそうだ。
廊下の焼杉「浮うづくり」から、明るい桜財の床にかわる。
ワーキングスペースも使いやすそう(^^)

↑一階客室にそれぞれ付属した自然石の露天風呂は、
正真正銘↑地下から湧き上がってきた湯でそのまま満たされているのだそうだ。

気持ち良いです(^^)

ここでしか楽しめないこだわりの夕食※こちらに詳しく書きました
↑リンク中さいごに出てくる釜炊きご飯がおいしすぎて残せない。
🍙おにぎりにしてくださいました。
↓「明日の朝食の卵、どちらがよいですか?」↓

お一人を除き六人が出汁巻きをオーダー。
朝食も楽しみ(^^)

夕食後にロビーの「スワン・チェア」でゆっくり。北欧家具がよく似合います。

***

↑朝食のお品書き↓

手作り味噌のお汁が秀逸

そして、昨夜オーダーしておいた卵が登場したのだが、
なんと生卵と出汁巻きの数が逆にオーダーされていた。
「いそいでつくります。どうぞ両方召し上がってください」

なんと嬉しいことに↑全員が両方をいただけてしまったのでした(^^)

08:45から、須藤さんのご案内で「ミステリーツアー」へ出発する。
今日は最高のお天気だから「南陽スカイパーク」からの眺めもきっと楽しめる(^^)

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紅花「音羽屋」再訪

2023-04-24 15:02:06 | 国内
「このお地蔵様のおかげで、ここでは事故が起きないんですよ」
新野さんが背伸びしてお顔を見せてくれた。
音羽屋を出てすぐ近くにある地蔵様の祭の日だった。

↑「明治四十四年再建立」となっている。
いつから人々を見守ってきたのだろう。


2020年の6月以来の再訪である。
※その日のブログにリンクします

紅花茶を入れてくださった。
紅花は染料としてだけでなく漢方薬として用いられてきた。
「音羽屋」さんでは2020年に「紅花御膳」を出していただいたっけ。
※上のリンク内に写真を載せています。


紅花は夏に咲くので、
4月の今はドライフラワーしかない。

紅色ではなく↑黄色をしている。
色素のうち99%は黄色。

この明るい黄色もとてもきれい(^^)※米沢織をごらんください

すりつぶして発酵させて、鵜梅をつかって化学反応をおこさせて…

↑三千枚の花弁をつかってようやく3グラムほどの「紅餅」ができる。
※こちら「音羽屋」さんのHPに詳しい解説があります
この紅色は他に代えられない赤色。

皇室の行事でも用いられてきた。
戦後に「山形県紅花生産組合連合会」が復興に努力し一定の成功をおさめたが、往時のような隆盛にはいたっていない。
※連合会のHPに経緯が書かれています

すべて自然素材の紅花染料はほんとうに貴重なのに…
買取価格は1㌔で3万円ほどなのだそうだ。

今年の桜はほとんど終わっていたが、この一本を楽しむべき前庭(^^)





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蔵高院の光明海上人

2023-04-24 14:45:55 | 国内
「どうして即身仏なんかになろうとするのだろう?」
ずっと疑問だった。
今回、蔵高院を訪ねてまだ若い住職さんとお話して少しわかった気がした。

これまで企画した《手造》山形の旅では、必ずどこかで即身仏にお会いする機会をつくってきた。
※2016年に瀧水寺、注連寺を訪れた時のブログにリンクします
※2020年に明海上人とそれを護る方々にゆっくりお会いした時のブログにリンクします。

宗教にキビシイ修行はつきものだが、
肉体を極限まで追い詰めるだけでなく「死」までもその目的としてしまうとは、そこにいったいどんな動機があったのだろう。

「弘法大師空海が高野山で永遠に衆生の幸せを祈るために入定されたのにならって…」
そう説明される方がこれまでたくさんあった。
多くの即身仏上人の名前に「海」が入っているのは、
たしかに空海にならってのことだろう。
しかし、それならもっと多くの追従者があってもおかしくない。
もっと日本全国にひろがっていたのではないか。

即身仏は全国に18体しか確認されておらず、
そのほとんどが山形周辺である。
なぜ、東北だったのだろう。
「即身仏はある時期に集中してあらわれています」
光明海上人のお話のなかで解説された。
「ある時期」とは、飢餓が発生した時期なのだそうだ。

飢餓に晒された地方で人々を救いたいと活動する僧が
飢えた人々からの布施・食料で生き延びているという矛盾。
その解決策として考え出されたのが「木喰」ではないか。
自然界から与えられるものだけを食べ、
飢えた人から食べ物をもらったりしない。
その驚異的な意志に手を合わせたくなっただろう。

蔵高院は今は無住になっているが、我々の到着に合わせて待っていてくださった。

戦国時代の天正年間に開基し戦後までも多くの人々に支えられてきた寺だとわかる。

嘉永7年(1854)に光明海上人が入定したという場所はずっと伝承されていた。
昭和52年の村おこし会議の結果、発掘することになった。
翌年、伝承通りに見つかったが、その時はバラバラの骨がちらばっている状態になっていた。

その塚の写真↑

遺言通りに永久保存するため、新潟大学で一年かけて処置。
絹糸で座像に形成され、安置されている。

**

ご本尊の素朴な地蔵様は写真で見ただけだが↑魅力的。
背中に刀傷があるそうで、何かの身代わりになって切られたという伝承があるのだそうだ。
お会いできる機会がありますかしらん(^^)






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