旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

不法占拠住宅に囲まれたパチャカマック遺跡

2015-05-27 14:11:05 | ペルー
今夜飛行機に乗るので午前中はゆっくり休憩。正午少し前にホテルを出発した。
高級住宅地のミラフローレス地区南へ三十分も走ると、砂漠の斜面に折り重なるように建てられた家が見えてくる近づくとこんなこれは、砂漠の土地に勝手に住みだした「不法占拠住宅」である。

1980年代ガルシア政権下、強烈なインフレと治安の悪化で地方からリマへ流入する人々が増え続け、都市の周辺にこういった不法住宅をつくりはじめた。それは彼らにとってやむを得ない選択であり、長期化して1990年代フジモリ政権下では既成事実になってしまっていた。
フジモリ大統領は、こういった人々をなんとか本物の市民にしてゆく方法が必要であると考え、「五年間住んだ土地は自分の物になる」という法律をつくった。

今では、その法律を逆手にとって、本当の難民でない人々も「五年住めばもらえる」として、強引に敢えてこういう手法をとるようになってきた。資本家が貧しい人々を手先につかっているケースもあるという。

海岸からすぐの砂漠地帯、地盤がしっかりしていない場所にもこんな家がひしめいている。
砂漠の一番上にも家々があるのにご注目ください。

すぐとなりにはセメント工場があって、砂を採掘している。
それが今日明日でなくても、崩落が起きるのは時間の問題ではないのか。

セメント工場は地盤の強化のために植林をしている?
いえ、これは、周囲の住民に「これ以上はいってくるな」という意志表示をしているのだ

**
あっけにとられているうちに、ちょっと秘密のレストランに到着
ここはスペイン伝来の馬のショーを見せてくれる。どんなものかイメージがわかないだろう。写真があるこういう馬に乗った二人や一人が騎乗でもうひとりが地面でというケースもある。コンテストも行われる人気の乗馬スタイルなのだそうだ。食事のあとに十分ほどだが実演してくれた。

メニューはパスタ。これが期待をはるかに超えた美味しさ!これならイタリアでだって流行るでしょう(^^)前菜にはカウサというイモとトウモロコシとアボカドなどいれるマヨネーズあえのケーキ

***さて、食後はすぐちかくの広大な都市遺跡パチャカマックを訪れよう。ここにはピラミッドが発掘されている神に仕える美しい少女(アクリャ)たちが布を織りながら暮らしていたとされる「アクリャワシ」がある古代ローマの「ヴェスタの巫女」にも似たシステムだとされるが、その一方で売春宿説もある。

石積みの参道が続く

ここは何世紀にもわたっていくつものピラミッドが道営されてきたところで、まだまだ発掘途上。なにか大事なものが発見されると、こんなふうに屋根をかけてこつこつ秘密裏に掘り進められてゆくここからは何が見つかっているのだろう?

インカの信じる太陽の神殿は遠くからでも真っ赤に見えていただろう。その赤い漆喰のなごりが見られる

ピラミッドの斜面をあがってゆくと…

おお、海がみえた!ペルーは大西洋岸からすぐに砂漠になっている、日本では想像できないような場所。
我々も日本人らしく、今いる場所がこんなに海が近いことを忘れていた。

★この島の伝説は、また別のところに書きます。

眼下には小さなプライベートの闘牛場も見える

パチャカマックの神殿はスペイン人により放火され略奪されてその歴史を終えた。今でも黒く焼かれた跡がのこっている。


ここへ来る途中でたくさんみてきた不法占拠住宅が、遺跡のすぐ横まで押し寄せているのがわかる。パチャカマック遺跡は広大な遺跡にもかかわらず、道路や海に面している方向の他は、不法占拠住宅にかこまれてしまっているのだ。
いや、よく考えてみれば、この不法占拠住宅の下にも確実に遺跡はある。発掘地として指定されたところぎりぎりまで押し寄せているだけのことである。おそるべし、不法占拠住宅。

入口に新しい遺跡の看板を建設しているところに出会った。ここはペルーの学校が校外学習に訪れはするが、その面白さほどには旅行客が訪れていない場所。トイレもレストランもあまり整備されていなかったのが、その理由のひとつだろうが、次に来る時にはずいぶん変身しているにちがいない


****リマへ戻る

渋滞緩和のために、トラムでも走らせているのかと思ったら、やってきたのは普通のバス専用レーンもこういうふうに保護しないとダメなんですね。

信号で止まると、その一分にも満たない時間に大道芸をやる若者が飛び出してくる。けっこうチップあげているドライバーたち。


バイクに乗った警官が、少し先にいた女性警官を呼んでいた。なにをするのかと見ていたら、やってきた女性警官に持っていたコーラを渡したのだったこれがこちらでは許される姿なのです。

観光バスが必ず止まる「恋人たちの公園」へ

最後に、日本人女性の経営するお土産屋さんにも寄る。事前に電話して、「世界三大フルーツ」のひとつとされているチリモーヤを用意してもらった。アイスクリームのような甘さ。熟したアボカドのようにすくってたべる

ショッピングモールも少し寄る
今回の旅で、ペルーはフルーツ王国なのを実感した。チリモーヤもありました

ペルーは砂漠からアンデス、アマゾンまで、自然景観は多様。
資源にも食にも恵まれた国だということが、今回の旅でよくわかった。

最後に、今回の旅を裏方でしっかり支えてくれた現地駐在のK氏にごあいさついただきました彼は小松のヨーロッパ企画から担当してくれていた。この信頼関係があったからこそ、はじめてのペルーを企画しようという気になったのであります。ほんとうに、ありがとうございました。
2016年、まだこれからですが、催行するならばもうそろそろ取かからなくてはなりません。よろしくお願いいたします。
ひとつひとつ、一生モノの旅をつくるには、造り手も、そして旅していただく皆様にも、じっくりと用意する時間が必要なのだと考えています<m(__)m>御希望あれば早めにお知らせください。半年前でももう、マチュピチュ遺跡すぐそばのサンクチュアリーロッジは空きがないかもしれません。

*****
空港で、ペルーで毎日飲んだおいしいチチャ・モラーダの瓶ジュースがあったこのラベルの絵にあるように、紫トウモロコシとパイナップル、リンゴを入れて煮立てたもの。日本では飲めないけれど、日本にはいってきたらきっとウケるおいしさです。

******
帰国二日目、おひとりのかたが、ペルーを思い出してつくったという料理の写真を送ってくださった。

チキン、ポテト、ペルーで買ったソース各種、ワイン、そしてさっきのチチャ・モラーダ・ジュース。

こんな風に旅を楽しんでいただけているのは、旅の造り手として冥利に尽きます(^^)/
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チチカカ湖の浮島ウロスへ

2015-05-26 15:16:55 | ペルー
チチカカ湖の夜明け

小学校のころに世界の図鑑で見ていたのを覚えている。その湖が目の前にひろがっているなんて

プーノの街はずれのホテルから街に入り港にはたくさんの観光客用のボートがお待ちかね
ぎっしり乗れば三十人ぐらいは可能なボートに我々十二人で乗り込む。船は葦=トトラの繁浅い湖をゆっくりすすむ

プーノに住むガイド、エドガーさんが湖についていろいろ話してくれる※西部劇の悪役が似合いそうな容貌だが良いガイドさんです(笑)
★チチカカ湖は琵琶湖の十二倍の大きさを持つ
北西部60%がペルー領、南東部40%がボリビア領。
国境は三か所で、湖の北岸コニマが密輸の巣窟(と、話していた)
最深部はボリビア側の北岸近くにあり284m※季節により深さは変わる
☆流れ込んでいる川は五本でそのうちの一本は0.1%ほどの塩分を含んでいる
※島の人がみな太りすぎているのはそのせいだ(と、話していた)
住んでいる魚は主に五種ほど~ます、カラチ(写真後出)など

世界的に見てもかなりユニークな暮らし方をしている浮島ウロスの人たちは、一番古い時代から住んでいたウロ族の末裔かとも言われるが、紀元前にやってきた遊牧民族がすみ始めたという説を話してくれた。

しかし、どんな民族でもトトラを使用した島を最初から作って住んだりはしない。
最初はトトラで船をつくり漁をする。湖の上の方が安全である事を最大限に利用する生活をするために、島をつくりはじめる。
最大の契機は、インカ帝国が支配を広げてきた1460年頃、覇権に異を唱える彼らは本格的に浮島に移住した。
これ以前の彼らは、ほんとうにひょっこりひょうたん島のように、湖のどこにも移動していけるスタイルだったようだ。

浮島は現在八七もあり、観光船がそれぞれどこを訪れるべきかは、住民組合がボートに指示するのだそうだ。
そろそろお迎えであります。



これが、トトラエジプトのパピルスにも似ている。白い部分は剥いて食べることが出来る
お土産品鮮やかな色は現代の絵の具による。

魚は五種類捕れる。カラチというのがこれ水鳥は塩漬けにして保存する

島には多くの場合家族がいくつか住んで、リーダーがいる。ここでは地図を持っている右手の旦那ガイドのエドガーさんと彼は地元のアイマラ語で会話している。
アイマラ語で
「こんにちは=カミサラキ(ラにアクセント)」
へんじは「ウォワリキ(リにアクセント)」

はじめはトトラを重ねていくだけの構造だった島だが、現代ではトトラの根っこの部分をそのからめている土の部分ごと切ってきて土台に利用するのだそうだ巨大なのこぎりで切ってきた土台をロープで結び合わせ(現代ではナイロンロープを使っている)、その上にトトラを積み重ねていく。

女性たちが織り上げたウロスの暮らしを主題にした織物

トトラ船に乗ってみないか?次に幼稚園に行けるようにお願いしているので、そこまでお願いすることにした。ひとりUS4ドルにて漕ぎ手は女性二人。


20分ほどで到着したのは幼稚園の島。

毎朝9時半スタートなので、ちょうど今頃の時間に次々に送られてきている。
観光客には慣れていてものおじしない学校というのは、いつもその社会の縮図である。短い時間だがこいう見学を入れておくと、よりこの世界が理解できる。

もってきたお土産は地球儀の形をしたサッカーボール!さぁ、ハポン(日本)はドンデ?(どこ?)
手回し式の鉛筆削りがアリアナ先生に好評「ちょうどほしかったんです」という雰囲気がつたわってくる。でも、キティちゃんもすき
「さくらさくら」の歌をうたってあげると、お返しに「チューリップ」なんかうたってくれました。



彼らがいつからここに住んでいるのか訊ねてみると、「1986年のエル・ニニョーからだ」と、意外な答えが返ってきた。
「ここ」はプーノの町の近くにある湾で、水深は深くても10メートルほどしかない。トトラもたくさんある、いわば守られた場所。今はここから島がながれてしまわないように、つなぎとめて「定住」しているが、1986年以前は湾の外に暮らして、ほんとうの浮き草暮らしをしていたのだそうだ。

完全浮き草暮らしでは、現代的な家屋や、社会サービスは受けられなくなる。幼稚園の現代的な建物もまだ十年経っていない。ソーラーパネルで電気まで使えるようになっている。ウロスの暮らしは三十年でこのように変わったのだった。観光客というのは、ついつい「ずうっと何百年もこんな風にせいかつしてきたのね」と思いがちだが、きいてみなければ、真実はわからないものだ。

**二時間ほどのウロス訪問だったがここまで来た価値があった。
フリアカの空港まで一時間少し。右手にまだチチカカ湖が見える

フリアカの空港はインカ・マンコ・カパックという初代インカ王の名前がつけられ、金色の銅像が建てられている

飛行機は三十分ほどでクスコに止まり、そののちリマまで

***ここ二日間空気の薄いところへ泊まっていたらさすがに疲れてきていたのだろう、機内ではぐったりぐっすり。リマの空気は濃く感じる血中酸素濃度はすぐに98%に戻っていた

****リマのミラフローレス地区のホテルにチェックイン
前回行ったパンチータがおいしかったので、また歩いて行く。今日は前回見送ったおいしそうなサラダバーをいただきます。キヌアなどここまで一週間旅してきたからこそ分かる食材・野菜
こちらはティラディート、カルパッチョのようなものでセビーチェとは違う調理の魚料理。 国民食とも言えそうなチキン丸焼きをたのんだらさすが一流店、こうして上手に切りわけてくれた

・・・明日はいよいよ最終日。夜の飛行機でNY経由帰国になるから、ゆっくり休んでおきましょう(^_-)
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クスコからチチカカ湖畔の街プーノへ(後半)

2015-05-25 12:43:18 | ペルー
チュカクペの街を出る。
また、選挙の政党シンボル。このKEIKOというのは、あのフジモリ元大統領の娘さん、来年2016年の大統領選挙に立候補しているのだ

フジモリ元大統領は現在軍関係の施設で拘束されているとのこと。1990年代からペルーの国際的信頼に確実に貢献した人物だけに、現代の状況はとても残念。娘のKEIKOさんが大統領になれば状況も変わるに違いない。

**本日のルートでいちばん規模の大きいラクチ遺跡に到着。「巨大な壁」だけだときかされていたが、たしかにそうみえる

しかし、よく説明してもらって歩いているうちに、これはけっこう大切な都市遺跡なのだと思われてきた。

ここはもともとウィラコチャという太陽の神が祀られていた場所を中心とした二千人の人口を持つ町だったと推察されている。この壁はもともと神殿で、復元図はこのようなもの

これをみると、一見井戸のように見えるものが柱の土台であったことがわかる

復元されている地域は人口のうちの10%を占めていた貴族階級の住む場所か

整然と大きな住居が続いている

建物もそうだが、人工の池をつくって水を効率的に流しているのもたいしたもの



円筒形の建物は倉庫

湿気が隅にこもるのを防ぐためにこの形状をしている。屋根はハーブの一種の植物で防虫効果があったそうな。

スペイン人により火をつけられ廃墟となり

その石材を使って建設されたのが、この教会である↓


お土産を売る店もたくさんある。このインカの世界観を集約したデザインの皿は木製のものと陶器のものがある


**もともと住民たちはこんな住居に住んでいた


***サン・ペドロ村の次に、サン・パブロ村があり、そこにヴィクーニャを飼っているいるお店がある。
「ラ・ヴィクニータ」

で場所を借りて、クスコからもってきた日本食のお弁当をあけましょう

日系人がつくっているというだけあって、クスコでこれだけのおにぎりが食べられるなら感謝感激

中庭ではヴィクーニャがもくもくと草を食んでいる。ちかづくと、いかにもラクダ科という顔をあげてこちらを見た。


****ラ・ラヤ峠



標高が4300m越える、高山病の気のある方はあんまりうれしくない、血中酸素濃度74%はちとあぶない




クスコ県とプーノ圏の境目。
民族的に違う、ケチュア語とアイマラ語を使う人々の境界線でもあったが、インカの征服後はプーノ方面でもケチュア語を使う人々はたくさん住むようになった。

今日のガイドのエドガーさんは、この二つの民族の混血。そういう人たちはこの地域にはたくさん居り、彼らのことを「チョロ」と呼ぶのだとおしえてくれた。彼らなりの仲間意識があるようだ。
これはスペイン人と先住民の混血を「メスティソ」と呼び、その初期には蔑称の響きがあったのとは違うようだ。
あまりにも部外者の我々日本人にはそう簡単に理解できない。

エドガーさんによる、ケチュア族とアイマラ族の違い。
●ケチュア族は
背が低く丸い顔
一神教で生まれ変わりを信じる
●アイマラ族は
背が高く細長い顔
多神教で死後の世界を信じる

神話では、インカ帝国の初代皇帝マンコカパックはチチカカ湖で太陽神インティから太陽の島へ降り立ち、妹で妃のママオクリョと共にクスコへやってきて12世紀にインカ帝国を開いたとされている。

エドガーさん曰く、「多神教となっていたチチカカ湖エリアから、太陽神への一神教の国をつくるべく出奔したのがこの神話になったのだろう。いわば宗教改革だったわけです」とのこと。
ふうむ、こういう解説は日本語ガイドさんの口からは決して聞けない。欧米人には興味深くきかれる主題だが。

午後三時近くになり、少し空模様がかわってきた

バスではペルーのいろいろな植物を説明してくれる。紫トウモロコシ


●アヤヴィリという羊料理が有名な村、この周辺にはやたら野良犬が多い※飼われている犬でもはなされているから、一見どうなのか区別がつかないのだが。
それは、羊の骨をあてにしているからだそうな。
休憩の店で

ペルーでは猫はあまり多くない。犬の方が市民権を得ている感じ。堂々と


リャマは荷物運搬に

アルパカは毛をとる。

これは家庭から廃品を買い集めている業者


雨が上がり、遠くに白く輝く雪山が見えた。「あぁ、あれはもうボリビアの山ですよ」


夕暮れてきて、フリアカの街にはいってくる

ここは近年急速に発展している街だが、その経済の80%は闇経済だそうな。建築中の家がほとんどなのには理由がある。完成していなければ、税金は20%ほどですむからなのだ。永遠に完成させる気がない家々。
ボリビア方面からの密輸がとても多いから、一般の車もよく止められて運搬物をけんさされていた。
巨大な高速道路が建設中

人工は22万を超えている。街中で求人広告を見入る人たち

それにしても、なんだかアブナイ感じのする町だ、フリアカ。

***すっかり暗くなったのだが、プーノへいくまえに、エドガーさんの友人農家を訪問させてくれるという。雨も降るしちょっと遅すぎたタイミングだったとおもったが、これがペルーの一般の人々の暮らしなのか

燃やすための糞の肥料

家で内職してつくったリャマの人形など

こうして現金収入を確保するのか


午後七時少し前、ようやくチチカカ湖畔のホテルに到着。
部屋からのチチカカ湖夜景

レストランで、アラカルトの夕食。なかなかこじゃれて、これはフレンチ風のオニオン・スープ


高山病の症状のきつい方には、ホテルに用意してある酸素ボンベを支給。酸素を吸うのは効果があるようですが、長く吸いすぎると、滞在中手放せなくなってしまい、身体を慣らすことが出来なくなるので要注意。

・・・明日はいよいよ浮島ウロスの見学だ。
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クスコからチチカカ湖畔の街プーノへ(前半)

2015-05-25 12:16:29 | ペルー
クスコ3400mから標高4300mのラ・ラヤ峠を越えてチチカカ湖畔の街プーノ3800mへ向かう、今回の行程で最も高所を走る一日。距離は380㎞ほどだが、今日は途中の村々を見学しながら向かうので十時間以上にはなるだろう。

クスコの街、駅が前方左手にある

クスコからプーノまでは鉄道も走っている。ラ・ラヤ峠はチベットの青海鉄道ができるまでは世界で最も標高の高い場所を走る旅客線だった。バスで走る道と並走する場所も多いが、途中にいろいろ見学する事ができないのが難点。

*街の角々でこんな飲み物を売っている
売っているのはトウモロコシを発酵させたお酒チチャ。お酒といってもごく軽いものなので、誰もがさっと飲んでいく習慣になっているのだそうだ。

●オロペサの町はチュタとよばれる巨大なパンで有名。
このあたりで良質な小麦がとれることからパンがつくられるようになったそうな。バスが何台も停車している店の前で、こんな包みが転がしてあったが、中身はパン!

「TANTA WASI」とは「パンの焼き釜」という意味

窯の中は二メートル×二メートルもある。大きいというのは…このぐらい大きい

上に薄く甘味が塗ってあるが、そんなのはなくても充分おいしい。
焼き立てを買ってバスで少しずつ分け合ったあとも、手元においてあった小松はついつい食べていた(食いしん坊なだけ(笑))。

ワカルパイ湖をすぎ

道端に大きな門?の跡が見えた

これは、インカ時代の四つの行政区タワンティン(四つの)スーユ(地域)を区切っていた場所だったとのこと。
後日調べてみると、インカ以前のワリ文化時代には水道橋として使われていたルミコルカ遺跡と理解。

谷間に雲が溜まった場所にさしかかる。いや、これは煙だ。
●ピキヤクタ村は昔からレンガを焼いている場所だそうな。

町全体にたまった煙の中で生活してゆくのはたいへんだろう。

●アンダーワイリーリャスはスペイン時代に建設された教会が美しいということで、この路線をゆく観光バスが必ずストップする場所になっている。確かに端正につくられた入口

撮影禁止の内部もフレスコ画やカンバス画がたくさんある。いろいろ解説はあるが、どれもわりに稚屈な印象。スペインのマイスターたちを一生懸命まねた感じ。一枚だけムリーリョのホンモノがあった。

内部の装飾にはそれほど感銘をうけなかった小松だが、出てきてバスに乗る前にふとみると、インカ時代の石組みが建物に組み込まれて残っている↓

ううむ、こちらの方がおもしろい。

各種トウモロコシが屋根に干されている

●ウルコスの町の中心広場にある像は、18世紀に起きた対スペイン反乱の主導者トゥパク・アマル二世の像である。

北米でアメリカがイギリスからの独立を達成したのを知ったのが、彼が蜂起を決めた一つの要因だったとされている。

1779年にスペイン本国が植民地に対する税金を上げたのをきっかけにして、ホセ・ガブリエル・コンドルカルキは反乱をスタートさせ、インカ最後の皇帝トゥパク・アマルを名乗ったのだ。
1781年の四月につかまって、まず家族18名が殺されるのを見せられてから彼自身も四つ裂きの刑に処された。

**
田舎の家々の壁に、同じ絵がたくさん描かれているを見る。これって何?何故?





これは、なんと、選挙の時の政党のトレードマークなのだそうだ。
まだまだ読み書きの出来ない人も多いので、選挙の時には支持する政党のマークのところをチェックするのが投票の意志表示となっている。なので、トレードマークを覚えてもらう事が重要になる。

●チュカクペには、新旧三つの橋が並んでかかっている場所がある。
あまり詳しく書かれたガイドブックはなかったが、今日見た中でいちばんおもしろい訪問地だった。



これについてもう少し⇒こちらに書きました。
さらに、前述のアンダーワイリリャスと似たスペイン時代の教会もある。

内部は一見地味だが、見ごたえはこちらの方があると思う。はっきりと逸品だと感じる説教台

そして、壁の一部分をこうしてはがしてインカ時代の石組みが見られるようにしてあるのが良い。

インカの神殿の石組みの上に、たぶん最初の教会を建設する時に使ったフレスコ画の跡。さらに、新しい時代(18世紀末ごろか?)に分厚くしっくいが塗られて、今見るようなフレスコ画が描かれたのだとわかる。
全体はこんな感じ
観光バスは我々だけだったが、価値ある訪問になった。

教会前の広場で我々のドライバーがチチャを飲んでいたので、ちょっと味見させてもらった。
健康的な甘さ…そうだ、日本の甘酒を思い出した

トウモロコシというかんじはしないなぁ、と言うと「このあたりではキヌアをつかうんだよ」とガイドさんがおしえてくれた。キヌアとは、稗のような穀物である。
甘酒という感想もあながち間違ってはいなかった。

・・・後半に続く
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「インカ橋」を見てからクスコへもどる

2015-05-24 22:45:20 | ペルー
ワイナピチュ登山からマチュピチュ遺跡にもどり、サンクチュアリー・ロッジでゆっくりしていたかたと待ち合わせて「インカ橋」まで行く予定にしていた。携帯で連絡をとりあって、「インカ橋」への入り口チェックポイントで合流橋がかかっている道もまたかつてのインカ帝国全土5万㌔以上にはりめぐらされたという「インカ道」のひとつである。崖にへばりつくような道が続いている。


マチュピチュ山の右側へ回り込むようにして続く道からは谷の水力発電所が見えた

この発電所の見えている裏側にあった村は近年の大雨・洪水で流されてしまったそうな

そして、これがその橋。見えました?⇒



インカ帝国は現在のペルーよりも広い領土をもっていた。征服した地域の支配を確実にするためには確実な伝達機能が不可欠。全国に張り巡らされた「インカ道」は五万㌔にもおよぶという。
地形も気候ものりこえて、こんな道を建造していたのはすごい。

こういう道をつかって飛脚制度が機能しており、クスコ⇔リマ間を三日で結んでいたとされている。クスコ⇔リマは飛行機でも一時間かかる距離なのに。

**
全員でゆっくりサンクチュアリーロッジに戻ると、正午少し前となった。予定通り。
実は、きのうチェックインした際にホテルの階段で滑って近くのクリニックからお医者さんにきてもらっていた方があった。ホテルを離れるタイミングで、もういちどホテルがドクターを呼んでくれていたのは、さすがサンクチュアリー・ロッジであります。マチュピチュ遺跡の入り口わきの道をはいってすぐにこのクリニック、近くて便利

ホテル目の前から出発する乗合バスでマチュピチュ村へ降りるかつて「グッバイボーイ」というのが出現していた道だが、少年は学校へ行くことになり、もう現れません。※何のことか分からないかたは「グッバイボーイ、マチュピチュ」で検索してみてください。

村はかつて「アグアカリエンテス(熱い水)」という名前だったが、今はマチュピチュ村と名前を変えた。
この温泉というのは、実は日系人の村長が開発したというのを「世界不思議発見」でやっていた。
日本からの移民は1899年に第一回がはじまり1923年の廃止までに一万七千人が渡航したとされている。彼らの勤勉さはそこから多くのリーダーを輩出し、そのなかの一人がこの町をつくり、日系人大統領も実現させたのか。
民族を越えて信頼を得て、異国でのリーダーになりえたという先人に敬意を払います。

村の広場ここに面して市庁舎がある。中を見てみたかったが、今日は日曜日で残念。

広場の道の名前にはインカ皇帝
スペイン時代の教会ももちろん、ある。

昼食はごく軽くカフェで、と話したら、こんな店を勧めてくれたオーナーがフランス人なのだとか。たしかにおいしいです

オリャンタイタンボまで、今日はインカレールにて
往路とちがって青空、雪山も見える
オリャンタイタンボ到着。今日は村祭りで町の方へバスが入れないとのこと。ごったがえす観光客はウルバンバ川方向へ誘導され、観光バスもそちらへやってきた

おととい通った峠をあがってゆき、オリャンタイタンボを見下ろす標高3800mのチンチェロ村をとおりそろそろ日が暮れるころ標高3400mのクスコに到着した今回の旅、今日のクスコと明日のプーノが三千メートルを超える宿泊地なので高山病の注意が必要になる。

今日の宿泊はドメニコ修道院=インカ神殿コリカンチャ跡のすぐまえに位置しているホテル。ライトアップ
夕食は徒歩で近くのポジェリア(ポッジョ=鶏肉をたべさせてくれるところをそう呼びます)へ。ツーリスト向けでなく、ごくふつうのクスコの人が行くお店へトリもおいしかったけれどアンティクーチョ=串肉もやはりたべたい

ホテルへの帰路にある立派な建物は裁判所

遅くまで開いていたスーパーでこんなものをお土産に買われた方があり、ひとついただきました。
ずしっと重たい300g。チョコレートかと思ったらそうではなく、ホットチョコレートをつくるためのノンシュガー材料なのだそうです。
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