旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

シャモニーからモンタンヴェール鉄道で氷河の洞窟へ

2021-09-30 06:48:28 | フランス
2005年フランス・アルプスの旅より
シャモニーから百年前1909年に出来た登山鉄道で氷河洞窟に行くことができる。

メール・ド・グラース氷河(見出し画像)の一部に人工的に開けられた穴へ

標高約千メートルのシャモニーから列車の終点標高千九百メートルまでたった二十分で登ってくる。

↑シャモニーの谷

百年前はこの駅を下りればすぐ近くに氷河が迫っていたのだが…

いまや氷河は遥か下↑

こんなゴンドラを使って降りてゆかなくてならない

地球温暖化?ほんとうに氷河はすごい速度で縮んでいると実感

氷の洞窟の入口までまだまだ…


↑ようやく穴が見えてきた

ブルーシートをかけて少しでも溶けるのを遅くしようとしている?

この氷の中へはいると

外の光が透けて青い世界がひろがった(^.^)
それにしてもすごい数の観光客がどんどんやってくる。
それもまた氷河の溶ける一因になっていたりするかも…なんて思うほど

あの階段をまた登って、鉄道駅までもどるゴンドラに乗らなくてはならない…




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イタリア側からシャモニーへ、ロープウェイを乗り継いで

2021-09-26 15:58:14 | フランス
2005、2010年イタリアとフランスの旅より
標高3842mのエギーユ・ドゥ・ミディ駅からの眺望。モンブラン山頂が近いがこれは逆のグランド・ジョラス方向への眺め

ここから出発して「白い谷」の氷河トレッキングへ向かう人々。
イタリアとフランス隔てるメール・ド・グラース氷河の上をこんな感じで歩いているのだ
※AFP通信のニュースページとびます

2010年にイタリア側から氷河の上をロープウェイで渡ることができた。

イタリア側アオスタの谷にあるモンブランロープウェイの乗り場↑
↑当然イタリア語で「モンテ・ビアンコ」と表記されている。

↑左下がイタリア側アオスタの谷、いちばん上がヨーロッパ最高峰モンブラン(=モンテビアンコ)4810m、右下がフランス領シャモニー。上から右下へ流れているメール・ド・グラース氷河の上に突き出したエギーユ(針)展望台が画かれている↑

冒頭の写真を撮影したエギーユ・ドゥ・ミディ展望台↑名前の通り(ミディ=正午のエギーユ=針)のモニュメントが山頂にそびえている。


イタリア側の駅はごく小さく、そこから乗るロープウェイも↑小さい。1955年建設から改修はされたのだろうが。

二十六人乗り↑

乗換えて

↑次も三十人乗り

二つめの乗換リフジオ・トリノは標高3329m

さらに高みをめざす!

イタリア側最後の地点プンタ・エルブロンネル標高約3500m

いよいよメール・ド・グラース氷河の上を渡るゴンドラへ

↑右下、イタリア語で「トイレはありません」の表記(^.^)

フランス側のゴンドラはうって変って新しい。三つでひとつのグループとなっている↑

雲の中をぬけてゆくと

突然、氷河の上を渡っている自分に気付いた↑

↑深いクレバスがいくつも口を開けている

↑流れ下る氷河


エギーユ・ドゥ・ミディ駅に到着

岩をくりぬいた道を抜け

氷の穴を抜けると屋外の展望台に出られる。上のモンブランの頂上が見える展望台にあがろう。



↓あそこが頂上の展望台。

エギーユからはモンブランの頂上が近くに見える。


今度はフランスのシャモニー側に降りるロープウェイへ

乗り継いで降りてゆく


かなり行列(^.^)

↑シャモニー村が横たわる谷が見えてきた。

↑シャモニー駅到着!
バスはトンネルをつかってフランス側に抜け、駐車場で待っていてくれました(^.^)


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嵯峨下見

2021-09-19 22:09:36 | 国内
嵯峨には以前から気になっていた螺鈿の店がある。

10月に催行する亀岡祭の旅で、保津川下り船は嵯峨嵐山に着く。絶好の機会。電話して見学させていただいた。

虹色に輝くアワビ貝を千鳥のカタチに切って塗りの中に埋め込んである↑※下は切り抜いたあとの貝
HPで見るより実際に材料に触れてみると軽く、素人でも、それほど力がなくてもセンス次第で楽しめると思った。
当日、楽しみにしております。

↑ぐい吞みの底に螺鈿の鮎が泳いでいる

↑花が散っている↑酒を注いだ時に風情がありそうだ。

↑こちらは店主の娘さんがデザインしたもの↑従来の茶道や香道の道具にとらわれない作品(^^)



すぐ近くの清凉寺の山門が青空に映える。

螺鈿のお店は門前通りだったのか。

山門をくぐると、山を借景にした本堂が堂々とそびえている。

ここには↑十世紀にインドからもたらされた?とされる釈迦三十七才の姿を写し取ったという像がある(国宝)。昭和二十八年になって内部から一千年前の絹製内臓模型が発見され、「生身のお釈迦様」と呼ばれるようになったのだそうだ。
10月は秋の御開帳でこれらが見学できる時期。本番でじっくり対面してみたい。

↓こちら経堂

**


「もうひとつの『念仏寺』がありますよ、小松さん気に入るとおもいます」と、

愛宕念仏寺(おだぎねんぶつじ)に連れて行ってくださった。数えきれない羅漢像が苔むしている。

調べてみると、八世紀建立の場所だが何度も荒廃・復興を繰り返した歴史がある。現在みられる姿は昭和三十年代から西村公朝という彫刻家の僧が住職となって実現した。この人がいなければこの地の復興はなかっただろう。

※こちらにその歴史が載せられています
↑ウォークマンを持つ羅漢まで居る(^^) 昭和五十四年の初代ウォークマンのカタチをしている↑(^^)※こちらにそのウォークマンの歴史がSONYのHPにて載せられています
参拝者たちが削ったという羅漢たちは昭和五十五年から本格化している。なるほど、時代が符合した。

↑こちらは地蔵堂
本堂は鎌倉時代中期の再建で重要文化財になっているそうだが、かなり新しい手が入っている雰囲気で魅力を感じなかった。モノの本質的価値に「文化財指定」「国宝」など意味はない。それよりも、西村公朝という人物の情熱が感じられることが、この場所をおもしろく・魅力的にしている。

↑本堂内で小松の目を惹いたのはこの象(笑)
***

大覚寺も訪問地の候補にと思って入口まで行った。内部を見学し始めると「宿題」をたくさんもらいそうなのでやめておいた。本番でここへ入るか、検討します。

↑このちいさな石橋、風情があります(^^)


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2003年ウルル(=エアーズロック)

2021-09-13 13:14:09 | オーストラリア
2003年オーストラリアの旅より
↑夕暮れと↓朝焼け

「登山禁止」「この登山危険です、何人も墜落死した人がいます」と、2003年にも看板はあったが↓

2019年10月に「先住民の聖地である」という理由で全面登攀禁止になってしまうとは、当時予想していなかった。

宗教上の理由よりも、その日暑くなりすぎて登攀禁止になるのが心配だった。

だから、真夏の二月には、夜明け前にはホテルを出る。

↑登攀口はここ一か所※この写真は前日の夕方撮影↑
高さ340mもの砂岩の一枚岩。周囲9.4㎞のいびつな楕円。
容易に想像できるが、最初の縁をのぼりきるまでがいちばんキツイ。
登攀口から見える「チキンロック(弱虫岩)」と通称されるあたりまでは鎖がついていない登り。
ここまでで自分の体力を悟って引き返すひとも多いのだそうな。
そこからさらに急な登りとなり鎖が張られている。

↑ようやくそのポイントを超えて、ほっとしております(^^)

ある程度のぼってしまえばあとは平たい道だから、と言われていたがそこそこのアップダウンが続く↑うねる岩のむこうに小さく人が写っているのに注意↑登山路といっても柵などない。ふらついて倒れれば頭を打って急な岩を転がり落ちることになりかねない。救護施設や避難小屋なども一切ない。ぱっと見よりも危険な登山だということがわかった。

眺望はすばらしい。ウルルが奇跡のように草原に残された岩だ体感する。
地表に出ている部分は全体の一割にすぎないという説もあり、どのぐらいの大きさか分かっていない。
30㎞ほど離れたカタ・ジュタ(=マウント・オルガ)↓が見えた。
ウルルはあそこと地下でつながっている岩だという話もあった。
いったいどうなっているのかしらん?

岩の表面ははげしい寒暖の差のせいか荒れている。
今日の我々、午前八時台から二時間の登山タイムをとっているが、すでにぐんぐん気温があがって暑い!

頂上はいずこ?
円筒形のドラム缶みたいなモニュメントが置かれているだけなのだが、そこまでたどり着けるか…

小松は登山希望の方々全員を送り出して最後に出発したので時間が足りず、頂上モニュメントが遠望できる場所まで来て引き返した。無理せず引き返す勇気は大事。もうすぐそこまで来ていたので逆にそれほど残念でもない(^^)。

午前10時少し前、グループメンバーの最後として登山口に最後にもどってくると、暑くなりすぎて登攀は禁止となっていた。
観光シーズンの夏でも、登攀OKになる可能性は半分ぐらいだったそうだ。



国立公園指定地域のゲートを出る。日付と名前の書かれた「エアーズロック・達成証明書」↓が配られた↓

**
今はこの中にはホテルなどないが、1950年代にはウルルの北側すぐのところに飛行場が建設され、絶景の場所にホテルがあった。
1985年に先住民に「返還」され、国立公園エリアからキャンプ施設やホテルが一掃。
宿泊できる場所は1992年にユララ・リゾート一か所に集められている。

追記
このエリアはハエがとても多い。
白人たちの農場のハエがひろがったのだときいた。

ツバの部分からハエよけがぶらさがったカウボーイハットが有名だが、こんな「顔ネット」も売っている↑

「使わないときはこんなふうに帽子に巻けばおしゃれです」とガイドさんが見本をみせてくれた(^^)

追記2
夜、「スタートーク」という星空ツアーがあった。
世界中で見てきた夜空だが、あれほど「饒舌」を感じた時はなかった。
「うるさい」ほどの星のまたたきだった。



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2003年 カタジュタ(=マウント・オルガ)

2021-09-10 15:24:28 | オーストラリア
2003オーストラリアの旅より

ウルル(=エアーズロック)から30㎞ほど離れて、草原に巨岩の山々がそびえている。
有名なのはウルルだが、カタジュタの方が大きい。20㎞以上にわたり合計三十六の巨大な岩山がごろごろ続く。

「カタ・ジュタ」は先住民の言葉で「たくさんの頭」という意味だそうな。西欧人のつけた「オルガ」はいかにもロシア女性の名前だが、ドイツのシュトットガルトが短い時期ヴィュルテンブルグ王国の首都だった時期に、そこに嫁いだロシア皇女の名前からとられたのだそうだ。
駐車場からガイドさんに連れられて「ワルパ渓谷」を歩く。

内陸で川も流れていない乾燥した草原。ここに住む人々にとって水が最も貴重。

岩陰にそういう場所がある。

先住民=アボリジナルたちが画いた岩絵が残る。

何が画いてあるのか?オーストラリア全土で五百もの部族があり言語や文化もちがうのであまり解明されていない。

↑渦巻は水?人の集まる場所?

↑これは貴重な食料の幼虫ではないか解説された↑実際今でも食されていて、食べた人によるとクリーミーでおいしいんだそうな。

このエリアに入るチケットもアボリジナル・アートのデザイン


ウルル近くの宿泊ホテルにもどろう

大きな空の下を走って、ウルルの夕景を楽しめる時間にもどってきた。

明日の朝、天気がよければウルルへ登ることになっている。

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