夜行貝の輝きは古代から人を魅了してきた。奈良正倉院の鏡の背の装飾を思い出す。
これらがどうやって作られたのか、少しだけでも体験してみたいと、嵯峨野村螺鈿さんにお願いした。
※後半に載せます
**
●清凉寺
清凉寺には「生身のお釈迦様」と呼ばれる、「三国伝来」の国宝釈迦立像がある。
※京都トリビアのページに写真と共に詳しく解説されています
「三国伝来」とは、インド⇒中国⇒日本、という意味。
ブッダが三十八歳の時にその姿を刻んだというなら、紀元前五世紀の作ということになる。
王が帰依するブッダの姿を刻ませているところを想像で画いた大きな絵が飾られていた↓
↑「キョウシャミ国王ウデンが真ん中右手で手を合わせて見守る。ノミと槌をふるって赤栴檀の香木を刻む職人たち。それを左で見守る赤い衣は工芸の神ビシェカツマ天だと解説されていた↑
こうやって釈迦の姿を生き写した木像は、シルクロードを経て十世紀に北宋の首都汴(べん)にもたらされていた。日本の奈良東大寺からやってきた僧・奝然(ちょうねん)がそれを見て、そっくりに摸刻させたものを日本に持ち帰ろうと考えた。
お像が完成すると、寝ている奝然(ちょうねん)夢に像があらわれ、摸刻と入れ替わった。
つまり、日本にもたらされたのはホンモノの方だ、という伝説。
おどろくべきは昭和二十八年の調査で内部から発見された、絹製のいわば「内臓模型」
↑当時最先端の医学知識がここにある
※これは宝物殿に所蔵されているレプリカ
10月11月の特別公開で見学できる霊宝館の普賢菩薩像は、ゾウ好きの小松には特に楽しめた。先月府中市美術館で観た若冲のゾウと目がそっくりだったのです。
※若冲はこれをモデルにして画いたのではないかしらん…
↑境内には豊臣秀頼の首塚がある。こちらも現代1980の調査で発見され、ここに葬られた↑
※解説にリンクします
***
●大覚寺
↑「明智陣屋」と呼ばれる、亀岡の亀山城が明治の廃城令で解体されたとき移築された門↑
嵯峨天皇(京都平安京をひらいた桓武天皇の息子)の離宮だった場所。その娘が仏寺にし、代々親王がご門跡だったので今も皇室の御紋が使用されている。
嵯峨天皇は「三筆」の一人に選ばれるほどの能書家。西暦にして818年に自身が写した「般若心経」をはじめとする天皇が写した経がおさめられた「心経殿」は暦が還ってくる六十年に一度だけ開帳される。2018年はちょうど千二百年目にあたり、六十回目の御開帳があったそうな。
江戸時代に狩野派の障壁画でかざられた部屋部屋。
広大な敷地には中国の洞庭湖をモデルにしたという大沢池がある。
京都育ちのドライバーNさんは子供の頃この池の周りで自由にお弁当広げたりしていたそうだが…今は有料。
敷地を区切る堀に渡された小さな石橋に風情があった。
****
2021《手造の旅》亀岡祭の最後に、冒頭の螺鈿工房を訪れた。
夜行貝に切り取りたい型を薄くえがいてキリで抜いてゆく。
この時、どの部分の輝きが生きるのかを考えて切り取る部分を選んだ方がよい。場所によって微妙に青や緑や赤の光が見えるから。人はこういう素材の美しさを利用させてもらっているだけなのだ。
素人の我々にも抜きやすいように薄い貝にしてくださっているが、古代からの装飾につかわれているものはもう少し厚いのだそうだ。割れやすいので慎重になるが、かといって何度もなぞっていてはきれいな線に切れない。
切り取ったものをお盆やコースターの上に貼り付けて
そのまわりを金泥?みたいなので縁取って固定する
「これ、金泥?じゃないですよね?」
と質問すると、漆の代用品で「カシュー」という溶剤だそうだ。
調べてみるとホンモノの漆よりもずっと使い勝手がよさそう。
なによりかぶれたりしないのがよい。
こんな便利なモノがない時代、尾形光琳もかぶれに悩まされながら制作していたんでしょうね(^.^)
※国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱」
↑面相筆より細いナイロンの筆先で「カシュー」を使って縁取り↑
↑この時もさっと一度で画くのが美しい仕上がりのコツだと感じた↑
↑小松の紅葉コースター完成(^.^)
↓この旅のラストショットに、それぞれ作った作品を持って(^.^)
↑野村さん(右のお二人)たいへんお世話になりました。
※HPにリンクします。
昔ながらのお香やお茶関連だけでなく、
のむらまりさんの造る装身具は日常に楽しめる現代のものです(^.^)
これらがどうやって作られたのか、少しだけでも体験してみたいと、嵯峨野村螺鈿さんにお願いした。
※後半に載せます
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●清凉寺
清凉寺には「生身のお釈迦様」と呼ばれる、「三国伝来」の国宝釈迦立像がある。
※京都トリビアのページに写真と共に詳しく解説されています
「三国伝来」とは、インド⇒中国⇒日本、という意味。
ブッダが三十八歳の時にその姿を刻んだというなら、紀元前五世紀の作ということになる。
王が帰依するブッダの姿を刻ませているところを想像で画いた大きな絵が飾られていた↓
↑「キョウシャミ国王ウデンが真ん中右手で手を合わせて見守る。ノミと槌をふるって赤栴檀の香木を刻む職人たち。それを左で見守る赤い衣は工芸の神ビシェカツマ天だと解説されていた↑
こうやって釈迦の姿を生き写した木像は、シルクロードを経て十世紀に北宋の首都汴(べん)にもたらされていた。日本の奈良東大寺からやってきた僧・奝然(ちょうねん)がそれを見て、そっくりに摸刻させたものを日本に持ち帰ろうと考えた。
お像が完成すると、寝ている奝然(ちょうねん)夢に像があらわれ、摸刻と入れ替わった。
つまり、日本にもたらされたのはホンモノの方だ、という伝説。
おどろくべきは昭和二十八年の調査で内部から発見された、絹製のいわば「内臓模型」
↑当時最先端の医学知識がここにある
※これは宝物殿に所蔵されているレプリカ
10月11月の特別公開で見学できる霊宝館の普賢菩薩像は、ゾウ好きの小松には特に楽しめた。先月府中市美術館で観た若冲のゾウと目がそっくりだったのです。
※若冲はこれをモデルにして画いたのではないかしらん…
↑境内には豊臣秀頼の首塚がある。こちらも現代1980の調査で発見され、ここに葬られた↑
※解説にリンクします
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●大覚寺
↑「明智陣屋」と呼ばれる、亀岡の亀山城が明治の廃城令で解体されたとき移築された門↑
嵯峨天皇(京都平安京をひらいた桓武天皇の息子)の離宮だった場所。その娘が仏寺にし、代々親王がご門跡だったので今も皇室の御紋が使用されている。
嵯峨天皇は「三筆」の一人に選ばれるほどの能書家。西暦にして818年に自身が写した「般若心経」をはじめとする天皇が写した経がおさめられた「心経殿」は暦が還ってくる六十年に一度だけ開帳される。2018年はちょうど千二百年目にあたり、六十回目の御開帳があったそうな。
江戸時代に狩野派の障壁画でかざられた部屋部屋。
広大な敷地には中国の洞庭湖をモデルにしたという大沢池がある。
京都育ちのドライバーNさんは子供の頃この池の周りで自由にお弁当広げたりしていたそうだが…今は有料。
敷地を区切る堀に渡された小さな石橋に風情があった。
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2021《手造の旅》亀岡祭の最後に、冒頭の螺鈿工房を訪れた。
夜行貝に切り取りたい型を薄くえがいてキリで抜いてゆく。
この時、どの部分の輝きが生きるのかを考えて切り取る部分を選んだ方がよい。場所によって微妙に青や緑や赤の光が見えるから。人はこういう素材の美しさを利用させてもらっているだけなのだ。
素人の我々にも抜きやすいように薄い貝にしてくださっているが、古代からの装飾につかわれているものはもう少し厚いのだそうだ。割れやすいので慎重になるが、かといって何度もなぞっていてはきれいな線に切れない。
切り取ったものをお盆やコースターの上に貼り付けて
そのまわりを金泥?みたいなので縁取って固定する
「これ、金泥?じゃないですよね?」
と質問すると、漆の代用品で「カシュー」という溶剤だそうだ。
調べてみるとホンモノの漆よりもずっと使い勝手がよさそう。
なによりかぶれたりしないのがよい。
こんな便利なモノがない時代、尾形光琳もかぶれに悩まされながら制作していたんでしょうね(^.^)
※国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱」
↑面相筆より細いナイロンの筆先で「カシュー」を使って縁取り↑
↑この時もさっと一度で画くのが美しい仕上がりのコツだと感じた↑
↑小松の紅葉コースター完成(^.^)
↓この旅のラストショットに、それぞれ作った作品を持って(^.^)
↑野村さん(右のお二人)たいへんお世話になりました。
※HPにリンクします。
昔ながらのお香やお茶関連だけでなく、
のむらまりさんの造る装身具は日常に楽しめる現代のものです(^.^)