旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ローテンブルグの思い出

2023-10-12 11:15:50 | ドイツ
ローテンブルグの街並みにはクリスマスの風情が似合う。
1990年代から四半世紀の間の、個人的な旅の記憶がちりばめられている。

「ロマンチック街道」と名付けられた古代ローマの街道に位置するが、現在の姿になったのは14から15世紀のこと。
↑↓これらの写真の左の塔(市庁舎)は13世紀ごろには建設されていた

↑↓15世紀後半に描かれた祭壇画にも描かれている↓

が、よくみると建物の右半分はカタチがちがう
※このあたりの事情は2019年5月のブログに書いております
**
↓2005年には町全体が人を含めて中世にもどったような「帝国都市祭」に遭遇した

※その時の写真と、「マイスター・トゥルンク」の話などこちらに書いています
***
↓2008年にはデューラーの版画をもとに製作されたリーメンシュナイダーの作品に出会えた

※こちらに詳しく書きました
****
2006年にはビール酒場でこんなこともあったっけ

※こちら旧ブログに書きました

ローテンブルグは海外旅の添乗をはじめた頃から現在に至るまで、
様々な視点から興味を深めていった街。
当時はいろんな資料や本を山ほど抱えて歩きたおしていたが、
今度はゆっくり季節を楽しんで歩きたい。

















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デドヴァンク~リーメンシュナイダーとデューラー

2021-07-12 12:11:14 | ドイツ
2008年ドイツの旅より
同じ15~16世紀を、同じ南ドイツで活躍した画家アルブレヒト・デューラーと彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーが顔を合わせていたのかはわからない。いかに優秀であっても一介の職人たちについて五百年後に伝わることは少ないから。残された仕事だけが、お互い影響を与えあっていただろうことを今に伝えてくれている。

左はデューラーの版画、右はリーメンシュナイダーの木彫より。

ロマンチック街道のローテンブルグの城壁外にデドヴァンクという集落がある。

周囲の家の少なさに似つかわしくない立派な教会↑
教会に置いてあった解説によると西暦968年にヴィユルツブルグの司教によって建立されたそうだ。

現在の建物が一千年前そのものではないだろうが↑こんなロマネスクの小さな窓はその歴史を感じさせる。


ここに置かれた「十字架祭壇」はリーメンシュナイダーの手になる彫刻がはめこまれている↑
もともとはローテンブルグのミカエル礼拝堂のために1508年ごろに刻まれた浅浮彫の群像彫刻。
ミカエル礼拝堂が1653年に失われ(おそらくローテンブルグがプロテスタント都市となったため)、城壁外のここに移された。
より小さな場所に移動するため彫刻はもとの祭壇から外され、現在のちいさすぎる祭壇にはめ込まれた。
その証拠に↑左右のパネルを合わせた長さが中央より長いので閉じることができない。
・キリストの下帯は折れて短くなっている。
・足元にあった(かもしれない)マグダラのマリアなどの像は行方不明となった。
・右の見上げる男(リーメンシュナイダーの自画像と推察されている)の視線はキリストより遠くを見ている。

上のようなことを解説したぺら紙解説を読んでいたら、「十字架の右のターバンの男はデューラーの版画がもとになっている」とさらっと書かれていた。検索で探してみると↓この作品がみつかった↓

おぉ、リーメンシュナイダーがこの版画をモデルに彫ったにちがいない(^^)冒頭の比較写真ごらんください。
この版画は「トルコ人の家族」そのもの。
リーメンシュナイダーは男性の姿だけを切り離して、
ユダヤの大司祭カイアファ?(聖書の中の誰なのかは断定できない)として写し取っていたのか。

「右のパネルはマルティン・ショーンガウワの作品をもとにしている」
と書かれていたので、検索で探してみると↓

↑これが見つかった。たしかに、リーメンシュナイダーはこの版画を見ていたに違いない↓


マルティン・ショーンガウワはリーメンシュナイダーよりも十歳ほど年長。
デューラーが遍歴修行をしているとき、教えを請いにコルマールを訪れたが前の年に亡くなっていた。
※2010年にコルマールでショーンガウアの作品を見た時のブログがあります

版画はこの時代にもっとも流通した美術だったのではないかしらん。
彫刻は持ち運びが難しい、絵画はもう少し動かしやすいが何枚も同じものをつくりだせない。
版画ならば量産して庶民にも買うことができただろう。
文字が読めなくても、描かれていることを解説してもらって楽しめただろう。

リーメンシュナイダーの工房にはこういった版画がたくさんストックしてあって、必要に応じてモデルにしていたのか。
一方、デューラーも遍歴修行をしていた時に、すでに活躍をはじめていた十歳ほど年長の彫刻の達人の話を耳にしていなかったかしらん。これらの彫刻があった元祭壇がつくられた1508年にはデューラーはニュルンベルグに工房を構える超売れっ子だった。
リーメンシュナイダーが自分の版画を元ネタにした作品を彫っていたのを知っていたかしらん。

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帝国都市祭と城壁の外から見上げるローテンブルグ

2021-07-08 09:51:31 | ドイツ
2005年南ドイツの旅より
時代劇の中にまよいこんだようだった。

いちどだけ街をあげての「帝国自由都市祭」に行きあわせた。

中世ヨーロッパの雰囲気を色濃く感じさせるローテンブルグは、ロマンチック街道でいちばん有名な街。

宗教戦争中の1631年、カトリック側に攻められ陥落したローテンブルグ。
「略奪して焼き払う」と宣言した怒れるティリー将軍に、ワイン一気飲みの賭けを提案して街を救った老市長ヌッシュ。

↑博物館にはその時のモノと伝わる3.75リットルのグラスが展示されている↑
その歴史劇を演じるのが「帝国都市祭」なのだ。
**
ローテンブルグは城壁に囲まれたまちだけれど、

時間があれば城壁を出てタウバー川のほとりまで降りてみたい。

崖の上に位置する城壁の中に教会や市庁舎の塔がぎっしり並んでいるのがわかる↑
ローテンブルグ側からタウバー川を見下ろすと↓

こんな風にみえる↑かなり高い位置にあるのがわかる。「ローテンブルグはゴルゴダの丘と同じ高さある」と、伝説的に言われ。キリストの血を収めた「聖血祭壇」があるヤーコプ教会を目指して巡礼者たちがやってきていた。
小さく見える石橋は↑15世紀ごろには今のカタチであったと言われ、近づいて見上げると相当に頑丈なものだとわかる。

巡礼者もこの橋を渡ったことだろう。

↓15世紀からあったと言われる秘密会議の家が左上に小さく見えている↓

ローテンブルグが最も栄えていた大航海時代前の15世紀はじめ。

周辺諸都市を束ねたハインリッヒ・トップラー市長はここで密談をしていたそうな(^^)

毀誉褒貶の激しかった時代。彼の最後は獄死だったのだけれど。


人口が増加して三度も城壁を建設したローテンブルグ

当時は城壁の外にも小さな集落がいくつもあった様子がうかがえる


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アウグスブルグのフッゲライ~ヤーコプ・フッガーのために祈る人々

2021-07-06 07:36:47 | ドイツ
2007,2012南ドイツの旅より
「毎日創立者(ヤーコプ・フッガー)のために祈ること」という入居条件がつけられている。

15世紀末から現代まで続く豪商フッガー家の建設した「フッゲライ」は、アウグスブルグの「まじめに働くけれど豊かになれないカトリック労働者」のための住宅。

その趣旨にそって1519年に決定された格安家賃は現代にも引き継がれ、年間0.88ユーロという驚きの安さ。
16世紀の建物だから天井は低いが、内部は現代風に使いやすく改築されている。

下の写真はミュージアムとして見学させている部屋↓16世紀の雰囲気がもっとも残されている部分↓
広さはそれぞれ三十平米程度。
比較的年齢の高い少人数世帯が多いそうだ。

ミュージアムになっていない一般住宅はそれぞれ住みやすく改築されている

ちょうど出てこられた住人の方。「ヤーコプ・フッガーのために毎日祈っていますか?」とは訊かなかった。

16世紀は共同の水場だっただろうけれど、今はもちろん各戸に水道がある。



↑呼び鈴↓

↑こちらはユリのカタチかしらん?
フッガー家の始祖ハンス・フッガーは十五世紀の布織職人だった。
エジプトから輸入した綿と地元ドイツの麻を合わせて布にする仕事だったのだが、やがて織るよりこれを売る方が儲かると気付く。
エジプトと取引をしているヴェネチアと商ルートを築き、仲間に織らせた布を販売して財をなしていった。
ハンスにはアンドレアスとヤーコプの二人の息子がいた。
兄アンドレアスの家系は鹿を紋章とし、弟ヤーコプは百合を紋章とした。

↑1519年、フッゲライの入口に掲げられた設立の碑文↑左には「鹿のフッガー」の紋章、右が「百合のフッガー」。
「アウクスブルクのフッガー家兄弟ウルリッヒ、ゲオルグ、ヤーコプは当地に生まれたことを最大の喜びとし、その巨額の財産を慈悲深い神に賜ったことに感謝し、我らの信仰と寛容を表すために『正直であるが貧しい市民』に106戸の住居と付帯建造物と設備を提供する」

碑文に出てくる三兄弟は前出の弟「百合のフッガー」ヤーコブの息子たち。
末息子ヤーコブが父の名前を継ぎ、このフッゲライを構想した人物。
「鹿のフッガー」の家系は次の代で衰亡したが、「百合のフッガー」が現代まで続いている。

↑フッガー家が営むビアホールのサイン↑


皇帝の選挙費用のカタに鉱山開発の権利を得て銀貨の鋳造をし、山の森林から林業をはじめ、金融だけでなく幅広い経済活動で成功していったフッガー家は同じ時代の宗教家マルティン・ルターから名指しで糾弾される。
「一代で王に等しいあれほど巨額の財産を築くことがどうして可能なのか?それは神の教えと法に背かないのか?
100グルデンにより一年で20グルデンを儲け、1グルデンで同額さへ稼ぐ方法が私には分からない。
しかもその方法は農作や牧畜によらない。神の喜び給うことは商業は控えることである。聖書に従い土地を耕し、アダムが神に命じられたように『額に汗して汝のパンを得よ』を実行することである。」

「金貸しは地獄へ落ちる」と言われてヤーコプ・フッガーは怖れただろうか?
怖れはしなくとも、市民からの敵意は避けなければならない。
当時の論客に金をはらって好意的な演説をしてもらったりもしたが、それはたいした効果がなかった。
1519年、五十才となり余命を意識しはじめたヤーコプは「フッゲライ」を構想するに至る。
真面目なカトリック労働者のために安価な住居を提供することで、自分のために毎日祈ってくれる人々を確保したのかもしれない。

「フッゲライ」の建設運営費用はフッガー家の財産の百分の一にも満たないものだったが、五百年後の現代からみるとフッガー家のための最良の投資になった。ヤーコプの死の百年後に宗教戦争が勃発。フッガー家が王侯貴族に貸した金はすべて不良債権化した。人口が半減した南ドイツではあらゆる経済活動が止まり民は困窮したが、「フッゲライ」は逆に必要度を増した。「フッゲライ」を運営する原資として所有する森林事業からの収入をあてていたことも幸いし現在まで存続している。アウグスブルグのフッガー家がどのような人々だったのかを現代に伝えるもっとも重要な事業となっている。

あのモーツァルトの曽祖父フランツ・モーツァルトも1681年からここに住んだ。



↑右奥に見えるのはフッゲライの住民のための教会↑
第二次大戦ではこの教会を含め半数ほどの家が被害を受けたが、すぐにほぼ元のとおりに再建された。

教会の壁にとりつけられた日時計には18世紀フッガー家のモットーが書かれている↑
〝Nütze die Zeit”⇒直訳なら「時間を使え」⇒つまり、「時間を無駄にするな」という意味。

フッゲライの門は午後十時には閉ざされ、それに遅れると門番になにがしかを払ってこっそり開けてもらうことになっていた。



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バートウィムプフェン~神聖ローマ皇帝の居城

2021-07-05 08:57:16 | ドイツ
2007,2008,2009年南ドイツの旅より
13世紀からある「青塔」がバート・ウィムプフェンのシンボル

「古城街道」を走ると、ネッカー川を見下ろす高台に町がみえてくる。

いちばん右に「青塔」↑左に装飾のない四角い「赤塔」↓

ここは中世ホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝たちの居城だった。

西暦1200年ごろはこんなふうに城壁が囲っていたらしい↑いちばん上が「青塔」、下が「赤塔」。
215m×88mの城壁内↑ネッカー川に面した、上の絵で右側に細長く城塞が画かれている↑

二つの塔をつないでネッカー川を見下ろしていた城塞の名残↑「赤塔」からネッカー川をみおろしたところ↑

↑ホーエンシュタウフェン家の紋章↑イングランドと同じくライオン三匹

鷲がカギを咥えているのもこの町の紋章のひとつ

これは街の入口にあった「ホーエンシュタウフェン高校」の門

↑旧市街の噴水にも同じ紋章↑
ホーエンシュタウフェン家の有名な神聖ローマ皇帝フィリードリヒ二世は八回も滞在した記録があるそうだ。

今も城壁が残る旧市街

街が建造されたのはフリードリヒ二世の祖父フリードリッヒ一世=通称バルバロッサの時代とおもわれる。

これらの城壁・城門は19世紀に復元してこのかたちになったものだろうが、
この崖の上にはケルト人の時代から人が住んでいた。
遠隔地までつながる川(ネッカー川はライン川の支流)に近い安全な高台で、近くで塩もとれたので繁栄した。

↑1580年ごろからのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所)があった建物と伝わる。

商業で栄えたところには豊かなユダヤコミュニティあり。


2007年に訪れた朝に静かな街を歩いた。

「青塔」を間近に見上げると↓丸く突き出した中世のトイレに気付く↓つまりこの部分は13世紀ごろからの姿そのままだということ。

一方いちばん上の部分は新しいことに気付く↑十九世紀に装飾しなおされたのだ。
十九世紀から二十世紀前半にかけて、ヨーロッパ全土で行われた「修復」「復元」は、史実に忠実であるよりも「見た目が美しいこと」を求めておこなわれていた。

木造の箱を積み重ねたスタイルの古い住宅群↑も、とにかく美しい




↑こちら「赤塔」は、「青塔」とちがって見栄えよく修復はされなかった。


中世の繁栄は17世紀はじめの三十年戦争(宗教戦争)によって終わる。新旧両方の軍から何度も略奪された町の人口は十分の一にまで減ったと推察されている。
バートウィムプフェンが再び繁栄のきっかけをつかんだのは製塩業。
1752年に塩水を汲みだす掘削穴が掘られた。

次第に豊かになった歴史ある町に新しいラートハウス=市庁舎がつくられた↑



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