旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ニース旧市街散歩とカーニバル

2023-02-12 12:01:51 | フランス
カーニバル観覧席への入場口

旧市街入口にある市立劇場。

1776年以来この場所にオペラ劇場があるが1881年の上演中にガス爆発が起きて火事に。
ネオ・クラシックで再建された↑

↑すぐ前にある建物は「イタリア方面遠征軍司令官だったナポレオンが滞在した↓

すぐ先のサレヤ広場には黄色いミモザの花が春を告げている。

柑橘類も、野菜も、

突き当りのビルの最上階はマティスがアトリエにしていた↓



旧市街の細い道にはいっていくと、

↑貴族の宮殿が内部公開している看板が目についた↑
ラスカリス宮殿。古楽器の展示をしている。

入ってすぐの天井に紋章が↑

↑日本語の解説リーフレットによると、「17世紀中ごろに第57代マルタ騎士団団長の甥であるラスカリス・ヴァンテミリアが一族のために建てた」とのこと。フランス革命期の1802年に売却され荒れ果てていたものを1942年にニース市が購入した。
クラシックな食器と楽器のコレクションがずらり。

肖像画の部屋にはマルタ十字をつけた男たち


聖ヨハネ騎士団(=マルタ騎士団)はマルタ島に本拠地を移す以前、ニースを本拠地にしていた時期がある。
1522年にオスマン・トルコによってロードス島を追われた後マルタ島に本拠地を得るまでの8年間ヨーロッパ各地を転々としていたのだが、フランスの有力貴族が多く在籍していた縁で1527年11月23日から1529年6月14日までの本拠地がニースだった。
このラスカリス宮殿はその時期よりは後に建設された建物だが、マルタ騎士団となってからも縁者はたくさん行き来していたにちがいない。


モーツァルトがヨーロッパ中を旅していた時期、ここはラスカリス・ヴァンでミリア家の邸宅だった。


↑天蓋付きのベッド↑壁全面を覆うタペストリーにその時代を感じる。


***
お昼時になりカフェでランチ


肉を野菜に詰めたファルシ、定番のムール貝の白ワイン蒸し

カーニバルを見に来たとおぼしき遠来のお客で満席。
****

チケットと持ち物検査

「花合戦」は15時スタートだが一時間近く前からがんがん音楽をかけてDJがもりあげている。

やがてはじまり、仮装と山車がつぎつぎにやってきた。


ムーランルージュ?

タヒチ?

よくわからないコンセプトの集団もたくさん


↑巨大な龍にのったのは中国勢だった

↑南インド?

「花合戦」とはいうものの、コロナ禍でミモザの花を投げなくなったのはひょうしぬけ。
※2013年の「花合戦」の様子をこちらに載せています

山車のサイズも以前よりは(これでもだいぶん)小さくなった
※2006年の様子をこちらに載せています


それでも、青空の下一時間半のパレードを楽しんだ(^^)
*****
夕食は軽く…となるとレストランではなくカフェかバーになる
スペイン風のメニューが出ていたお店にはいると

カリブ海?

なんとキューバ風(^^)ならば、モヒートを注文しなくちゃ↑

タパスは充実していた↑メキシコ風のケサディーリャ、しし唐の素揚げ

南仏のワインと共に
生演奏がはじまる前に出た
******
翌朝、ニースの空港へ向かう。

空港のすぐ西に川がながれていて↑1860年以前はここが国境↑こちら側はイタリアだった。

パリへ向かう飛行機が離陸すると、プロムナード・ザングレの続く「天使の湾」がきれいに弧を描いている。
雪をかぶった山々をみながらパリ・オルリー空港まで一時間ほど。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニース海岸散歩~ネグレスコホテルの前より

2023-02-12 09:26:48 | フランス
ニースの海岸にピンクのドームが映える

前日夕方、ニースへ向かう道。カンヌのある湾が見えてきた。

正面は「鉄仮面」が幽閉されたマルグリット島だろうか。

二月のフランス内陸部は凍りつく寒さだが、
地中海岸にでてくると気温はいっきに10度を超えていた。

ニースのある「アルプ=マリティム県」はその名の通り雪山と海の両方がある。

カーニバルがはじまるので道路規制。
中心部のホテルにチェックインして、食堂街へ夕食へ。

良い感じのお店でした(^^)

ネグレスコホテルの夜景を横目に見ながらホテルに戻る。

朝7時。最上階8階の朝食会場の扉が開くと朝焼け。

パンが温かくてうれしい。

やがて朝日が屋上を照らしはじめる。

海の方を見ると↑ネグレスコホテルのピンクのドームが突き出してた。
**
9時にガイドさんと歩きはじめる。

海岸に出るとマセナ美術館↑
ナポレオン配下のマセナ将軍の一族の屋敷だった建物。

すぐ近くにネグレスコホテル。
ニースのシンボルになっているこの建物は、ルーマニアからやってきたアンリ・ネグレスコ(本名Alexandru Negrescu)によって1912年に開業。

折り悪く二年後に第一次世界大戦がはじまり、世界経済が失速すると経営破綻。
終戦時には病院として使われていた。
戦後ベルギーの会社に売却され、ネグレスコ自身は二年後にパリで死去(52歳)。
1957年に有名な女性オーナーとなるジャンヌ・オジェの父であるメナム氏が買った。足の悪い妻のために車いすが使えるホテルを探していて、即決だったのだそうだ。
ジャンヌは2019年に亡くなるまでこのホテルに住んでいた。

入り口わきに置かれたニキ・ド・サンファルのマイルス像↑
このホテルはダリからエルトン・ジョンまで数多芸能人に好まれてきた。
2003年には「フランスの歴史的建造物」に認定されている。


ル・ネグレスコの前の海岸線を7キロにわたってのびているのが「プロムナード・ザングレ(イギリス人の散歩道)
19世紀後半に富裕なイギリス人たちが滞在していたことでこの海岸線の道がつくられた。

ゆったり広い歩道。
暖かい陽射し。
読書する人、走る人、犬を散歩する人。

砂浜を金属探知機で探る人↑
清掃活動ではなく、お宝探しなのだそうです。

カーニバルの看板。今年は150周年。

2013年に訪れた時にはこの海岸線の道が巨大な会場だったのだが、今はマセナ広場エリアに移動している。
この記念碑は2016年に起きた暴走車によるテロの鎮魂碑。

↑巨大な彫刻が印象的なファサードは「パレ・メディテラネ(地中海宮殿)」1940年ごろの建物?
長く廃墟になっていたがファサードを残して改築され1980年代に巨大ホテルとなっている。



↑1860年にニースがフランス領になったことを記念した碑↑住民投票は2500対260の大差だった。
この時期のイタリアはまだイタリアとして統一されておらず、経済的にも政治的にも混乱していた。

↑マセナ広場のカーニバル会場がちらりと見えてニースの旧市街に入っていく。

↑ボーリバージュホテルはロシア人作家のチェーホフや
若き日のマティスも滞在した
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする