気球からホテルに戻ったのが遅かったので出発は10:45出発とした。忙しいと身体も心も疲れちゃいますから(^.^)
**
ハトシェプスと女王葬祭殿のような建築は他にない。
それまでの葬祭殿はナイルにもっと近い場所に建てられていたので川の氾濫が起こると姿を消してしまってほとんど残されていない。
故にハトシェプスト女王は、けっしてナイルの水が届かない場所=石切り場そのものに葬祭殿をつくってしまったのだった。
↑そう説明されてあらためて見てみると、なるほど山を切り崩した場所に位置しているのが分かる↑
彼女は「プント」と呼ばれた外国との交易でエジプトを豊かにしたので、壁画には海をゆく帆船が描かれた↓
↑水の中に描かれているのは、たしかにイカですね(^.^)
↑こちらはフグ?
近年修復された三階には、後世にキリスト教会として使われていた時代の入口灯りの跡↓
↓教会時代の装飾は古代エジプトにはとても及ばない。はがれて古代エジプト時代の精緻な装飾が見えている
内部で火が焚かれていた跡↓
↓このあたりはポーランドの発掘隊が修復を手掛けていた
※2016年に訪れた時の写真はこちらからごらんください
***
次はラムセウム。それほど大きくない場所だがきれいで人がすくない。
倒れた巨像のアタマ↓
↓ベルツォーニのサインがあった↓ほんものかしらん?
※2016年の訪問ブログはこちらからごらんください
そばの畑で父子がいっしょうけんめい収穫していた↓
****
昼食はクルーズ船にて。
車よりもボートを利用するのが近道↓
桟橋で物売りにくるこどもたちに「きみたち、学校行きなさい」
クルーズ船にチェックインして、はじめてのランチ
ひと休みしてから午後の行程へ
**
ハトシェプスと女王葬祭殿のような建築は他にない。
それまでの葬祭殿はナイルにもっと近い場所に建てられていたので川の氾濫が起こると姿を消してしまってほとんど残されていない。
故にハトシェプスト女王は、けっしてナイルの水が届かない場所=石切り場そのものに葬祭殿をつくってしまったのだった。
↑そう説明されてあらためて見てみると、なるほど山を切り崩した場所に位置しているのが分かる↑
彼女は「プント」と呼ばれた外国との交易でエジプトを豊かにしたので、壁画には海をゆく帆船が描かれた↓
↑水の中に描かれているのは、たしかにイカですね(^.^)
↑こちらはフグ?
近年修復された三階には、後世にキリスト教会として使われていた時代の入口灯りの跡↓
↓教会時代の装飾は古代エジプトにはとても及ばない。はがれて古代エジプト時代の精緻な装飾が見えている
内部で火が焚かれていた跡↓
↓このあたりはポーランドの発掘隊が修復を手掛けていた
※2016年に訪れた時の写真はこちらからごらんください
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次はラムセウム。それほど大きくない場所だがきれいで人がすくない。
倒れた巨像のアタマ↓
↓ベルツォーニのサインがあった↓ほんものかしらん?
※2016年の訪問ブログはこちらからごらんください
そばの畑で父子がいっしょうけんめい収穫していた↓
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昼食はクルーズ船にて。
車よりもボートを利用するのが近道↓
桟橋で物売りにくるこどもたちに「きみたち、学校行きなさい」
クルーズ船にチェックインして、はじめてのランチ
ひと休みしてから午後の行程へ
今回の出発は午前六時半。朝の光があふれるナイル川をボートでわたる
※前回2016年12月は4時10分だった
こちらからその時のブログをごらんいただけます
ルクソール西岸を走り出すと、うろこ雲が広がる空にぽつぽつと飛んでいる↓
到着したフィールドでは、さらに多くの気球がむくむくと起き上がりはじめていた
バーナーが黄色い炎を勢いよく噴射↓
バルーンが完全に立ち上がると我々が乗り込む。
そして、さらに噴射すると、音もなく浮かび上がった。
見る間に地上の人が小さくなってゆく↓
気球の高度は高くても五百メートルほど。高ければ景色が良いというわけでhない。
ルクソールの場合は「王家の谷」がある山の高さと同じぐらい↓
↓きのう訪れた「女王の谷」が見える↓
中央から左手の四角いのが有名な「ネフェルタリの墓」
↓こちらは「メムノンの巨像」があるアメンホテプ三世の葬祭殿↓
ナイルの恵みが届くところまでが黒い緑。古代エジプトでは黒は豊穣の色だった。
時を忘れる四十分ほど(^.^)
「ランディング・ポジッション」と声がかかって、バスケットの中で少しかがむ。
二度ほど軽く地面をこすってからバスケットが止まった。
地上スタッフがかけよってきて、しぼみ始めたバルーンをたたみはじめる↓
我々はひとりひとりバルーンから出る。
周りの村から子供たちがロバにのってあつまってくる↓
同乗していたアルゼンチン人のご夫妻も一緒に輪になって
記念写真
※前回2016年12月は4時10分だった
こちらからその時のブログをごらんいただけます
ルクソール西岸を走り出すと、うろこ雲が広がる空にぽつぽつと飛んでいる↓
到着したフィールドでは、さらに多くの気球がむくむくと起き上がりはじめていた
バーナーが黄色い炎を勢いよく噴射↓
バルーンが完全に立ち上がると我々が乗り込む。
そして、さらに噴射すると、音もなく浮かび上がった。
見る間に地上の人が小さくなってゆく↓
気球の高度は高くても五百メートルほど。高ければ景色が良いというわけでhない。
ルクソールの場合は「王家の谷」がある山の高さと同じぐらい↓
↓きのう訪れた「女王の谷」が見える↓
中央から左手の四角いのが有名な「ネフェルタリの墓」
↓こちらは「メムノンの巨像」があるアメンホテプ三世の葬祭殿↓
ナイルの恵みが届くところまでが黒い緑。古代エジプトでは黒は豊穣の色だった。
時を忘れる四十分ほど(^.^)
「ランディング・ポジッション」と声がかかって、バスケットの中で少しかがむ。
二度ほど軽く地面をこすってからバスケットが止まった。
地上スタッフがかけよってきて、しぼみ始めたバルーンをたたみはじめる↓
我々はひとりひとりバルーンから出る。
周りの村から子供たちがロバにのってあつまってくる↓
同乗していたアルゼンチン人のご夫妻も一緒に輪になって
記念写真
早朝の飛行機でルクソールへ向かう。飛行機が飛ぶ頃に陽が出てきた
早いフライトはイヤだと思っていたのだが、ここ数年カイロの渋滞はとんでもないので、それを避けられる早朝がよいのかもしれない。
↓ルクソール空港のデザイン、好きです(^.^)
カイロとちがって出るとすぐに田舎の風景↓運河に映る
↓サトウキビの収穫シーズン
ナイルには113隻のクルーズ船が運航しているときいた
西岸に渡ると「メムノンの巨像」が見えてきた
↓クルナ村はすぐそこ
今日はそこから「女王の谷」へ↓
ここで公開されているネフェルタリの墓は確かにすばらしい色彩を留めているし、芸術表現としての質も高い↓
それはわかるのだが、入場料は高すぎる↓「女王の谷」の入場料の12倍の料金って…
※二年前は1000ポンドだった!
こちらにその時の見学記と写真載せております
↓それでも出して入るのが観光客
たいして広くないから、十分の時間制限・人数も制限↓今日はびっくりするほどのグループが待っていた↓
**
次はあまりグループが訪れない「ハブ神殿」へ
ここは見ごたえがあります↓神殿の前に後の時代に建設された物見やぐら
↓巨大な神殿が現れる↓
色も良く残っている
※2016年の見学記をこちらからごらんください
***
移転させられたクルナ村の下にあった「貴族の墓」からいくつか見学↓
見所は尽きません
※2016年の見学記をこちらからごらんください
****
ツタンカーメン墓を発見したハワード・カーターの家へ
↓カーターの寝室
↑ベッド上に掲げられた小さな絵はエジプト発掘の先駆者でイタリア人のベルツォーニだった。彼を尊敬していたとは知らなんだ↑
↓もうひとつの寝室にはベッドが二つ。こちらは出資者のカーナヴォン卿が滞在する時に使っていた↓
↑父と共にこの部屋を使った娘のエヴリーンは王墓発見の前年1921から二シーズンこの部屋に滞在した。
そして、寒いイギリスの冬から逃れたイギリス貴族の交流の場になっていたルクソールで、後の結婚相手に出会っている。
この家は百年前の雰囲気をよく留めている場所だ。
※2016年の訪問記をこちらからご覧ください
*****
昼食は東岸のレストランでモロヘーヤのスープとイカのタジン
******
ナイル川の見えるホテルへチェックインして夕方まで二時間ほど休憩
*******
ルクソール神殿の夜景はやはり美しい
※2016年の訪問記をこちらからごらんください
自由行動になってから、いつもと違うエリアを歩いてみた↓
↓すると、ラテン語の碑文が置かれている一角があった↓
解説を読んでみると紀元後四世紀初期のローマ皇帝ガレリウスに捧げられたものだろうということだった。
彼はキリスト教を迫害したディオクレティアヌス帝の副帝。
この時代にはエジプトの神々はまだ信仰されていたと思われる。
パトロンがローマ皇帝に代わって、このようなラテン語碑文も置かれていたということか。
それにしても、古代エジプトの彫刻のち密さに比べるとずいぶん荒削りである。
↓すぐそばの一角がローマ時代の街の門の跡なのだそうな
明日朝は気球に乗ります!
早いフライトはイヤだと思っていたのだが、ここ数年カイロの渋滞はとんでもないので、それを避けられる早朝がよいのかもしれない。
↓ルクソール空港のデザイン、好きです(^.^)
カイロとちがって出るとすぐに田舎の風景↓運河に映る
↓サトウキビの収穫シーズン
ナイルには113隻のクルーズ船が運航しているときいた
西岸に渡ると「メムノンの巨像」が見えてきた
↓クルナ村はすぐそこ
今日はそこから「女王の谷」へ↓
ここで公開されているネフェルタリの墓は確かにすばらしい色彩を留めているし、芸術表現としての質も高い↓
それはわかるのだが、入場料は高すぎる↓「女王の谷」の入場料の12倍の料金って…
※二年前は1000ポンドだった!
こちらにその時の見学記と写真載せております
↓それでも出して入るのが観光客
たいして広くないから、十分の時間制限・人数も制限↓今日はびっくりするほどのグループが待っていた↓
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次はあまりグループが訪れない「ハブ神殿」へ
ここは見ごたえがあります↓神殿の前に後の時代に建設された物見やぐら
↓巨大な神殿が現れる↓
色も良く残っている
※2016年の見学記をこちらからごらんください
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移転させられたクルナ村の下にあった「貴族の墓」からいくつか見学↓
見所は尽きません
※2016年の見学記をこちらからごらんください
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ツタンカーメン墓を発見したハワード・カーターの家へ
↓カーターの寝室
↑ベッド上に掲げられた小さな絵はエジプト発掘の先駆者でイタリア人のベルツォーニだった。彼を尊敬していたとは知らなんだ↑
↓もうひとつの寝室にはベッドが二つ。こちらは出資者のカーナヴォン卿が滞在する時に使っていた↓
↑父と共にこの部屋を使った娘のエヴリーンは王墓発見の前年1921から二シーズンこの部屋に滞在した。
そして、寒いイギリスの冬から逃れたイギリス貴族の交流の場になっていたルクソールで、後の結婚相手に出会っている。
この家は百年前の雰囲気をよく留めている場所だ。
※2016年の訪問記をこちらからご覧ください
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昼食は東岸のレストランでモロヘーヤのスープとイカのタジン
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ナイル川の見えるホテルへチェックインして夕方まで二時間ほど休憩
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ルクソール神殿の夜景はやはり美しい
※2016年の訪問記をこちらからごらんください
自由行動になってから、いつもと違うエリアを歩いてみた↓
↓すると、ラテン語の碑文が置かれている一角があった↓
解説を読んでみると紀元後四世紀初期のローマ皇帝ガレリウスに捧げられたものだろうということだった。
彼はキリスト教を迫害したディオクレティアヌス帝の副帝。
この時代にはエジプトの神々はまだ信仰されていたと思われる。
パトロンがローマ皇帝に代わって、このようなラテン語碑文も置かれていたということか。
それにしても、古代エジプトの彫刻のち密さに比べるとずいぶん荒削りである。
↓すぐそばの一角がローマ時代の街の門の跡なのだそうな
明日朝は気球に乗ります!
敬虔で向学心のあるスルタン・ハーキムが1012年に完成させたとされるモスク
ムイッズィ通りを歩いてくるとこんな風に見える↓
入口前では子供たちがボールを蹴っている
よけながら入口を入る
すると
この空間が現れる
中央の赤い石が印象的だが、2010年に見た時と色が違う気がした↓
↓2010年の時の写真がこれ。
↓これが今回。光のせいかしらん?
★スルタン・ハーキムは経験で知識欲ある人物だったが、だから良き統治者であったわけではない。
今回「イスラム美術博物館」を見学した時、彼のエピソードを読んでぎょっとした。
※こちらに書きました
毎日使い続けられている場所なのできれいになっているが、唯一この塔は11世紀を留めているようにみえる↓
この塔はファーティマ朝カイロの北側の城壁の上に位置している↓
物見の塔の役割もはたしていたのだろう↓城壁の外側から見たところ↓
↓円筒に守られたこの城門が11世紀カイロの北の正門フトゥーフ門↓1087年完成
サラディン時代から存在する。ルイ九世が第七回十字軍でやってきた時にもこれを見ただろうか。
***
モスクの入口で番をしている彼ら、我々に同行してくれていたツーリスト・ポリスに椅子を勧めて座らせた
貧しくとも助け合って生きているカイロの庶民の姿は東京と比べてちょっとうらやましく見える
ムイッズィ通りを歩いてくるとこんな風に見える↓
入口前では子供たちがボールを蹴っている
よけながら入口を入る
すると
この空間が現れる
中央の赤い石が印象的だが、2010年に見た時と色が違う気がした↓
↓2010年の時の写真がこれ。
↓これが今回。光のせいかしらん?
★スルタン・ハーキムは経験で知識欲ある人物だったが、だから良き統治者であったわけではない。
今回「イスラム美術博物館」を見学した時、彼のエピソードを読んでぎょっとした。
※こちらに書きました
毎日使い続けられている場所なのできれいになっているが、唯一この塔は11世紀を留めているようにみえる↓
この塔はファーティマ朝カイロの北側の城壁の上に位置している↓
物見の塔の役割もはたしていたのだろう↓城壁の外側から見たところ↓
↓円筒に守られたこの城門が11世紀カイロの北の正門フトゥーフ門↓1087年完成
サラディン時代から存在する。ルイ九世が第七回十字軍でやってきた時にもこれを見ただろうか。
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モスクの入口で番をしている彼ら、我々に同行してくれていたツーリスト・ポリスに椅子を勧めて座らせた
貧しくとも助け合って生きているカイロの庶民の姿は東京と比べてちょっとうらやましく見える