旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ラトヴィアのスイスからタリンへ

2013-10-12 22:10:21 | ラトビア
朝の青空の下、リーガに残る
★帝政ロシア時代のアールヌーボー建築を少し見学。

これらは二十世紀はじめの十年に、ミハイル・エイゼンシュタインという建築家によってデザインされたこの建築家の息子が、映画「戦艦ポチョムキン」で知られていセルゲイ・エイゼンシュタイン。「この革新的な映画作家の息子の事を理解できなかったし、息子も父の当時としては新しすぎるデザインの建築を好きではなかったようです」と、ラトヴィア人のガイドさんが話した。

建てられた当初は個人住宅としてそれぞれ一人の富豪が所有して住んだが、ソ連時代には分割されてたくさんの世帯が使っていた1991年のラトヴィアの再独立後、建物はかつての持ち主の子孫に戻されたが、皆がかつてのような富豪ではなく、修復されていない建物も目立つ

アールヌーボー(フランス語)=ユーゲントシュティール(ドイツ語)といっても、ここラトヴィアの伝統的なデザインが見られるのがおもしろいこの柄は5ラッツ(2013年で使用が終わるラトヴィア独自の通貨、1ラッツ=0.7ユーロ)札に見られるのと同じ自然崇拝時代の文様を使っている

でも、いちばんびっくりさせられたのは、この一角にあった日本食レストランの名前、なんと「YAKUZA」です⇒

**★「ラトヴィアのスイス」へ

リーガから紅葉の美しい道を北東へ向かう小さくて平坦なラトヴィアの中で唯一「山」と呼べる場所がスィグルダ。「ラトヴィアのスイス」なのだそうだ。

ガウヤ川の谷へ向かってのバンジージャンプまであります。

紅葉の美しい青空の週末、当然リーガからたくさんの人々が訪れる。谷を渡るロープウェーに乗ろうと思ったら…今日は長蛇の列なのであきらめたかわりというわけではないが、少し美しい森を歩くことにしよう。途中にラトビアでは有名な場所もあるし

★グトゥマーニャ洞窟ここは、「ラトヴィアの薔薇」と呼ばれた人の話が有名で、訪れる人々が何百年にもわたり名前を掘りこんでいる奥では今も水が湧き出している
「ラトヴィアの薔薇」の話が解説版にあったこんな絵が画いてあるから楽しい話かと思いきや、血なまぐさい悲恋話。
●「トゥライダの薔薇」
1620年、スェーデンとポーランドの戦いのさ中。ラトヴィア人のトゥライダ城代が育てたマイヤという娘は美しく育ち、庭師のヴィクトル・ハイルとよくこの洞窟で会っていた。
彼女に目を付けたポーランド兵が偽のメッセージで彼女をおびき出し、危機一髪となったその時…彼女は持っていたスカーフを見せてこういった「このスカーフをつけていれば、剣でも銃でも殺すことは出来ないのです。ウソだと思うなら試してみなさい」ポーランド兵が持っていた剣で彼女を突くと、スカーフはただのスカーフで、彼女は望みどうり死をもって貞節を守ることが出来た。

城には彼女の墓石があり、彼女が葬られた時に植えられたと伝えられる樫が朽ちた巨木となっている

中世の城・レンガの一番古い部分は1214年に遡るとされる。円柱形のいかにも中世の要塞だ現在地上にある入口は観光客用に後年開けられたもの。往時は安全のため梯子でしか入口まで登れなかった木の階段から円形の細い階段へとかわり頂上からは「秋のラトヴィアのスイス」を見晴らすことができた。

ドイツ勢力が建てたこのレンガの城より以前には現地部族の城があったと推察されている。

★敷地内にはラトヴィアに現存するもっとも古い木造教会と解説された建物がある

昼食は近くのバッフェにて

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さらに海岸線を北上し、エストニアとの国境へ至る。おや?あれに見える看板は…そう、間違いようのないマクドナルドであります。「NO BORDER」=(マクドナルドに)「国境はない」と言いたげな看板。ここはもう国境検問がなくなり、こんな看板の設置も問題ありません。


エストニアの首都タリンにはちょうど夕暮れに到着。徒歩すぐのヴィル門からさっそく旧市街散歩へ

旧市街と新市街との間の広場に建てられたエストニアの十字架この十字架について、今年の一月にガイドさんが説明してくれたっけ
一月の日記に書きました。こちらからご参照ください。





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リーガの街を歩く

2013-10-11 12:26:09 | ラトビア
RIGAは、ラトヴィア語では「リーガ」と発音される。ラトビア人の集落はそれ以前からあったが、1201年にブレーメンの司教アルベルトがやってきたことが、現代の商業港リーガのはじまりだ。ブレーメンとは今でも姉妹都市で、有名な「音楽隊」の像が置かれている。
13世紀のバルト海を我が物としていたドイツハンザ商人たちは、この町にたくさんの倉庫を建設した。それらは今でも旧市街の基本的な顔となっている。この三つの北ドイツ風建物は、右から16世紀、17世紀、18世紀に建設されたもので、通称「三兄弟」と呼ばれる
いちばん右の建物が右に少し傾いたような水平線を持っているのは、わざとそのように造られているそうな。元はパン屋で、屋根裏の小麦樽を転がしやすくするためだった、とか。

より新しい時代の商人の館、頂上右手に猫がとりつけられているのが見えるだろうかガイドブックによると、のネコはかつて逆の向きで、ここに住むラトヴィア商人が加盟を拒まれた大ギルドの方向に尻を向けていたとされる。現在はその大ギルド商館自体が無くなって、こちらの商館が残った。

旧市街北の路地、古い城壁にあるスェーデン門18世紀にロシア支配がはじまった際、拘束されていたスエーデン兵がこちらから祖国へ帰されたからその名前になったと解説された。

火薬塔は赤く紅葉した蔦で覆われ、美しい横に新しく建てられているKARA(戦争の)博物館。

市内には1991年のソ連からの独立闘争の時の弾痕も残されている。この内務省では銃撃戦が発生し窓の近くには(修復されているが)多数の弾痕がある

ヤコブ教会のすぐ横に「バリケード記念碑」があったこれは、1991年の独立闘争時に、ソ連の戦車が街を動き回れないように各所につくられたバリケードを意味している。ちょうど大聖堂前の広場で25周年記念の写真展が行われていて、その様子がよく分かった

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新市街との境目を流れる運河沿いは素晴らしい秋の景色

国の三つのエリアをあらわすラトヴィアを捧げ持つ記念像
この運河とダウガヴァ川を巡るクルーズがあると聞いたのだが、そろそろシーズン終わりだったらしい。またの機会がありますように。


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13世紀カトリック時代に建造された聖ヨハネ教会は、内装は新しくなっているが、外観にその昔の雰囲気が感じられる。教会建築を守る人柱として、志願して壁の中に入った修道士たちがあり、彼らに食べ物を投げ入れるためだったと言われる穴同じ壁に取り付けられた顔これは、ガイドブックによると違う解説なのだが、その修道士を思い出させる記念物に見える。

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午前中の最後に「石鹸作り」の趣向を入れてみた。このお店にてこちらからご覧ください。

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ガイドさん情報で、今日正午から大聖堂で短いオルガンのコンサートが行われると知った。お昼を予約していない《手造の旅》はこういう時に効果を発揮できる。入場料5ラッツと聞いたが、支払ってみると小銭でおつりがきた。すでに7ユーロになっていたのだ。ラトヴィアは来年から通貨ユーロに切り替わるのである。

このパイプオルガンのお披露目コンサートで演奏されたのは、かのフランツ・リストがこのオルガンのために作曲した曲。幸いなことに今日の一曲目にその曲が演奏された今日は女性奏者、最後に顔をだしてご挨拶してくれた。

この教会にはかつて修道院時代の中庭がある。赤い小さなリンゴがたわわになっていた齧った方は「けっこうおいしい」との感想。

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コンサートの後、遅めの昼食へ。魚料理をウリにする店へ入ってみる。
お勧めのLake Perch=辞書によるとぺルカ科淡水魚日本人の口にもとてもあう調理。
バルト海のサーモンは、おひとりだけ注文されたのだが、「鮭」というイメージとは全然違った説明してもらうと、バルト海の鮭とノルウェーの鮭とは身の色も全然違うのだそうだ。バルト海は塩分濃度が普通の海の十分の一しかないのだから、同じ魚でなないと言われればそのとおり。いずれにしても、こちらもおいしかったとのこと(^^) 1ラッツ硬貨にも描かれる、ラトヴィアらしい食材のひとつでありましょうか

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遅い夕食をゆっくりたべてからペテロ教会の70メートル級の塔に上る。ここは世界大戦で破壊された後にソ連時代に再建され、エレベーターがある。しかし・・・あいにく雲がとても低くなってきた。お昼の青空から天候は急に変わった。
それでも、入場してみればわかることはいろいろあり、このニワトリはかつて頂上にあったもの戦火でこのような廃墟になった時に焼け焦げたのだろう

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駅の逆側にある世界遺産指定されたという1936年建造の市場を訪問かつて飛行船の格納庫だった建物でもあるということだが、これが何故「世界遺産ん」なのか、ちょっと行ってみているだけではよくわかりません。
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