旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

高野山~奥の院(後半)空海さんの昼食が運ばれる

2022-06-23 13:02:39 | 国内
※奥の院(前半)より続く

●覚鑁堂

平安後期に「空海以来の秀才」と言われた覚鑁(かくばん)。
鳥羽上皇の庇護をうけて座主に就任し(公式の歴代座主には実弟の信恵の名前が記されている)高野山の改革をはじめたが、保延6年(1140)に反対勢力に焼き討ちされて高野山を降り、和歌山の根来寺で「真義真言宗」を興した。
※比叡山天台宗で同じように「真盛天台宗」を興した真盛上人を思い出した※2019年に西教寺を訪れた時のブログにリンクします

●織田信長の供養塔が1970年になって発見された。


奥の院で最大の墓・供養塔は
●江姫のもの 

高さ五メートル。
信長の妹・お市の方の浅井三姉妹の末娘、

徳川二代将軍秀忠夫人。
瀬戸内の御影石をここまで運んできた。
建てさせたのは次男の徳川忠長。
長男の(後の)家光は春日の局に育てられてしまったので、次男の忠長は自分の手で育てた。結果、寛永3年(1626)に亡くなった時、母のために高野山一大きな供養塔を立てたのは次男だった、ということか。忠長は母の死後だんだんと奇行がめだつようになり、1633年に兄(家光)より死を賜ることになる。

それにしても、これだけの巨石をどんなふうに運んで・積み重ねたのだろう。
実は、それぞれの石は内部が刳り貫かれている↓周囲に散在する倒れた五輪塔と同じように

積み重ね方は、積んた高さまで土で埋めて傾斜路をつくって上に乗せる方法。
※古代エジプトの神殿やピラミッドも同じ方法で積んだと推測されている
***
「御廟の橋」の手前に、空海さんの食事をつくる御供所がある。

10:30の昼食に間に合った↑
まず↑この台の上に置いて、むこうの祠に座している嘗試(あじみ)地蔵に味見していただく。

その後、御廟に運ばれていく。

↑御廟橋の前で一礼↑
御廟は承和元年(834)に空海自らがその場所を定め、翌年3月15日に入定(にゅうじょう)が近いことを弟子らに告げ、3月21日午前4時に永遠の瞑想に入ったとされている(高野山HPより)。今もすべての衆生のために祈り続ける空海さん。朝食(朝6時)と昼食(10時半)が届けられる。

↑橋の下を流れる玉川に「流水灌頂(りゅうすいかんじょう)」供養がある。
※橋本新聞の記事にリンクします
この橋から先は撮影禁止。

****
帰路は新参道をいく。

↑左の角は阪神淡路大震災の慰霊碑、右角は東日本の慰霊碑。
それぞれの日に慰霊祭がおこなわれる。

こちらの道沿いには現在の企業もたくさん↑趣向を凝らしている
コーヒーカップの中にはちゃんと…

↑赤御影石のコーヒーが(^^)

↑ロケット部品メーカーはロケットなのだが、ちゃんと五段=五輪塔になっているのだそうな。

↑「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」
=すべての人々が救われるまで私の願いは尽きない。
西暦で832年、高野山ではじめて行われた万燈万華会での空海の言葉と伝わる。

*****中の橋のバス停から乗車
バスの本数は多くない。

↑最後に刈萱堂へ。きのう「青葉祭」の日曜日は団体客も含めずっと賑わっていたが、月曜の今日はひっそり↑
堂内には「刈萱同心と石動丸」の話が絵物語で分かりやすく解説されている↑
1986-87国内添乗をしていた時代に、ここでガイドさんが話してくれたことだけ記憶していた。
高野山は何度か宿泊したのにほとんど何も覚えていない。

当時二十代なかばの自分は、理解できる時に至っていなかったということか。


高野山の魅力を伝えられる《手造の旅》を考えたいとおもいます。
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高野山~朝の護摩祈禱から奥の院(前半)

2022-06-21 14:38:41 | 国内
高野山奥の院のナイトツアーに参加した。
二十万基以上の墓が密集する場所だが不思議と怖さは感じない。

奥の院まで参拝し復路はバスで宿坊に戻った。

翌朝、本堂でのお参りに続き、

すぐ前の毘沙門堂での護摩祈禱に参加↑二十人も入ればいっぱいになってしまう。

太鼓と迫力ある読経、めらめら燃え上がる炎、煤の匂い。

途中、火の神に油やハチミツなどの液体が投げ込まれる。
日本古来の修験道やヒマラヤの小さなゴンパでの読経を思い出した。
このお堂には空海自身が刻んだという毘沙門天が安置されている。
**
08:45「一の橋」でガイドさんと待ち合わせて奥の院へ。

↑左下の現在地「一の橋」から右上の弘法大師御廟まで約二キロ。これを「奥の院」と呼ぶ。

入ってすぐ左に立つ碑は、この道を石畳で舗装したのは●阪口祐三郎(すけさぶろう)だと書かれている。

↑彼自身の墓と銅像がほどなくみえてくる↑
明治17年(1884)生まれの彼は、いわば大阪ミナミの一時代を築いた人物。
幼くして両親を亡くしたが料亭「大和屋」を営む叔母阪口ウシにひきとられ、13歳で彼女が見込んだ松本重太郎に預けられた。

↑●松本重太郎の墓も高野山にある↑松本重太郎は京丹後・間人出身で、高野山への交通である南海電鉄の創設者。阪口ウシは若い駆け出しの彼を信頼し、大金を融通した。
重太郎は恩人の甥を立派な事業家に育て上げたのだった。


同じく「一の橋」を入ってすぐ左に見える●「同期の桜」の白い記念碑。すぐ後ろに鶴田浩二の墓。彼は19歳で海軍航空隊に入っている。高野山には終戦までの一年だけだが航空隊が置かれていた。

●数取り地蔵

ばらばらで地中に埋まっていたが、江戸時代・延宝年間(1673‐81)に霊夢でその場所を知った大阪の塗師多左衛門が掘り出し、元通りにして祀った(昭和五十三年の解説版より)。このお地蔵さんは前を通る人をすべて覚えていて、誰が何度参拝したかを閻魔様に報告する。回数が多ければ「功徳を積んだ」として裁定に斟酌されるそうな(^^)

●町石

↑鎌倉時代の「町石」が一町(109m)ごとに立てられている。もともと空海の時代から木製で立てられていたと伝わる。鎌倉時代、北条氏御家人のひとり安達泰盛らの尽力により二十年かけて整備された。地中一メートルぐらいまでしっかり埋め込まれた全体で三~四メートル近くになる花崗岩。
起点は根本大塔※リンクします
奥の院までは36基。ふもとの九度山までは180基。

大名の墓はたくさんある。
当時全国で250ほどあった大名のうち110が高野山に墓をもっているのだそうだ。

↑地元●紀州藩の墓↓は三か所に↓



↑●伊達政宗の墓


↑薩摩藩島津家↓

●島津義弘・忠恒父子は秀吉の朝鮮戦役に駆り出され最前線で修羅場を見た。
味方だけでなく敵の朝鮮兵も合わせて供養している。

敵味方を問わず、民族も問わず、宗教さえ問わず、すべてを供養する心で受け入れてきた高野山の精神は世界的にも評価されて、

高野山がユネスコの世界遺産に登録される時、大いに役立ったそうだ。




↑●明智光秀は生前に高野山の墓をつくっていた。

↑なんど修復しても五輪塔の丸い部分が割れてしまうのだそうな。
光秀の墓は小松が宿泊した宿坊が管理している。
奥の院の墓にはそれぞれ管理宿坊が決まっている。

★一石五輪塔

高野山信仰のほんとうの主役は、巨大な墓などつくることができない庶民である。

彼らは一生一度の願いを抱えて高野山に詣でた。

正式な墓をつくることなど夢の夢。
せめて一つの石を削って五輪塔にしよう。

高野山のどこを掘っても↑必ず一石五輪塔がぞろぞろでてくる。

●初代市川團十郎墓

↑舞台上で元禄17年(1704)に共演役者に刺殺されている↑


中の橋を渡る
※写真は話の構成上前後している部分があります

●汗かき地蔵

そもそも地蔵様は六道を歩いて衆生を救済しておられる。
地獄まで出向いて人々を救済するけれど、この世にもどってきた時に「あの時はあぶなかったなぁ」と汗をかくのだそうな(^^)
●姿見の井戸

覗き込んで、もし姿が写らなければ三年以内に死ぬ、そうな。

●禅尼上智碑

永和元年(1385)鎌倉時代の年号で、高野山ではじめての女性の墓かもしれないとされている↑
日本語解説では「耳を当てると『極楽に似た声』がきこえる」
英語解説では「can hear the cris in hell」

●パナソニック

↑2018年の(関空への橋が止まった)台風21号で後方に見える木折れて供養塔をいくつか破壊したのだそうだ↑

※奥の院(後半)に続く
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高野山~現在の金剛峯寺

2022-06-20 11:58:55 | 国内

金剛峯寺の入口階段に↑水桶が置いていあるのはなぜ?
「昔、行事には多くの人が馬でやってきたので、馬のための水と飼料をここに置くならわしだったのです」
と、ガイドさん。
今日は空海の生誕を祝う「青葉祭」の日。

この「こうやまき」は飼料にならないけれど↑
馬はいなくなっても習慣だけは受け継がれている。

↑結界をあらわし↑祭の日だけ置かれる杉の枝。

↑花が貴重品の高野山では「こうやまき=高野槙」が花の代わりに供えられてきた。
かつては世界中にあったが今は日本の固有種で、悠仁(ひさひと)親王のお印になっている。


↑建物入口に高野山の二つの紋↑
右は空海に高野山を与えた地神・高野明神の三つ巴紋↑
左の桐は秀吉から与えられた↑
なぜ?

信長が高野山も攻めていたことは比叡山ほどには知られていない。比叡山より厳しい立地のせいか幸い陥落しなかった。本能寺の変の後にやってきた秀吉は、僧・木食応其(もくじきおうご)の説得に応じ、以後は逆に高野山を支援するようになった。母の大政所(おおまんどころ)が亡くなるとこの場所に青厳寺を建てた。となりには"木食応其は高野山の中興の祖だ”として「興山寺」が、同時期に建てられた。

現在の金剛峯寺は明治二年にこの二つを合併させて「総本山金剛峯寺」と称するようになった。空海時代の金剛峯寺がそのまま継がれてきたわけではなかったのだ。
※霊宝館のHPに詳しく解説されています

文久3年(1863)に建設された本殿の屋根には昔からの火除け天水桶が乗っている。
檜皮(ひわだ)葺きの屋根は厚さ9センチ↑一坪あたり二千本の竹釘で留められている

↑竹釘の実物を見せてくださった↑檜皮は約二十年で取り換えなくてはならないが、竹釘は六十年もつので毎回換えなくてよいとか↑

建物内部に入る

↑入ってすぐに奥の院にあった杉の巨木↑四十年前に倒れたもの↑
百十七の寺がある高野山全体を統括する事務所といった雰囲気。

↑金剛峯寺の「寺務検校執行法印(じむけんぎょうしぎょうほういん)」=「法印さん」が行事の時に乗る輿↑
空海の名代というお役目で、任期は一年。現「法印さん」は523世。毎年3月12日に転衣式(てんねしき)が行われて交代する。
この役職を務めた人を「前官(ぜんがん)さん」と呼んでいるそうな。

真言宗のトップである座主は現在414代。
9世紀に2代目座主を56年務めた真然の舎利容器とおぼしきものが昭和63年(1988)にみつかった。

↑外に見えるお堂は寛永17年(1640)に建てられたもの。
解体修理の際にこの地下から出てきた。



↑主殿では高野山117院の僧侶たちによる講義が行われている↑
オックスフォード大学がたくさんのカレッジからできていて、学生は自分が師事したい人の元へ行くカタチだったのを思い出した。

昭和59年(1984)に作庭された日本最大の枯山水「蟠龍庭」↑百四十の御影石は二匹の龍が宿泊棟を護っている姿をあらわす
↑↑この奥には、現代でも皇室関係の方が泊る棟がある↑観光ルートから全体像は見えない

↑天皇の座所↑向かって右の裏には武者隠し


↑2020年に千住博氏によって描かれた「断崖図」↑開山1200年記念での奉納↓

↓となりの●土室(つちむろ)には千手作品としておなじみの「滝図」が↓

土室はもともとは土で固めた部屋の中に囲炉裏を置いた、冬の寒さがきびしい高野山らしい部屋↑
千年前まで、冬には僧たちもふもとの集落に下りるのが習慣だったそうだ。

↑ここでは2月14日の夜11時から「常楽会(じょうらくえ)」が行われる。
釈迦入滅を悲しむ物語が、「講式」とよばれる節回しで夜を徹して語られ続ける↑
「暖かくてつい眠ってしまうんです。朝にはちゃんと食事もふるまわれます」
と、参加したことのあるガイドさん(^^)

すぐ隣は広い台所↑

↑巨大な窯からの煙はちゃんと出口がつくられている↑

↑天井からのびた棒の先に、中空に出現した棚↑
白い紙がぐるりと貼られているのは、

ネズミを寄せつけないため。

↑二石炊きの巨大な窯
どれだけの人がここで暮らしていたのだろう。

3㎞×6㎞の盆地である高野山。
今も大小117の「院」があるが、かつて2000あったともいわれる。
現在の人口は約3000人。
うち500人が僧侶。

金剛峯寺は今も昔も高野山の中心にある。

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高野山~はじまりと現在の「伽藍地区」

2022-06-16 15:49:48 | 国内

山に登った空海は二匹の犬を連れた身の丈八尺(2.4メートル)の狩人と遭遇。
唐から帰国する船に乗る時「密教を広めるのにふさわしい場所をお教えください」と念じて投げた三鈷杵が、松の上で光っている場所まで案内された。

↑これがその(何代目かの)松

葉が三鈷杵のように三つに分かれている↑
「四面高嶺の平原幽地。これを高野山と名付く」
高野山という名前は、まわりを山に囲まれた盆地を指して空海が命名した。
この名の山はない。

大阪難波から延々電車に乗って、

標高539mの極楽橋駅に着く。

ここからケーブルカーに乗って標高900mの高野山に至る。

バスに乗り換え高野山の寺域を目指す。
現代でも行きつくのに時間がかかるこの立地、最澄が与えられた比叡山と比べるといかにも遠い。空海は「修行に適している」と喜んだというけれど。

↓ここから先は

↑明治になるまで女人禁制だった。
女性たちが祈った「女人堂」まえに、巨大な「お竹地蔵」がある

延享2年(1745)5月15日建立と刻まれている。
亡夫の供養に訪れた横山竹という寡婦が女人堂に滞在するうち、地蔵尊が夢枕に立った。
その姿を留めようと、三十年働いた財産をつぎ込んで建立したのだという。

刈茅堂バス停で降り、宿泊する宿坊にチェックイン。

今日は空海の誕生を祝う「青葉祭」で、境内にも出店が。
**
まず「霊宝館」へ↓

いちばんみたいと思っていたのは
※百姓たちの必死の書状。
リンクします

たどたどしいカタカナ書きの文字は、今の我々にも読める。気持ちが伝わる。
大河ドラマに合わせて「鎌倉時代の高野山」展が開催されており、国宝指定されているこの書状も公開されていた。

↑霊宝館から出たところ↑梅雨の合間の気持ち良い青空
***
今日、6月12日は空海の誕生を祝う「青葉祭」。

ちょうど餅撒きにいきあわせ、拾うつもりもなかった餅をいただくことになった。
これがとっても美味しかった!※高野山の餅がなぜ美味しいのか、こちらに書きました
****
冒頭二枚目写真の三葉の松があるエリアは空海が最初に住んだ。

↑中心になっている↑●根本大塔は高さ約50m。空海の時代にもほぼ同じ高さのものがあったとされる※二代目(甥の)真然が887年ごろ完成↑現在のものは昭和12年(1937)に再建され平成8年(1996)に塗りなおされている。
内部は曼荼羅の世界を再現して極彩色※ディスカバージャパンのページにて少し見られます


↑●中門もまた空海のころから同じものがあったとされるが↑何度も焼失・再建を繰り返し天保14年(1843)の火災で焼失した後172年も空白だった。平成27年(2016)の開創1200年を記念してついに再建。↑写真手前に見える丸い石は古い時代の礎石↑

↑現在の門も焼失した門の礎石の上に建てられており、いびつなかたちの石にぴったり合わせて柱を立てるのがいちばんの苦労だったそうだ↑

↑江戸時代の火事の時、持国天と多聞天は救出され別のところに保管されていたが、再建に合わせて元の場所にもどった↑※上の写真の右が塔を持った多聞天↑

↑増長天・広目天は新たにつくられ、たしかに真新しい↑※筆を持つのは広目天

↑新旧甲乙つけがたい(^^)


↑中門を抜けると正面に↑●金堂
↑空海はこの場所で修行していたと伝わる↑現在みられる堂は昭和7年(1932)の再建↓

昭和元年の火災では9世紀空海時代からのご本尊薬師如来坐像など多数が焼失した。
※焼失したご本尊はどのようなお姿だったのか?写真ぐらいは残っているだろうと探してみたが一枚も撮られていなかった。
何度調査依頼があっても絶対秘仏の本尊の厨子だけは開帳されず、さらにこんな話も伝わっている。
大正期に「点検」と称して一度だけ開帳され三人の重役だけが中を拝観。
しかし、いくら目を凝らしてもよく見えず、拝観したうちの二人は間もなく遷化(せんげ)された…。
※霊宝館のページに焼失した脇侍の写真などが載せられています

昭和の火災ですぐ後ろにある●御影堂↓が焼けなかったのは偶然ではない

金堂を焼く火が迫ると僧侶たちは水をかぶって御影堂の屋根に登って火を防ごうとした。それでも発火しそうになったお堂に、誰かが門前でつくっている味噌を塗ることを思いついた。逡巡の暇はなく実行され、結果的に御影堂は焼けなかった。

御影堂の端の木材は外側が炭化してなくなっている↑
どれだけ火が迫っていたのかがわかる。
この店では「火除け味噌」を今でも販売しております(^^)


↑現在では「ドレンチャー」が設置されている↑ここから噴水のように水が噴き出して御影堂を包む↑
*****
少し離れて建つ西塔も9世紀にはすでにあった。

現在のものは天保5年(1834)に再建されたものだが、このエリアでもっともバランスのとれた建築ではないかしらん。

↑特に屋根の下の「亀の甲」と呼ばれる部分の上にある円形の欄干↑
******
境内入って左手にある↓●六角経堂

平安時代末期の鳥羽上皇(後白河天皇の父)のために皇后の美福門院が創建。
↑現在のものは昭和9年(1934)の再建↑

↑押し手がぐるりと回る↑その下に阪口祐三郎(すけさぶろう)の名前がある※奥の院を訪れた時ふたたびこの名前にであう
*******

左手に鳥居↑空海が訪れる以前からの地神を三柱祀っている↑
冒頭の縁起絵で描かれた猟師もその一人で●高野明神↓社の横に連れていた犬がちゃんといる(^^)↓

二柱めは、空海に高野山となる土地を与えた●丹生都比売(にうつひめ)、
もうひと柱は●十二王子 百二十伴神。
これら三神がどのような関係にあるのか、正直よく理解できない。

重要なのは、仏教の聖地は日本古来の神から与えられた土地に存在し、
空海も敬意を表してこの神社を建立しているということ。
明治維新では神社と寺を無理に分離させて廃仏毀釈の悲劇をおこしてしまったが、
二つを分けるほうが不自然。

↑高野山●金剛峯寺の紋章は↑二つ
左は秀吉から賜った桐の紋、右はこの土地を空海に与えた●丹生都比売(にうつひめ)神の紋。
世界遺産高野山を構成するひとつに麓にある神社が指定されている※そのHPに三つ巴の紋えがかれています


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堺~環濠掘の刃物の町

2022-06-14 14:57:46 | 国内
「古墳をつくるのに鉄の道具が必要だったのが、堺の刃物鍛冶のはじまりなんです」
大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする巨大古墳がたくさんあるこの地では、鉄器の鋳造や修理が常に必要だった。
産業はそうやって興るのだ。納得。

だから、鉄砲が伝わった時にその国産化が可能な人材は堺にいた。
鉄砲と同時に日本に伝わったタバコについても冒頭写真のような専用包丁が開発され↑
それが全国に堺刃物の名声を広げていった。

2022年3月にリニューアルオープンした↑「堺伝統産業会館」でよく理解させてもらえる※サイトにリンクします

大阪らしい↑鱧(ハモ)切用の包丁↑

華道の世界でも有名だそうな↑

他にも↑これだけ多様な包丁を開発した堺はまさに商人の町↑

現在でも職人の工房がこれだけの数残されている↑

与謝野晶子も故郷堺の歌にその情景を描いている↓

「住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」
※除幕式の時のお話がこちらに載せられていました
町をあるけば鍛冶の音が聞こえるのが堺だったのか。
「七まち」とは、江戸幕府お買い上げとなったタバコ包丁をつくっていた工房がならぶあたりをさす業界用語だったそうな。
環濠掘に囲まれた堺
特殊技術を持つ職人と貿易で富を蓄えた堺は狙われやすい。
最初の環濠掘は室町時代後期には建設されたと推察されている↓ガイドさんが示してくれた右の図絵↓

↑左側が現代の地図↑
室町時代からの濠は秀吉によって埋められてしまったが、大坂夏の陣の後徳川幕府の直轄地となり一回り大きい濠が作られた。
それは昭和45年大阪万博の頃まで残っていたが、ついに高速道路を作る為南側を残し埋められた。
中世の黄金の町堺を守っていた濠はこれより一回り小さいものであることが近年の発掘調査でわかった。
※堺市のページにリンクします

↑約3㎞×1㎞の環濠掘の内側の町は整然と直線道路で区切られていた↑それが今の街並みにもはっきり受け継がれている↑

↑整備された住所は●●丁までで「目」がつかないのが特徴だそうな↑
城下町とはぜんぜんちがう、

真っ直ぐで見通しよい・商人の町らしい合理的な道。

●河口慧海が学んだ「清学院」↓

ネパールを訪れた2008年に河口慧海の滞在した家に寄ったことがあった※その日のネパール旅のブログにリンクします
ガイドさんと歩きはじめた「七堂」の駅前にある↓河口慧海像↓

ヒマラヤを超えてチベットまで、仏教典のルーツを求めて潜入した驚異的な探求心は、生まれ故郷の堺で育くまれたのだろう。

彼が幼少期に学んだ「清学院」は、元禄二年(1689)の地図に「山伏清学院」として載せられている。
それほど大きくない建物だが護摩焚きをするお堂が表通りに面してあった。

その裏側に学ぶ部屋がある↑木製の小さな机はここが堺市に委託される際に家を整理していて見つかった↑こういう机を「天神机」と呼ぶのだそうだが、子供たちは「登校」してくると自分で机を引っ張り出して座った。いっせい授業ではなく、個人個人に課題を与えて個人教授した。
男女区別なく・近所の子供たちが学びに来ていた。環濠掘りの中にはわかっているだけで十九の寺子屋があったそうだ。

↑「天神机」はこの場所に積み上げられあったもの↑文化五年(1808)の銘があるものもあるそうな。
↑上の写真で右上にちょっとだけ写っている格子はとなりの鍛冶屋。
子供たちは鍛冶の音を聞きながら学んでいたのか。

狭い世界に生きている幼児期にどんな教育を受けるか、何を見聞きして育つかは一生を左右する。
河口慧海は、今なら幼稚園から小学校一年生の時代に、修験道=山岳信仰の雰囲気を色濃く感じさせる寺で学んでいた。
長じてチベットへ旅することで自分自身のルーツを見つけた気がしたのではないかしらん。
**
お香もまた堺の伝統産業。

堺の線香は戦国武将「小西行長」の兄がその製法を朝鮮半島からつたえたとの伝説がある。
↑茶室を特別な雰囲気にするのにも役立ったにちがいない。

梅を練りこんだ↓

↑少し湿った球は、入れ物の蓋をあけるだけで薫ってきた。

大きな店で大量生産できるモノは伝統産業棺でも扱われているが、こういった手作業のモノはその店へ行かないと出会えない。

***
何度も火災に遭った堺だが、江戸時代前期の建物が残っている↓

●山口家住宅↑の入ってすぐ母屋がその空間

↑土間の上の太い柱は赤松↑

近隣の税徴収も請け負っていた庄屋には多くの人が出入りしていた。

↑かつてはとなりも同じ家の敷地で表玄関はこちらだった↑巨大な竈はいつごろまで現役だったのだろう。

↑朱塗りのお膳やお椀がたくさん残されている↑堺市に委託される直前には男性お一人がお住まいだったそうだ。

江戸後期に増築された↑茶室やもてなしの間↑

続く
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