旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》山形~亀岡文殊を見学してから須貝さん宅のコンサート・ランチへ

2016-06-26 16:17:39 | 国内
この三百年前の木彫があまりにおもしろくて、ずうっと眺めていた。

この相撲の様子。それを見守る人々の中にいる鶴と亀も、あまりにおもしろい。
※⇒こちらにもう少し写真を載せて書きました。

さらに、その隣の鐘楼内部の素朴な木造もおもしろい。※こちらに書きました。

《手造の旅》山形の最終日朝、ガイドさんとドライバーさんに勧めていただいて訪れた亀岡文殊。今回の旅で屈指の興味深い場所だった。
きのう、おとといと訪れた寺社は、ほとんどすべて明治期に大きなダメージをうけてしまっていて、伽藍の位置から形までオリジナルではなかった。それに比べると、本殿は大正期の建て替えであったとしても、近くの観音堂と鐘楼は享保年間(享保元年は1716年。今からちょうど三百年前になる)に建造された、ほぼそのままの姿であろう。

***
お昼少し前に須貝さん宅へ到着。築二百年を超える立派な茅葺農家は、それだけで訪れる価値がある。二十数人ならば昼食のテーブルを入れてもゆったり収まる。お出しいただいた料理は、実に家庭的でほっとさせてくれる。御殿守にもぜったいひけをとらない味だった。

豆ごはん・クルミごはん・ゼンマイ煮・おかヒジキの辛しあえ・イカの姿煮


きゅうりキムチ・きゅうりからし漬け・白菜漬け・かぶの酢漬け・イナゴの甘煮
トウモロコシ・枝豆


ちゃんとミキサーも入って、準備万端。


須貝さんの歌は、小松がこれまでやってきた音楽とはずいぶん違う。「こじゃれて」はまったくいないが、力強く頼もしい。伝えたい事がはっきりある。はじめてここへ伺った時、それを感じたからこそ、この《手造の旅》をどうしても実現したいと思った。
自己満足を超えて、誰かに向かって音楽を表現する事の意味はなんなのだろう。 もう高校生ではない。楽器が上手い事や、「こじゃれて」「かっこいい」音楽ではなく、自分自身でなくては伝えられない音を出していきたい。ここに、そのひとつのかたちがあるように感じたのだ。



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《手造の旅》山形~早朝のさくらんぼ狩り、朝食に生どらやきがついたわけ

2016-06-26 08:32:03 | 国内

今朝も起きると雨は止んでいたが、出発の06:15になると再び降りはじめた。

 「梅雨のど真ん中、天気予報もずっと雨だったから、ここまで傘をささないで来られたのはほんとうに幸運だったが・・・さすがに今日はだめか」そう思ったが、TOMOO農園近くでバスを降りると・・・突然そこに大きな虹がかかった。



なんという歓迎の虹・・・どんなに人間ががんばっても、こういう幸運は与えられるとは限らない。


山形の神様、ありがとうございます<(_ _)>



雲の切れ間に青空。 須貝さんが満面の笑顔でお迎えくださると、自然に我々も笑顔になる


有名な「さとうにしき」は、今年は収穫が早く、ほとんどの木は終わったのだが、我々の為にいっぽんだけ残しておいてくださっていた。朝一番のさくらんぼはパリッと張った感じがする。枝から摘んでそのままほおばる。なんと贅沢な!



「枯れてしまう直前になると、その枝は子孫を残そうとしておもいきりたくさん実をつける」そうか、さくらんぼもそういう本能を持っているのか↓



さくらんぼは、一種類だけを植えても実がならないそうで、「さとうにしき」のそばに「ナポレオン」が植えられていた。すっごく甘いというのではないが、違った美味しさがある。こちらの方が好きだというプロのご意見も納得できる。受粉の為にまめ小蜂の巣箱も⇒


三十分ほど、全員さくらんぼに集中。でもそんなに食られるわけではなく。お持ち帰りOKのパックにいっぱい詰める。撮影をして、宿にもどり、07:30から朝食↓



★上の写真、手前の「生どらやき」は、山形市内からのゲストお二人が、我々全員に持ってきてくださった。


お二人、ほんとうは今日の須貝さんとのコンサートに来たかったのだが、どうしてもお仕事の代わりが見つからず。二日前まで「残念ながらいけません」と連絡をいただいていた。


だが、早朝、朝食だけご一緒してくださるために車を飛ばして駆けつけてくださった。 「 《手造の旅》で山形へこられるのなら行かないと、一生後悔しそうだったから」と。ああ、感謝感激です。


**ひと休みして、09:00出発

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フラワー長井鉄道で赤湯へ

2016-06-25 21:55:46 | ベルギー

出羽三山エリア、森敦の小説「月山」の舞台になった注連寺を出て、赤湯へ向かう。


途中、「米粉の滝」ドライブエリア停車。上を通るバイパスが出来る前はどのバスもみんなここへ止まったものなんだそうな。



さらに、最上川にそって走ると、朝ドラ「おしん」の撮影で使った吊り橋が見えてきた


さらに、最上川に柳瀬をつくっている場所で休憩⇒このアユ、おいしかったです⇒


第三セクターのフラワー長井鉄道の始発・荒砥駅到着 ロビーには、山形県のかたちをした「きてけろくん」も⇒


鉄道にかかる鉄橋の説明⇒私事だが、先月イギリスで、「世界最初の鉄の橋」とか「世界最初の鉄の吊り橋」とかをたくさん見たので、それ以来こういうものにずいぶん興味が湧いてきた。


しかし、いちばん小松の目を惹いたのは、明治時代のオリジナルと思しき、手描きの養蚕教本↓



養蚕が日本の最重要の輸出産業だった時代に書かれたもののようだ。こんなの無造作にぽんとおいておいて、大丈夫なのだろうか。


※⇒こちらにもう少し書きましたのでご覧ください


やがて、二両編成の列車がやってきて、一両に切り離し↓



方言ガイドの井上さんのテンションは、乗っている間中高かった⇒


記念乗車券⇒ 一般の乗客もいるなかで、ずっとテンション高く「方言ガイド」さんをやるのは、こそばゆかったかもしれません。


白兎駅の駅舎⇒ 文化財クラスの木造駅もいくつかある⇒


車内販売のタオル。なかなかつくりが良いので買ってしまいました↓



うさぎの駅長「もっちー」がいる宮内駅で下車。 


おりたところに、昔の養蚕農家だったという旧家が残されていた⇒ 井上さんのお見送り⇒


日本三大熊野のひとつに立ち寄る。



破魔矢の鈴だけを外して納めてある堂 


少し階段を上って境内へ 本堂 菊と桐の両方の御紋がつけられている↓



本堂の裏の彫刻に、三匹のウサギを見つければよいという。これがなかなか・・・ 


**本日の宿は赤湯温泉の老舗・御殿守さん


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《手造の旅》山形~湯殿山神社朝詣り、大日坊、注連寺の即身仏

2016-06-25 13:42:40 | 国内

夜中、ひどく雨の音が聞こえていたが、明るくなって止んでいた。朝05:20志津温泉「つたや」を出発。宿のご主人は山伏なので、関係者車両しか入れないエリアへも我々を連れて行ってもらえる。


 まだオープン前の有料道路区間へも自分で柵をはずしてどんどん登ってゆく すると、湯殿山神社のご本尊への赤鳥居が見えてきた。



白装束をまとった我々は、いよいよ神域に入ってゆく「写真禁止」だけでなく、ここは「聞くなかれ 語るなかれ」の場所とされてきたので、芭蕉もこの場所の詳細には触れていないのだそうだ。


早朝の少しだけ肌寒い空気。裸足になって、目をつぶり、手を合わせて、祈祷(というのかしらん)を唱える。我々は神様に朝食を捧げる儀式に参列している。 雨は止んだが風が木々を揺らしている音が聴こえる。足元を流れてゆくご神体から流れ出す湯。 五感で何者かの存在を感じる場所だった。


湯殿山の信仰の核心に、かつては、このように簡単にはたどり着けなかった。「仙人沢」と呼ばれる流れの中を歩いてこの場所までやってきていたのだそうな。


山伏のオーナー曰く「澤の途中に洞窟があって、真っ白な石があるんです。そこからしたたる水を飲んで、新しい命を授かる、とするのです」 簡単に来てしまっては見えてこないものは、まだまだたくさんあるのだろう。


**07:25「つたや」に戻り朝食  充実した朝詣りとなった。


09:00出発し、まずは


●瀧水寺 大日坊を訪れる。



ここもかつては大伽藍のある寺院だったのだが、廃仏毀釈で焼かれてしまい、現在のものからかつての姿を思い起こすのは難しい。ただ、ひとつ、時代が定かでない仁王門が目につく。※廃仏毀釈、明治八年の大火災、その後の地すべりなどの災難を超えて残された、ほとんど唯一のオリジナル建築物とされている。



あとから、どうしても近くで見たくて、バスを下に回送してもらった。この部分だけは仏教寺院の時代のものがそのまま残されていると感じた。この仁王様もよいのだが※ネットでは「運慶作」とするものもあったが、どうなのでしょう・・・そこまでの迫力は感じなかった。 


それよりも、このユーモラスな風神と雷神が、圧倒的におもしろい。まともに修復されず、観光バスのご案内でも特に案内されない存在なのかもしれないが、一見の価値がある。真如海上人の即身仏があるのでこの場所へやってきたようなものだが、この仁王門と彫刻の方が美術的な観点からは見るべきもだ。




★大日坊は即身仏となられた真如海上人がおられることで有名。即身仏はミイラとは違い、生前からの強い意志で生きながら自分自身の肉体をミイラと同じ状態にまで削りだしていった末の姿だと知った。


本堂のとなりの普通の部屋に、ガラスの向こうに装束を身にまとったお姿があった。御利益を得ようと、その手元からつながった紐に人々は触れて、五円玉を結び付けてゆく↓※この紐の逆に真如海上人がおわします。



「第八十二世は暗殺されました」と説明があったので驚いた。 あとから調べてみると、明治の廃仏毀釈の時代、八十二世精周(せいしゅう)は、当時まだまだ未開の地だった小樽周辺に足跡を残していて、同名の寺が今でも存在していた。かなり活発な活動をしていた人物だったようだ。


しかし、その「暗殺」の顛末については、くわしく調べることができなかった。


大伽藍の寺が焼かれた時、この寺にあった三体の即身仏のうち二体は焼けてしまった。真如海上人だけが残ったのは、生前に本堂とは別のお堂を建てるように言い遺していたからだという。


***


●湯殿山 注連寺


ここにも鐡門海上人が即身仏として伝わっている


こちらは女人禁制だった時代に、女性がやってくることのできる最後の場所だった。


寺のホームページにてお読みください


意外に現代的な本堂の一角に鉄門海上人は鎮座していた。


   ←こういう新しい試みも、百年もすればなじんでしまうのだろうか。


さて、鉄門海上人関連で目をひいたものは、この掛け軸。


人足あがりで、もともとは文字が書けなかったとも言われる人物だからなのか、手形を押してある↓



 以前、NHKの番組「ヒストリア」でもとりあげられて印象に残っていた人物だったので、ゆかりの品々を興味深く見た。


逸話として、驚かされたのが下の絵のシーン。滝修業ではなく、右のシーン、女性に何をさしだしているのか?↓



鉄門海という名前になる以前、ただの鉄という人足だった時代の馴染みの遊女が慕ってやってきて、どうしても還俗させて添いたいと去らなかった。


鉄門海は覚悟を示すために、自分の一物を切り取って渡し、帰らせた。※説明によると、「棒」ではなく「球」の方だった


この「球」は幸運を呼ぶものとなり、なんと今でも鶴岡市の南岳寺に、別の即身仏と共に保管されているのだそうだ。現代の血液鑑定で、鉄門海上人と同じB型であったという。


***


フラワー長井鉄道へ向かいます。

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《手造の旅》山形~羽黒山から志津温泉「つたや」へ

2016-06-24 21:25:39 | 国内

東京駅発07:12の山形新幹線「つばさ」は、10:06に山形駅に到着。すぐに出羽三山のある庄内地方へ向かった。最上川の上流にあたる地域に月山湖ダム・月山ダムなどをすぎてゆく 庄内地方の名産といえば柿。この巨大な柿は百万円だそうだ↓ 羽黒山の巨大な鳥居がみえてくる ここは出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の三神をあわせて祀る三神合祭殿がある。雪深い冬にはここまで来るだけで御利益を得られるということ? 江戸時代までは神仏を合わせて祀っていたが、明治期の廃仏毀釈で仏教寺院はそのほとんどが改宗または壊滅させられ、仏教建築も壊されてしまった。なので境内に残る仏教の鐘楼が異彩を放っている。 鐘楼は1617年江戸時代に造られたものだが、ここに釣り下げられた梵鐘の由来は一回目の元寇・文永の役1274年に遡る。付加されていた解説文に少し書き足す→「鎌倉幕府から依頼されて戦勝を祈祷をしたところ、近くの鏡池から九頭竜王の影が出て酒田湊方向へ飛び去った。すると、蒙古の船は海中に没した。これにより鐘を寄付された。」鐘には建治元年(1275年)八月二七日の銘があるそうだ。 すぐ近くに、その九頭竜王が出でたという「鏡池」。周囲百メートルほど。池の向こうに社殿。  この池に大正時代にかけられた橋を撤去する際に、数百枚の銅鏡が発見された。 「昔は13歳になると山伏の様に修験道をさせる習慣があって、無事にそれが成就すると御礼で母が池に鏡を奉納する習慣があったんだそうです。」と、ガイドさん。 鏡は平安から江戸までと幅広い時代にわたっているそうだ。 ううむ、どんな鏡か見てみたい。近くの「出羽三山歴史博物館」になら所蔵しているのではないか、と足を向けた→お昼ご飯においしい月山筍のそばを食べちゃったので、入館するまでの時間はないが… 「ここに銅鏡は展示されているのでしょうか?」と訊ねると、入館もしない輩に親切にいろいろお答えくださった。「ずらっと四十枚ほどならんでますよ」とのこと。よし、次回(いつ?)は、じっくり見てやろう。解説リーフレットだけいただきました↓ ふと見ると、巨大な破風の部分が建物の横に立てかけてある。改修で取り外されたものらしい。こういうのこそ見て面白いものなのだけれど… **出羽三山の開祖は第三十二代崇峻天皇の第三皇子だった蜂子(はちこ)皇子と言われる。大化の改新前の話。崇峻天皇は仏教推進派の蘇我馬子(叔父であり義理の父)に暗殺されてしまい、逃れてこの地にやってきた。 京都北部の由良川を経由、日本海から上陸したところには、今も同じ名前の地名が残っている。 ここで三本足のカラス(八咫烏)に出会い、導かれ、洞窟を抜けて出たところが羽黒山だったというのだ。境内にある碑がそれをあらわしている→ 蜂子皇子の墓とされている場所→ここは宮内庁の管轄で、最近まで守衛さんも置かれていたそうな。これが今は誰も使わない小屋→

**小さな社の彫刻がすばらしかった 

もともとの参道だった2446段の石段への鳥居。  降りるといっても楽じゃありません。

 ※こちらにもう少し書きました

****

午前中よりも月山の山容がよくみえた↓

志津温泉はしずかな山里。ロビーを入ると現代的な落ち着いた空間↓

夕飯には、名物の「月山筍」がいろんなかたちで登場。堪能しました↓

さあぁ、明日は、湯殿山神社の朝詣り。05:20出発であります。

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