旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

マラトン

2020-05-09 08:26:20 | ギリシャ
2007年ギリシャの旅より
2004年ギリシャオリンピック、女子マラソン当日朝、野口みずき選手は「この塚にむかって祈った」と話していた。※朝日新聞のページの頁にリンクします
紀元前490年のマラトンの戦いの遺構は塚だけしか残されていない。
アテネ人戦没者を祀っていると言い伝えられてきた。
1884年に発掘調査が行われ火葬の際のものと思われる灰の層が見つかった。
地形模型が戦闘の様子を分かりやすくしてくれている。

マラトン湾に上陸したペルシャ軍は一万から二万。(※ヘロドトスは十万と書いているが)
遅れて到着したアテネ軍九千+プラタイア軍七百~一千が海を右に対峙する。

マラトンはアテネまで四十キロほど。
ここを破られるわけにはいかない。
一週間のにらみ合いの後、夏の一日の激戦でギリシャ側が完勝。
ヘロドトスによるとペルシャ側の戦死六千四百に対しアテネの犠牲は百九十二名。
現代の推察によるとペルシャ側の戦死五千から六千、アテネ側一千。
ギリシャ連合は辛くも勝利したが、船で退却したペルシャ軍が別動隊と共にアテネを襲うのを危惧して伝令を走らせた。
この話がマラソンの起源となっている。

戦没者は都市毎に埋葬された。
唯一共闘したプラタイア軍戦没者の塚はずっと小さく、アテネ軍の塚から1.5㎞ほど離れたところで見つかった。
1970年に発掘され、完全な五体の若い男性の人骨が丁寧に埋葬されたかたちで出土。
※1970年当時のニューヨークタイムズの記事にとびます
ギリシャの考古学者たちはペルシャ人戦没者の塚もあったはずだと探している。
**
現代の観光客がマラトンで見るべきはこの塚の他には主に二ヶ所。

↑上の地図で「you are here」となっているところが博物館。
真ん中の緑色が冒頭の塚。
博物館近くにマラトンの街に付属していた墓地が見つかっている↓

全体に屋根がかけられて見学しやすいように上に歩道がもうけてある

ここは紀元前二十世紀ごろのキクラデス文明の品から紀元後までの長きにわたる出土品が見つかっている。
↑上の地図でいちばん下の方に位置する緑色の場所に「エジプトの神の聖域」があった。
古代エジプトの神々はこのころまだまだ「現役」で、地中海を超えて行き来するエジプトの商人のコミュニティのためにこういったものが必要だったと考えられている。現代の中華街に関帝廟があったりするのと同じですね。
↓エジプトの神がギリシャでどんな神像になっていたかをおしえてくれる像が博物館に展示されていた↓

イシス神とされている。
直立して左足を前にだす姿勢、頭にイシス神のシンボルを乗せている姿。
たしかにエジプトの神なのだが彫刻としては見事なギリシャ風。
紀元前五世紀ごろの地中海の南北の交流がひと目でわかる展示物であった。


遺跡サイトへの入口でチケット切をしていた二人



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ料理はおいしい!~スニオン岬

2020-05-07 15:25:17 | ギリシャ
2007、2011ギリシャの旅より


アテネから車で一時間ほど。
何度か訪れたスニオン岬はいつも風がつよかった。

岬の高台に紀元前五世紀のポセイドン(海の神)神殿跡がある

紀元前480年のペルシャ侵攻の後に再建築されたもの。
元は6×13本の大理石の柱があったとされる。
歴史的なことは抜きにしても、晴れた日のスニオン岬は訪れる価値がある。

スニオン岬への途中にあるレストランが気に入って二度訪れた。

湾を見晴らす高台にある

レストラン横の細い階段を下りると小さな浜もある

ゆっくり二時間ぐらいは時間をとって、エーゲ海の波風も感じる時間がほしい

一時間でそそくさと離れるには惜しい場所と、じっくり味わいたい料理をだしてくれた。

ギリシャ料理というと、ツアーで定番なのはムサカ(茄子とミートソースのグラタンのようなもの)とスブラキ(串焼きの主に豚肉)だけれど、こられを食べてもギリシャ料理の真価は伝わらないと思う。
小松が「ギリシャでなくては食べらない美味しさ」と強く記憶しているのが
★タコのウゾー煮

ウゾーはギリシャの蒸留酒。
※これらのギリシャ料理を2011年に「トラベルコ」のページに書いたもの。今でもそのまま読んでいただきたい内容なのでリンクしておきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アテネ~考古学博物館

2020-05-06 08:29:20 | ギリシャ
2002,2007,2011ギリシャの旅より
首都の国立博物館にはその国の至宝が集められている

静的な像が多いギリシャ彫刻にあって、この躍動感はずばぬけている。
紀元前二世紀のブロンズ像★跳躍する馬とそれを御する黒人少年

古代ギリシャのブロンズ彫刻は石の彫刻に比べはるかに数がすくない。
後世に溶かされて大砲やなんぞに再利用されてしまうので、海に沈んででもいないとなかなか現代まで残らないのである。これもアルテミシオン岬近くの難破船から発見された。


★ポセイドン(またはゼウス)も同じ難破船から発見された

ポセイドンだった場合手には三つ又槍、
ゼウスだったとすれば雷をもっていたのだろう。

目にはめこまれていた石は失われている


★ローマ初代皇帝アウグストゥス
これもエウボイア島(アテネの北)の海中から発見された

左手は手綱を握り、指には最高神儀官をあらわす指輪をしている。
アウグストゥスが最高神儀官に就任したのは紀元前12年なのでこのころの姿をあらわした作品と考えられている。

★アンティキティラの廃船から見つかった青年像

紀元前四世紀ごろのもので、アフロディテにリンゴを渡そうとしているパリスかと推察されている。
右手にはリンゴを持っていたということ。※トロイ戦争発端となる場面ですね
前の二作品と違い、目が失われていない。さらにリアルさにひきこまれる。欧米人の青い目を上手に再現している。


★マラトンのエフェベ(少年)は、1925年にマラトン湾から発見された

紀元前四世紀後半、競技会で優勝した姿と想定される。
研究者はプラクシテレス派のものとする。
プラクシテレスはアスリートを表現する時も筋肉むきむきの表現はせず、しなやかな美しさを基調としている。

※プラクシテレスは古代ギリシャ世界で最高の彫刻職人。
紀元前350年ごろ、「クニドスのヴィーナス」として全裸の女性像を人類史上はじめて製作して物議をかもした。
※こちらにプラクシテレスについてもう少し書きました

★リケイオンのアポロもオリジナルはプラクシテレスの作といわれている

右手を頭の上にあげた特徴的なポーズは運動した後に「やれやれ」と休憩している。
アテネのギリシャ人のアゴラから発見された。
運動をするためのギムナジウムに置かれていたと考えらている。
↑左からブロンズ、大理石、右の象牙製のものは二百もの断片から復元された

古代ギリシャのブロンズ彫刻の魅力をひしひしと感じさせてくれる
**


石の作品群も見所は多い
★キクラデス諸島の彫刻

モディリアーニそっくりじゃないですか!
いや、モディリアーニやピカソがこういう時代の彫刻に影響を受けていたのですね

★アルカイック期の御者像 紀元前550年頃

この作品、身体はホンモノだが、顔の部分はレプリカ
顏の部分のホンモノはルーブル美術館が所蔵している↓下がルーブルでの展示

どうしてこんなことになってしまったのか?

頭部は1877年にアクロポリスで発掘された。
当時の発掘は宝探しと同じようなもので、発掘者の多くが金目当てで売りに出す。
ジョルジュ・ランパンというフランス人が買い取り1896年にルーブルに寄付した。

頭の失われた身体と馬の破片群は1886年にアクロポリスの側溝で発見される。
紀元前480年にペルシャ軍がアテネを占領しパルテノン神殿を破壊した際、神殿に飾られていた騎馬像も破壊され捨てられていたのだと推察された。

これら別々の発見が同じ像だと推察されたのは半世紀以上がすぎた1936年になってから。
英国人のHumphry Payneという学者による。
このタイミングで頭部、身体それぞれのコピーが製作されてルーブル、アテネ考古学博物館それぞれの像に接着された。

しかし、この接着にも疑問が呈される。
微妙に首の長さなどに違和感がある、かも。
提示された仮説は、もともと騎馬像は二体が並列しておかれており(顔が少し斜めを向いているのがその証拠だとされる)、頭部と身体は別々の像のものだというのである。

★ミケーネの戦士が行進する壺

戦士は何を担いでいるのか?
クノッソスのフレスコ画から解明された↓

↑上のフレスコ画、右は牛柄の八の字型楯が壁にかけられている光景!
ギリシャ戦士が持っている楯は映画に出てくるような丸い金属だと思い込んでいる現代人の我々だが、
紀元前14世紀ごろのミケーネやクレタでは巨大な八の字型を使っていたというのだ。
それは牛の皮を表面に張った木製で、真ん中で折って肩の前後にかけて持ち運んでいたという。
クノッソス宮殿を発掘したエヴァンスの説得力ある仮説。

★サントリーニ島のフレスコ画

↑左側が有名なボクシングをする少年の図
アテネの考古学博物館のフレスコ画セクションは長く締まっていたが、何度も訪れていた時期に一二度だけ見学することができた。

アテネ考古学博物館で有名なものはミケーネの黄金の品



一度行けば満足というのではまったくなく、
行けばいくほど、また行きたくなる場所です(^^)












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アテネ~ゼウス神殿、古代オリンピックスタジアム、

2020-05-05 09:57:24 | ギリシャ
2002、2007、2011ギリシャの旅より
パルテノン神殿と手前ゼウス神殿の夜景が見えるホテルを選んだ。

アテネ最大の神殿はパルテノンではなく最高神ゼウスの神殿である。

107m×41m、もとは84本(現地ガイドさんは104本と解説)の柱があった。
※パルテノン神殿は70×30m
建設をはじめたのは紀元前6世紀ごろだが、完成したのはローマ皇帝ハドリアヌス時代の紀元後132年。
↓このゲートはそのころのもの↓

街のど真ん中によくぞこれだけの神殿を発掘・保存してあるものだ。
さぞかしローマのように住民移動をたくさんやったのだろうと思っていたら、
1868年ごろの古い写真を見つけた。ゼウス神殿とハドリアヌス帝の門がみえる↓

え?こんなに何もない場所だったんだ。
1830年に悲願の独立を達成したギリシャだが、その頃のアテネは廃墟の中に人がまばらに住む「村」だった。
廃墟を転じて民族の誇りにするには発掘・修復が必要。
自分たちの誇るべき歴史が目に見えるかたちで存在することは重要。

ギリシャにとって誇るべきものの第一はオリンピック。

このスタジアムは1896年の第一回近代オリンピックの会場であった場所だが

紀元前566年から八百年も続けられた古代パンアテナイ祭(アテネ版オリンピックですね)の場所に再建されている。

19世紀の独立国ギリシャは最初は共和制を目指していたが、「やっぱり王様が必要だね」ということになり南ドイツのバイエルンから王を迎えた。
ノイシュバンシュタイン城を建設するルードヴィッヒ二世のおじさんにあたるオットー。ギリシャでオソン一世国王となった。
↓その王宮として建設されたのがこれ

衛兵が護っているのは無名戦士の墓

独特の民族衣装と動きが人気で観光スポットとなっている。
今は国会議事堂となっているが、国のために犠牲となった戦士に敬意を表する場は変わらない。


大学、図書館もこの時期に、古代ギリシャの様式で建てられた↓

古代ギリシャの先人を画いてある


日本では文化や伝統が身近に、特に意識されることもなくあたりまえに存在している。
21世紀になってもそれは変わらない。
千九百年も国を持たず他国・多民族に支配されてきたギリシャ人にとって、こういった場所はただの遺跡や建物ではない。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アテネ~アゴラとアゴラ博物館、風の塔

2020-05-03 15:56:27 | ギリシャ
2002,2007,2011年ギリシャの旅より
アクロポリスの丘から見下ろすふもとに古代アテネの中心=アゴラが見える

紀元前五世紀ごろから紀元後四世紀ごろまでアテネの中心だった場所。
↑神殿はテセイオン(神話の英雄テセウスの活躍のレリーフで飾られていた)と呼ばれ、パルテノン神殿と同じ紀元前五世紀の建造。
↓少し高台から人々の集まる公共広場=アゴラを見下ろす位置にある。

全ギリシャの中でも原型をよく留めたものとして知られている↓
なぜ、よく残っているのか?
↓それはキリスト教の時代にずっと教会として使い続けられたから

トルコ支配時代にもキリスト教信仰は容認されていた。
1834年に教会としての役割を終え、アテネ考古学博物館の最初の収蔵庫=展示室として使用されていた。

テセイオンの見守る旧アゴラの中心部は、
列柱の立ち並ぶ「ストア」が囲っていた↓そのひとつ「アッタロスのストア」が復元されて博物館となっている↓

↓別の方向から見たところ。アクロポリスのふもとにこんな柱廊建築がたくさん集まっていたのか。

この建物は1950年代のものだが、基本構造は紀元前2世紀にペルガモンのアッタロス二世王が奉納建造したものを再現している。

「ストア」というギリシャ語が英語のSTOREになった。
ここは一般の人が買い物に訪れる店があり、当時から絵画や彫刻が飾られた場所だったのである。
復元されたイオニア式円柱↓

↓発掘された古代のものがすぐそばに置かれているので「ああ、もとはこれがあったのだ」とすぐ理解できる

展示室への扉は新しい木製だがまわりの石材は古代のオリジナル

↓この敷石を古代の人々も踏んでいたはず

★展示品
考古学博物館にある黄金製品などはないが、ストーリーを知るとがぜん興味が湧く品々が展示されている
↓これはなんでしょう?

☆現在ブリュッセルの博物館が所蔵する赤絵のツボに描かれた絵から↓こんなふうに使われていた品だと判明した

↓ふつうのツボに見えるが二重になっていて中にワインを、外に水を入れて気化熱を利用してワインを冷やしていたのだそうな↓



●オストラコン(=陶片)は、紀元前六世紀末にテミストクレスが導入したとされるオストラキスモス(=陶片追放)という制度に使われた。

民衆が選んだ代表といえども僭主になってゆく可能性がある。
市民会がひらかれた後、市民が「選手になるおそれがある」と思った人物の名前を陶片に書いて無記名投票する。

※オストラキスモスとテミストクレスについてもう少しこちらに書きました

●クレロテリアとは何?

解説を読んでみると、これは抽選機・・・あ!LOTのもとになったものということか。
といっても、宝くじではなく裁判の陪審員や審議員を決めるために使われていた。

使用方法が完全に解明されてはいないが、たくさん開けられた横長の穴には名前を書いた札(ピナキア)を差し込んでおく↓

↑実物がとなりに展示してある。
装置の右下にある穴からは白か黒かの球が出て、何列目の何番が当たりと決まる(このあたりの仕組みは解説されてもよくわかりませんでした)。 古代アテネにも部族・派閥があって、ひとつの行にはそれぞれの部族と決まっている。行ごとに選ばれる人数を限定することで陪審員や代議員が偏ることを防いでいた。
無作為に抽出するだけでは公平性は保てない。
現代のアメリカ陪審員制度においても偏りがみられる人を避ける方策はとられている。
日本の陪審員制度はどうなのだろう?

アゴラを囲んでいたストアのうち、復元されているのはアッタロスのストアだけ。
↓ストア派哲学の語源となった建物は柱の基礎しかのこされていない

ここでゼノンが「ストイックな」講義をしていたのかしらん。
**
ローマの支配下になり、より人が増えたアゴラは東方向に拡張された。
現在のアテネ旧市街にあたるプラア地区との間にあたる。
紀元前一世紀カエサルの時代にローマ人のアゴラに八角形の建物がつくられた↓

何がここにあったのだろう?

解説によれば、水時計が入っていた。
アクロポリスの丘北面からは「クレプシドラの泉」が湧き出ていて、それをアゴラにみちびいていてここにあった水時計に使っていた。
扉はいつもあけられていたのだそうだ。つまり、街の大時計ですな。

アテネは何度も観光したが、《手造の旅》でじっくり観光した一度だけ「クレプシドラの泉」に連れて行ってくれたガイドさんがあった
↓「さぁ入って入って」

いつもは通れないルートでパルテノン神殿の前門真下にやってきた↓
↓上に「アグリッパの台座」が見える

崖の下からたしかに泉が湧き出ている

二千五百年前のアテネの人々に利用されていた水源

ここからの水を利用してつくられた水時計が「クレプシュドラ」と呼ばれていた意味がわかった。

↓これはアゴラ博物館に展示されていた水時計。「風の塔」にあったかどうかはわからないが。

甕が何段にも置かれていて、いっぱいになると上部にあけられた穴からしたの甕に水が落ちてゆく仕組み。
たとえば、一段目の甕がいっぱいになるまでを一時間とする、とか。
古代の裁判で発言者の時間を公正に制限するためにこういった水時計が使われていたのだそうだ。

八角形の建物が「風の塔」と呼ばれているのは、八面それぞれにその方向から吹く風の神様が刻まれているから

このデザインはその後のヨーロッパ建築に何度も模倣されている名デザインだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする