旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

2011 3月《手造》シチリア~モツィア島

2022-08-30 22:37:38 | イタリア
まるで能面のような紀元前四世紀・古代カルタゴ人のつくったマスク。
耳の上に穴が開いているから顔につけて演じた?踊った?いや重すぎるから儀式用?
彼らは日本人と似たデザイン感覚を持っていたのかしらん?

ローマ人がやってくるはるか以前から栄えた島には、紀元前八世紀のカルタゴ人たちが残した興味深いモノがたくさん出土している。
**
モツィア島の近くにはマルサラの塩田がひろがる。

塩は古代からこの地方の重要な産物。
風車は水を汲み上げると共に、出来上がった塩の塊を砕く事にも利用されてきた。
熱波の夏には一面白い塩の小山でいっぱいになるのだが、今はない。

↑この瓦はいったい何?
夏に出来上がった塩を冬から春にかけて降る雨から守るため、この瓦屋根で覆う。
この下には出来上がった塩が積まれているのだ。

島に渡る前にお昼ごはんにした

茄子にオリーブに魚の身をほぐしてボールにしたもの、新鮮なチーズ、そしてトマト。
シチリアそのもの。

小さな船で浅い海を十分ほど渡る。
※2014年に訪れた時のブログで、カルタゴ人がつくった「海の中の道」について載せています(後半)

周囲2.5㎞ほど。古代には島ごと城壁で囲っていたと推察されている。

この島の必見がこの大理石像↑
※こちらにもっと載せました

物置のような(失礼)博物館に、珠玉の収蔵品。

島に車はない・必要ない。歩けば古代の港の跡と

生き生きした花が迎えてくれた。

実際ここは自然保護区にもなっているのだそうだ。



この島は19世紀はじめにイギリス人ウィトカ氏に島ごと買い取られた。

島を往復する短い船時間でその名のついたマルサラ酒をふるまってくれた。



近くの崖の上には↑こちらも古代からの街エリチェが見える。
標高750mほどで、よく霧がかかる場所↑
この日のホテルがあるあそこへのぼってゆく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信州上田を下見~塩田平、

2022-08-27 15:36:57 | 国内
「舌喰池」は堤防建設の人柱に選ばれた娘が舌を噛み切って身投げしたという伝説がある。

本州でいちばん降雨量が少ないという「塩田平」↑「百八手」と呼ばれる雨乞いが溜池堤防で今も受け継がれている。
土地は肥沃なので水さえあれば実りは豊か。
小さなものも含めると114もの溜池があったそうな。江戸時代には「塩田三万石」と呼ばれた。

すぐ横の「とっこ館」では灌漑工事の歴史を説明してある

「とっこ」とは「=独鈷」。
弘法大師空海がこの地にやってきた時に独鈷を埋めた伝承される「独鈷山」がある。
高野山を拓く前にこちらを訪れたが、谷の数が足りなかったのでこの地を諦めて高野山へ向かった。

「とっこ館」の前には馬の蹄の跡がのこった石橋がある↓

↑木曾義仲が挙兵を決めた時、家臣の手塚太郎が神に祈ると駒の蹄の型が石に残されたというのだ。

この「手塚」というのはこのあたりの地名にもなっていて、あの手塚治虫のルーツはこのあたり。
**
昼食は「松籟亭」へ

坂を上ったところにあって

塩田平の広がりがわかる

季節のものを丁寧に調理した彩り豊かなお膳、そのテーブルのリクエストに合わせてお米を釜炊きしてくださる。

↑ガイドさんのお勧めによって「八重原米」を選んだ↑※この地方の隠れた名品なのだそうです
秋には松茸が有名な地方、10月の旅で(ここではなくても)楽しんでいただけるようにしたい(^^)
***
前山寺の参道がおわったところに「残照館」があった。

「無言館」をはじめた窪島さんが、それよりずっと前に「信濃デッサン館」としてはじめた美術館。
予定していなかったので迷ったが扉が開いていたので顔を入れてみると、思いがけず窪島さん本人がおられた。
少しお話して、「無言館」ということではなく、絵画そのものがとても好きな方なのだということがよく伝わってきた。
****
「無言館」を閉館時間まで見学したあと、路線バスで上田電鉄別所線の下之郷駅まで。

かつてこの駅から西丸子線が分岐しており、全長8.6㎞に十一もの駅があった。
昭和三十年代までは通勤通学でにぎわったが、昭和三十六年に豪雨で何カ所も破損し二年後に廃線になったと説明してあった。


バスのように整理券をとったが、

待合室の中に券売機があったのでこちらを利用。

終点の上田駅まで十五分ほど。

新幹線で東京までは一時間半ほどである。

10月《手造の旅》信州上田と諏訪、催行します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信州上田を下見~前山寺三重塔、生島足島神社

2022-08-22 17:21:10 | 国内
階段をあがりきった門から五十メートルほどのところに三重塔が見えた。

視界に入ってくる瞬間の印象を考え尽くしているのが日本の塔。
※今年1月に訪れた近くの安楽寺の国宝三重塔が木立の向こうにみえてくるところ、こちらに写真を載せました
※青木村・大宝寺の国宝三重塔の見せ方もごらんください

さらに十メートルほどの高さの階段の上にあることで

ぐっと大きく感じられる。

前山寺の三重塔は未完成だが、完成品に劣ってはいない。
むしろ欄干や手すりを付けたらこのスッキリさは失われてしまっただろう。

塔のある位置から本堂

分厚い茅葺屋根↑書かれている文字は「本?」
実は火除けのための「水」

中にトラちゃんおりました(^^)

8月21日、09:17上田駅到着して下見スタート。

上田城ではなく上田藩主の屋敷跡入口へ。
真田氏・仙石氏・松平氏の時代を通して、藩政はここで行われていたのだそうだ。

↑屋根に松平時代の桐の紋章↑
現在の上田高等学校の正門は18世紀末のモノがそのまま使われている。

濠の一部が当時の面影をよく残している。

**

塩田平で最も由緒ある生島足島(いくしまたるしま)大社を訪れる↑「式内社」とは、10世紀の律令執行細目である延喜式にその名前がある、ということ。

池の中に社殿がある↑不思議なかたち↑

仮説だが、雨量が日本で二番目に少ないこのあたり「塩田平」で、自然に湧き出した池のある数少ない場所だったのではないかしらん。神は自然そのもの。

橋を渡って「神島」に入る。
祀られているのは生島神と足島神という二柱。「生きる」「足るを知る」神。
皇室が祀っている二十三神にも名前があるそうな。
神話時代、科野国造(しなのくにのみやつこ)が中央からこの地方に入った時に祀ったのがはじまりかもしれない。「科野」は「信濃」の語源?

神島の社殿にあるご神体は何か?
我々が中を開けてみることはできないけれど、中は真っ暗闇で何も置かれていないと解説してある本があった。
ご神体はこの地面=土地そのもの、という考え方なのだそうだ。

↑夏至の日には参道からまっすぐに朝日が射してくるように設計されている↑
古墳時代から続くような発想はこの場所の起源を表している気がする。

生島足島大社のすぐ北50メートルに諏訪社がある

諏訪神は秋から春にかけてこの下宮神社に渡られて、生島神と足島神に食事を捧げる。
その際に「お籠り」する=つまり料理する場所が↑上宮社殿のとなりに併設されている「御籠殿」。↑

諏訪社ゆかりということで↑上宮社殿の四隅にも御柱が立てられている↓

こちらは車で運ばれてくるのでニュースにはとりあげられませんが(^^)

下宮・諏訪社殿の右となりに「歌舞伎舞台」↑がある↓

建物は明治元年に建設されたホンモノの歌舞伎舞台だったが、後年に小学校や集会場となり使われていなかった。
回り舞台とせり上がりは昭和61年に復元されたものだが往時をよく感じさせてくれる↓

↑床板に↑回る切れ込みとせり上がり二つ↑

床下にももぐらせてくれる

回り舞台の真下↓

↓せり上がり

「年に一度でも上演すればよいのに」と思うけれど、
昨年12月に小豆島の「農村歌舞伎」舞台を訪れて知ったが、歌舞伎上演はかんたんには出来ない。
人もお金も装置も伝えていくのがたいへん。
※小豆島の農村歌舞伎を訪問した時のブログにリンクします

↑歌舞伎ステージは↑信玄の起請文コピーがずらりと展示されている↓

武田信玄は塩田平に進出した折、地元の豪族たちを生島足島神社に集め、忠誠を約束する血判入りの起請文二百通以上を提出させた。
※上田市の文化財ページにリンクします

神社のとなりに長福寺がある↓

ここに収蔵されている「菩薩立像」は奈良時代のもので、写真で見るととても端正。
もともと小布施にあったが、大塚工芸の創業者・大塚稔氏が「夢殿」を建ててここに安置した。

↑おお、奈良の夢殿そっくり(^^)
本物の二分の一スケールなのだそうだ。
中の観音立像さま、いちどお目にかかる機会があれば幸いです<(_ _)>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011年3月《手造》シチリア~セジェスタ

2022-08-19 16:21:49 | イタリア
雲の切れ間からスポットライトのようにセジェスタ神殿に太陽の光が当たった

※2014年に訪れた時のブログはこちらから

08:30パレルモのグランドホテル・ガリバルディを出るとすぐに、きのうの午後モンレアーレから見晴らした港につきあたった。こんなに港が近かったのだ。パレルモが発展したのはコンカ・ドーロ(黄金の平原)と呼ばれる豊かな土地とこの港にあるという。

高速を一時間半ほど走って「セジェスタ」の看板で降りると、なにもない山の中腹にギリシャ神殿がぽつんと見えてくる。

紀元前五世紀以前にギリシャ人でなく先住民族エリミ人が建てたセジェスタ神殿は屋根がない。
これは後世に地震や戦争で壊れたのではなく、もともと未完成だったのである。

神像も無く、宝物も置かれず、屋根もかけられなかったおかげで、この迫力ある神殿の骨組みは二千五百年の年月ずっと建ち続けている。地震の多いこの地で、これは奇跡的だ。

繰り返すが、掘りだされ復元されたのではなく、建設途中で放棄されてそのまま立ちつづけている。

神殿になるはずだった建物の枠だけが残っているのだ。




さらに、専用のシャトルバスで神殿を見下ろす山の上に上ってゆく。

山上の古代の都市遺跡は広い範囲にひろがっており、中でも斜面につくられたギリシャ劇場は、ここでもやはり素晴らしい。

古代に最も栄えた後、中世になってもここには人が住み続けていた。斜面にひろがる大きなギリシャ劇場を埋めるほどの人口を取り戻す事はなかったにしても。モスクやビザンチン時代の教会があり、ノルマン時代の城砦跡も見つかっているところをみると、現在のように完全にうちすてられたのはこの五百年程の事なのではないだろうか。

少し雨が降る中を歩いてから、再びバスで下へ降りる。途上、雲の切れ間からスポットライトのようにセジェスタ神殿に太陽の光が当たった(冒頭写真)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011年3月《手造》シチリア~モンレアーレ

2022-08-17 06:13:19 | イタリア
「日本でユーロは使えるの?」
パレルモ郊外のモンレアーレを歩いている時に、小学校高学年ぐらいの女の子達が声をかけてきた。はじめ、何を言っているのかわからなかったけれど「日本でユーロは使えるの?」てな質問をしている事がわかってきた。

皆さんがお手持ちだった日本のコインをプレゼントすると食入るように見入っておりました。はじめて目にする外国のコインというのは、大人でもおもしろいですもんね。
**
モンレアーレはパレルモの港がある「コンカ・ドーロ(黄金の平原)」の山側端に位置している。


遠く光る港が見えた↑

雰囲気のある路地を抜けると

時代時代に増改築されてきた非対称のファサードが姿を現す。

黄金のモザイクが輝く内部

アプスのキリストはビザンチン風。
ギリシャや現トルコ領でよくみられるスタイル。

イタリア北部のラヴェンナやミラノにもすばらしいモザイクが残されている。
※2018年にラヴェンナでモザイク工房などを訪れた時のブログにリンクします

※グリエルモ二世王の戴冠と教会奉納の二つのモザイク画↑
グリエルモ一世のルネサンス様式の墓についてなどは、2014年に訪れた時のブログをご参照ください


中庭の回廊も↑みどころいっぱい

少しイスラム的な雰囲気を感じさせるデザインで↑黒い火山性の石をうまく装飾に使っている。

↑王が教会を聖母マリアに差し出して奉納している↑天使が背負って手伝っている表現がおもしろい↑狭いスペースでこれだけの表現をした名前も分からない石工がいたのだ。

柱ひとつひとつを見ていきたい(^^)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする