旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

2012年ブータン_追記2  

2021-06-05 07:57:53 | ブータン
2012年ブータンの旅より
ブータン版「ブレーメンの音楽隊」?

↓以下は当時書いていたコメントをもう少しわかりやすくして写します↓
「ブータンのいたるところで見かけるこの四匹の絵が気になった。
まるでブータン版「ブレーメンの音楽隊」。
象、猿、ウサギ、鳥、の四匹が縦に積み重なっている。
ガイドさんに尋ねると「まぁ、フレンドシップね」と、簡単に言って詳しい話はきけなかった。
他の人に訊ねたり、情報を集めてみると、なかなか含蓄のある話が見えてきた。
★その①
象は力のシンボル、サルは知恵があり木にも登れる、ウサギはめったに見られないので幸運のシンボル、鳥は空を飛ぶことが出来る。
これらが合わされば最良のチームが出来上がる。みんな協力しましょう。
なるほど、これ、単純に納得できます。
★その②
ある日、象が一本の木の下で休んでいると猿がやってきました。
象が「自分がまだ小象だった頃は同じくらいの背丈のこの木で身体をこすったものだ」と言いました。
すると猿が「自分が小猿だっ頃はまだこの木には遊べるほどの枝もなかったよ」と言い、「自分の方がこの木を長い間知っている」と言いました。
そこにうさぎがやってきて、「自分が子供の頃はこの木はほんの小さな木で、上を飛び越えて遊んだ」と言いました。
最後に鳥がやってきて、「この木の種をここに運んできたのは自分だよ。上を飛んでいたら落としてしまったんだ」と、言いました。

四匹は、いちばん古くから木を知っている鳥を頂点にして積み重なって祈り
木に敬意をあらわしました。
するとたわわに実った果実に手が届き、鳥は果実をとって年下の動物に順番に渡しました。
4匹の動物はお互いを尊敬して仲良く平和に暮らしました。

★その③
孔雀が果物の種をまき、ウサギが水をやり、猿が肥料をやり、象がその果樹を外敵から守る。やがて果樹が生長し実をつけるが、この四匹とも高い枝になる果実に手が届かない。
そこでこの絵のように象の上に猿が、その上にウサギが、その上に孔雀が乗り、ようやく果実まで届くことができた。
四匹で分かちあって食べる事ができましたとさ。

それぞれに面白い解釈。四匹のうちで一番役割があいまいなのがウサギだが、ただ「幸運のシンボル」というだけで、「協力している」というのは、なかなか役得にちがいない。
人間の世界でも、こういう人、いますけどね(笑)
さて、あなたはどの動物に親近感を持ちましたか?
**
パロの空港で買ったコイン

ブータンを離れる日、パロの空港で手に入れた古銭。
しかし、どうみてもブータンで鋳造したものには見えない。
19世紀のブータンで、自前の銀貨を鋳造するほどの貨幣経済が浸透してはいなかった。

これは当時の中国・清で貿易用につくられていた銀貨「光緒元宝」。
光緒帝は1875年にわずか四歳で即位し、あの西太后が摂政をつとめていた事で有名である。
彼が親政をはじめたのが十七歳になった1888年。最初の「光緒元宝」が鋳造されたのが、親政開始翌年の1889年である。

この時代、周辺のアジア諸国は西欧諸国の植民地状態になり、その貿易にはアメリカやメキシコの銀貨、フランスの貿易用ピアストルなどが流通していた。自国の通貨を大量に流通させることによって経済圏に組み込んでしまったのである。

それに対抗するというのにはあまりに遅かったのだが、清もまた1889年に独自の国際貿易通貨を発行。それが光緒元宝なのだ。
ブータンもまた辺境とはいえ中国の衛星国チベットと国境を接している。
同じチベット仏教を国教とするブータンはチベットの強い影響下にある。
19世紀のブータンが中国の光緒元宝を使っていたのは理解できる。

さらにブータンはイギリス経済圏に組み込まれていたインドのすぐ北に位置している。
通貨は銀本位というのが当時の国際的なルールだったから、
清が鋳造した国際基準に合わせた銀貨は好都合だった筈だ↓

古銭の裏側である。「3 MACE 6 CANDAREENS」とは「三銭六分」をそのまま訳している。

これは欧米の基準銀貨の重量と合わせるために、中国の重量としては半端に感じられる重さ表示となったのだろう。
つまり、19世紀のアジアでは大量に流入流通していた欧米の通貨が基本単位になっていたのだ。
経済を支配されてしまえば、国家権力は風前の灯である。

※2008年にモンゴルの古寺で手に入れたこんなコインを思い出す。こちらはメキシコの銀貨。

「光緒元宝」にはいくつかの造幣地があったようで、こちらはその中の「北洋」という地域の造幣局でつくられたものということで、英訳では「HU-PEH PROVINCE」とか書かれている。


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2012年ブータン_追記

2021-06-04 09:00:18 | ブータン
2012年1月のブータンより。別ブログに書いていたモノをこちらにも載せておきます。
※当時の日記ブログは左下「カテゴリー」から「ブータン」をクリックしてください。
通称「Tiger's nest(寅の巣)」と呼ばれるタクツァン寺院はブータンを代表する場所↓

以下は当時書いていたコメント↓
「ブータンの旅で最も印象に残る場所といえば、やはりタクツァン僧院だろう。
今回、どうしても自分で確かめてみないといけないと思っていた。
何を確かめる?
そう、実際にどのぐらいの道をあるくのか、フツーのパッケージツアーでも行程に入れて歩いていただくに無理のない場所なのか、であります。

結論から言えば、中級の上のハイキングコースというところ。
パロの市内から登り口までバスで二十分ほど。ここから僧院が遥か崖の上に見えて、「あそこまでほんとにいくの?」と思わせる。
そこからカフェテリア・レストランのある第一展望台まで、ゆっくり歩いて一時間強。ここまでいくと僧院が谷を挟んでどぉん!と見える。
さらに少し上がり、第二展望台になると、僧院はその内部の様子までが対岸に見える。この写真はそのあたりからのもの。

階段を三百段下り、雪渓から流れ出す滝を見上げ、川をわたり、こんどは三百段の階段を登って、僧院の入り口に着く。第一展望台からゆっくり歩いたので二時間弱かかった。

僧院の中は撮影禁止。
バッグとカメラは入り口で預けさせられる。
ひそかに持ち込もうという輩も多いのだろう、しっかりボディチェックがはいる。

内部はいくつもの寺院の複合体となっていて、各お堂に入るとき靴を脱がねばならず、石の床はとてもつめたい。
いや、これ、ほんとおおおおに冷たくて、具合悪くなりそうなほどでした。
※内部の様子は写真がなくて残念ですが、また別のところで。

帰路は、全く同じ道を戻ってくることになる。
全行程で約10km。六時間はかかるだろう。
どうです?歩きたくなりましたか?それとも行きたくなくなりましたですか?」

ドチュ・ラ峠の仏塔群

↓以下に当時書いたコメント↓
「ティンプーから東ブータンへの道を進むと四十分ほどで標高三千メートルを超えるドチュ・ラ(「峠」の意味)に至る。
晴れた日にはここから七千メートル級の山々が見えるそうだが、あいにくの霧であった。

着いた時には十メートル先も見えない状態だったが、トイレが凍っていた使えないとか(笑)いろいろやっているうちに、青空が見えてきた。
2004年に第四代国王の妃によって建てられた百八基の仏塔が整然見えてくる。

ガイドさんはあえて詳しい説明に及ばなかったが、この仏塔がここに建てられたのは時期からみてインドの国境で起きた戦闘による。インドの反体制ゲリラがブータン領内へ逃げて拠点を持っていたのを、ブータン国軍がやっと実力で排除したのである。
ブータンは通貨ヌルタムがインド・ルピーと等価で為替固定されているのでもわかるように、インドの強い影響下にある。
良かれ悪しかれ。」
**
ブータン料理

↓以下、当時書いたコメント↓
ブータン料理は、一説によると世界一辛いとされる。
「唐辛子は野菜です」とガイドブックに書かれていたし、たしかに唐辛子はいろいな料理に頻繁に使われる。
だが、だから美味しくないということは全くなく、同じように米を主食とする我々日本人はけっこう好きなのではないだろうか。※個人差大でしょうが

この写真はティンプー市内のブータン料理の店でバイキング式のものをもりつけたもの。
上の赤い米は日本でももともとはこのような赤米が主流だったのかもしれない。その右側黄色く見えるのがもろこし系、右側には豚の脂肪を乾燥させてスライスした高カロリー食品・赤唐辛子やイモと共に炒めてある。
下のイモはマスタードとソテーされている。じゃがいもはどれもとても美味しい。
最後に左に見える緑色のものが、ブータン料理といえば筆頭にあがってくるエマ・ダッツィ。唐辛子のチーズ煮込みであります。
右上には川海苔のスープ。

これらのブータン料理は、まぁ、食べる前から辛いのを想定しているので大丈夫。
ブータン人がどれだけ辛いものが好きなのかを知ったのは、後に市内を散歩していた時であった。
下記「トラベルコちゃん」ブログに書きました。

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タクツァン僧院Tiger's nestへの登山

2012-02-01 11:57:03 | ブータン
ブータンを代表する景観は、間違いなくこのタクツァン僧院。英語で言うところの「虎の巣」に違いない。

最も寒いという一月後半に登った。
パロ市内から三十分程度車で走って登り口。

ゴールの僧院がはるか上に見えて、「あそこまで行くのかぁ~」と気合が入る?戦意喪失?
標高はすでに二千メートルを超えているが、緯度が南なのでまだまだ森林の中を歩く。このあたりでは3,500mぐらいが森林限界線になるのだそうだ。ヨーロッパのアルプスでは2000mになればもう樹木がなくなって視界がひらけるのだが、ブータンでは全然違う。

水車が自動でマニ車をまわしている。このあたりの登山道は2009年に新しく整備された。

整備されてもこんな感じ。
雨でもふったらかなりどろどろになるだろう。

第一展望台まで一時間ほど。
その少し手前で不意にタクツァン僧院が見えてきた。さっき下から見たのとはちがう角度だ。
お茶を出してもらって、いっぷく。
帰路はここまでもどって昼食の予定。

ここからまだ少し登って、僧院を真横から見る位置に至り、そこから第二展望台となる。道はこのようなかんじ。

途中に小さな祠があり、「前大僧正が1926年寅年にこの岩穴で生まれた」と書かれていた。シンプルな木一本のはしごがかかっていて中を覗くと、たしかにそこは洞窟になっていた。
第二展望台、ぐっと迫力を増して僧院がせまってくる。数年前まで、外国人はここから先は立ち入り禁止だったそうな。


今は、先の道へ。三百段の階段を下りていく。
僧院を隔てる谷の一番下まで行くと大きな雪渓がのこっていた。

今度は階段を上って僧院入口へ至る。
カバンとカメラはここへ預ける。
密かに持ち込んで写真を撮ろうとする輩は居るだろうから、このあとしっかりボディチェックを受け、内部に入ることができた。

★内部は完全撮影禁止。四つの僧院からなっており、それぞれの堂内へ入るとき靴を脱ぐ。石の床がそれはそれは冷たい。なかには足に手袋履かせてしまったかたもあった(笑)
最初の二つの僧院は上下になっており、下の部分にはブータンに仏教を伝えたというグル・リンポチェが十四日間にわたり篭ったという岩穴がある。
上階の堂内の床に穴があいていて、そこを上から覗くことが出来る。おもうより深く真っ暗な穴だった。

グル・リンポチェは何故こんなところへ虎に乗って舞い降りたのか? 疑問に思っていたのだが、もともとここに居たいわば「悪鬼」を退治するためだったそうな。今、その「悪鬼」は改心して地元の守り神になっているとされる。※このあたりの解説、ただガイドさんのトークによります。どなたかより詳しい内容が分かればご教授ください。

**
帰路は晴れて気持ち良い太陽がでてきた。ダウンのコートはあつくなり、だんだんと脱ぐ、最後はシャツ一枚になって山の風に気持ちよく吹かれながら降りてゆく。
地元ブータンのハネムーナーがたくさんあがってくる。
写真ではわかりにくいけれど、彼女はなんとハイヒールでここまで登ってきていた! さすがに痛そうだったけれど、我々の足とは違うのですね。

馬を借りてのぼってくる欧米人とすれ違う。
しかし、この道では馬に乗って上がるのもかなり怖いだろう。

第一展望台までもどり、昼食昼食後また一時間以上かけて車の待つ場所まで下山。個人差はあるだろうが、最低でも片道二時間半というところでありましょう。一般のツアーにぽんと入れて、「誰でもどうぞ」というわけにはいかない訪問場所であります。
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ブータン料理はいかが

2012-01-29 09:49:21 | ブータン
「唐辛子は野菜です」という言葉で紹介されるブータン料理。たしかに辛いものも多いけれど、ツーリスト向け・特に同じく米を主食とする日本人に向けては、充分美味しいと思える料理だと思った。

上の写真はタクツァン僧院への第一展望台でだされるバッフェ昼食からとって並べたもの。
右上の赤米はブータンらしい。下はジャガイモがチーズ煮になっている「ケワ・ダッツィ」。中華風の野菜料理と豆腐料理があり、左上に日本からもってきたゆかり。一番上にブータン料理の定番である唐辛子のチーズ煮込み「エマ・ダッツィ」。ダール(豆)のスープはカレー味だが辛くはない。

お米を主食にしてこれらオカズを食べるのは日本と変わらないスタイルである。
辛いものは確かに辛いが、それをどのように実感したか、下記に書きました。マーケットの様子も含め、下のページにてご覧ください。
http://www.tour.ne.jp/blog/komatsusin/37005/

寒い土地だがビールは生産されている。11000というビールは「STRONG」と書かれているほど強くない。

レッド・パンダとは、そうかレッサー・パンダだったんだ。東部のブムタンで生産されているビールである。

ブータンワインもあるというので注文してみた。
白ワイン。甘い味でヨーロッパで味わうのとはだいぶちがっている。
調べてみると、どうやらムンバイ近くのインドのワイン業者が生産しているようである。


もとも地元で飲まれていたのはアラと呼ばれる蒸留酒。原料は米や麦など多様な穀物。味わいも土地により家庭により大きく違うとか。下のような木製のボトルで出されることが多い。
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タシチョ・ゾン~ブータンの政庁舎

2012-01-28 13:49:15 | ブータン
首都ティンプー、市街地のはずれ川沿いに堂々とした姿を見せるゾン(修道院・砦など)が、民主主義ブータンの政治の中心となっている。もともと14世紀からの寺がここにあったが、1641年にこの建物がつくられた。正確には現在のものは第三代国王が1965年に改修・再建したものだそうだ。伝統的な様式を用いて釘をつかわずに建てられているとか。

我々が訪れた夕方、国旗をしまうために軍隊の隊列がゾンへ向かって行進していた。


セキュリティ検査を受けて中へ入っていくと、ちょうど国旗を運び出す隊列とすれ違い。


チベット仏教を国教とするブータンでは、政庁舎の建物の中心も寺である。※写真左手の建物

この「キンレイ」と呼ばれる寺の中で2008年の憲法発布もサインされた。
国王の戴冠式もここ。
「東日本大震災」への鎮魂祈祷もここ。




向かって正面にももうひとつ寺がある。

この寺を囲んでいる建物に省庁の執務室があるが、さらに大僧正ジェ・ケンポの部屋、二百人いるという学僧もまた公務員であり、国から給与をもらっている。※この写真の建物に住んでいる


ここを訪れるブータン人は正装としてカムニと呼ばれる布を肩にかけることになっている。※写真はガイドのビケさん。

このカムニの色は立場によってちがっており、一般の人はこの白色、国会議員は青、ダショーとよばれる位をもらった人ならオレンジ色。相手に敬意を払った挨拶をする場合には礼と共にこのカムニを地面にたらす。

2008年に国王の意志で断行された民主化・総選挙により選ばれた国会議員は、このゾンと川をはさんで向かい側に建設された国会議事堂の議会に臨む。

現国王の住居もこのならびにあるが、こちらは撮影禁止。


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