↑写真左上に映っている「観音堂」の入り口が秀吉の大阪城から移築された「唐門」だったと確認されたのは2006年のこと。
色鮮やかに塗りなおされた↑
↓2024年10月、この内部に安置されている千手観音像が特別公開された↓
二メートルもある金色の千手観音像も印象的だったが、それが安置されている「観音堂」の空間そのものに秀吉の生きた時代を感じた。(写真は撮らせてもらえなかったが)唐門のような極彩色の復元ではなく、漆の古びた様をうまく復元していた。「秀吉もここを見たかもしれない」と、思わせてくれた(※当然移築前)。
↑「観音堂」は突き当り
↑右側の廊下は朝鮮出兵の際の御座船を逆さにして使ったと伝承されている。
※竹生島宝厳寺のHPに解説されています
↑これが「舟廊下」↓下は「観音堂」から見たところ↓
「大阪の陣」で地上から抹殺された秀吉の大阪城の遺構は、1603年に移築していたから現代まで残った。
「舟廊下」でつながった先にある通称「竹生島神社」の正式名称は「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」
これが「ちくぶしま」の由来と考えられている。
この本殿内部もまた秀吉ゆかりの伏見桃山城勅使門を移築したもの。
「豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の勅使殿を移転したもので、国宝」※竹生島神社のHPにリンクします
↑外側の木彫だけでも一見の価値がある↑
↑公開される機会がきたたらぜひ訪れたい。
竹生島には秀吉ゆかりの建物がたくさん移築されている。
秀頼か北政所かに命じられて実際に移築に携わった片桐勝元が記念に植樹したモチの木↓
↓樹高は高くないが四百年を感じさせる。
竹生島に寄進する人は中世から現代まで途切れない↓
↑こちらの弁天堂は昭和17年に瀧富太郎の莫大な寄進により完成した。
本尊の秘仏弁財天はもとは現在の「竹生島神社」社殿に置かれていたが明治の廃仏毀釈によってお堂から出されてしまっていた。そのためのお堂を昭和12年に建てはじめたが日中戦争でストップ。そこに瀧富太郎の寄進が入った。↓経緯が記された石碑⇒
↓こちらの三重塔は平成12年に、三百五十年ぶりに再建された。
*
「竹生島神社」本殿から振り返ると↓
拝殿が湖を背景にしている↑
拝殿から鳥居に向かって「かわらけ投げ」!
フリスビーみたいに投げるとよく飛ぶのだそうな。なるほど(^^♪
港に降りて15:55発の今津港行きを待つ。抹茶のソフトクリームがいたくおいしかったのは素晴らしい秋晴れのせいかもしれないお天気だけは天からの賜物
色鮮やかに塗りなおされた↑
↓2024年10月、この内部に安置されている千手観音像が特別公開された↓
二メートルもある金色の千手観音像も印象的だったが、それが安置されている「観音堂」の空間そのものに秀吉の生きた時代を感じた。(写真は撮らせてもらえなかったが)唐門のような極彩色の復元ではなく、漆の古びた様をうまく復元していた。「秀吉もここを見たかもしれない」と、思わせてくれた(※当然移築前)。
↑「観音堂」は突き当り
↑右側の廊下は朝鮮出兵の際の御座船を逆さにして使ったと伝承されている。
※竹生島宝厳寺のHPに解説されています
↑これが「舟廊下」↓下は「観音堂」から見たところ↓
「大阪の陣」で地上から抹殺された秀吉の大阪城の遺構は、1603年に移築していたから現代まで残った。
「舟廊下」でつながった先にある通称「竹生島神社」の正式名称は「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」
これが「ちくぶしま」の由来と考えられている。
この本殿内部もまた秀吉ゆかりの伏見桃山城勅使門を移築したもの。
「豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の勅使殿を移転したもので、国宝」※竹生島神社のHPにリンクします
↑外側の木彫だけでも一見の価値がある↑
↑公開される機会がきたたらぜひ訪れたい。
竹生島には秀吉ゆかりの建物がたくさん移築されている。
秀頼か北政所かに命じられて実際に移築に携わった片桐勝元が記念に植樹したモチの木↓
↓樹高は高くないが四百年を感じさせる。
竹生島に寄進する人は中世から現代まで途切れない↓
↑こちらの弁天堂は昭和17年に瀧富太郎の莫大な寄進により完成した。
本尊の秘仏弁財天はもとは現在の「竹生島神社」社殿に置かれていたが明治の廃仏毀釈によってお堂から出されてしまっていた。そのためのお堂を昭和12年に建てはじめたが日中戦争でストップ。そこに瀧富太郎の寄進が入った。↓経緯が記された石碑⇒
↓こちらの三重塔は平成12年に、三百五十年ぶりに再建された。
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「竹生島神社」本殿から振り返ると↓
拝殿が湖を背景にしている↑
拝殿から鳥居に向かって「かわらけ投げ」!
フリスビーみたいに投げるとよく飛ぶのだそうな。なるほど(^^♪
港に降りて15:55発の今津港行きを待つ。抹茶のソフトクリームがいたくおいしかったのは素晴らしい秋晴れのせいかもしれないお天気だけは天からの賜物