旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

シンガー・ソング・ファーマー「TOMOO農園」へ

2015-03-21 11:17:53 | 国内
音楽家という職業は昔からあったわけではない。

歌舞音曲というのは、祭事に華を添えるためのものだった。
「おめぇ、うたうめぇからうだえ」
ぐらいの感じで声音のよい奴が歌わされていたにちがいない。

音楽で自立して食べていくというのは基本的に不可能で、文明社会が成熟してきた最近二百年ぐらいにやっと成立してきた生き方なのである。

一方、農業というのは、まさに地に足の着いた人間の生業。
そのルーツを追う事も難しい。

**
今日お会いしたSさんの肩書は「シンガー・ソング・ファーマー」。
農業を生業とし、自分の音楽を楽しんでくれる人と、自分が納得する音楽を発信されている。
これぞ、ひとつの理想的な音楽家の在り方ではないか。
**
何気ない看板ひとつ。

なんという事はない農家のひとつ
がっしりした人が、日焼けした穏やかな笑顔で迎えてくださる。
「剪定で陽にやけてしまてさぁ」
そんな言葉を聞くだけで嬉しくなる。

小松が到着したのは午後四時ごろ。今日は六時にお坊さんが来て法事だという。
それまでの時間で、ご自宅を案内していただき、小松来宅の趣旨をお話しする。
2016年の山形《手造の旅》企画では、地元に根付いている方々との繋がりこそが旅を豊かなものにしてくれる筈である。

案内していただいた古い蔵にはギターやベースがずらりいいなぁ、こういう自分の城を持てるのはうらやましい。
ここでCD録音もされるのだそうだ。音響的にも優れている。

母屋の方は江戸時代に建てられたという。囲炉裏と黒光りする柱。見渡せる広間。高い天井。
それでも文化財的な雰囲気ではなく、人が集う快適な空間に見える。冬はちと寒いかな(笑)
ここに百人近く入ってコンサートもやるそうだ。

さくらんぼのシーズンには蔵と自宅のあいだに屋根をかけてステージにしていたのを、Youtubeで見たっけ。

ああ、こういうスタイルで音楽をやっていくのは、儲からないだろうなぁ(笑)でも、確実にそこに集う人々の心に届くだろう。音楽をやる目的は、本来そういうものだ。

母屋の入り口に、レーガン元大統領からの手紙アメリカの基地政策(だったですかね?)について、大統領に直言の手紙を送ったら、ちゃんとこういう返事が返ってきたとのこと。考えたことを行動にする事、大事ですね。

今日は法事があるということで、すでに何人かの奥様方が集まって、台所からは忙しそうな雰囲気が伝わってくる。ここで紹介していただいたSさんの奥様が、実はただの「奥様」でないのを、あとから知ることになる。

六時が近くなり、Sさんの友人たちが集まってくる。
「こんどこんなのやるんですよ」と、地元でのコンサートチラシをくださる。Sさんと同じように音楽をやっている人も多い。こういう音楽のつながりに加わることが出来たら楽しいだろうな。

十数人、長いテーブルをかこんだところで、お坊さんがやってきた。
最近急逝したという友人の為の法事。しばらく厳粛な雰囲気と三本のお経。

その後、皆で会食となった。
厨房で忙しくされていた奥様達も参加され、本日のメニュー説明を「奥様」=けいこさんがされる。お皿の設計図を手に、どれがどんな食材のものなのか。自分が何を食べようとしているのか、知ること・知らせることで、より食事は意味にあるものになるのだ。
地元でしか飲めないような酒があけられる
真っ赤な肉は馬刺し!「さっきまで走ってたやつだよ」皿の上の緑色の丸いのは「ずんだ豆」のおはぎ。
マイタケの天ぷらがいたくおいしい。

はじめてお会いした皆さんのに、なんだかずうっと前からの知り合いのように話が出来る。

・・・手の空いた「奥様」=けいこさんが、ご自分で撮られたという雲海の写真を見せにきてくださった。
ひと目でちょっと雰囲気のある写真だと感じた。
「大きなカメラ持って行かれるのですか」とたずねると
「いえ、ふつうのコンパクトなのです」というお返事。

そう!そうなんです。旅の写真というのは「時」こそが一番大事。
その瞬間にシャッターを切ることができるか、なんですよね。
小松がこの四半世紀、旅の写真を撮り続けてきて感じている事を実践しておられる。

「ストーリーが感じられるのがすきなの」とおっしゃる。
なるほど、お撮りになる写真にはストーリーが感じられます。

Sさんが自作の紙粘土の人形を見せてくださった。
田畑で村で生きていく人々を、ちょっとコミカルに描写している。

道の駅あたりで売っていたら人気が出そうな。

「この人形で、こんなのつくったんだ」と、持ってきてくださったのは、写真の絵本。
開くと、それぞれのページに人形を登場させた写真が大きく載せられ、ストーリーに沿った短いセリフが添えられている。

「田植地蔵」という題名。誰でも知っている「傘地蔵」の田植えヴァージョンですね。なるほど(^^)

この本を制作されたのは、さっき写真を見せてくださったけいこさん。ストーリーのある写真というのを、自ら実作されていたのですね。


ひとしきりお酒がまわったところで、さっきから台所をてづだっていた若い女性がピアノと歌を披露してくださるという。

衣装もSさんのけいこさんが用意されているのだそうで、いったん引っ込んで、白い天使のような服で登場。

アップライトピアノに向かい、澄んだ落ちついた声が広間を満たす。
急逝した方を想ってつくられたという「ほしひとつ」という曲、しんっとこころに沁みました。

「お嬢様ですか」ときくと、
そうではなくて、Sさんがバックアップしている中川知美さんというシンガーだという。
※こちらに⇒「そして花になれ」のYoutube動画があります

何万枚も売れる曲も、誰か一人だけのために歌う唄もある。
優劣は聞いた人の数で決まるわけではない。


小松は、今日のうちに東京まで戻る予定にしていた。
次回はもう少しゆっくりできるスケジュールで再訪させていただけるようにしたいです。

山形の赤湯駅19:57発の新幹線でぎりぎり今日中の帰着。

翌日、帰り際にいただいたCDを聞いた。
「変な曲ですよ(笑)」と言って渡してくださったのだが、たしかにちょっときくとコミックソングみたいかもしれない。「キジのばかやろう」「ベゴがうられていく」「みんな百姓になれ」題名をきくだけで、かの地でファーマーをやっているSさんでなければつくれない曲なのがわかる。

これは、あの場所で、ぜひ生で演奏しているのを聴きたい。

2016年《手造の旅》で、実現させたいです(^^)
できれば、小松も競演させていただきたいです!

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山寺へ

2015-03-20 16:54:57 | 国内
山形から仙台方向へ電車で十五分ほどで山寺駅に到着
だれに聞いても「山寺の階段はたいへん」と言う。

駅のホームから見上げるお堂は、岩山のいただきに見えて、あそこまでいくなら大変だろうなぁと思わせる。
山寺の正式な名前は「立石寺」だが、なるほど、岩が立っている(^^)


また、誰に聞いても「いいところですよ」と、言う。
やはり自分の足で、目で、確かめてみたいと思ってやってきた。

駅から五分ほど歩くと川が流れていて、そこに巨大な岩が見える。

「ははぁ、これが『対面岩』か」

この寺を開いた慈覚大師円仁と、この地方を支配していた狩人磐司磐三郎がこの岩の上で出会い、仏道を広める根拠地とすることを認め、狩人をやめたとされる。狩人をやめたことを喜んだ動物達が磐司に感謝して踊ったという伝説のシン踊が、山寺磐司祭で奉納される
※寺のホームページより。

土産物屋・荷物お預かり所、団体利用の食堂などがずらりと軒を連ねているが、今日は平日だから閑散としている。そのまま通り過ぎて寺の入口まで登る。入山料?三百円を払い。いよいよ石段本番!

朝方、山形の高層ホテルで目覚めた時には窓の外は霧だった。
博物館で「縄文の女神」を見ている時にも寒空だった。
電車を一時間遅らせて、木立の中から注ぐ陽が楽しめて幸運だ。

十分ほど登るとこの小堂がある中にはこわ~い顔の脱衣婆の石像
かつては、ここからが聖域となり服を着替えて登って行ったのでここに脱衣婆のお堂がつくられたそうだ。

このあたりから、こんな車輪の付いた卒塔婆をたくさん見かけるようになる

若くして亡くなった人の魂の為のもので、南無阿弥陀仏と唱えてまわすと、早く成仏できるのだそうだ。
残された人が悼む気持ちがそれぞれに宿っているのか。

駅から見えていた切り立った岩が目の前にそびえる。

ここからが階段本番か?
自然石を積んだ階段をまがっていくと、不意にきちんとした階段にであった
山門の中には鎌倉時代、運慶の弟子作と言われる仁王像が睨み下ろしている

ここから、途中に眺望の楽しめそうな横道がいくつかあったが、それは帰りに行くことにして、奥の院まで、寄り道をせずにのぼっていった。

まだまだ、まだまだ、と気を抜かずに登って行ったら…前庭に雪がいっぱいの御堂の前に出た。
「奥の院」と書かれている。あれ?もう着いちゃったんだ。


「残雪とよぶには多し奥の院」

階段は千と十五段と書かれていた。
気を引き締めて登ったせいかもしれないが、わりに簡単に到達出来た印象であります。

戻り道は、眺望が楽しめるルートへいってみよう。正面に見える開山堂には円仁の木像があるということだが、冬季のためか開いていない。

最も印象的に見えていた赤い小堂へ近づいてゆく。
経文が収められている場所で、この下に円仁の入定洞があるとのこと。
そう思ってみれば、この立ち上がった一本の岩から円仁が周囲を見守っているかのようである。
※こちらに⇒もう少し書きました


現在は通行止めになってしまった岩の小道の上に、かつて僧たちが修業していた祠が点在している。
凝灰岩はぼこぼこと穴があきやすく、こういった場所を利用できる事も、この場所が密教の修行地に選ばれた理由なのだろう。


開山堂向かって右手から、残雪を越えて降りてきた人がある。
この足場の悪いところをあがらないと、山寺一の絶景ポイントとされる五大堂には上がっていけない。



元の道に戻り、降りてゆく途中に、登りには気付かなかった風化が進んだ岩に刻まれた仏像に気付いた。
「伝・安然和尚像」と書かれている。調べてみると、慈覚大師円仁の弟子にあたる人物で、まさにこの山が開かれる時に同道していた人物のようだ。つまり西暦九世紀の人物。ぼろぼろになった岩が、平安時代初期という時代の遠さを感じさせる。

***
駅近くに降りてくる。列車の時間まで一時間ほどあるので、芭蕉記念館を訪れることにした。

※こちらに⇒もう少し書きました。










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山形へ

2015-03-19 09:57:34 | 日記
2016年春の《手造の旅》山形企画のための一泊二日
**
新幹線の窓をたたく雨音が心地よくてすぐに寝入ってしまった。
いくつかの駅をぼんやり覚えているが、眠気がすっかり落ちたのは福島駅。

「これからトンネル区間が続き、電波の受信状態が良くない区間にはいります」と車内アナウンスがはいる。
雨は止んでいる。低い雲の上に雪をかぶった山が見えてはっとした。


そして新幹線がトンネルを出ると、ちょっとどころではない雪が風景をがらりと変えた。

畝に縞模様になった雪が美しい。

これまでも東北を訪れた事はあったが、もっと暖かい観光シーズンだけ。
そうか、これが東北なのだ。三月とはまだまだ雪の季節なのか。


大阪と兵庫で生まれ育ったせいだろうか、三月に雪がいっぱいだという意識がぜんぜんなかった。
いくらニュースで報道されていようと、「知らない」というのは、そういう事なのである。

17:46山形へ到着。
思ったよりも寒くはなくてほっとする。
今日の泊はワシントンホテル山形駅西口。駅から直結している高いビルの19階から24階がホテルとしてつかわれている。ワシントンホテルは七日町の方にもあったが、地元にお住まいの方がこちらを勧めてくれた。実際、行ってみると確かにこちらの方が新しく気の利いたつくりになっている。
24階がフロントになっていて、「夜景が楽しめる」とホームページに書いてあった。

チェックインしてすぐに東口から七日町へ向かう。
六年前にフランスの旅でご一緒した方とお会いすることになっている。

そのお二人がえらんでくださったのは「東京天國」というてんぷら屋さん。
歴史を感じさせる店構えの二階でおちついた
※この店の話をもう少し⇒こちらに書きました

夕食後にいただいた榮玉堂のどら焼き。
ふわふわクリームの、はっとさせられる美味しさだった。


*****
翌朝、24階の朝食レストランからの眺め夜景はさほどでもなかったが、たしかに見晴らしはよい。四角い堀にかこまれた一角がかつての城であることはすぐわかった。

調べてみるとあの掘割の中に博物館がある。
朝食をゆっくり食べていたので09:45発の仙山線には間に合いそうもない。次の列車までは一時間ある。よし、この時間に「縄文の女神」を見に行こう。

さっと歩き出して十分で到着。入口に等身大に拡大された「女神」が置かれている「あまり時間がないのですが…」と入口で話すと、まよわず「あ、それでは二階の二号室をご覧ください」と教えてくれた。

ひっそりした博物館をどんどん奥まで歩いてゆく。
だれもいない「国宝展示室」に写真で見慣れた「女神」が鎮座している。しかし、この像、正面から見ているだけではその魅力があまり伝わってこない。
デフォルメした造形がとても現代的で印象的ではあるが、美しかと訊かれると即答できない。

斜め前からの図、ポスターにもなっている。だが、これでも、それほど魅力的な造形ではない、と思った。

だが、ゆっくりうしろへ回り込んでいくと、いっきに見え方が変わった。

この背中から腰にかけてのライン。写実というのとは違うが、充分な美しさが込めてあるではないか。

思い出したのは、ルーブル美術館所蔵ドミニク・アングル作「グランド・オダリスク」美しい背中が大好きだったアングルは、あまりに好きすぎて、長く引き伸ばした背骨を創作してしまった。
発表した当時は「歪んでいる」とか「こんなポーズはとれっこない」とか言われて評価されなかったが、見たままに再現することが上質な表現にはならない。

「縄文の女神」を制作した人物が、アングルと同じように考えていたわけはないだろう。
それでも、この背中にこそ、この造形の魅力があると感じるのである

真後ろ近くから横から・・・ん~、やっぱり斜め後ろからがいちばん。

考古学的な面白さも満載。
使われている土にキラキラと光る雲母が混ざっているのは、数年前に諏訪湖畔・尖り石遺跡で見たこの「縄文のヴィーナス」と同じ。
こちらも現地で見てはじめてその魅力を理解できた。写真では分からないキラキラ光る雲母を含んだ土を素材に使うというアイデアは土偶を制作する時の定石だったのだろうか。

「ヴィーナス」が高さ27センチなのに比べ、「女神」は45センチとこの種のものとしてはいちばん大きい。
頭の部分に何かつけられていた穴があるのが分かる

たくさんの類似した破片が見つかり、まわりのショーケースに展示されている破片ではあるが、ひとつひとつが四千五百年前の誰かの手によってうみだされたと思うと興味深い。「縄文の女神」がこの種の土偶の頂点だというのが理解できる。すべて重要文化財指定となっている。



*****
復元された城壁の中は今でも発掘調査が続けられている。
江戸期に崩落した城壁の石が見つかって、それがこんなかたちで残されていた

この洋館建築は、明治十一年に「済生館」という病院として建築されたもの。宮大工が七か月で建て上げたそうな。現在は郷土資料館としてこの場所へ移築されている。内部も見て見たかったが、次の機会に。


・・さて、10:50発の仙山線に乗って、山寺へ向かおう。
翌日の日記に続く

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