旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ルーブルをゆっくり、パリで生うに

2011-09-24 16:25:47 | フランス

午前中二時間、ルーブル美術館へ。と、言っても「モナ・リサ」も「ナポレオンの戴冠」も見に行かない。今日はルーベンスの描いた連作「マリ・ド・メディシスの生涯」とその周辺絵画だけをゆっくり解説していただいた。

一枚に描かれているアポロはバチカン所蔵の古代彫刻「ベルヴェデーレのアポロ」をモデルにしていたのだった。あの作品は、ベルニーニも大好きだった作品として小松ももちろん知っていた。しかしルーベンスもまたこのアポロのファンだったのだとは、知らなかった。その二作品くらべてみてください↓

グループで見学するルートとは離れた場所にあるギャラリーだが、もちろん、以前にも見ていた。ガイドブックぐらいは読んでいた。しかし、解説していただいてはじめて理解できることがたくさんあった。んんん、まだまだルーブルは宝の山であります。

北方絵画の回廊はフェルメールやレンブラントも目についた。しかし、個人的にアッとひきつけられたのがこの小さな絵画。

2008年にオランダのマウリッツハイス美術館で知った静物画家クールトの作品であった。下記、その時の小松の日記です。

http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=2http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20080506

**お昼は軽く・・・海鮮を

こんな生うにもおいしく食べられるのがパリなのです。日本の寿司ネタになるウニよりずっとさらっとしている。

もちろんいっしょに定番の牡蠣とエビも食べたけれど、それはさておき、ムール貝とともに二皿目にたべたこの貝は、なんでしょう?

ほや貝、日本でも食べたことがなかったのですが、いただきました。・・・これは、日本で食べるものよりよっぽど食べやすいようなものなんだそうです。

***

19:25発のJAL406便に搭乗し成田へ

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パリの夕食

2011-09-23 15:39:29 | フランス

ローマの朝、ホテル近くを散策。そういえば、今回トレビの泉も見ていなかったので、ちょこっとどんな様子かと(笑)

13時半の飛行機でパリへ移動、ルーブル近く、サントノーレ通りのホテルへチェックインしてゆっくり。夜はボーマルシェ近くのレストランへご案内いただいた。

ちょっとずついろいろ種類を食べられるメニューにて、六種類出された中からいくつかご紹介。

★にんじんとショウガのスープ

★白身魚とトマトとズッキーニ、クミンの風味も

★カリカリチキンとオマールエビのビスク

★カジキの上にフォアグラ、イチゴとトマトのソース

★セップ(イタリアでいうポルチーニ)とジロル茸のソテー

★豚肉生姜焼き

★ブリーチーズにルッコラとはちみつ

★メリッス(ミントとレモン)のアイスクリーム、パンデピス(スパイス入りのパン)上にイチゴ

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トラステベレ地区とドムス・ロマネをめぐるローマの一日

2011-09-22 12:31:56 | イタリア

**ローマ滞在中日。旧知のガイドさんと午前中トラステベレ地区を散策。

★サンタ・マリア・デル・オルト教会はローマの日本人カトリック信者の集う場所となっていて、その中の祭壇のひとつに中浦ジュリアンの肖像画が描かれていた。

天正少年使節団の少年たちはローマに到着した時にひどく疲れていて、グレゴリウス13世法王は一日休養の為に船を用意してこの教会の近くからテベレ川でオスティアまで観光に出かけたのだそうだ。

帰国後、苦難の道をたどった四人の中で、最後まで日本に残りそして殉教した中浦ジュリアンは2007年に現法王ベネディクト16世によって副者に叙階され、それを記念してこの絵が描かれオルト教会に奉納されたのである。

トラステベレ地区でもうひとつ★サンタ・チェチリア教会を訪れる。三世紀にここで殉教した聖女チェチリアを奉っている。その遺体は9世紀にカタコンベから発見され、かつての殉教地に教会が建てられた。

正面祭壇、一番下に、チェチリアが発見された姿を大理石で納めてある。首を半分切られて苦しんで死んだとされていたが、その傷跡がはっきり確認できたとか。実際にそれを見たというステファノ・マデルノが17世紀初はじめに刻んだ。

教会はバロック様式に改築されているが、主祭壇後ろのモザイクは9世紀のもの。並んだ聖人の一番左に四角い後光をいただくパスカリス法王が描かれている。すばらしい大理石の説教台は1293年にアルノルフォ・ディ・カンビオが制作。

一度建物を出て、隣の入り口のベルを押す。中から応対の声があり扉が開けられた。階段を上がっていくと、いましがた下から見上げていたファサードの裏側の二階部分へでた。そこには12世紀に描かれた巨大なフレスコ画が残されていた。「最後の審判」の一部で、いかにもジョット風だと思ったら、ジョットよりも15歳ほど年上のピエトロ・カヴァッリという人の作であるという。へぇ、ジョットよりも前にこれだけの作品を描いた人がいたのか。

この教会の様子は下記のサイトが詳しいです。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7106/cecilia1.html

★ファブリチオ橋を渡り、古代からの病院の島ティベリーナ島へ入る。この島にある聖バルトロメオ教会には二十世紀の殉教者たちの遺品が集められている。それは西暦二千年を機に、前法王ヨハネ・パウロ二世がそうすることを望まれたからだという。

各礼拝堂は、ナチズムや共産主義、あるいは南米やアフリカというぐあいに地域や時代ごとに殉教した人々の残した品々が飾られている。殉教というのは過去のことでは全くないのである。

カンポ・ディオーリで休憩した後、ヴェネチア広場すぐ近くにある★ドムス・ロマネを見学。

ここはローマ県の役所ヴァレンティーノ宮殿の地下に位置しており、昨年新しく公開されたばかりである。予約制で約一時間の見学コース。一回に15人しか予約できない。その少人数なればこそ、CGも駆使して古代の家々の様子をよく理解させてくれる、すばらしい施設である。是非、次回の《手造の旅》で紹介してみたい場所である。※内部撮影禁止につき、下記のサイトご覧ください。http://www.provincia.roma.it/news/domus-romane-lesposizione-permanente-degli-scavi-palazzo-valentini

***遅い午後

パンテオンの後ろ姿

宿泊したホテルの屋上カフェからの眺め。中心部のホテルならでわ。こういうところでしばらく座っていた時間が、後からいちばん記憶にのこっていたりするものであります。

***夕食はかつてポンペイウス劇場があった上に位置しているレストラン。

常連の日本人ガイドさんにおすすめいただいたイワシ。これは日本料理として出てきても充分通用する味。

あいかわらずきのことエビが好きですいません

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カンピフレグレイ~ナポリの燃える大地

2011-09-21 18:51:45 | イタリア

ナポリの西にはギリシャ時代から「カンピ・プレグレイ=燃える大地」と呼ばれる地域がある。三十分で行ける隣町・ポッツォーリの町のど真ん中にヴォルカノ・ソルファターラと呼ばれる本物の噴火口があるのだ。

入場料を払って入ってみると、突然自分が円形のカルデラの底に居ることに気付く。ぐるりとみまわすと、見下ろしている淵にはこの写真の様に立ち並ぶ家まである。お住まいの皆さんは、毎日もくもく上がる硫黄の煙を吸い込んで生活しているわけだが、大丈夫なんでしょうか? ガイドさん曰く「このあたりに住んでるひとこの煙のおかげで風邪をひかないんだそうですよ」 ???ほ、ほんとですかい?

**紀元前八世紀のローマ建国以前からギリシャ人が移住していたこの一帯は古代遺跡の宝庫でもある。

朝9時にナポリのホテルを出て15分で、ツアーでナポリの夜景を見に行くポジリポの丘のふもとへ着いた。「この丘の下を抜ける古代のトンネルがあるんですよ、長いこと来てないけどどうなってるかなぁ~」とガイドさんが車を止めたのは、ちょうど現代のトンネルに入るすぐ手前のちょっとした車寄せ、さっきちらっと前方に見えた場所だ。←写真中ほど上に縦長のトンネル上部が見えますでしょうか?

入り口の看板を見ると「ピエディグロット(地域の名前)のヴェルギリウス公園」「ヴェルギリウス(紀元前1世紀)、レオパルディ(18世紀)のの墓」と書かれているが、トンネルについての表示はない。しかし、階段を上がっていくにしたがって見えてきたのは、とても二千年前の工事とは信じられない巨大な洞窟トンネルであった。

「こ、これが、紀元前一世紀につくられていたんですか、現代のトンネルと変わらないじゃありませんか!」すぐ下につくられたムッソリーニ時代につくられたトンネルよりも、なんというか、圧倒される迫力に満ちている。すぐ横に確実に上水道の跡とわかる水路があった

ここで聞いたこのトンネルの建設者が、今日もう一度、もっとすごいものを見せてくれることになろうとは、このとき全く思っていなかった。

現代のトンネルを抜けて「フォーリグロッタ(洞窟の外)」と呼ばれる地区に入る。ここからが現代の地理的にカンピ・フルグレイと呼ばれている地域になる。下記の地図で「ピエディグロッタ(洞窟の足元)」との間に見える現代の二つのトンネルのすぐ横に二千年前の先人のトンネルがあるのです。

***トンネルを抜けてカンピ・フレグレイ地区へ入り、しばらくすると左手に円形のきれいな湖が見えてきた。これもまたカルデラ湖にちがいない。湖とその向こうに見える海、突き出した半島のあたりが古代からの別荘地バコリになる。

このアヴェルノ湖からはかつて有毒ガスが噴き出し、鳥も飛ばない場所ということで、「冥界への入り口」であるとされていたそうな。

****現在は完全に遺跡になっているクーマの町とこの湖の間には小さいながらも山が間をふさぐ形になっている。古代の街道はそこを貫通させるために切り通しをつくった。現代でも車の通るこの「アルコ・フェリーチェ」がそれだ。

下の拡大地図にていちばん北にCUMA ACROPOLI。そこから右下のアヴェルノ湖へ行く途中の道にARCO FELICEが見つかるだろう。★ARCOの下にある点線にも注目、実は後述する紀元前一世紀に作られたトンネルを表している。

*****10:30クーマのアクロポリスへ到着。駐車場からあがっていく途中美しい砂浜が見えてきた。上の地図で、北のCUMAから南のプロチダ岬を見ている。その先のイスキア島はギリシャ人がクーマに町を築く前に住んだそうだ。その後、この場所に神殿を建て、その見下ろす場所に古代クマエの町をつくった。

クーマのアクロポリスへの道はかつての洞穴だったのだろう、今はだいぶ崩れてしまっている。この写真で人人が見下ろしている穴の下に実は紀元前一世につくられた下の町へのトンネル通路がある。これは丘の下にあるクーマの町までつながっている。

そのトンネルは下の町からさらに別のトンネルを経由(それが前掲の地図に出ていた点線)、アヴェルノ湖畔まで達している。下は現地の案内板の地図。GROTTA COCCEIO(グロッタ・コッケイオ)と書かれた黒い線がそれ。「あ、この名前、ポジリポの丘の下のトンネルを通した人と同じだ」

アヴェルノ湖はもう一つのルクリヌム湖を経由して海とつなげられ、軍艦の繋留基地にされていたので、クーマの住民は、有事の際このトンネルを通って海まで出ることが出来た。★前掲のカラー地図にはアヴェルノ湖からルクリヌム湖までも別のトンネルがあるように点線が書かれている。

****さて、コケイオスの洞窟は非公開なので、クーマ遺跡において現在実際に入れる場所でいちばん印象的な場所は巫女の神託所であったとされる洞穴であろう。この洞窟も初めの部分の屋根が崩れてしまっているが、それでも奥まで十メートル以上はある。

台形にきり通され、途中に明り取りの切込みが入れられている。どこかギリシャのミケーネ遺跡で見た墳墓につながる雰囲気を感じさせる。この洞穴の壁には薄れてしまったとはいえいろいろな模様が描かれており、1970年代にそのなかから「月のカレンダー」が発見されたのだそうだ。

******巫女の洞窟からさらにあがっていくと、二つの神殿跡がある。さらに古代の道をあがっていくと頂上にもうひとつひとつ、ゼウス神殿と呼ばれるものがある。実際、それぞれが何の神に捧げられていたのかはっきりしない。頂上にあるものを便宜的にゼウスの神殿だと呼んでいるにすぎない。ここは今、まさに、発掘が進められているところに遭遇した。「先週は男性のミイラが発見されたんですよ」とおしえてくれた。

*******11時半過ぎ、バコリの町へ到着。いかにもリゾートタウンという海辺の古い町である車を降りて細い急な坂道をのぼって、ある角の家に立ち止まる。と、勝手知ったるガイドさんは開いていた門から顔をつっこんで遠慮なく住人に声をかけた。これから見たいと思っている巨大な古代の貯水槽はここの家の人が鍵をもって管理しているのである。

「ちょっと入り口でまっててくれ」と言われて、さらに数十メートル坂をあがったところにある鉄格子の前で待つ。こんな住宅街の地下にどんなものが隠れているのだ? いや、扉が開いて数段階段を降りはじめたところで下の巨大な空間が見えてきてびっくり!

「ペッシーナ・ミラビーレ(見事な貯水槽)」と呼ばれている古代の水槽に、いまはもう水は溜まっていない。

25.5メートル×70メートル、深さ15メートル。地面をくりぬき、48本の柱で支えたこの巨大水槽には12600立方メートルの水を貯水できた。ローマ皇帝・アウグストスの時代に建設され、水道によってここまで水をもってきた。港に入ってくる船に給水する目的の水をここに溜めておいたのだと言われている。

近くにはもう少し小さな「百の部屋」と呼ばれる貯水槽があり、それは古代のヴィラへ水を供給するためのものだったと思われる。

*****次にポッツォーリの闘技場(アンフィテアトロ)を訪れた。ローマ帝国に数ある円形闘技場のなかでも屈指の大きさをほこっていたそうだ。 客席はあまりよく復元されていないが、地下のせり上がり仕掛けなどあった部分がよく残されており、そこへ実際に入っていける。

*****ポッツォーリで最後の訪問場所が冒頭の噴火口=ヴォルカノ・ソルファターラ。

見学を終えて13時半。簡単に昼食を食べてからナポリへ戻り15:35発の列車FRECCIA ROSSA(日本の新幹線なら「のぞみ」にあたるもの)に乗り、わずか一時間十分でローマ・テルミニ駅へ到着。

タクシーにて、パンテオンのすぐ裏に位置するホテルへチェックイン。

夕食はナボナ広場の裏手にある、以前行ったことのあるオステリアを訪ねた。店はだいぶきれいになっており、ちょっとおしゃれなトリュフを乗せた上にチーズものせたブルスケッタなどを出すようになっていた。

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スパッカ・ナポリはおもちゃ箱

2011-09-20 17:34:36 | イタリア

よく晴れた朝、ホテル最上階の朝食テラスから卵城とヨットハーバー。遠景にカプリ島も見えている

午前中はポンペイ遺跡を見学浴場の床に使われていた白いテラッツァは、きのう見学したサンタンジェロ・イン・フォルミス教会の床と同じである

スタンダードなポンペイ見学コースに加えて、今日は少し離れた「秘儀荘」まで行く。ここはエルコラーノ門の外・つまりポンペイ市街の外側に位置しており、ポンペイ本体遺跡よりずっと遅れて二十世紀初頭に発見された。その為、フレスコ画の保存状態も他よりずっと良い。

発見当時、その一室に描かれている主題が「ディオニソスの秘儀」であると推察されて、この名前で呼ばれるようになったのだが、今回お願いしたガイドさんの説明によると、必ずしもそう断定できないそうだ。

アテネ郊外のエレウシスで行われていたカルト宗教の儀式がこれら「秘儀」の原型とされるのだが、この場所はそんな秘儀を行うにはあからさまな場所に見える。「秘儀」をこのような人々が公然と出入りしていた明るい別荘のような場所に描くことは不自然ではないだろうか?※この建物はエルコラノ門の外と言っても、(当時)景色の良い高台にあって、フレスコの描かれている部屋はそのダイニングルームのような快適な解放された空間であるようだ。

またガイドブックでなされる図像の解釈についても、「秘儀」のストーリーを無理につくってしまっているのではないだろうか?なぜなら同じような作例は他の遺跡では全く見つかっていないのだから。これが正面にあたる場所にある図像⇒

中央にいる女性にもたれかかっているは、明らかにディオニソス。顔の部分が欠けているが女性はアリアドネということになろう。むしろこの二人の婚礼が主題ではないか?と、言う説。あながち間違いではないかもしれませぬ。

**

気持のよい朝のポンペイだった。秘儀荘のある門から出たところにあるレストランで軽く昼食。「親戚のところで作っているトマトだよ」と小ぶりだがトマトらしい味のするトマト。それにごろんと大きなモッツァレッラはやはり本場であります。

***午後、ナポリの旧市街スパッカ・ナポリを再び歩く。かつて神殿のあったカポナポリ(ナポリの頭)から坂を下って、古代ローマの東西の貫通道路デクマヌスだった通りを歩くことにする。

現存するナポリ最古のロマネスクの鐘楼。基部に頑丈な古代の石材をふんだんに使用し、その上にレンガを積み上げた。この写真の左側には起源を六世紀にさかのぼるとされるサンタ・マリア・マジョーレ教会があるが、この本堂のほうはロマネスクの雰囲気を全くとどめていない。

★このトリブナーリ通りには、かつての豪商や貴族の館が立ち並び、18・19世紀のナポリの隆盛を感じさせてくれる。通りがかりにはっと気になって足を向けた館は中庭がとても優雅な円形につくられていた⇒今は分割して売却され、集合住宅になってしまっているが、中庭の入り口に簡単な解説があった。それによるとこの「スピネッリ・ダ・ラウリーノ館」は1767年にトラヤノ・スピネッリ八世によって現在の形に拡張された。

彼はナポリのイエズス会学校で学び、そこで建築に強く興味を持ち、自らの屋敷のデザインにもその趣味を反映。パラーディオからこの中庭の雰囲気を、内部への階段にはナポリの建築家サンフェリーチェに影響を受けているそうな。内部、非公開ですが、見たかったです。

★この通りが出来立てのお屋敷街だった頃には、電灯・ガス灯は当然無く、松明(たいまつ)を使っていた。別の屋敷の入り口にあったこの魚のようなライオンのような門柱は、その松明を消すためのものである。

★サン・ロレンツォ・マジォーレ教会の横の通りはプレセビオ(クリスマスに飾るキリスト降誕の様子の人形たち)を売る店が立ち並んでいる。

こういう店では地元の人々もクリスマスの飾りを買っていくので、こういう美女をはべらせるベルルスコーニや土下座ベルルスコーニがちょっとうけたりするのか(笑)売れるのでしょうか?

★ナポリ版ビンゴというべきトンボラを売る店。

★サンタ・キアラ修道院はマヨルカ焼きで飾られた中庭が特徴的

内部が簡素な空間になっているのは戦争で爆撃された事による

簡素な中でひとつだけバロック装飾豊かな礼拝堂がある。そこはナポリ王カルロスが三十歳で早世した長男フィリップを悼んで造らせたものだった。その後、ナポリのブルボン家で早世した子供たちはここへ葬られることになった。

★近くにある新イエズス教会は、もともと一般貴族の屋敷だったので入り口はあまり教会らしくない。

内部はよくあるバロック調だったが、ある礼拝堂の手だけがぴかぴかに光っている銅像が目に留まった。見ているとその礼拝堂で祈っている人達は、最後に立ち上がってその銅像の伸ばした右手と握手している。

ガイドさんが「聖人になったモスカーティというお医者さんですよ」と、教えてくれた。1880年生まれで、第一世界大戦の時代に力を尽くした人物であった。

この教会のもっとも謎に満ちているものは、ファサードのとげとげのひとつひとつに刻まれた記号である(ちょっと見にくいですが)。それが何を表しているのか?最近「音楽を表している」という仮説も発表されたそうだが、実際、謎である。

****夜、ホテル近くで夕食へ。19時半に入った時にはほかに誰も居なかったこの店は、出てきた21時過ぎには外で待っている人がある程にぎわっていた。南欧は実に夕食が遅いとあらためて感じる。

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