旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

モスクになったアヤソフィアのモザイク画はどんな状態なのか

2020-07-25 17:22:10 | トルコ
2020年7月24日、モスクになったアヤソフィア。
「キリスト教の図像は礼拝中だけ布で隠し、観光時には見てもらえる」
と言っていたが、実際にはこんな状態になっている。トルコの友人が教えてくれた。

ここには東ローマ皇帝レオン六世がキリストに跪く9世紀のモザイク画がある↓

一日五回の礼拝の時以外に、この覆いをほんとうに外す?
また、内部で最重要の内陣上のドームに画かれている聖母子はこんな布で隠されている↓

↓この下にある聖母子のモザイク画↓

礼拝の度にこの布を、ほんとうに動かす?

モスクは床に座って礼拝するので、石の模様を考えて敷かれた大理石の床も

絨毯で隠されてしまった

かつて皇帝が礼拝の時に立つ位置を表す丸い色大理石の部分

ここだけは幸い絨毯に覆われずにすんだ↓

**
エルドゥアン大統領はアヤソフィアを祈る人のためには二十四時間解放すると発言。
観光場所として・宗教を問わずイスタンブールの歴史を内外に誇るべき場所としての役割は終わらせるのだという意味にきこえる↓新たに設置された看板「ジャーミー」とはモスクを意味するトルコ語↓


法治国家であり宗教国家ではないトルコを実現させた国父アタチュルクの意志は、こうしてなしくずしにされていくのだろうか。

●1453年にコンスタンチノープルを征服したオスマントルコのメフメット二世がアヤソフィアをモスクにするために入ってきた時の図を想像でえがいたもの↓



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2013トラブゾンのアヤソフィアはかつて…

2020-07-23 17:23:06 | トルコ
2008、2013《手造の旅》トルコ~黒海沿岸
明日、2020年7月24日、イスタンブルのアヤソフィアがモスクに変えられてしまう。
黒海沿岸トラブゾンのアヤソフィアのようなことにならなければよいと願う。
以下は2013年に、まだ博物館だった時のもの。この二年後には引用するYOUTUBEで見られるようにモスクに変えられ、装飾はほとんど見ることができなくなっている。※こちらからご覧ください

黒海の海岸から少し高くなった場所に位置しているアヤソフィアはビザンチン時代のマヌエル一世コムネノス(1238-1263)時代に建設された教会。

色鮮やかなフレスコ画が残されている。

内部の床も見ることができた

モザイク石の床は、今は絨毯の下で見えない。

キリストの業を記したフレスコ

↑これは水をワインに変える奇跡

↑こちらはパンを増やす奇跡
天井から吊り下げられた板によってほとんど見ることが出来なくなってしまったようだ。

この教会はコンスタンチノープルが陥落した後に逃れてきたビザンチン皇帝の一族が1461年まで教会として使用していた。メフメット二世はこの年の10月26日にトラブゾンを占領してモスクに変えた。
その後荒廃し第一次大戦当時には病院兼倉庫として使われていた。
戦後再びモスクとして使われはじめたが1958-62にエジンバラ大学が調査修復し、その後は博物館としてビザンチン時代の教会の姿を感じることが出来る場所だった。

入口の柱はもっと古い古代のモノの再利用かもしれない


1997年の発掘でハドリアヌス帝時代のエルメス神殿を紀元後二世紀のフラヴィウス帝が修復したものが発掘された。

教会⇒モスク⇒博物館という経緯を、イスタンブルのアヤソフィアもたどっている。
現代トルコは建国の父アタチュルクの敷いた政教分離を守っている筈だが、熱心なイスラム教徒にとっては「ここはかつてのようにモスクであるべきだ」と思う人はいるだろう。
日本にたとえるならば、戦後に国粋主義を牽制するために靖国神社を博物館に変えられてしまったようなもの、なのかもしれないから。




コメント (1)
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機内映画「The water diviner」~ガリポリを思い出す

2015-08-09 23:28:54 | トルコ
映画は、時に、我々の乏しい想像力を補完する役割を担ってくれる。

現代トルコが忘れてはならない戦闘のあったガリポリ半島には、2005年に自ら企画した《手造の旅》トルコで訪れた。
自分の目で見てはいたが、その時の小松には白い墓碑が青い海を背景に美しくひろがっている様しか見えていなかった。

この映画にえがかれたような光景を感じられてはいなかった。

1915年の4月から12月にかけて、イギリス軍の最前線を担ったANZAC(オーストラリアとニュージーランド)兵と、トルコ兵が死闘をくりひろげたガリポリ半島。

この映画では、ガリポリの戦いで三人の息子がすべて行方不明になったと知らされた父親が、はるばるオーストラリアからやってきてその消息をなんとしても突きとめようとする

主演で監督のラッセル・クロウはオーストラリア人。彼自身、実際に二人の息子の父親。
実際の記録に、オーストラリアから息子の消息を探してやってきた父親がいたと知ったのが、この映画を撮ろうとするひとつのきっかけだったそうだ。

当時は、そうか、実際にこんな光景がいたるところに見られたのだろう
小松は十年前実際に現場へ行っていたのに、こういったリアリティを感じられていなかった。

日本でこの映画は公開されたのだろうか?
されていたとしても、日本人にはほとんど知られていない戦闘がテーマだから、ほとんど話題にもならなかっただろう。

トルコを訪れる日本人観光客は、ガリポリ半島をけっこう通るのだが、その時この戦闘の事をどの程度認識するのだろう。

我々観光旅行をリードする者の使命は、今は穏やかな風景の裏側をも知らせる事だと思う。
実は、この映画で描かれたような世界が存在している事実を、知ってもらう事だ。

**
この映画は、史実をちゃんと描きこんである。
敗戦後のトルコに侵攻してきたギリシャ軍との戦いや、第一次大戦に敗れたオスマン・トルコがどうやって共和国へ転換していったのかも。

ただ、主人公とトルコ人女性の恋愛エピソードは、まさにとってつけたようだったけれど。

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イスタンブル宝箱2

2013-04-30 12:42:10 | トルコ
《手造の旅》トルコ9日目、帰国便に乗る日を有効活用するために、この城壁に近い場所にあるホテルを選んだ。
良い天気で城壁が青空に美しい

が!最初にお見せしようと思っていた東ローマ帝国時代の「黄金の門」=オスマントルコ時代の「イエディ・クレ=七つの塔」はなんの予告もなく閉まっていた。ホームページにもそんな告知はないし、ガイドさんも手配元も知る術はなし・・・人があまり来ない場所だとこんな事もある。

日程表に書かれている場所を完全履行出来なくても、ご理解いただける皆さんに感謝いたします。
この古代の城壁の端にあたるエリアはスラムじみていたのだが、やはり開発が急にすすんでいる

城壁の外側に沿って北上すると、15世紀コンスタンチノープルの三重の城壁が現代でも見られる。畑や庭園になっている

今朝二番目の目的地は、金閣湾の奥に位置する★エユップ・スルタン・モスク

ここへは昨年9月に来たが、今回もまた面白い逸話を教えてもらった。
前回の話はここからお読みください


聖水


最初の場所が閉まっていたので時間に余裕ができた。金閣湾を見下ろす高台にあるロティ・カフェへ行ってみよう。斜面は昔から人気のある墓地になっている

この写真はロープウェイから撮ったもの。

良い天気で木陰のテーブルでひとやすみ

トルコにいるとこのチャイがおいしい。水が違うのかしらん

***
今朝、三つ目の訪問地は、元コーラ教会、モザイク画がすばらしいのだ



こちらからコーラ教会のモザイクをつくらせた人物についての話をお読みください。

****
すぐちかくで、今回の旅最後の食事を。オスマン料理でだそうだが、はじめて入った。前菜突出しにソラマメをクリームで練ったペーストとオリーブオイルにディル。パンにつけていただきます。
前菜二種
このオスマン料理についてはこちらに書きました。


最後にトルコ料理の幅の広さをしっかり認識させていただき、空港で今回ガイドをお願いしたケナンさんが手を振ってくれました。(^^)また、よろしくお願いいたします
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アンカラも見どころいっぱい

2013-04-29 10:28:52 | トルコ
朝、カッパドキアのホテルを出発。

バスに水をかけてくれるのは、「水のごとくおだかやに旅できますように」という意味だそうだ
やがて、標高3300mのハッサン山が草原の向こうに見えてくる。

この山とエルジェス山の二つの火山がカッパドキアの地形をを形成したのである。

アンカラへ行くのに二つルートがある。少し遠回りになるが、塩の湖を通るルートを選んだ。羊の群れと塩湖の中の島が蜃気楼のようだ。


塩湖に近づくには決められたバスストップに行かなくてはならない。そこでは当然お土産屋さんが手ぐすねひいて待っていた。昔はのんびり塩の塊をそのまま売っていたのだけれど、ちかごろはハンドクリームがウリらしい。

湖畔へ出る小道にそのクリームをお試しさせようと三人の男がとうせんぼ。おもわず手を出すと、ぺっとり塗りつけられ、両手にぬりたくるように言われる。クリームを洗う水道が近くにあってそこへいくと「すべすべ~」と言ってクリーム売ろうとするんです。

でもね、これって、「塩ですべすべ」というよりは、「脂分でぬるぬる」なんですけど(笑)

**
草原が終わり、アンカラの街に入っていくとき、昨年大破壊していたスラムの跡地に新しいマンション群が林立しているのが見えてくる。スラムは、かつて不法居住者が夜のうちに建てた家「ギェジェコンド=夜の家」がぐじゃぐじゃに斜面を埋めていた。変わればかわるものである。
※このあたりのはなしはまた別のところに書きます。

アンカラで訪れるべき第一は、建国の父アタチュルクさんの廟である(と、小松は思う)。アンカラ市内の丘のひとつを占めるこの場所は、古代の古墳があった場所。ヒッタイトのライオンが参道をつくっている

やがて、古代のマウソレウム(廟)をイメージした巨大な建物が姿をあらわす。

警護する兵士は日によって陸海空軍それぞれ。ちょうど衛兵交代していた。

廟の入り口を見上げると、トルコ絨毯のデザインをしている

天上へお迎えするという意味で絨毯柄になっているそうだ。

床はトルコ各地から持ってこられた大理石などいろいろな石をつかっている


ここにはアタチュルクさんの博物館が併設されていて、ゆっくり見ると一時間では終わらない。今日はさっとではあったが、通ってもらった。

***
アナトリア考古学博物館はアンカラ城旧市街へあがっていく途中にある。古い城壁のまわりにはまだ「ゲジェ・コンド=夜の家」がひしめいている


博物館はかつての隊商宿の建物

現在修復をすすめていて、一部しか開いていないのだが、それでも一時間やそこらはあっという間に経ってしまう見モノがいっぱいある。
ヒッタイト時代のライオンは舌を出していてかわいい

★昨年秋にはなかった(もしくは説明してもらう時間がなかったのか?)逸品は、フィラデルフィアから戻されたトロイの秘宝の一部。これは海の馬(ヒッポカンポス)

耳飾り

定番の展示物が見られないからこそ、地下のより新しいローマ時代の展示も見る事ができた。これは、アンカラという街の語源が、英語でもアンカーである「碇」であるという説の元になっているコイン

キリスト教伝説では、アンカラはノアの方舟が碇を下した場所だそうだ。

****
考古学博物館から急な坂を少しだけ登ると、三千年近い歴史があるというアンカラ城の城壁が見えてくる

雰囲気のある石の城門

ここからアンカラ城へ続く道はいったいどれだけの歴史があるのだろうか、かつてはここもスラムのような雰囲気だったが、近年ずいぶんきれいになってきた

つきあたり、城への入り口

城壁に逆さになった文字が彫られている。

古代の神殿かなにかの石材を再利用しているのだ。
こどもが近づいてきて「アレクサンダー」(と書いてあるんだ)と言ったが、そうではなさそうだ

彼女はこう言ってから「マネ、マネ…」と手を出した。観光客にお金を恵んでもらおうというわけだ。トルコの一般的な場所では、貧しくとも、こういう子供たちはあまりいない。ガイドさんの言うようにジプシーたちがたくさん住んでいる一角だからか…?

●午後四時に食事にした
え?そんな時間に?と言うなかれ。今日はちょうど夕飯の時間に飛行機に乗るのである。イスタンブルについたら遅いから食事などしない方が良い。そのために、お昼の時間はとらず、ドライブインでの間食でしのいでいただいた。
城壁内の「ワシントン」という店は、もともとアメリカへ働きに行ったトルコ人がはじめたのだときいたことがある。外国の要人(写真に写っているのは小泉当時の日本首相)もやってくる

テラスからアンカラの市内が一望できる
前菜とってもおいしい肉の盛り合わせ!前回、五年前?だったかに来た時には、その日昼食も食べていたので、全部食べられずとても残念だったのです。アンカラワインとともに

*****
イスタンブルへいく機内でもこんなにでちゃいました夕食つけなくてよかった(^^)
空港からホテルへのバスでは、運転手さんが小学生ぐらいの息子さんを連れていた。おとうさんの仕事をちょこっとお手伝いもしていて、ほほえましい。嬉しそうなお父さんと、照れ臭い息子さんのショットです
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