旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

チンギス・ハーン博物館③通行証「ゲレゲ」、ヴァチカンや日本への書状

2023-10-13 16:15:22 | モンゴル
↓マルコ・ポーロも下賜されていたと書いている「ゲレゲ」

これを持っていればモンゴル帝国のどこのジャムチ(街道駅)でも必要なモノが供給される万能パス↑
国内を安全に移動できたことはパクス・モンゴリア(モンゴルの平和)の大きな成果。
↑書かれているのはモンゴル文字?ウイグル文字?

↑こちらはパスパ文字↑多言語国家モンゴル全土で↑どの言葉も表記しやすいようにチベット僧パスパが開発した表音文字。いわば当時のエスペラント文字。パスパはフビライ(クビライ)の侍僧になった人物。パスパ文字は後のハングル文字にも取り入れられているとガイドさんが検索しておしえてくれた
↑「チンギス・ハーン博物館」に展示されていたこれらはレプリカ
↓「歴史博物館」に展示されていたこれも↓


本家モンゴルでホンモノが展示されていないのではよほど希少なのだろう。
「ホンモノはテンリにあります」と言われて、それが日本の天理であるとしばらく分からなかった。
調べてみると★成吉思皇帝聖旨牌子として収蔵されていた※天理参考館のHPにリンクします
↑天理にあるホンモノは常設展示されているのだろうか。※2022年12月に天理を訪れた時のブログにリンクします
↑天理参考館が所蔵している「ゲレゲ」には漢字が書かれている。
「牌子」が中国語での呼び方。
アルファベット表記では「Paiza」になっていた。モンゴル語ではなく中国語の発音を優先したわけだ。

モンゴル帝国は西へも侵略を続け、1241年には現ポーランド領ワルシュタット(レグニッツァ)でヨーロッパの騎士たちを相手に大勝利をあげた。
危機感を抱いたローマ法皇イノチェント4世が即位すると、モンゴル皇帝への書状をフランチェスコ会の僧に持たせた。
1245年にカラコルムで第三代皇帝グユク(二代皇帝オゴデイの長子)に謁見し、翌年に返書を託された。
そのレプリカがこれ↓※オリジナルはヴァチカンに保管

↑ペルシャ語で書かれている。ペルシャ語はアラビア語と同様に右から左に横書きしかできない。
なので、この書状も横書きで展示した方がよいと思うのだが…。
もし、イラン人がやってきたら「あれ?わかってないなぁ」と思うだろう。
日本語の書状が横書き展示されているのと同じ。

ローマ法皇の書状は残されていないが、この返信の内容からキリスト教への帰依を求めてきたと推測できる。
グユク帝は「天こそが敬うべき最上のものである」と返信しているそうな。
多民族多宗教の広大な領土を統治していたモンゴルの皇帝には、
キリスト教にこだわるローマ法皇の言葉はスケールが小さく感じられたのではないかしらん。

↓もう一通、モンゴルからヴァチカンに送られた手紙が歴史博物館にあった↓

↑こちらは1302年にローマ法皇ボニファティウス8世に送られたもので原本は同じくヴァチカンに保管されている。
モンゴル語をウイグル文字を使って左から右に縦書き↑
右下の文末に押された印影を拡大してみると↓漢字だ↓

↑あとから調べて「王府定國理民之寶」だと分かった↑
送り主は第七代皇帝のカザン。彼はイスラム教に改宗してイル・ハン国(現イラン、シリアあたり)をスタートさせたとされているが、子供の頃に中国僧によって中国語も学んでいたそうだ。この頃まではモンゴル帝国は分割統治されながらも結束していたのを感じる。
カザンがイスラム教に改宗したあたりから、地域国家に分裂してゆく。

モンゴル皇帝フビライが日本に送った書状のレプリカもあった。
↓フビライがこの書状を送ったのは1266年、つまり前出ヴァチカンへの手紙二通の間↓

↑どこの「写し」を写したのだろう。鎌倉時代のオリジナルは現存していない。
↑日本の国立公文書館にあるものも、東大寺が写したものの「写し」である。
※国立公文書館のアーカイブにリンクします
↑日本の公文書館にあるものと比べると、正直ずいぶん雑に筆写されているように見える。


いわゆる元寇の海底遺構の調査によって近年見つかったものも展示してあった↑

↑モンゴル帝国が広大なユーラシア大陸の東西まで統治できたのは、言語・宗教に寛容であったからなのだ。支配者が自分たちの神を強要する世界は生きにくい。

↑最も強大だった時代のモンゴル帝国を率いたフビライ↑
この肖像でもかぶっている帽子(?)冠(?)のホンモノが展示されていた↓

ちゃんと質問しそびれたのだが、この帽子(?)冠(?)は権力を象徴するもので、皇后がデザインしたと解説されていたような。
今度行ったら確認しなくては。

歴代の継承者が被っているところをみると冠というべきものなのかもしれない。
よくわかりません。

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チンギス・ハーン博物館②

2023-10-07 17:15:39 | モンゴル
モンゴル帝国の首都だったカラコルムの遺構はこの亀石しかない。
実物そっくりが置かれている。
※2008年に現地を訪れた時のブログをごらんください

チンギス・ハーンの三男で第二代皇帝となったオゴデイが建設したはじめて城壁都市にあったとされる。

↑草原に埋まっていた都市の存在は
1990年代に衛星を使った調査で確実になった↑写真で下のほうに見える四角が現在のエルデニ・ゾー寺院の城壁※先の2008年のブログに写っております
四角の外側=今は草原にもどった広大なエリアに都市遺跡があったことがはっきり写っている。

↑衛星写真と最新の発掘を反映した復元都市模型↑右下がエルデニゾー寺院
↑池の左に大きな塔が見える↓

↑この塔の遺構は現在発掘中。2024年夏に現地を訪れたい(^^)

復元模型では固定した建物ばかりだが、
一般の人々が住んでいたのは移動式のゲル。
動かない「家」に住んでいる我々の目からみると、
移動式のゲルは「簡易住居」に見えてしまうがそうではない。
モンゴルにおける快適な住居とは、第一に冬の寒さをしっかりと防ぐ構造であること。
ゲル内部の暖かさは夏に滞在する観光客でさえも実感する。
壮麗な建築であっても寒すぎる家には住みたくない。

↓これは19世紀後半のウランバートル中心部の絵↓※ザナバザル美術館展示より

↑一般住民の住居はゲルなのがわかる。

オゴデイがカラコルムを建設しはじめたのは1235年ごろ。
フビライ(=クビライ)が今の北京を占領し「大都」の建設をはじめたのは1267年から。
つまりカラコルム(=ハラホリン)が首都であった時代は三十年ほどでしかなかった。

モンゴル帝国はやがて「元」という中国の王朝となり、
ユーラシア大陸を横断する多民族・多宗教・多言語・多文字の世界最大の国家になってゆく。

↑カラコルムから大都(=現北京)に移動する途中に築かれた街から発掘された瓦には↓

↑(復元模型)不思議な漢字的な象形文字が見られる。

建築はほとんどが中国式の寺院だった
↑モンゴル民族が暮らすのはあくまでゲル。


モンゴル人がゲルで暮らさなくなるのは大都(=現北京)を首都にしてから。

移動しない壮麗な宮殿=故宮を中心とした都市を建設し↑その入口に建設した門が残されている↑「チンギス・ハーン博物館」にはそのアーチ部分が再現してある↓※名前がわかりません


縦書きのモンゴル文字が刻まれている↑

大都を建設させたのは第五代皇帝フビライ(=クビライ)。
ユーラシア大陸を平和に行き来できる、いわゆる「パクス・モンゴリア」を出現させた。
その時代に叔父につれられてヨーロッパからやってきたのがマルコ・ポーロ
※マルコ・ポーロの故郷=コルチュラ島(クロアチア)を訪れた時のブログにリンクします

・・・続く


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2022年に開館した「チンギスハーン博物館」①

2023-10-02 06:03:51 | モンゴル
国会議事堂前のスフバートル広場から見える白いドームがそれ。

国会議事堂の正面に座する三人のいちばん左は↑第二代皇帝となったチンギスハーンの三男オゴデイ。

↑近くに行くと印象的なドームは見えない↑
この場所にあった「自然史博物館」も歴史ある建物だったが完全に壊された。
恐竜の化石がたくさん展示されていたのをよく覚えている。※2008年に訪れた時のブログにリンクします※後半に恐竜の化石をのせています
恐竜の化石は現在かつての「レーニン記念館」に移されている※2023年に訪れたブログをごらんください

↑この正面玄関の前で大統領が開館のスピーチをした。※モンゴルのニュース(日本語版)にその写真があります
↑このニュースの中にも出てくる「旗」が記念プレートに描かれている↓

↑8本の旗があるので、清朝時代の「八旗(ジャン・グサ」」をイメージしているよう。
日本語で「蒙古八旗」と通称される。
現物がひとつだけ現存↓展示してあった↓

↑ホンモノは予想よりずっと大きい↑リンクした「モンゴルニュース」で大統領の後ろに写っていたのとはずいぶんちがう。
↑ヤクの毛は復元する時にすっかり新しくしたのだそうだ↑
**

天井の高い広々としたロビー

↑入館料 
モンゴル人は15000トゥグルク(約600円)
外国人は倍の30000トゥグルク(約1200円)
発展途上にある国はよく「外国人料金」を導入している。
モンゴルはもうすぐなくなるかしらん。
カメラ撮影するなら別に50000トゥグルク(約2000円)
英語個人ガイドをおねがいするなら10万トゥグルク(約4000円)
払って来てくださったのは観光ガイドではなく学芸員さん。ここから三時間半、小松のめんどうな質問にも的確で詳しい説明をしてくださった。
※解説が小松の理解をはるかに超えていたので、ごくかいつまんで印象に残ったところをご紹介することしかできません。
ここは「チンギスハーン博物館」という名前ではあるけれど、紀元前から20世紀初頭までを網羅する総合博物館です。全部の展示を一度に見学するのは無理。今回は下見なので七階全部を訪れたけれど、2024年の旅でどこまで見ていただくべきか、思案しております。
***

QRコードの入場券でゲートを通ると

階段の上にチンギスハーンの肖像画。

↑「鹿石」からはじまるのは、前日訪れた歴史博物館やザナバザル美術館と同じ。
※こちらに書いています

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ビルの谷間のチョイジンラマ宮殿

2023-09-25 10:54:12 | モンゴル
スフバートル広場から徒歩五分。
高層ビルが建ちはじめたど真ん中に残されている「チョイジンラマ宮殿」

20世紀はじめの絵地図に描かれている↓

↑円の中心が現在のスフバートル広場↑
↑現在国会議事堂がある場所に↑かつての活仏ジェプツェンダンパ・ホクトクの夏の宮殿が描かれている↑
↑円の下に描かれている寺院がチョイジンラマ宮殿↓

四角い塀にかこまれた姿は↓現在の敷地とほとんど変わらない↓

↑いちばん左下に見える白い障壁がこれ↓

↑一度壊されたものを修復したのがよくわかる↓

まわりのオフィス街で働く人たちがお弁当をひろげていた(^^)

↑正面の門を入る↓

絵地図と同様に前庭が広がり↓正面に内庭とを隔てる門がある

その門まで来ると↓本宮が見えた

チベット仏教というより中国の寺院建築。
この寺院が建てられた1908年にはモンゴルは清朝の支配下にあった。

↑漢民族の漢字の左に縦書きのモンゴル文字と満州文字↓右はザナバザルがチベット文字から考案したソヨンボ文字と思われる↓

左右は狛犬というよりロマネスク的なゾウと獅子


↑扁額の下はムカデ?
本宮に入る

左右にチベット仏教の奉納舞「ツァム」に使われる巨大な面と衣装が並べられている。


巨大で重そうに見えるが紙でつくられたもの

いわば紙粘土細工なので軽いのだそうだ。

正面に仏像なのは同じだが、
さらに奥の正面に空席があるのが独特↓

解説を読むと↑ここは活仏ジェプツェンダンパ・ホクトク=ボグド・ハーン8世の座る場所だった↑

↑ボグド・ハーンの座所前↑柱に囲まれたこの場所で国事の占いが行われていた。

占いをしていたのが「チョイジンラマ」で、ボグド・ハーンの実の弟だった。
その名前はアルファベット表記をすればChoijin Lama Luvsankhaidav
最後の(あえてカタカナ表記するなら)「ルフサンカイダヴ」が名前。
「チョイジン・ラマ」は尊称。


↑「チョイジン・ラマ」の等身大像がすぐ横にあってぎょっとした↑
別の旅行記で正面右手にあったもっとリアルな像を「チョイジンラマ像」と解説したものがあった↓
↓こちらの写真で頭だけが少し見えている↓

両方とも同一人物?
**
本宮向かって右側のお堂はザナバザルが祀られていた
※ザナバザルについてはこちらに書きました

ザナバザルが製作した鋳造をはじめ、ゆかりの品々が並べられている

↓こちらの二体の像はあきらかに首から上がつけかえられている

↑事情はわからないが社会主義時代にはここも寺としては廃絶されていた。
モンゴル国内でガンダン寺だけが存続を許されていたのである。
※ガンダン寺についてこちらに書きました

***
今回、チョイジンラマ宮殿は一人で訪問した。
現地の英語解説を読めるだけ読んだが、細部については分からないことだらけ。

ゆっくり解説してもらいながら見学できる機会がありますように(^^)


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ザナバザルはどんな人だったのか

2023-09-23 11:32:52 | モンゴル
17世紀の卓越した鋳造仏像を見ていて、

これを制作した「モンゴルのミケランジェロ」ザナバザルとはどんな人だったのか知りたくなった。
※こちらに他の作品も載せています

チンギスハーンの血をひく王族に生まれ、頭脳は明晰、頑健な大男だったと伝わる。

↑ザナバザル美術館にホンモノの手形、自画像があった↓

↓同じくザナバザルが描いたとされる↓ザナバザルの母の肖像

なるほどに似ている。


↑こちらは後年に弟子が描いたという↑
↑尊大さや近づき難さなどはなく、親しみやすそうな人柄が三百年後の今にも伝わってくるようではないか。

しらべていくと★ザナバザルにはたくさん呼び名があった
産まれてつけられた名前はYeshidorj(イシドルジ?)だったが
産まれる前から数々の吉兆があったので同時にUndor Gegeen(「高位の聖者」の意)と名付けられた。
チンギス・ハーンの末子トゥルイ(フビライの父)の末裔。
誕生の前年・1634年に没した高僧ターラナータの転生であるとダライラマ5世から認定された。
※ターラナータは1608年にチベットからモンゴルへ布教に来たチョナン派(赤帽派)の僧。
清朝から「ジェプツェンダンパ・ホクトク」の称号をうけた。
ザナバザルが転生活仏であると認定を受けたのは当時主流になっていたゲルク派(黄帽派)に転向したことで可能になったという説明もあった。

ザナバザルの呼び名はサンスクリット語のjinana-vajra(「智の稲妻」の意)のモンゴル風発音からきている。
いつからこの名前が通称になったのかはわからない。
彼は初代のボグド・ハーンと説明されることもあるが(ボグド【聖なる】とは呼ばれていても)ハーン(「王」「領主」のような呼び方)がついたのは第8代ボグドが1911年に独立モンゴルの政治的なトップになってからだろう。


チョイジンラマ宮殿に↑ザナバザルが留学したチベットから持ち帰ったと伝わる一千年前の仏塔があった。
彼が卓越した彫刻・鋳造の技術を身につけたのはチベットなのだろうか。

↑こちらはザナバザルがモンゴル帰国後に製作した仏塔↑

ザナバザルはソヨンボ文字を考案し、
そのデザインは今もモンゴル国旗に描かれている↑

ザナバザルの八代目の生まれ代わりが
1911年に独立した君主国としてのモンゴルのトップ=ボグド・ハーンである。
※2008年に訪れたその宮殿についてブログに書きました。本人の写真もありました。

八代目の生まれ代わりボグド・ハーンが1924年に没すると、社会主義国となったモンゴルは九代目の生まれ代わりを選ばなかった。
が、チベットのダライラマは密かに九代目を選んでいた。
2012年に没したという彼の写真をガイドさんが見せてくれた↓

2016年、モンゴルを訪れたダライラマ14世は
「十代目はモンゴルで生まれた」と述べた。
**
冒頭の立像の横からの写真↓

↑2017年、この像のレプリカが大粛清時代にインドに逃れた元高僧に贈られたニュースがネットにあった
※リンクします。動画の1分30秒過ぎにレプリカ像が贈呈されています。
※以下はニュースの要約
彼はGobi Noyon Khutagtの生まれ変わり。
1930年代の大虐殺時代に教師と共にインドに逃れた。
その後、1964年にカリフォルニアのバークレー大学に教師として招聘され移住。
活仏であることを自ら止めて還俗し結婚。三人の子供に恵まれている。
85歳になり、53年ぶりに祖国モンゴルから招待を受けて帰国した。
ダライラマ訪米の際には彼の家に宿泊した。

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