旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

トリエステ到着の夜

2015-10-31 18:29:36 | イタリア

スロヴェニア領のシュコツィアン洞窟から一時間ほど走って、イタリアの北東端トリエステに至る。トリエステはイタリアというより永くこの町を支配したオーストリアの雰囲気を強く感じさせる街。19世紀に整然と都市計画された港の通りはウィーンのよう。その一角に今回のホテルがある。ロビーも時代を感じさせる 部屋に荷物を置いたらさっそく歩きに行こう。風はつよいけれど、夜空には星が輝いている。ホテルを出て右へ百メートルほどで中心の広場。地面に青い光が埋め込まれている 明日歩いて観光するにしても、こうして夜の街を見ておくことは無駄にならない。

広場の南は海に向けて開け、三方はこんなふうにかこまれている。

せっかくだからイタリアらしい夕食を

再び港を歩いてホテルへ戻る道で、こんな人に出会った⇒足元を見ると「ジェームス・ジョイス」。故郷のダブリンから駆け落ちしてきて、ベルリッツの英語教師をして食いつないでいた時期から十四年近くを過ごすことになった街。

トリエステ中を十数回ひっこしまわっていたが、ウンベルト・サバの古本屋の二階に住んでいた事もある。二人は一歳しか違わない。出会って話たこともあっただろう。明日来る地元のガイドさんにそんな話もきいてみることにしよう。

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プレディヤーマ洞窟城とシュコツィアン鍾乳洞

2015-10-31 15:59:55 | スロヴェニア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海 二日目午後


スロヴェニアの首都リブリャナを出発して一時間ほどでプレディャーマ洞窟城へ到着。二十年以上前、イタリアのトリエステに一週間滞在した時、当時未踏の地だったスロヴェニアへの日帰り旅を企画。偶然写真でこの姿を見て仰天して、即決で訪れた。その時以来の訪問。



洞窟城に現在の入口(写真右手から)が造られたのは、16世紀になってから。
それ以前は本当に洞窟の中にえぐりこんた構造だけだった。
当時の入口は写真で一番左下の方に見える小さな入口だけ。
実に難攻不落の要塞だった。
包囲されても洞窟の抜け穴から自由に外へ出られる、こんな構造だったから


現在見えている「城」然とした構造を入ると、すぐに昔の洞窟城の壁が残されている↓

 拷問の部屋も洞窟


きれいにお城の宮殿として復元された部分もある

この部屋の入口の番犬が飼われていたスペース

しかし、こういった城の見学はヨーロッパに行けば珍しくない。
プレディヤーマ洞窟城の面白さは、やはり15世紀までに建設されていた、地形と城が一体になった部分。


 


ここが15世紀までの城の壁

当時を彷彿とさせる木製の橋を渡って入ると

まさに本当の洞窟がひろがっていた。



ふりかえると

かつて、この洞窟内部に城を築いていた痕跡は、入口付近の窓の部分にみられるだけ

現在ほとんど洞窟にもどってしまっている。
それでも、いちばん奥の天井には梯子がかかっていて、上部に通じているのが分かる

夏場には、洞窟を探検する特別ツアーも行われる。これでは包囲して兵糧攻めなど出来ない。


城主としてもっとも有名な人物は●エラズム・プレディアムスキ(Erazem Lueger)スロヴェニアのロビンフッドと呼ばれる

トリエステ総督の息子だったエラズムは、1483年ウィーンの宮廷で神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世の重臣ポッペンハイム元帥を殺した(友人を辱めたのが原因だと言われる)。
以降、追われる身となったエラズムは神出鬼没でハプスブルグ家を攻撃するようになり、ついにこの城に追いつめられた。


一年に及ぶ包囲となったが、城はいっこうに落ちる気配がない。
彼らは洞窟を通って自由に外へ出入りし、近在から新鮮な食料を調達していたのだった。
時には調理した羊の丸焼きを奴隷を使って敵陣に届けるほどの余裕を見せ、包囲側を落胆させた。


しかし、エラズムの奴隷が買収され城の弱点を教える。洞窟の外側に突き出したトイレの部分だけが脆弱な構造になっていたのだ。


ある日の宴会の後、エラズムがトイレに入った時、奴隷が包囲側に合図をおくる。
すると、包囲側の大砲がトイレごとエラズムを破壊し、ついに城は陥落した。
そのトイレを復元したものが、これ

中世の大砲の石玉がそばに置かれている。


城のテラスから、包囲側が陣取っただろうあたりを見晴らす

小さく見えている礼拝堂がわかるだろうか。
そのそばに半分朽ちた巨木がある。
それは、エラズムの恋人が彼を偲んで植えたものだったと伝えられている


 ***


洞窟城から一時間弱で、シュコツィアン鍾乳洞に到着。


ほとんどのツアーが訪れるポストイナではなく、今回はあえてこちらを選んだ。


受付の建物入口⇒

洞窟への入口は別の場所で、ガイドと一緒に森の中を十分ほど歩いてたどりつく

ようやく入口が見えてきた

ここは専任のガイドと一緒にしか入場できない

スロヴェニア語のグループと英語のグループに分けられる 


「洞窟は二つのパートに分かれています、後半は川を見下しながらあるきます」

この「後半」のルートこそが、シュコツィアン洞窟ならではの魅力だった。


前半はこんな感じ。スケールは大きいがよくある鍾乳洞

世界中の鍾乳洞を見学してきたが、よほど特徴があるところでないと似たような印象になってしまう。
シュコツィアンの後半は、この数少ない「特徴があるところ」だ。


暗闇を轟々と流れる地底の川。その四十メートル上を渡された橋を渡る。
岩壁にライトアップされているのは、この橋が出来る前の見学ルート。
とんでもない崖にへばりつくように手すりが設置されている。
下の写真奥に古いつり橋が写っているのが見える。
「え?あそこを渡っていたんだ」↓




一時間はたっぷり歩き、ようやく出口の光が見えてきた。
岩の単色ばかり魅せられてきた目に紅葉の色がうれしい。
 谷からはちょっとしたケーブルにのって受付をした建物まで戻る


今日宿泊のイタリアのトリエステまで、ここから一時間ほどのドライブだ。


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リブリャナ見学

2015-10-31 13:05:42 | スロヴェニア

宿泊したユニオンホテル。朝食前、ホテルを出てすぐの旧市街を少しだけ散歩。きりっと冷たい空気。朝霧が建物の向こうに見えるはずの城を隠している土曜日の早朝、広場に人影はまばら。

ユニオンホテルの朝食は充実美味しそうだったのでアップルタルトまで手を出してしまった。

*九時に、昨日のクレマンくんがきてくれて徒歩で観光スタート。さっきの広場で観光プチトレインが止まっている。きけば4ユーロで城へもあがれるという。良いお天気だし時間もあるし、乗りましょ歩いは上りたくない城へのだらだら坂をのぼりきると、オーストリアとイタリアへの国境にあるユリアン・アルプスが大向こうから見おろしている↓

プチトレインは城のすぐ横に到着塔にはリブリャナのシンボル旗がひるがえっている今まで何度かケーブルカーで登っていた時にはいきなり城の中に着いてしまうので、こういうお城然とした姿を見られていなかった。中庭への弓手の塔の中はこじゃれたレストランになっていた中庭を経由していちばん高い塔のテラスに登る階段には、リブリャナの緑のドラゴンがデザインされている 

この四角い建物は大学の図書館⇒本を広げて向い合せに立てたかたちをデザインしている。スロヴェニアを代表する建築家で以前のスロヴェニア・トラル紙幣にも載せられてたプレチェニクの設計。

下りてくるとき、入口横に旧監獄だった部分を発見石板の人物はハンガリーの初代首相だったという人物。1849年に銃殺されていた。房内には骨を削ってつくられたボタン発掘の時に見つかったものだそうな。

**城外へ出て、古い井戸のあとこの場所にはローマ時代から井戸があったと考え得られているそうだが、今復元されているのは18世紀以降のもの。車輪の中に人間が入ってまわした。

下りのプチトレインを待っている時、紅葉の木立の向こうに記念碑が見えたので行ってみる 落ち葉きもちいいワン

像は、スロヴェニア民族が歴史上何度も起こしてきた反乱を記念したものだった。スロヴェニア民族だけの国家ができたのは1991年のことである

***下の旧市街へ降りて、市庁舎の中庭へリブリャナの歴史を記念する絵がかかげられている。最後のモノは2006年から2011年まで続いた旧市街再整備の完成を記念した大コンサートを描いた絵

大聖堂のブロンズ扉二つ、こちらはスロヴェニアの門 もうひとつがリブリャナの門

ガイドのクレマンくんが「ミルクのATMがあるんだ」と言う。???それって何?

これが、それ⇒近隣の農家が毎日しぼりたてを持ってきているのだそうな。100ミリリットル10セント単位で購入できる。お金を入れてボタンを押すと、こんな風にミルクが↓

リブリャナのシンボルのドラゴン

そろそろお昼、今日はお天気なので広場でサンドイッチでも、ということでトルコ風のケバブにしました 国民詩人プレシェーレンの像のまわりでいただきます

・・・午後はプレッド洞窟城と世界遺産シュコツィアン鍾乳洞を訪れます。

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ミュンヘン経由リブリャナ到着

2015-10-30 12:18:17 | スロヴェニア

《手造の旅》クロアチアとアドリア海の旅、羽田空港12:40のミュンヘン行きで出発!コース造りはいつも試行錯誤だが、今回、最初に到着する地をどこにするか、いくつか迷った。イタリアのヴェネチアに近いトレヴィゾ、トリエステ、オーストリアのクラーゲンフールト、結果スロヴェニアの首都リブリャナという定番におさまりはしたが。

全日空の機内映画「LOVE &MARCY」は、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの悩み多き半生を描いたもの。最後に彼自身が表題の曲を歌うシーンが流れる。※これについてはまた別に書きます。

ミュンヘン空港で乗り継ぎの時にみかけた「いっちょまえ」な子

**リブリャナの空港に到着、飛行機を降りてすぐのスロヴェニアの宣伝。スロヴェニアには「愛」が入ってるんですねぇ 迎えてくれたガイドはまだ大学院三年生というクレマンくん明日もご一緒します。 三十分ほどのドライブでリブリャナの旧市街ど真ん中のユニオンホテルへ到着。最近旧市街への車の乗り入れが禁止され、ホテルへ五十メートルでこんなポールにはばまれた。ま、この距離なら心配ない。入口にはオーストリアのヴィーンンによくあるようなユーゲント・シュティール(いわゆるアールヌーボー)様式の装飾内部すっきり品が良いクラシックさ。このホテルはナチスの支配時代に司令部として使われたとのこと。ということは、当地リブリャナを代表するホテルだという事。 今晩は遅いのでおやすみなさい。

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世界遺産タオス・プエブロへ

2015-10-12 11:27:18 | アメリカ西部

築一千年と伝わるアドベ(日干し煉瓦)の五階建てアパート


 

サンタフェからアルバカーキへ向かう。
きのう突然のクローズで見学できなかった世界遺産タオス・プエブロを目指す。
途中、エスパニョーラという村を過ぎたところに立つこの騎馬像を見た瞬間「あ!あの人物だ」と、すぐに分かった

こちらに詳しく書きました!小松としては、今回の旅での重要な学びでした



「そろそろ通してくれませんかねぇ、ご主人様ぁ」

道路工事で待っていると前の車で↑

リオ・グランデが大地に裂け目をつくってながれているのが遠目にみえてくる

現代のタオスの村

ここを過ぎてさらに山へ一マイルほどいくと

世界遺産のタオス・プエブロ

入場料、一人$14を支払って壁で囲われた古い村に入っていく。


「ガイドツアーが二十分ごとに教会の前から出発します」と案内がある。
これがその教会

1850年建造の、村で一番新しい建物だそうだ。


観光客向けに★「犬は繋ぎましょう」 と書かれているが、村で飼われている犬は繋がれていない。
外からやってきた犬に仁義をきりにいく村のワン

やがてボランディア学生だというディアナさんが登場、二十分ほどの案内をしてくれる。

●サン・ジェロニモ教会の中は撮影禁止。

外観のおもしろさに比べると、内部はよくある田舎の簡素なカソリック教会。

内部はエルパソでみたソコロ教会の方がかつての雰囲気があるかと思われた。


広場から見た北のビル↴


いちばん古い部分は千年ほど前にさかのぼるとされている。
木の扉が見えるが、これは後年付け加えられたもので、もとの入口は梯子をつかって天井から中へはいってくるのだったのだとか。
ぱっとみて木製の扉も現在は使われていないように見えるものも多い。
このアパートの二階以上の部分に入ってみたくなるが、見学させてくれる場所はみあたらなかった。
現在も実際の住居として使い続けられているからなのだろう



裏へまわろうとすると・・・



路地には丸いパン焼き釜

「スペイン語からHORNOホルノと呼ばれています」



広場の南側に小川が流れている

「レッド・ウィロー(赤い柳)・リバーと呼ばれています。
この植物がそのいわれです」

水源は山の中にあるブルー・レイクと呼ばれる彼らにとっての聖域。
年に一度村人が巡礼に行くという。
その湖を含む一帯48000エーカーは1906年セオドア・ルーズベルトの時代にアメリカに接収されたが、ニクソンの時代1970年になってから部族に返還された。


 


これら部族の土地に住むタオス・プエブロの人々は現在1900人ほど。
彼らは基本的に現代的な家に住んでいる。
この電気も水道もない歴史的地区の壁の中に住む人口はそう多くはない。
季節によって変動し、少ないときで三十人ほど、冬場には百五十人ほどにまで増えるのだそうだ。
壁で囲まれた村の中はとても狭い。
さっと歩けば十五分でひとまわりできる。
入場料をとるし、テーマパークのようだが、人が住見続けているので雰囲気はちゃんと村になっている。

こちらが塀に囲まれた入場料が必要な一角の地図↑
建物は常にメンテナンスしていないと住み続けられない。
電気も水道もないが、世界遺産に指定されてはおいそれと建て替えるわけにもいかない

だから塀の外にも家を持っている。


 


★塀の中で最も歴史を感じさせてくれる場所は廃墟に↓なった鐘楼だけが残る教会とそれをとりまく墓地。ここがもともとのサン・ジェロニモ教会であった。

スペイン時代1619年に最初の教会が建設されたが、1680年ポペが率いる反乱によって破壊された。
きのうちょっと話した地元の若者は、この1680年の破壊がそのままだと言っていたが、今日ガイドしてくれたディアナさんの話と村の資料を読むと、それは違う。


 


1680年の反乱で破壊された最初の教会は1692年のスペイン人再征服の後、1706年に一度再建された。
二回目の教会が壊されたのは、1821メキシコ革命のそのまた後。


 


アメリカがこの地を統治しはじめた1847年になる。
メキシコ政府が彼ら与えていた「土地安堵」をアメリカが承認しない不安と不満によって起きた反乱と鎮圧。


 


1847年1月19日タオスの反乱 
その朝、タオス村に住んでいた初代ニューメキシコ総督チャールス・ベントの邸宅が襲われた。
総督は矢で射られた後家族の目の前で頭の皮を剥がれた。
まだ息があった彼は日干し煉瓦の壁に穴をあけて逃げようととしたが、今度は殺された。

翌日も反乱は拡大し、タオスと周辺の村で合計十五人以上のアメリカ人が殺される事態となった。 


これに対しサンタフェのアメリカ軍は三百人の正規軍と六十五人義勇兵を加えて進軍。
反乱側百五十人は厚い土塀に囲まれたタオスのこの教会に逃げ込んだ。
アメリカ軍は教会の壁に穴をあけると、そこから直接大砲を撃ち込み、たてこもった百五十人を虐殺した。
アメリカが側の死者はたった七人だったという。
※多くの村人は山へ逃げ込んでいた。



 アメリカはとらえた反乱軍を裁判にかけ、殺されたアメリカ人の親族が多数参加した陪審員裁判により、4月9日、タオスのこの村の広場で六名の絞首刑が執行された。二週間後にはさらに五名を絞首刑にし、この反乱における絞首刑は少なくとも二十八名にのぼるとされている。


 この惨劇のあった教会はそのままに放置され、今でも村人の墓地になっている。
反乱で破壊された教会の主祭壇に置かれていた聖人の像は、前述の日干し煉瓦の北のビルの奥に保管されていると解説されていたが、見る事は出来なかった。


 


**おととい亡くなったという村の住民は、この墓地に葬られるのだろうか?


その質問にガイドのディアナさんは、「現在新しい墓地が四分の一マイル離れたところにあるのです。明日が葬儀でそちらに埋葬されます。」とのこと。今日見学できたのは幸いであった。


 ***


 昼食にはタオス村で焼いていたリンゴと杏子のパンを買った小松がみかけたフライ・ブレッドも揚げてもらった。注文があると、イタリアのピザと同じような生地をその場で薄く広げて油で揚げる。シンプルながら出来立てに蜂蜜をかけるととてもおいしい 何年か前にグランドキャニオンの底ハバスパイ村でも同じようなものを食べたなぁ。


 ***村で売っていた「カチーナ」人形もともと宗教的なものとして信仰の対象だったので、キリスト教支配の時代に禁止されたこともある。


午後、サンタフェ方向に戻る途中、みかけた吊り橋で停車してもらう。きのう見た巨大な橋は吊り橋ではなかったが、こちらはホンモノ。


いつごろ建設されたモノかはわからないが、今の車用の道路ができる前なのは確かリオ・グランデに沿ったこのルートは「カミーノ・レアル(王の道)」と呼ばれる古い道。川向うにそれらしい旧道が続いていた


***二泊したサンタフェには寄らず、南西へアルバカーキを目指す。360度の地平線を延々と走り、アルバカーキが近づいてくると左手にサンディ・ピークという山が見えてきた一見そうみえないが標高3100mある。ここへロープウェイで登ってからアルバカーキ市街をめざそう。⇒ロープウェイの写真記事をこちらに書きました


とてつもなく広大なエリアに平たく広がったアルバカーキだが、中心部の旧市街にはサンタフェと同じように四角いプラザ(広場)がある。その近くを歩けば、昔の雰囲気が少しかんじられる。今回の旅最後の夕食、なににしようかと物色したが、結局メキシカン(しかなかった?)でもね、今回はけっこういけましたレストランを出るとプラザももう夕景 


ホテル・アルバカーキは雰囲気がある明日朝は早いからゆっくりできないが、このホテルに泊まれてアルバカーキの印象はぐっとよくなった

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