旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

映画「ゴッドファーザー」撮影の屋敷とエトナ山へ

2015-09-21 23:59:58 | イタリア

タオルミナ三連泊の三日目。

映画「ゴッドファーザー」三作すべてに登場している屋敷がある。タオルミナから三十分ほどのところにあるカステッロ・ディ・スキーアヴィ。タオルミナのガイドさんが予約してくれて訪れる事ができた。こんな田舎道をいくとなんてことはない塀に囲まれた邸宅があり電話をすると男爵自らが門を開けて、車を中に入れる。古めかしい、まるで映画のセットのような屋敷が見えた。邸宅に向かって左手の礼拝堂は、本館よりも古い時代からあるという。中には十字軍にその歴史を発する聖ヨハネ騎士団=マルタ騎士団の紋章が掲げられていた貴族でなければ、騎士団のメンバーにはなれないのである。建物の見張り塔に、マルタで見たのと同じ装飾があった「目」と「耳」が刻まれている。オスマントルコとの最前線を戦ってきた彼らの心構えをあらわしている。 本館地下は、上に居住棟が建てられる前からあった貯蔵庫、そこもまた一族の歴史を物語る紋章や絵画、肖像画が掲げられていた現在の御当主の風貌も、どことなく似ておられます 居住棟は映画「ゴッドファーザー」撮影時の写真や、日本の雑誌も置かれていた。なかで目を惹いたのはテーマ曲を作曲したニーノ・ロータの楽譜メモ入りサイン→※こちらに載せました

**

エトナ山は標高3390m。富士山と同じぐらいの高さで、ヨーロッパ最大の活火山だが、富士山よりも簡単に山頂近くまで行く事が出来る。標高1900mのサピエンツァ避難エリアまで車であがり、シルベストロ火口群を歩く過去に噴火したクレーターのエッジに人が蟻のように見えるカターニャに流れ込んで海まで達した溶岩が黒く固まっているのが見張らせるそれにしてもすごい強風! ここから標高2500mまで上っていけるロープウェイも今日は止まっている。溶岩の中に埋まった以前の白いロープウェイの柱が見えるだろう※現在使用されているのが緑色のもの↴

気温は15℃ほど。風が吹いているのでずいぶん寒く感じる。ふもとのザッフェラーナ・エトネアまで降り休憩しよう。小さな町の広場から見上げるエトナ山頂には不思議な雲がたなびいていた海に向かうテラスのような広場は暖かい

 

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タオルミナに戻り、タオルミナを見下ろすカステル・モーラの町を訪れることにしたここも標高は高いがエトナ山のような風は吹いていなかった。タオルミナとはちがう路地を歩く一番上の元城塞があった場所眼下にタオルミナとその上の要塞が見下ろせる

再び車に乗り、見えていた要塞の近くに止める。ここに「岩の聖母」と呼ばれる古い礼拝堂がある。入口はこんな風だが内部にはもともと岩に描かれていたという聖母の絵が祭壇になっているのがわかる。伝説では、嵐から非難した羊飼いの子供たちが稲妻に照らされたこの絵を発見したのが礼拝堂のはじまりだそうだ↴

ここからならタオルミナの町までも下り階段ひとつで降りていける。少々急ではありますが 

19時過ぎ、そろそろ日暮れて2011年と2014年にも訪れた家族経営のレストランへ。高級ホテルのようなきれいな盛り付けではないけれど、素材をおいしく楽しませてくれた。前菜のチコリなどの野菜を茹でたものと揚げパン焼きタコレモンの葉で香りをつけて焼いたミートボールオレンジと玉ねぎのサラダ他にもいろいろ堪能(^^)/今回のシチリア東部の旅、最後の夕食、楽しく締めくくることができた。

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リアチェのブロンズ

2015-09-20 20:17:47 | イタリア

この二体は、1972年に海の底から引き揚げられた、人類のお宝である。紀元前五世紀に製作された古代ギリシャのブロンズ像が現代まで生き残る事自体がきわめて希。これらはさらに最上の質をも兼ね備えている。



イタリア半島のつま先に位置するレッジョ・カラブリアの国立博物館

長年の改修がまだつづけられているが、このブロンズ像と他いくつかの重要なものだけは公開されている。ここ数年でも展示場所や方法が変転していたようだが、幸いにも今回はとても良いコンディションで見る事ができた。


専用の空調が施された部屋に、この二体は立っていた

そう、古代ギリシャのブロンズ彫刻が支えなしで自立しているという事自体にまず、驚きを感じる。接地面は人間と同じく両足の面積しかないのだ。紀元前五世紀につくられた当時も石の台座に固定されていただろうが、二千五百年近くを経た現代ではそれ以上の自然さで立っている。

自然であり完璧な人体の描写。古代の台座に固定していただろう内部の構造に代わり、現代ではもっと安定した支柱を入れていたにしても、地震が起こったときに、この細い脚ではどうなってしまうのか・・・。


「この台座は特殊な構造で、フィレンツェのダビデ像が乗せられているのと同じ人が開発したんです」と、ガイドさん。ロビーのビデオで解説していてやっとその意味がわかった。免震構造になっているのだった


この二体は髭の濃い若い人物をA、細長い頭で兜をかぶったように見えるもう少し年長の人物をB、としている。


●A 内部に残っていた粘土から紀元前460年ごろにアルゴスで造られたと考えられる。右手には長い槍を地面に垂直に立てて持っていたと考えられる。たしかにそのような手つきである

左手には盾。頭は兜をかぶっていただろう穴が見られるが、この兜は一度完成した後に付け加えられたかと推察される。Bと比べて、兜がない頭も完全に造形されているから。兜自体はみつかっていない。


目は当初象牙と思われていたが、分析の結果カルサイト(方解石)である事がわかった。唇は銅。歯はひとつひとつ銀の板でできている。★下げられた右手の静脈

上に位置する左手の静脈

それぞれしっかり描写されている。

歯がわざわざ強調されいる。この事から、「テーバイ攻めの七将」のうちのTydeus(トゥーデウス)だと推察されている。アルゴスの将の一人だった彼は、アテネ神から不死を与えられようとしていたが、テーバイとの戦場で瀕死となった時、敵の頭をかち割って脳みそに噛りつくという所業に出たため、神にうとまれ、死を迎えたとされる。 こんな逸話を持つ人物だからわざわざ歯を見せたかたちでつくったのだとされているのだ。


●B

Aより30年ほど後にコリントで製作されたと、内部に残された土から推察されている。 Aとセットの作品ではなかったのだ。 


はじめてこの二体の存在を知った時、当然この二体はセットで制作されたのだと思い込んでいた。大きさもAが2メートル05センチ、Bが1メートル98センチとほぼ同じ。コントラポストに立つ様子も両手の位置も似ているから。


これらはしかし、同じ船で輸送されている途中に海中に沈んだだけだった。元あった場所はちがったらしい。船が沈んだと思われるローマ時代、誰かがこの二つをペアにして売り込もうと考えられたのか?細長い頭部は未完成である。もともと兜が被せられていたたかと推察できる穴がある。これは、製作当初から木製の兜を装着させるためにあったらしい。耳が下半分だけしっかり描写されていることからも、兜付がもともとの姿だったことがうかがえる。


目はカルサイト(方解石)。片方しかないが、何もない目の方が意志の力を発しているように見えた。※ローマ国立博物館(パラッツォ・マッシモ)にある「休息する剣闘士」と同じように、時に「存在しないこと」によってこそより深い表現になることがある。


右腕、よく見ると少し色がちがっている。分析の結果オリジナルではなく、古代に修復されたものだと分かった。それは、材料分析で裏付けられた。オリジナルの部分は銅と錫二つの合金。ローマ時代の修復部分はそれに鉛を加えた三種の合金でつくられていた。左腕もオリジナルではなかったが、上腕部分だけはオリジナルの材料を溶かして再利用していた。肘から指先までは右腕と同じローマ時代の材料であった。



 Bは一見迫力においてAに劣っているように感じられるかもしれない。が、実はAとはちがった深い表現がされているように思える。


この人物は前述の「テーバイ攻め」の時に、その予知能力によって七人全員の死を予見し、出陣を止めたアンフィアラウスと推察されている。少し憂鬱そうに見えるのは、自分達の死を知っているためだというのだ。


Aの若さ、筋肉隆々・自信満々の溌剌とした姿。それにに比べ、Bは年齢を経て衰え行く肉体で表現される。「人生は若いころに思うように簡単にはいかない」と理解した男の姿。それでもたたかっていかねばならない現実に立ち向かっているように見えるのだ。


***


この二人の戦士のすぐ近くに、頭部だけのブロンズが置かれている。こちらも秀逸。


あきらかにモデルがあって制作されたと分かる、あまりにもリアルな年配男性の頭部。


これにくらべると、下の像はいかにもステレオタイプの「神」の頭部である


***


もうひとつ。前出のクラシック期ブロンズ像群よりも百年以上古いアルカイック期に製作された青年像。いかにもなアルカイックスマイルをたたえた直立の像は、人間なのか神なのか?カールした髪が赤く残っているところから、もとは彩色されてた部分も多かったのだろう。弓矢を持ったアポロとして復元している図もあった


★レッジョ・カラブリア国立考古学博物館で、2015年9月現在公開されている主なものはこれだけ。だが、ギリシャ時代のブロンズ彫刻を語るのに、外せない作品であるのは間違いない。

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タオルミナからメッシーナへ

2015-09-20 09:48:33 | イタリア

タオルミナの朝、もともと修道院だったホテルの庭からは海とエトナ山が見晴らせる

朝食はテラスで午前八時過ぎ、まだ観光客であふれるまえのタオルミナの中心街 オープンしたばかりの古代劇場から、朝の光に照らされた比類なきタオルミナの絶景がひろがった。

劇場全体はこんな感じ。

劇場のすぐうしろに活火山エトナ。ここが噴火したらステージになんか目がいかないだろう。タオルミナの最大のスターだ。

***

右にイタリア本土を遠望しながら一時間ほど北へ走ると、海峡の街メッシーナである。

ここの博物館見物はアントネッロ・ダ・メッシーナとカラヴァッジョの絵画だ。

★アントネッロ・ダ・メッシーナはイタリアに油絵技法を伝えたという人物。ダ・ヴィンチよりも二十歳ほど年長だったとされる。

この祭壇画細部に15世紀フランドル絵画的な技巧の極致を感じることができるだろう。

上の祭壇画の一部、中央パネルの聖母マリアの裾部分を下に載せます↓↓

★カラヴァッジョ作品は二つある。シラクーサで見た「聖女ルチアの埋葬」が遠すぎてよく感じられなかったのに比べ、こちらはまさに目の前に、柵もなにも無しで展示されている。フランス人の団体が長々解説をうけていたが、いなくなるとひっそりした。

カラヴァッジョがメッシーナに滞在したのは、マルタ島から逃亡した後の1608-9年。

左の「ラザロの復活」について、カラヴァッジョらしい逸話が伝わっている。現在に伝わるこの作品以前に、別のヴァージョンが制作されていた。が、注文主が完成品を見てちょっと不満な点を指摘すると、カラヴァッジョはやおらナイフを振りかざして、荒っぽく絵を切り刻んでしまった。「あっけにとられている客を前に、興奮がおさまると彼は、すぐに満足のいく別の絵を仕上げるから心配しないように、と言った」と、同時代の人物が記録している。

この時期、自分が怪我を負わせた高位のマルタの騎士からの刺客におびえていたと分析する研究者もいる。

***

メッシーナの街は、エトナ火山の噴火で何度も被害にあっている。現在みられる大聖堂も、一見古く見えるが、古い聖堂の材料をふたたび利用して再建している。鐘楼などは1933年の建設

この鐘楼の仕掛け時計はストラスブール大聖堂の天文時計を制作したのと同じ業者が制作したものだそうだ。この種のものとしてはもっとも大掛かりな動きをする。ライオンがぐぉ~っと吠えたりニワトリが鳴いたり…まぁ、そんな感じなので、小松としてはユーチューブで見ておけば充分と思わないでもなかったが(笑)、ひとつだけ特筆すべきなのは、メッシーナの歴史を表すシーンもちゃんと織り込まれていること。

メッシーナは現トルコ領のエフェソスに住んでいた聖母マリアから手紙をもらったというのだ。これが街のひとびとの誇りになっている。仕掛け時計でメッシーナ市のキリスト教徒からの手紙を、天使がマリアに渡し、それに対しての返信をマリアが託すシーンが出てくる。

***

昼食はB級グルメの立ち食いにてめずらしい日本人ということで、サービスしてくれたお菓子黒く見えるのはオレンジで、砂糖ドーナツがより引立ちます。

中心のカフェで休憩、壁には大きく本土との間に橋が架けられた図が描かれている。ほんとにこういう橋が出来る日がくるのかしらん

車ごとフェリーに乗り込むいよいよ本土側カラブリアへ。

★今回の旅で、小松がいちばん見たいもの、レッジョ・カラブリアの博物館に所蔵されている「リアチェの戦士」

比類なき、紀元前四世紀に製作されたという古代のブロンズ彫刻二体である・・・次の日記へ続く・・・

 

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ピアッツァ・アルメリーナの町へ~ローマ時代のモザイクだけを見るのではもったいない

2015-09-19 10:24:16 | イタリア

シチリア最大・最高のローマ時代のモザイク床が見学できるピアッツァ・アルメリーナは、内陸のけっこう不便な場所にある。この素晴らしいモザイクは、1929年から発掘されたのでなければ、パレルモあたりの大都市にまるごと持っていかれていてもおかしくなかっただろう。エジプト、ツタンカーメン王墓の発見が1922年だったのと同じく、現代考古学倫理が(あるていどにしても)確立されたおかげで、発見された場所で見学ができる。観光で訪れるのに少々不便ではあっても、モノをもともとあった場所で見る事は、本質を理解するために重要だ。

●カザレ荘は紀元後三世紀から四世紀ごろに建設されたローマの高官の屋敷だっただろうと推察されている。皇帝マクシミアヌスの引退後の住まいではなかったという説もある。

これがマクシミアヌス?

ディオクレティアヌス帝に見いだされた五歳年下の苦労人だった軍人マクシミアヌス。 西暦305年にディオクレティアヌスが皇帝を引退すると、道連れ引退されられてしまった。

引退当時のマクシミアヌスの年齢は54歳。後に二度復位した後に60歳で望まない死を遂げている。ゆっくり引退生活を送るような時間はなかったのだ。この姿がマクシミアヌスだとする説、少し年寄じみている気がするが、どうなのだろう。

別の説では、アフリカからめずらしい動物を輸入して財をなした人物とされている。この人物が動物たちが輸送されてゆくのを見守っているように見えるからか。いずれにしても、どこにも名前も何も書かれていないので推測するしかない。

別の部屋にはマクシミアヌスの息子・マクセンティウスと推測されている人物が描かれている。母親と共に浴場にいく姿か。きりっと誇り高そうだがのほほんとした表情の母に背中を押され、少し過保護で気が弱そうな少年。これがマクセンティウス?

マクセンティウスは父の引退の後に皇帝に名乗りを上げる。 父マクシミアヌスはあぶなっかしい息子を支えるために復位したのだった。

しかし、312年にローマ郊外ミルビオ橋の戦いで、コンスタンチヌス帝に敗れて敗死ししている。 

カザレ荘のモザイクについては、いろいろなところにたくさんの情報があるので、ここではこのぐらいにしよう。※前回2014年に小松が訪れた時の写真日記はこちらから

 一見の価値がある場所であるのは間違いない

***

今回は、以前から訪れてみたいと思っていたピアッツァ・アルメリーナの町を少しだけ訪問することができた。丘の上のこの光景を目にすると、街中を歩いてみたくなりませんか?道路は町をぐるっと半周。頂上に見える教会が別の角度からみられる位置に来た。大聖堂だけでなく、そのほかの尖塔がおもしろい。

こういった旧市街へ入っていくのは、小さめの車であってもちょっとためらわれるところだが、今日御一緒しているジョルジョさんはどんどん登っていってくれる行き止まりになったりしないかと心配したが、思ったより楽に頂上の大聖堂横まで到達した。

間近で見る大聖堂。入口右手、鐘楼にだけ白い石が使われている。古い時代の教会の一部だったと思われる部分だ。 あとから調べてみると、15世紀前半にカタロニア・ゴシック様式で建設された旧聖堂の名残である。 正確には分からないのだが、ここも地震で壊れた後の再建なのだろうか?現在見られるこの教会は1604年から建築がスタートしたとある。きのう訪れたノートを壊滅させた、1693年の大地震より以前の再建になる。さらにしらべてみると、1598年にマルコ・トリアゴーネという地元の男爵が建築をスタートさせていた。そうか、教会の正面に建てられていた全身像がこの人が建設発起人だったのか台座部分には彼の亡き妻の横顔。二人とも、この聖堂に葬られていた。

「いいなぁ、こんな小さな町の真ん中に一泊できたら」と、小松は思う。有名でなくても、美しいイタリアの小さな町の旧市街にあるこぢんまりしたホテルに泊まって、夕暮れの街をそぞろ歩いて美味しそうなレストランを見つけて入る。《手造の旅》で実現できるかしらん。

ふとみると、大聖堂のすぐ前に「ART HOTEL」と書いてあるじゃありませんかちょっと中を見せてもらえませんか?

ホテル入口は裏手だった。レセプションにいた女性にきくと「全部で七部屋」とのこと。ま、小松の催行する少人数ツアーならば使えなくもないでしょう。部屋はどんなだろう? 快く見せてくれた。

ひとつ上の階に四部屋、その上に三部屋。どれもデザイナー作品でデザインが違うのだそうだ。レトロなアメリカン小物が置かれていて壁の色も斬新「カーテンは手造りのアンティークなのよ」と彼女 こぢんまりしたダイニング上階はテラスになっていて、丘の上からの眺望が楽しめるさきほどの教会写真も実はここから撮ったもの。

再び車に乗って別の道をおりてゆく。途中にいかにも中世というお城 下から見えていた美しい尖塔も見つけた これらの教会を「この町の」ガイドさんのお話しで歩きたいなぁ。

でも、そんな旅に賛同して「行こうよ」と思ってくださる方々、ありますでしょうか?(笑)

劇場のとなりに残るシンプルなロマネスク聖堂→内部はなかなか見られないでしょうかね。地元の詳しいガイドさんと共に、ゆっくりピアッツァ・アルメリーナを歩く日がくることを願っております。

***

 夕方にはタオルミーナ旧市街のホテルにチェックイン、夕食はすぐ近くのこじゃれたレストランにて

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地震の後、バロックの街へ②モディカ

2015-09-18 13:23:13 | イタリア

モディカもまた、古代からの歴史が斜面にうずたかく積みあがった街だ。

その中にバロックの教会がたちあがっているのが見えるだろうか⇒カオスの中にシンメトリーのバロック建築がその存在感を発揮している。教会は1738年完成だが、下の街にあるガリアルディ通りから教会入口へ導く二百五十段の階段は1818年に完成

 

建物に近づいて見上げる 地元自治体のホームページによると、中世初期から教会があったが、西暦845年にアラブ人によって壊され、12世紀にやってきたノルマン人のロジェール王の時代に再建された。1613年の地震で壊れたものを補修したが、1693年にさらに大きな地震が襲って倒壊。 再建に、すでにラグーサでサン・ジョルジョ教会を手掛けていたシラクーサから呼ばれた建築家ロザリオ・ガリアルディに依頼され、名前は同じサン・ジョルジョでかたちもよく似た教会が建設された、というわけである。※①ラグーサの日記を参照 

午後のお休みに入る少し前、ひっそりした教会の中。主祭壇は二つの地震の前1573年にベルナルディーノ・ニジェールによって描かれた板絵のパネル祭壇画。この手のものとしてはシチリア最大なのだそうだ⇒ 

シチリア島メッシーナ出身で、後年バロック建築の大家となったフィリップ・ユバラは、若い時にここで色大理石祭壇を制作していたと教えてもらった。そのひとつがこちら

後年彼が北イタリアのトリノで代表作となる仕事をしているが、そこでは南のようには色大理石が手に入なかったので、かわりに彩色で疑似大理石をつかっているのだそうだ。

トリノへ行く機会に探してみようと思います。 

モディカのある丘は、かつてイアンニとマウロという二つの川の合流地点だった。なんども氾濫する川は治水され蓋をされて、今は「下の街」として街の一部になっている。そこからさっきの丘の上の街を見上げるとこんな風にみえる

 

元は川だったと言われると、道が傾斜していることでその名残が感じられる。そのまま「下流」へあるいていくと、下の街の中心教会サン・ピエトロの前に出た内部は、先ほどの上の教会と雰囲気が似ている同じ時期にたくさん建設されたバロック教会というのは、どうしても似た雰囲気になってしまうらしい。

***

そろそろお昼時、元の川に沿ったところにあるオステリアを勧めてもらって入る。この店の名前、日本語に訳すと「失われゆく時の味」とでもなるそうな。昔ながらの田舎料理を出す店なのである。九月半ば過ぎとはいえシチリア、天気の良い今日は昼間屋外日向は誰も座れない。中に入ると賑わっておりました「この店のメニューは写真付きでわかりやすいですよ」そう聞いて、はじめはとんでもなくツーリスティックなだけの店かと心配したが、まったくそんなことはなかった。こんな風に使っている材料の写真から調理法まで分かりやすく解説してくれている小松がいちいち写真を撮っていたら、おやじさんが「一冊あげるから」と、新しいのをプレゼントしてくれました(^^)/日本で似たようなものを再現できるかしらん。上の写真を注文して出てきたのがこちら⇒ 前菜もりあわせがこちら⇒ そして、いちばん印象的においしかったのが、このトリッパ(内臓・胃袋)料理だった⇒トリッパは多くの店でトマト味に煮込んでしまうが、ここでは玉ねぎをはじめとした野菜で煮込み、きつすぎないスパイスで仕上げてある。これ、また食べたい味です。

パンもぎゅっと生地がつまったこの地のものなんだそうな

***

この近くの地元チョコレートも紹介していただいた⇒ もともと南米でカカオをすりつぶした医薬飲料としてスタートしたからか、この歴史あるチョコレート屋さんは入ると薬局みたいな雰囲気もある40℃程度でゆっくりかき混ぜるのでざらっとした食感がある。試食になかったけれど、めずらしいと思って買ったのは、このカラスミ風味と海苔風味の二つのミニチョコセット。これで2ユーロ30セントでした。

おいしくお昼をいただいて、今日三つめの街③ノートへ移動・・・

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