旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

灘五郷をちょっと見学

2024-07-02 22:33:04 | 国内
日本遺産
六甲山のふもと「灘五郷」は
東西12㎞のエリアで日本の酒の四分の一=1.1億リットルを生産している↓と解説されていた。


6/30
ローマの説明に六甲道駅近くに伺ったら、逆に灘の酒蔵を四軒も案内していただいた。

最初は「福寿」

ノーベル賞の晩餐会で出される日本酒に選ばれた
※リンクします

併設のレストランでお昼をいただいた時に「濁り酒」を注文した。

醸造酒というものははじめは濁っている。
日本酒も江戸時代初期に伊丹で偶然「澄み酒」⇒清酒ができてから今のような日本酒になった。
※伊丹の鴻池での話を載せた「富翁」のページにリンクします
**

二軒目は「白鶴」


外国語の案内がずらりとならび

実物大の人形も設置されて行程がわかりやすく説明されている。

団体バス受け入れ態勢もしっかりしている。

冒頭の日本遺産の写真も白鶴の展示より
***

三軒目は「菊正宗」

↓「昭和十五年新調」と書かれた巨大な絞り器

ここで絞って何も手を加えない「生原酒」を味見させていただいた

度数は強くても飲みやすい。

二階の展示室で↑「貧乏樽」「貧乏徳利」なるものが展示されていた↑
調べてみると、一升(約1.8リットル)以下の酒の入れ物をそう呼んでいたのだそうだ。
****

四軒目は「浜福鶴」

酒の命はやっぱり水↑

四つの酒蔵でいろいろ試飲してきたが↑最後にこの「秘蔵酒」を↑
「絞る」のではなく「したたる」酒はつまり、
オリーブオイルにたとえればファースト・プレス以前のもの。
たしかに、別格の味わいだった。

最後の最後に

ソフトクリームもお勧めです(^^♪

****
灘中・灘高は三つの酒蔵が共同出資して創設した学校。
※ビジネスジャーナルのページにリンクします
フランク・ロイド・ライト設計の「ヨドコウ迎賓館」の施主も酒蔵の主。
※HPにリンクします
六甲山の恵みが灘に文化を育んできたのだと知った。
****
1995年(平成七年)の阪神大震災の震源地は灘五郷に近い。
60あった蔵元は29に半減したと解説されていた。


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赤湯の須貝邸でシーズン最後のさくらんぼに間に合う

2024-06-26 05:33:22 | 国内
シーズン最後のさくらんぼにまにあった(^^♪

6月24日、山形発14:04の新幹線に乗り14:27には赤湯駅に到着。
※この日のここまでの話はこちらに書きました

須貝トモオさんの奥様K子さんが待っていてくださった。
「ちょうどよかったのよ、今日だからうまくはまったわ」
さくらんぼのハウスに直行。

トモオさんがいつものように精力的に手入れをしておられる。
昨年2023年4月の《手造の旅》以来の訪問※その時のブログにリンクします


今年の収穫はほぼ終わっていた。
だが、先週の「さくらんぼ狩りコンサート」に合わせて残しておられた樹があるという。
※山形新聞の記事にリンクします
霜の降りそうな朝には飛び起きて、真っ暗な午前四時にハウスで火を焚き放水しておられた。
※須貝さんのHP5月23日の項目写真、ぜひごらんください
自然とたたかい、自然からの恵みを生かしてさくらんぼを実らせてこられたのだ。
ひょうひょうとした笑顔はこうした日々の上にある。


木の上に残された「干しさくらんぼ」↑これはこれでぎゅっとした味わいがある。商品にならなくても。


ハウスの奥にはまだたわわな実が残っていた。

脚立を立て、かごをたくさん用意してくださった。
革靴とビジネスシャツのまま一時間、夢中で摘んだ。


「あ、ラズベリー!」
ハウスを出る車窓から見つけて車を降りた。

まるまる

こちらも味見させていただきました(^^♪

今日は仕分けもぜんぶさせていただく。

品種は二つ「ナポレオン」と「紅秀峰」
「ナポレオン」は先がちょっととがっている。
言われてちょっとしたカタチのちがいに気付く。
そして、食べ比べてはっきり違いを認識した。

新聞紙の上にぜんぶ広げて、
見栄えの良いのをえらぶ。

詰める時にその見栄えの良いのを上にするのである。

「じょうず~、さくらんぼが笑ってる小松さんていねいねぇ」
と、ほめていただきました(^^

摘んだもののなかに「双子」につながったものがたくさんあった。
味は変わらなくても通常贈答品の箱には入れられない。
今日はそういう「カップル」を集めてハートのトレイに詰めた。

近頃結婚した友人に明日会うのでプレゼントにしよう(^^♪

品種のスタンプもお借りした。


突然ご連絡したのに赤湯三時間の途中下車を迎えていただき、
革靴とビジネスシャツのさくらんぼ狩りをさせてくだってありがとうございます!
また、いっしょに演奏させていただく機会をつくります。
※2019年のセッションにリンクします






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行橋駅から千仏鍾乳洞と平尾台カルスト地形へ

2024-06-16 18:46:00 | 国内
冷たい流れは時々膝上まできた。
※動画をこちらに載せました

北九州行橋を旅行説明で訪れたのは三回目。

2015年にはワタリガニの美味しさをおしえてもらった
※リンクします
2018年には三隈川の鮎がおいしかった
※リンクします
はじめての時からずいぶんきれいになった行橋駅。
↓9年前にはなかった改札を出たところにある像は↓

↑郷土ゆかりの末松謙澄なる人物↑※伊藤博文の娘婿でもあった
「国際彫刻公募展ゆくはしビエンナーレ」なるものが開催されていて、これは2021年の大賞作品だった。
※交通新聞のHPにリンクします
さらにメキシコの画家フリーダ・カーロの像も↓

いくらなんでもフリーダ・カーロが行橋とゆかりがあるとは思えない。
調べてみるとこちらも同じ公募展の2023年大賞作品だった。
そして作家がウクライナ人だった。
※2023年3月公開時の行橋市HPにリンクします

この二つの像はともに富山の高岡の会社が鋳造していた
※末松謙澄像を鋳造した竹中銅器のHPにリンクします
高岡は山車がぶつかり合う「カッチャ」の祭りを訪れた
※2022年に桟敷席で観覧した時のブログにリンクします

午後二時、説明会は夜なので駅前からカーシェアを利用してフィールドワーク。

全国的に有名でなくても訪れて「こんなところが!」と感じた場所はたくさんある。
地元の人に「あぁ、そういえばあったね」ぐらいの反応だとしても。

街を抜け、山の林を抜けると明るくなった。

三十分ほどで典型的なカルスト地形のドライブとなった。
きいていた千仏鍾乳洞の他にもいくつもあるのだ。

思わず車を停めて写真を撮った。

花の時期に歩くのも楽しいだろうなぁ。

夜にお会いした地元の皆さんによると、3月の野焼きの後がオススメだそうな。
**

今日の目的地「千仏鍾乳洞」の駐車場に到着。

そこそこ急な坂を200mほど降りてゆく。

途中に「千仏鍾乳洞」を観光地として一般に公開できるまでに整備した大石高平への顕彰碑があった。

昭和四十年代ぐらいからの雰囲気が感じられる入り口に到着。

コインロッカーに荷物を預け、
水の中を歩くことのできるサンダルを無料で借りる。

↑途中から水の中を歩くのだが、実際膝上ぐらいまでになることがある。

スニーカーで入ったカップルが引き返して借りてもう一度入ってきた(^'^)

↑入り口

立って歩ける高さと

歩きやすい地面

それはしかし400mほどで終わり

水の中に足を入れる。

!びりっ感じるほど冷たかった!
堂内の温度は年間を通じて16度、水温は14度と書かれていたが
14度よりはずっと冷たく感じる。

動画を見ていただくとよくわかるが※再度小松のUPしたyoutube動画にリンクします
風呂場を歩くような音がするので深さを感じていただけるでしょう(^'^)
洞窟は曲がりくねり、手も使って通るような場所も少なくない。

天井は高くなったり低くなったり。
一般観光洞窟のなかではまれにみる探検コースじゃないかしらん。

↑実際にはもう少しだけ照明が付いているようす

二つ目の表示があって

この先はほんとうに真っ暗。
iPhoneの灯りで少し入ってみると…

落書きがびっしりだった。
この先は全身濡れてもよい装備で自前のライトを用意していくしかない。

周辺にはガイドさんに案内してもらうケービングコースがいくつもある様子。
《手造の旅》には向かないかもしれないが、個人的に来てみたい。
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東大寺の瓦を西国街道の梶原で焼いていた

2024-06-07 13:39:56 | 国内
2011年に発見された梶原寺の柱石。
正倉院文書に「梶原寺に東大寺の瓦五千枚を注文した」と記録されているそうな。
1980年代の発掘で窯跡と瓦も発見されている。

高槻の自宅から自転車で西国街道をリサーチした。

京都から続く山裾を、大阪へ流れる淀川と着かず離れず続いている西国街道。
古代から現代までの形跡がごちゃごしゃに見えてくる。

明治の廃仏毀釈以降、基本は神社になったようだ。
隣接する寺もあるが。

梶原寺は今昔物語にも高僧が宿泊した記録がある。
立派な伽藍があったようだがまったく面影はない。
昭和36年までは高さ14mの立派な塔があった。
財政難で売りに出され、今は埼玉県の狭山不動尊に移築されている※リンクします
これは戦国時代からの塔を江戸前期に修復したもののようだ。
この地に残っていれば名所になっただろうに。

江戸時代に建設された?本堂の横に大きなクスノキがある。

この樹は移築される前の塔を知っている。

ガイドブック、現地の看板、地元の人の話。
情報源はいろいろあるけれど、自分の目で興味深いと思う場所を見つけることが大切。

↑日露戦争で頭に砲弾が貫通して戦死した長谷川某という人物を追悼している碑↑

大正時代に寄進された境内の石に「長谷川●●」と刻まれたものを多く見かけた。
今もこの家は近くにあるのだろうか。


すぐ隣の敷地に積まれた赤レンガの塀↑
↑現在ならこんな材料を使って塀はつくらないだろう↑
昭和初期ぐらいのものに見えた。

いつか物語を語ってくださる方にお会いできる日のために
こういう疑問符をたくさん拾い集めておく。

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物集女車塚(もずめくるまづか)古墳石室見学

2024-06-03 11:03:46 | 国内
たった三十年ほど前に発掘・発見された驚くべき保存状態の石室。
埋蔵文化財センターの方に案内していただいた。

住宅街の中に突然あらわれる前方後円墳の中で千五百年間崩落しなかった。

「車塚」という名前は、
桓武天皇の第三皇子=淳名天皇(西暦840年没第53代天皇)の霊柩車を埋めたという伝承によるものだが、
実際にはそれより古い継体天皇(西暦531年没第26代天皇)の時代のものと判明している。

江戸時代から明治初期にかけて、
歴代天皇の陵墓を整備してい行くなかで名前も決まっていった。

※古墳前の解説版写真より↑江戸から明治初期に植えられた大きな木↑
古墳建造当初には樹木などなく、下部に石を葺いて中段には埴輪が並べられていたと推察されている。
石室は「畿内式」と呼ばれる6世紀初頭から首長クラスに用いられたスタイル。

玄室をつくるにあたり五段階に分けて巨石を積んでいったのが↑石壁の横線が五層に揃っていることで分かる↑壁に見えている石は石壁内部に向けて細長い形状をしており、上部ほど大きな石を積んだ台形構造であることにより、地震の揺れの時にも耐えてきた。

↑石棺は二上山から切り出された石を十個組み合わせてつくられている↓

当初は外も中も真っ赤な朱で覆われていた↓

↑その名残が一部に残っている。

被葬者は継体天皇の・いわば「内閣の一員」大臣クラスと推察される。
継体天皇自身の墓とされる高槻の今城塚古墳は、同じ淀川流域にある最大の前方後円墳。
※高槻市のHPにリンクします

2004年の今城塚古墳発掘で発見された、石室からの排水システムと同じものが物集女車塚古墳にもある。
※今城塚の2007年発掘ページにリンクします


↑この敷石の下に排水用の溝がある↑

昭和の終わりごろになると、
↓周辺の宅地開発がすすむなかで古墳を崩して道路が通されはじめた↓

↑写真左側の道路は古墳の一部を切り崩して通されている。
この古墳が保全保存すべき場所であることをはっきりさせるために発掘調査がはじまり、石室がみつかった。
同時に周辺の宅地にする場所からも新たな発見があった。

↑古墳の北側・今は住宅になっている場所からは、桓武天皇の別宅跡が見つかった。

「車塚」の由来になった桓武天皇の息子・淳和天皇も七歳までは首都の長岡京に居た。
父桓武天皇の別荘に滞在した時にはこの古墳を目の前に見ていたにちがいない。
出来て三百年も経っていなかったから埴輪なども残っていたかもしれない。
淳和天皇の霊柩車の塚だという伝承も、自身がこの場所に親しんでいたからできたのだろう。
火葬された場所だという塚は古墳から徒歩圏にある。
**
最初の被葬者が埋葬されてから、五十年ほどの間に三回、石室を開けた形跡がみつかった。
それはつまり、埋葬されている人物の近親者埋葬されたということ。
実際に、発掘当時は正面の石棺の手前に三つ棺棺が置かれていた。
※一般公開するにあたり、現在は取り除かれている。

江戸時代には盗掘に遭っていた。
棺の蓋が地面に転棺り、副葬品と推察されるモノの破片が多数みつかった。

被葬者の墓誌など文字記録は見つかっていない。

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