旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

オックスフォード、ちょっとゆっくり観光

2016-05-20 00:25:20 | イギリス

オックスフォードに宿泊した翌朝、午後二時過ぎまで市内を見学した。

ライセンスガイドさんのバッジもこんなデザイン。オックス(牛)がフォード(浅瀬)を渡っております(^^)

きのうも見ていた中心部にある三人の人物が刻まれた記念塔、意味を解説してもらってやっと理解した。これは、ヘンリー八世の宗教改革後、長女メアリーが女王になって再びカトリックにゆりもどされた折、カトリックに戻ることを拒否して処刑された三人の大学教授たちなのであった↓

ただ見ているだけではわからないことばかりであります。

★オックスフォード大学の発祥は13世紀に教会の参事会員の学を慕って学ぼうとする人々が集まってきたことにはじまる。最初はそれぞれの先生が自宅で教えていた。同じようなカレッジ=いわば「寺子屋」が、集合体をなしてユニバーシティ=大学と呼ばれるようになった。現在でもこのカレッジが基本で、全部で四十七のカレッジがある。※数は解説により増減してカウントされている。※あくまで小松的理解です(^_^;)

これらカレッジは特色・専門性を持ち、それぞれの庇護者によってスタートした歴史を誇っている。カレッジが図書館に代表される知識や人材を共有するようになり、いわば「キャンパス」と認識される建物や空間をもつようになっていった。だから、オックスフォードの街そのものが大学であると言いえる場所なのだ。

宗教界・キリスト教から発祥したから、かつて卒業式もセント・メアリー教会で行われていた。これがその入り口↓

内部↓ 18世紀に、卒業式の学生の行儀があまりに悪いので教会から使用を断られ、今はかのクリストファー・レーンが駆け出しの頃に設計した新しいホールで卒業式が行われている。

しかし、見物はこの教会の塔からの景色。オックスフォードを代表する風景を見たければ、この狭い螺旋階段をのぼらなくてはならない⇒ 登りも下りも同じこの階段だから、大人数のグループではちょっとたいへん。

登りきった狭いテラスからは・・・↓

右手に見えている中庭を囲む建物群が、1379年創立のニュー・カレッジになる。映画「ハリー・ポッター炎のゴブレット」にも出てくるとか↓

円形の建物はラドクリフ・カメラ。18世紀前半に図書館の一部として建設された。名誉革命でオランダから国王となって即位したウィリアム三世の時代である。現在も閲覧室として使われているのだそうだ。

もっとも有名なカレッジは★クライストチャーチ↓だろうか。

ただガイドブックを見ると1546年国王ヘンリー八世の創立と書かれているが、実際にはそれ以前に創立されていた。王の側近だったトマス・ウルジー枢機卿。彼がその権力の絶頂で創立した「カーディナル・カレッジ」がそれ。「カーディナル」とは、カトリック教会で法皇に次ぐ地位の枢機卿のこと。トマス・ウルジーはヨーク大司教で枢機卿だったのだ。 

ヘンリー八世はスペインから輿入れしたキャサリン王妃との離婚を認めさせるべく、トマス・ウルジーをローマに派遣した。しかしウルジーはその使命に失敗し、失脚。 イギリス国教会もまたカトリックと袂を分かつことになった。ウルジーは死刑を宣告され(処刑の前に死亡)、彼の創立したカレッジはクライストチャーチ・カレッジと名前を変え、創立者は国王ヘンリー八世になった。旧側近のつくったのを横取りしたかんじです。

上の写真の建物は19世紀になってから増築された部分。だから、枢機卿のシンボルである赤い帽子が掲げられていたりする↓

日本の皇太子様が在籍していたカレッジは、美しい芝生に面している⇒

それぞれのカレッジは今でも独自の図書館を持っているが、それらの中で最大で有名なのはボドリアン図書館。ここの内部はガイド予約をしないと勝手には入れない。今回運よく11時半の一時間ツアーが予約出来てので入場した。下の待合室までは写真撮影OK※ハリー・ポッターの映画では医務室として使われているのだそうな。

★二階と会議室を案内してもらったが、いずれも写真撮影禁止。

ボドリアン図書館は、オックスフォード大学の数ある見どころの中でもひとつのハイライトだ。※写真撮影禁止

上の写真のホールから二階にあがっていくと、圧倒されるような書架が天井までとどいていた。

ここは、創立当初からの図書コレクションがあるが、1540年代に前出のヘンリー八世の宗教改革によって九割以上の図書を焼かれ、廃墟のようになっていた。トマス・ボドリアンは1598年にオックスフォードに戻り、その復興のために全力で図書を集め始めた。今の名前はその功績によって名付けられたのである。

ここは映画「ハリー・ポッター」シリーズでも撮影に使われ、チェーンにつながれた分厚い図書が印象的に映し出されていた。もっとも、そのチェーンは実際とは別の位置にくっつけられていたのだが。※見栄えの為

ロンドンから避難した議会が、下の階の一画の扉をあけるとひろがっている。ここは、盛況と革命当時のチャールズ一世が、ロンドンから亡命して、議員たちと共に王党派の牙城オックスフォードで議会をひらいた場所。

おもしろかったのは、チャールズ一世が座った「議長席}?は、でぶっちょのチャールズ一世がそのまま座れるようにちょっとした工夫がされていた。

 ・・・写真なしで説明するのは、んなぁかなか難しいです。

*****

外へ出て、後年ロンドンのセント・ポール大聖堂を設計した・かのクリストファー・レーンが若い時にコンペに勝って設計した建物がある。彼はその頃建築家ではなく天文学者の道を志していたのだそうだ↓

******

アシュモリアン博物館は、大英博物館より古い歴史を誇る博物館である。

古代エジプトの石のパレット⇒ エヴァンスがっ発掘したクレタ島のクノッソス宮殿からのリュトン⇒

ここには、ストラディヴァリの「メサイア」⇒ なんでもござれで、入場料は無料であります。※ご寄付を

 

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スロラトフォードからオックスフォードへ

2016-05-19 18:24:30 | イギリス

最初の行程では寄る予定ではなかったのだが、ナロウ・ボートにこちらで乗ろうと思ってストラトフォードを入れた。

エイボン川と運河にはたくさんのナロウボートが浮かんでいるのでありますところが・・・手配されていたのは、あんまりナロウではないボートだった。産業革命当時の運河を行くボートは馬が引いていて、こういうたくさん積めるものが主流ではあったのですが・・・ もっとナロウなものは、次回(いつ?)乗るとしよう。

約45分間、ちょうど雨の時間に、ゆっくりお茶しながら。シェークスピアの墓のあるトリニティ教会も川から⇒ いままで見ていなかったストラトフォードの顔を見た気がした。それは、川沿いにたくさんの豪邸がならんでいたこと。通常の観光をしていたのでは、こういったエリアがあることさえ気づかないだろう。

いろんな豪邸をびっくりしながらながめていると、ボートの人が売家の広告を持ってきた(笑)

***

ボートを降りて、シェークスピアの記念碑を見学する。この開けた場所にもかつて産業革命時代には工場が建っていた。

 

この記念碑は、1926年火災になる前のスワン劇場横におかれていたもの。四人のシェークスピア劇登場人物にかこまれている。現在の場所には1933年から設置されなおされている。

●マクベス夫人⇒

●ハムレット⇒

●プリンス・ハル(後のヘンリー五世)⇒

●ファルスタッフ⇒

新しいシェークスピア劇場⇒

その向こうに再建されたクラシックなスワン劇場⇒

***

オックスフォードのすぐ手前でブレナム宮殿の門の前をとおった。ここ、一度だけ見学したことがあるが、あきれるほどの豪邸。あのチャーチル首相が生まれた場所として知られている。もっとも、チャーチルはこの家の息子というわけではなく、親戚だったこの家を訪れていたで母親が産気づいてうまれたのだそうだが⇒

****

オックスフォードでホテルに入ってから、ちょっと街までウォーキング。

明日訪れるアュモリアン博物館

そのすぐ前のランドルフホテル

有名パブ、「イーグル&チャイルド」いろんな文士がつどっていたのだそうだ。

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アイロン・ブリッジ~1799年、世界最初の鉄の橋

2016-05-19 15:52:08 | イギリス

ローマ時代から二千年このかた石で造り続けられていた橋というもの。そこに鉄がとって代わる、いわば「鉄の時代」の幕開けを告げた歴史的な橋がこれ。もちろん、世界遺産。

見事な鉄のアーチ。だが、建築方法は木造と同じ。一度木で部材(約1700のパーツ)をつくり、それを固く締まった砂に押し付けて型をつくり、そこに鉄を流し込んだ。

当時の鉄はまだ鋳鉄=cast iron。近づいて見ると、確かに表面が荒く感じる。

この鉄はすぐ近くのコール・ブルックスデール製鉄所で鋳造された。そのことが、誇らしげに橋に刻まれている。

写真では何度も見ていたが、実際にその場所を訪れてみると「こんなのどかな田舎に、どうして世界最初の鉄の橋が出来たのだろう」という気持になる。たぶん、遠来の観光客の多くが同じように感じている。・・・しかし、それは大きな間違いだった。博物館を訪れて、歴史をちゃんと理解していくうちにわかった。博物館⇒ここは、かつての倉庫跡。裏にまわると川からの線路がある⇒

1796年にオランダ公ウィリアム五世夫妻が視察にやってきた時の事が、分かりやすい模型になって展示されていた。当時この周辺は大工場・鉱山地帯だったのが、この模型をみてやっと認識出来た。

同時代の絵も展示されていた↓周囲の山にほとんど樹木がない事に気づく。

とすれば、上の模型にある樹木は、本当はこんなには存在していなかったのではないだろうか。模型を見る時、人々はなんとなく「騙されている」のかもしれない。

鉄が大量生産されるようになった1600年代、製鉄所は鉄鉱石と共に燃料となる木材がたくさんある場所につくられた。石炭からコークスを作りだして燃料にする方法が1709年にアブラハム・ダービー一世によって開発されて、森林伐採はやっと止まったと言われる。それでも、コール・ブルックスデール周辺の山はこんな状態だったのだろう。

川は動力となる水車を回し、出来上がった製品を運搬するルートになる。18世紀中ごろ、ここは工場地帯で、たくさんの労働者も暮らしていたのか。

川の両岸をむすぶルートは当時無く、増水期には渡河は難しくなった。人々の暮らしも分断されていた。これを結んだのがこの鉄の橋だったのだ。

しかし、渡るのは無料ではなかった。これが当時の料金表↓

馬車は何頭の馬が引いているのかで料金がちがった。二頭だてが1ポンド(シリング?)通行人の二百倍もした。これは、どう理解したらよいのだろう。

**

コール・ブルックスデール製鉄所は今はない。橋のそばの斜面に広がる小さな村を歩いていたら、こんなものが見えてきてぎょっとした↓

製鉄所のあった場所に建設されたこの発電所は数年前まで運転していたのだそうだ。

 

 

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トマス・テルフォードの二つの吊り橋

2016-05-19 12:41:36 | イギリス

1805年に鉄を使ったポンテカサステ水道橋を建設したトマス・テルフォードは、1826年に錬鉄=wrought iron(ロート・アイロン)のアイバーチェーン(従来の鎖と違って平たい形状をしている)を使った吊り橋を二つ建設した。

そのひとつ、メナイ橋がこれ。

ウェールズ本土と対岸のアングルシー島をむすぶ176mの長さで、当時は世界最長だった。この橋が出来たおかげで、島で牛を飼育する人々は、牛を海峡を泳いで渡らせる必要がなくなった。この海峡は流れが速くて、せっかく育てた牛がよく溺れてしまっていた。産業革命は牛の命も救っていたんだ。

※その後、風による揺れが問題になり、現在は鋼鉄のアイバーチェーンに代えられ、補強されているが、現役で使い続けられている。

1850年、島に向かって鉄道を通す計画が動きだした。が、この橋を鉄道が使う事は強度に問題があるとして、テルフォードは認めなかった。

代わりにかけられたブリタニア橋が近くに見える↓

こちらはロバート・スチーブンソン(蒸気機関車の父と言われたジョージ・スチーブンソンの息子)が手掛けた。もともとは、コンウィで列車を通したのを同じ箱型をした鉄の筒の中を列車が通るスタイル(※下の写真参照)だったのだが、1970年代に焼失して現在のかたちに改修された。

この二つのタイプの橋が同時にみられるのが、コンウィである↓

真ん中の吊り橋が1826年にトマス・テルフォードがかけた人間と馬車用のもの。チェーンを支える塔がわざわざコンウィ城と同じデザインにしてある。

右側の箱型のものが、1850年に建造された鉄道用の橋。前出のブリタニア橋と同じ人物・スチーブンソン(息子)が、設計した。

左の自動車用の橋は1958年に開通した。・・・なんにも面白味ありません。

***ブリタニア橋を渡った時の写真↓四角に抜けたところにかつて箱型の鉄の箱がはめ込まれており、そこを鉄道が走っていた。

1970年代に焼失する以前の姿⇒前出のコンウィのものと同じだと分かる。

***

これら、鉄を使った橋の原点にあたるのは1799年に完成したアイロン・ブリッジ。今回の《手造の旅》で、明日、訪れることにしている。

 

 

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ポンテカサルテ(ポンテカサステ)水道橋~トマス・テルフォードの橋

2016-05-19 11:42:46 | イギリス

コンウィのホテルを出て、道はいったんイングランドに入ったが再びウェールズ領にもどるイギリス最大の水道橋はウェールズにあるのである。

バス駐車場から三分ほど歩くと、ナロウ・ボートのたまっている場所に出た

そこからいきなり、谷を渡る空中の水路が出現する↓

写真では何度も見ていたが、やはり迫力がある。谷を流れるディー川からは39メートルの高さ。19本の橋脚で300メートルを超える鉄の水路を支えている。

そう、鉄なのだ。建設されたのはなんと1805年。大陸ではナポレオンが皇帝にあるという時代。イギリスではこんな鉄の水路が完成していたのか。

この当時の鉄はしかし、CAST IRON=鋳鉄と呼ばれるもので、STEEL=鋼鉄ほどの強度はまったくない。橋脚は昔ながらの石の柱になっている。

設計したのは、トマス・テルフォードという技師。今回の《手造の旅》で、期せずして彼の設計した橋を三つ見ることになった。この三つともが現在も使われており、なにより大変美しいことに感銘をうけた。

トマス・テルフォード、彼の名前を覚えた。

1757年にスコットランドの貧しい農家に生まれた彼は、十四歳で石工に弟子入り。二十五才でロンドンに出て、キャリアを積む。この水道橋のある地域には四十ほど彼の設計した橋があったそうだが、それは基本的に石の橋だった。

鉄を使った橋は、当時世界最初のアイロン・ブリッジが1779年につくられただけ、まだ石の橋が普通だった。

水路と道路のスペシャリストとして名をあげ「The Colossuss of Roads」とあだ名されるまで評価を得たかれは、やっと量産できるようになってきた最新の材料=鉄を新たな方法で用いた。

これだけの高さのものをつくる前に、ちゃんと低いところで予備練習していた(と、小松には思えた)のがおもしろい。彼は使う材料の強度をしっかりテストした、もっとも初期の技師であった。LONGDON-TEMの鉄製水道は地面から二メートルほどのところにつくられている。※ウィキの英語ページですが⇒こちらからその橋の写真もみていただけます

この橋のたもとに2007年に設置されたテルフォードの記念碑↓

毎日橋を通るという地元の人にであった。彼は携帯電話の修理をしに周辺の家をまわるのをしごとにしているのだそうだ。「テルフォードは二百年前に、君のためにこの橋をつくってくれていたんだねぇ」(笑)→ 全体を見晴らせる場所がないかと少し歩いたら、木の間がくれにこんな場所があった↓

全体の様子は、下の現地看板の絵が分かりやすい↓

●さて、この橋は当時いったい何のためにつくられていたのか?何がナロウ・ボートで運ばれていたのか?

それは、石炭、タール、鉄・・・ミッドランドという場所にあった化学工場へこれら原料を運び、帰りには完成品の「石炭酸」=フェノール=Carblic acid、消毒液、染料などを乗せて戻ってきていた。

 これらは道路で運ぶには危ない毒物だったので、この水道橋で静かに運ぶのに適していたのだろう。

 

・・・時は流れ、いまは観光客しか通らない水道橋をトマス・テリフォードの記念碑が見守っている。

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