旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

モン・カーメル聖母教会へ

2019-10-24 13:54:41 | カナダ
びっくりするほど赤い海を背景に古い墓標が並んでいる↓

きのうの強風の名残で、プリンス・エドワード島の赤い土は海をこんな色にしていたのである。

島の南西岸に位置する海岸にモン・カーメル聖母教会はひと目見たら忘れられない↓

1812年にはじめて建てられてから、これは三代目になる1898年の教会。
地元の建築家による45万個のレンガを積んで建てられている↓

↓併設された墓地は二百年以上の歴史が積み重なっている↓

↓この墓標は何なのだろう?どういうかたちなのだろう?
次回は教会が開いている次期にきてきいてみたいなぁ


アカディアの人々の辿った苦難の歴史は、アメリカの詩人ロングフェローが1847年に発表した「エヴァンジェリン」に象徴され、記憶されている。なので、アカディアの人々の足跡が多く残るエリアを「エヴァンジェリン・リジョン」と名付けている↓

**
アカディア博物館のあるMiscoucheで軽い昼食にしよう

博物館の人がおしえてくれた目立たないダイナーへ

ホタテバーガー↓

「今日のスープ」はトマトとポテト↓



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プリンス・エドワード島のアカディア博物館

2019-10-24 09:00:00 | カナダ
ひるがえっているのはフランス国旗ではない。

「希望の星」が青い海に輝いている。マリアということばはもともと「Stella Maris(海の星)」という言葉からきている。かつてフランスから大西洋を渡ってきた人々(アカディア)の想いが込められている。
**
きのうの大風、夜の雷雨はおさまった。
ホテル前のポーチに出ると秋を感じた↓

シャーロットタウンの小さなダウンタウンを出る。
1911年に町はずれの監獄だった建物が、今はピザ屋だ↓

この時期の畑には干し草を巻き込んだロールがたくさんころがっている。
それを使ってハロウィンを楽しんでいるフィールド↓





日本なら「登らないでください」とかくところだが、ここでは「自己責任で遊んでください!」↓

いろんなカタチのかぼちゃを飾りとして売っている↓


***
アカディア博物館のあるMiscouche(※どう発音すべきなのだろう、ミカッチ?ミスコウシュ?先住ミックマック族のことばからきている地名)は、プリンス・エドワード島第二の都市サマーサイドの西十キロにある。人口は千人ほどで、その15%程度はフランス語を話すと自治体の案内にあった。

建物の前には冒頭の旗をデザインしたベンチ↓

入るとすぐに旗が掲げてあった↓

この旗が制定されたのは1884年。アカディアの人々の合同会議がここで開かれて決定された↓その時の様子が大きな絵になっている↓

ケベックに入植したフランス人とはまた別のルーツを持つアカディアの人々。
限られた家族からはじまったので、今でも同じ姓がとても多い。
はじめて電話帳がつくられた時には、同姓同名が多すぎてニックネームで表記されていたのだそうだ。

この博物館がはじまった当時の副館長が、実は今回のドライバーとしてきてくださったピエールさんのお父様↓「この人です(^.^)」と指差す彼

サービス精神旺盛で我々のためにアカディアのいろんな話をしてくれた。時にはアカディア博物館のピアノで子供のころに覚えたメロディを弾いてくれた↓

↓自分自身の子供のころの写真も展示されている↓

17世紀末から入植してきたひとびとが1735年にどこにどのぐらい住んでいたかの地図↓
↓この時期、島の名前はまだ「イル・サン・ジャン(聖ヨハネ)」とフランス語で呼ばれていた↓

↑英国が占領した1758年に英語で「セント・ジョン・アイランド」となり、
1798年になって当時の英国王ジョージ三世の王子であったケント公エドワードにちなんで現在の名前となった。

支配者が変わっても住む人々の言語も暮らしもそう簡単には変わらない。
当時住んだフランス系の人の墓石も展示されている。


1755年、となりの現ノヴァ・スコシア州ではフランス系住民の強制排除がおこなわれた↓
↓港に船が用意され、ある者はフランスに返され、ある者はアメリカ南部のフランス領ルイジアナに追放される。
↓その時の様子を再現した絵


となりのサン・ジャン島=現プリンス・エドワード島に逃げた人も少なくなかった。
18世紀に苦難の歴史を歩んだフランス系の人々の子孫がアカディアなのである。


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「赤毛のアン」はロブスターを食べない

2019-10-23 18:00:00 | カナダ
たべはじめると、ぴたりと会話が止まった。

今回の旅、三軒目にして、やっとほんとうにおいしいロブスターに出会えた。
一心に食べる我々にむけて、となりのテーブルからびっくりしたような笑い声がきこえてきたほど↓

この三軒目に出会わなければ、その前の二軒だって「それなり」においしいロブスターではあったのだ。
でも「これを食べにまたプリンス・エドワード島に来たい!」と昨年の旅メンバーが言った意味は分かってもらえなかっただろう。

「明日またきてもいいねぇ…」
ほんとに予約してから店を出た(^.^)

ここは他のメニューも充実しているのを、翌日夜に堪能してしっかり理解した。
クラムチャウダーは具がたっぷり

↓ムール貝も前の店より大きな身

↓牡蠣はこぶりだが味わい良し

ハリファックスを出た日にペギーズ・コーブ灯台近くで食べたロブスターロールもアンコール

↓焼いたホタテ!ああ、これももう一度食べたい

来年、もう一度来るしかないか(笑)
**
こんなにおいしいロブスターなのに、「赤毛のアン」の中にはまったく出てこない。
なぜだろう?

あの物語が描かれた二十世紀はじめ、ロブスターは嵐の翌朝海岸でたくさん拾える貧民の食べものだった。
学校にロブスターのサンドイッチを持っていくとみんなに笑われるので隠して食べるほどに。
※ピーナツバターを塗ったサンドイッチの子がうらやましがられた

作者のモンゴメリー夫人は、登場人物のアン・シャーリーのような孤児ではなく、祖父が議員をやっていてマクドナルド首相の到着を迎えにでるほど裕福な家庭に育った。
設定はともあれ、ファンタジーの主人公アンが貧民の食べ物を食べる場面は必要ないと思ったのだろう。
そういう意味でも、上手な作者である。



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2019年、改修が終わった「グリーン・ゲイブルズ」

2019-10-23 12:00:00 | カナダ
2018年の10月に訪れた時、工事用の塀に覆われ↓「2019年春に開館します」と書かれていたのだが…

※2018年に訪れた時の様子はこちらからご覧いただけます

開館したのは2019年の観光シーズンも半分終わった8月だったそうだ↓…

展示は整理され、見やすく分かりやすくなっている。

「アン」を執筆したとされるタイプライターは、左小指の「A」がみえなくなっている。


グリーン・ゲイブルズ本体は↓10月半ばを過ぎて空いていた

夏場には行列で入るのに三十分以上待たされることもめずらしくない。
シーズンを少しはずして訪れる方が良い事多いとおもうのです。

この家はもともとモンゴメリー夫人の祖父のいとこが住んでいた。

↑彼らのは養子の女の子をもらっていたそうで、こういうところも「アン」のアイデアに使われているのかもしれない。
↓現在の家の内装は、「アン」の物語に沿ってディスプレイされている

↓台所の棚には「いちご水」とか


昨年歩いた「恋人たちの小道」は、台風による倒木で通行止めになっていた↓

↓今年は「おばけの森」を歩きましょう(^.^)

秋は盛り


↓モンゴメリー夫人が通っていた小学校はこの階段の上にかつてあった

↓「おばけの森」にはこんなおもしろいかたちの木々がある

それにしても倒木が多い↓

日本で台風19号が首都圏を直撃していた頃、ここでも台風「ドリアン」が暴風雨で木々を倒していた

**
モンゴメリー夫人が通っていた教会はそのまま残っている↓


長じて、ここに赴任した牧師さんと結婚してマクドナルド姓になるのだが、ペンネームはそのままだった。
本人はミドルネームの「モード」で呼ばれるのが好きだったのだそうだ。

↓すぐちかくにある郵便局は彼女が働いていた当時のものではないが、似たものを移築している↓今年はもうシーズンが終わってクローズしております

家々がこれだけ離れていると郵便配達も楽じゃない。
私書箱がまとめてあるのです↓


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「アカディアン」のルスティコ 農業銀行とロブスターのとれる海

2019-10-23 10:14:08 | カナダ
「赤毛のアン」の住むアボンディのモデルとなったキャベンディシュのすぐ南に、ルスティコというフランス人の村があった。

当時(二十世紀はじめ)のプリンス・エドワード島には今よりももっとフランス語を話す「アカディアン」と呼ばれる人々が暮らしていたのである。
ルスティコに入植していた人々の様子が再現されている


1863年に彼らの為の農業銀行を設立したジョルジュ・アントワーヌ・ベルクールという神父がいた。

いかりや長介に似たこの風貌。少し欧米人らしくないところがある。
ケベック生まれで、若いころから先住民の言葉を率先して学び、未開の西部にも熱心に布教をしてまわっていた。
年譜を読んでいくと、虐げられた先住民と先住フランス系住民のためにかけまわっていたのがわかる。

この写真がはまっているのが、まさにそのルスティコ農業銀行だった建物

昔も・今でも、カナダ最少規模の農業銀行だった。


千二百ポンドの資金をもとに、地元の農民たちが協力しあって運営していた。
共通の「紙幣」もつくって流通させていたという。

互助会のような組織だったのかもしれない。
後には学校もひらかれたそうだ。

ルスティコには五十代後半にやってきた。
情熱的で好奇心にも富んだ人物だったらしく、島ではじめて自動車に乗り・はじめて交通事故を起こしもした。

彼はカトリックの聖職者だったから、となりにある教会をベースにしていた。

今回、プリンスエドワード島に残る古い教会をいくつも訪問したが

長崎・五島列島にある明治から昭和初期にかけての教会と同じ雰囲気を感じた。
海辺にある、木造の教会。かつてはもっと多くの信者たちが支えていた、衰退してゆくコミュニティ。
共通点がある。

**帰国後に調べていたら、2013年にこんなトラブルがあったことがわかった。
※こちらから現地の新聞ホームページにとびます
ルスティコのすぐ南にはアングロ・ルスティコというもっと小さなコミュニティがある。
この地名看板は、以前「ルスティコにようこそ」だったのだが、それが行政によって「アングロ・ルスティコ」に突然変えられてしまった。

住民がこれに怒った。
「アングロ・ルスティコ」と無機質に書かれてしまうと、ここがルスティコではあるがフランス人のつくったまちではなく(※ルスティコというのはこの町を最初に建設したフランス人の姓からきている) 英国系アングロ・サクソンの人々の村だと感じられるてしまうから。
※英語で「アングロ~」と表記されると、そこには「イングランド人の~」という響きがあることを、この夏にアイルランドを訪れた時に理解した。
すなわち「アングロ・アイリッシュ」というと、「アイルランドだけれどイギリス人の~」と感じられる。
ここで「アングロ・ルスティコ」は「フランス人がつくったけれどイギリス人が住む~」をいうニュアンスになる。


***
ノース・ルスティコの浜にやってきた

灯台と漁師の家がならんでいる

↓このあたりはロブスター御殿(^.^)

小さな浜は固く締まっていて車がそのまま入れる

ロブスター漁で実際に使うカゴがつみあげられていた↓

↓間近にみると様子がよくわかる

捕って良い大きさが決められていて
それより小さいサイズはこの穴から逃げられるように開けられている↓

測るためのゲージが古くなって一ミリ大きすぎただけで巨額の罰金を科された人もあったのだそうだ。

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