旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

亀山城址の紅葉、亀岡の町を歩いてから京都へ、絶品わらび餅を買ってから京都駅へ

2019-11-26 17:00:00 | 国内
亀山城址の石垣と紅葉

↓誰かが黄色の葉を上手に見せてくれていた



紅葉の最盛期、いわゆる有名観光地を目指していたら、こんな静かに楽しむことはできなかっただろう

亀岡は明智光秀の十年に満たない治政のあいだに整備した城と町をもとにして発展している。
「光秀お手植えのの銀杏」が今も天守に近くいそびえている。
↓かつて天守閣のあった場所は、現在大本教の聖域とされて入ることは出来ない↓

↑右上に見える首のない石像は戦前に大弾圧された大本教の歴史を思い出させる
↓下の写真の達磨?も、その時に壊され埋められていた。首が見つかったのはつい最近のことだそうだ。

大本教の実質的な創始者・出口王仁三郎は子供の頃に廃城となったこの場所で遊んで育った。
「いつか、かつての雄姿を偲べる場所にしたい」と、
大正8年(1919年)、今からちょうど百年前に購入し、大本教の信者を動員して石垣を今の姿にした。

昭和の軍国時代、多くの宗教と同様に「大逆罪」の疑いをかけられ、再建した建物はすべて爆破され埋められてしまった。
戦後、ここまでに再建したのもまた出口王仁三郎と信徒たちだった。

宗教団体が管理する施設というと抵抗感があるひともあるだろう。
しかし、人々の力を結集して亀山城址をこれだけ美しい姿に戻したことは称賛に値する。

大本教の本部には出口王仁三郎という人物と亀山城址とのかかわりをよく理解させてくれる展示とビデオがある。

これを見てから城跡を訪れると、ただ紅葉を眺めに来たのとは違った感慨が湧いてくる。
**

朝、丹後半島の間人(たいざ)

きのうの雨は止んで青空もみえはじめていたが、
立岩のところまでくると「演歌が聞えてきそうな(笑)」日本海の激しさにおどろかされた

間人の地名由来になったのは聖徳太子のお母様なのだから、これは見て帰らないといけません。
↓母子のけっこう大きな像↓


丹後から二時間強で丹波の盆地にある亀岡に到着。
冒頭の亀山城址を歩き、街に降りてきた。
●「負けきらい稲荷」が勝負する人に人気なのだそうだ↓

由来は亀岡よりさらに山の中にある近くの篠山市にある。
江戸時代、将軍にお見せする藩対抗の御膳相撲。
負け続けていた丹波の殿様の前に、故郷からやってきたという王地山という力士が登場した。
連戦連勝大活躍したので褒章を与えようとさがしたがすでにその姿はなく、王地山という四股名が故郷丹波でお稲荷さんのある場所だったことから「さてはキツネが力士に化けていたにちがいない」ということになったそうな。

***
外堀の石垣を利用した遊歩道

洗い場を再現。昭和四十年代ぐらいまでは実際に使っていたそうな。


稱名寺には和泉式部の墓と伝わっているものがある↓

ここには珍しく江戸時代の梵鐘が残っている。

戦争中に供出されたのだそうだが、溶かされる前に戦争が終わって幸いにも戻されてきたのだそうだ。
↓材質調査のために穴を開けられているから、まさに溶かされる寸前だったのかもしれない。


↓この寺には織田信長の供養塔があるそうな



まだまだ見るべき場所はある亀岡。
最後に酒蔵を訪問


蔵を案内してくださって、最後に試飲なのだがこれだけの瓶を置いて「どうぞお好きなだけ」と去っていかれた(^.^)


この旅最後の食事を「楽々荘」にて。どこにするか、ぴんっとくる場所が見つからなくて下見に来た時、亀岡出身の同級生がここを勧めてくれていっしょにランチに来て即決した場所。

外を歩いていてはぜったい予想できない美しい庭がある。
ここは田中源太郎というここに亀岡出身の資産家・山陰鉄道に敷設した人物で議員だった人物の邸宅。
彼は破壊された亀山城の石垣も山陰鉄道の敷設に利用した。

また、ゆっくりこの場所を楽しむ機会を得たいもの。
****
亀岡から境地市内までは四十分ほど。
昨年、桜餅作りを体験した亀屋博永さんにわらび餅を注文しておいたのを取りに寄った。
ほんとに、ここでなければ食べられないと思わせてくれる味だったのです。
ご主人、お変わりなくてほんとうによかった
京都駅に到着したのは夕方五時をすこしまわってしまった。


今回の旅をつくるにはとても時間がかかった。
実際に訪れていろんな方とお話をして、
納得できる内容だとにたどりついて行程を決めていった。
結果的に名所旧跡はあまり訪れない旅だったけれど、
ご参加いただいた皆様の一生の宝ものになることを願っております。

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「こころの森美術館」、夜は間人のカニ尽くし

2019-11-25 20:00:00 | 国内
三月に日帰りで間人(たいざ)を訪れた時この「五百羅漢」に出会って、
「こんな顏を描く人にお会いしてみたい」と思った。
幻一(まぼろしはじめ)さんは丹後半島の、交通の便が良いとは言えない村に居られる。

僧籍もお持ちだというから見かけだけでなくほんとうのお坊様。
宗教者の務めはどんなかたちであれ人の心を穏やかに導くものである筈だ。

その方法は人によって様々。
幻さんの場合は絵筆で表情を描き、描かせて、「気付き」をあたえてくださっている。

まずはお手本↓

これは「楽」という主題
冒頭の顏もそれぞれ漢字一文字の主題がある。
左から「労(いたわる)」「?」「会」「祝」

同じ主題をあたえられても人によって違った顏ができてくる

今日、みんなで画いた主題は「願」「当」「恥」「明」
ひとそれぞれの顏・顏・顏

何かを表現しようとする時、「よく見られたい」「上手にえがきたい」という見栄と欲がでてしまうのが人というもの。

子供時代にはなかったそういう欲得に翻弄されずに表現することができたらなぁといつも思うのだけれど。「あ、これはそうかも」と思える絵もありました↓

それぞれの自信作を持って、記念に全員で(^.^)

***

夜は、この旅お待ちかねの間人のカニ尽くし!

今日!海からあがった「その日カニ」を食べられるのは本当にラッキーな事。
翌日まで水槽に入れておくだけでも痩せていくから

同じ北陸のカニでも場所によって味は違うという理由をお話いただきながら

焼いたり↓

茹でたり↓

↑ゆであがったのをこのように豪快に折って食べるのをおしえていただいた

やはり日本酒によくあいます↓

↑赤いのは古代米(赤米)を使ったロゼみたいな日本酒
↓同じく赤米をつかった麺

↓ブリは伊根からのもの

これが生でも美味しすぎてそのままどんどん食べてしまいました
↓ワカメは九十歳のおじいさんが「とト屋」のためにとってくださるものだそうで、やわらかで新鮮

最後は雑炊で〆
今年は昨年以上に堪能させていただきました!

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雨嵐でも楽しめる丹後の旅、間人蟹のセリと丹後ちりめんの奥深さ

2019-11-25 14:00:00 | 国内
間人(たいざ)のブランド蟹のセリを見ることができたのは幸運だった↓

※こちらにもっと書きました中から動画へもリンクしてあります
競りは観光用ではまったくないので見学用の場所はない。倉庫の天井裏にあがる急な階段にへばりついて見下ろすわれわれ↓

五艘の船だけが捕ることをゆるされた間人蟹。
船ごとにいつつのセクションに分かれている↓

大カニは五匹一列で競りにかけられていく↓

**
「弁当忘れても傘わすれるな」ということわざがある丹後、雨が降るのはいつものこと。
午後二時の間人港は防波堤に打ちつける波が湾内から見えるほどになっていた↓

↓この五隻が早く港に戻ってきてしまったら、セリは午前中におわってしまうところだった↓

幸運だったということが、きてみてはじめて理解できた。

***
京都を朝出発し、一時間半ほどで丹後半島に至る。
海を見晴らせる小さな「レストこのしろ」を予約してもらっていた↓

ここでまずは丹後がどういう場所なのかをチーム龍宮の姫様よりレクチャー古代には日本海側こそが文化の入口。この地方には五千もの古墳がある。登ることの出系る巨大な古墳も、石室を見ることのできる石舞台のようなところもある。

★2018年二月大雪の日に訪れた「古代の里博物館」の写真をこちらからごらんください
びっくりするような大雪でした

ロールパン50円!卵サンド百円!

夜はカニ尽くしなのでこのぐらいのお昼でちょうどよいのです(^^)

セリのまえに「丹後ちりめん」がどのようなものなのか、見学させてもらう事にした。
**
観光客用の施設ではなく作業場。

丹後のちりめん織物は、京都の西陣へ供給されるために享保年間・吉宗の時代にこの地に奨励されて発展した。
その繊細な織は超絶技巧の職人だけがつくりだせる希少品だったが、明治になって日本にも産業革命がやってくる。
織物というのは産業革命の恩恵をいち早くうけた分野。
19世紀初めにフランスで開発されたジャガード織機が導入されて、複雑な織を超絶技巧の職人さんに頼らなくても生産できるようになっていった。

デザインセンスがあって、機械を思うように使いこなすことができるようになれば、自分がデザインした一品ものを織ることができるのだ。
↓たとえば下の写真で右側は原画となる手書きの絵である↓
↓それを織りで再現する時にはどんな色の糸をどのように使うようにセットするかが問われることになる↓

↑左の完成品と見比べてみると、原画をどのように解釈するかが現代の織り職人のセンスであることがわかる。
上手に色を組み合わせて、独自の解釈で絵を再現する。
つまりこれは原画とは別の作品となっているのだ。

↓この軸の絵も、織物↓

↓間近に見るとびっくりします↓


糸一つ一つの色や風合いを完全に理解していてこそ、こういう組み合わせが可能になるのか

よくりかいできました


***
宿に入る前に、もうひとつ面白い体験をしていただきましょ(^.^)

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「山のレストラン」から大原へ、夜は「今原町家」にて

2019-11-24 13:00:00 | 国内
こんな濃厚なブルーベリージュース!はじめての味(^.^)

こちらはお酒→
「山のレストラン」はきのう訪れた「ソラノネ食堂」よりも前に、岩田さんがはじめて農場を拓いた地にある

今も山の水をひいて、(とても高価だという)ろ過装置を通した水を使っておられるのだそうだ。
↓簡素な扉をあけると

↓ぱっと空気がかわった

靴を脱いで階段をのぼるとこぢんまりしたレストランスペース↓

↓広い窓からブルーベリーの畑を見晴らせる席もある

紅葉しはじめたブルーベリーの木

○サトイモのオーブン焼き

○いろどりの野菜サラダ

○きのこのポタージュ

○白身魚のソテー、ポテトの糸のいい食感

↓ブルーベリーのパン

↓はっとするハーブティー


きのうお話を伺っていたのでより美味しく楽しめるランチ。
こちらではジャムも売ってます(^.^)


★紀伊国屋という名前は往時にはけっこうあったとのこと。衰亡していた老舗を岩田さんが再興させたという意識でこの名前がつけられている。
当時の台帳を見せていただいた。こんなにきれいに残っているなんて驚き。


**
トンネルを抜けて、京都大原へ至る

草木染は多彩な色が可能

染める前の生地から自分で選ぶことができる


染色の材料もさまざま

↓藍の材料はこのぶらさがっている草

最初は緑色みたいに見えるけれど、何度も染めていくうちにきれいな藍にかわってきまする

今日はマリーゴールドの鮮やかな黄色も


***
大原の定番のひとつも見学しておこう。
寂光院は平清盛の娘・徳子が壇ノ浦の合戦の後心ならずも生き延びて余生を暮した場所。
この階段を上がると彼女の墓がある


寂光院はその下にあって入口は一度降りてからになる。

紅葉も良い時期になっていた

火災にあった後に再建造れた新しいご本尊も美しい

「平家物語」の最終章、大原御幸にも出てくる池

今日と市内のホテルへ向かう空

****
一度ホテルに荷物を置いてから「今原町家」にむかった

「京都癒しの旅」の下戸さんに京都の四季のスライドとお話をお願いした↓

↓夕食の聚楽鍋は味噌味がいけてます




小さいながらもこの庭園があるのでこのホテルは気に入っております(^.^)




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西教寺、堅田

2019-11-24 10:00:00 | 国内
春にはこの参道の桜を見たっけ
※こちらから春の桜並木をごらんいただけます

西教寺に猿がたくさん登場する理由も、上記の春のページに書いておきました

このあたりだけで食用菊が栽培されていて、それを使ったお弁当が売られている。今日はがまんがまん。

本堂は江戸時代1736年に建てられたものだが、本尊の阿弥陀如来は平安時代のものとされている↓

つまり、今はなくなってしまった他寺からこちらへ運ばれ、それにあわせてこの伽藍が建設されたのだ。
内部(撮影禁止)に入ってみると定朝様式の安定した巨大な阿弥陀如来が建物にきれいにはまっていた。

「カーン」という鐘の音が頻繁に聞こえてくる。
みると本堂の一角に念仏を唱える僧が坐していて、「南無阿弥陀仏」十回に一度鐘を叩いている。
これは不断念仏といって、西教寺中興の祖とされる真盛上人がはじめ、ずっと続けられている(とされている)。

1443-1495 室町幕府に求心力がなくなり人々危険にさらされる戦国時代になっていく頃、比叡山に学んだで天台宗の中の分派となる天台真盛宗を興した。
彼の廟はこの階段の上にある↓



↓本殿に隣接している客殿は伏見城から移築されたもので、狩野派の絵が楽しめるのだそうな


2020年の大河ドラマの主人公である明智光秀一族の墓があるので近頃どっと人がふえてきたのだそうだ

「麒麟がくる」に使われそうな木彫がいくつもある



滋賀県にはすでに、1974年にキリンがきているのですが(^.^)



**
浮御堂のある堅田へも行こう

伊勢湾台風で壊れた後にコンクリートで再建されているが一見に値する。

↓この水上の建築物は琵琶湖の環境を測るためのものだったが今は使われておらず、壊すにもお金がかかるのでそのまま放置されているのだそうな↓

堅田はかつて京都上賀茂神社の資材を上納するとして直接都の権力と結びつき、「湖族」と呼ばれた。
近くの坂本とは、今も微妙に言葉が違うとガイドさん。
琵琶湖がいちばん狭くなる立地から湖を見張った。

比叡山のこんな近くにありながら、時代によって日蓮宗や浄土真宗の寺をその中心にもって繁栄した。
今日はちょうどお祭りの日

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