旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》あなたの知らない京都 丹後半島西部

2018-03-23 17:17:17 | 国内
大空に間人(たいざ)の蒼い海。子供の頃の聖徳太子も母と一緒にこの海と立岩を見たのだろう↓

柱状節理の大岩「立岩」は高さ二十メートル。近くで見ると迫力がある。観光バスだと時間がないので国道にある道の駅から「あれが立岩です」だけでおわるそうだが、やっぱり近くへいかなくちゃ。車をおりてゆっくり近づいてゆく↓

↑竹野川にかけられたこの橋、写真で見ていた時には電車か車のためのものだと思っていたが、歩行者用だったんですね。

自然のつくりだした巨石は、現代古代問わず、人の目には何か神がかった場所に見える。
同行してくださった古墳の発掘にも携わってきた市の方に
「この岩の上には何か祀られていたりしないんですか?」と訊ねてみたが、
「あったかもしれませんが、何も残ってません。風雨で飛ばされちゃいますよ。」
とのこと。そういうものなんですねぇ。
**車で少し移動
風雨や年月にも負けないがっちりした石組みの古墳群は「立岩」を見下ろす高台にあった↓もともとは盛り土がかぶさっていたものだが

二十基ちかくも見つかっている↓「大成(おおなる)古墳群」と称する


奈良の「石舞台」に似た印象をうける。同時期とされる。
内側は端正な石組み↓

これは復元ではなく掘っていって見つかったのをそのまま見せているのだそうだ↓

発掘の成果が目のあたりに出来るのは嬉しいが、地中にあった時よりも劣化してくるのが悩みだと話された。
観光で見学できることは、保全とは裏腹な事が多いのですね。

この場所から見晴らす間人の海。特別な場所にいる感じがします。



半世紀以上前、この場所に保養施設ができた。
建設途上で「なんだか大きな石がごろごろでてくる」というのが、古墳発見のきっかけだったのだそうだ。
保養施設は取り壊されて基礎だけが残っている。

***
再びバスに乗り、竹野神社(たかのじんじゃ)へ。この神社の後ろには巨大な前方後円墳(神明山古墳)がある。
今日は登る時間までないのが残念

参道の入り口に小さな石の太鼓橋があるのが目についた↓

促されて側面に刻まれた文字を読む↓

「石工 西山村 糸井成(?)右衛門」と読める
西山村は石がとれる場所なのだそうだ。右側には寄進者や人足を提供した村々の名前が列記してあった。
造られたのは天保十年(1839年)。

拝殿は大正期のものだが、その奥の本殿は江戸時代のものだそうだ↓


土壁には二本の線↓これは皇室ゆかりの神社であることを示している。なるほど。↓


神社のすぐ前が、道をはさんで「古代の里資料館」↓

町村合併のタイミングで分散していた発掘物を集めてつくられたそうで、展示は見やすく工夫されている。
★2月8日大雪の日に訪れた日記に博物館の事をもっと書いておりますのでごらんください
昨夜実演してくださった弥生時代の笛の実物があった↓

音楽を奏でて楽しむことは、人と動物を分ける決定的な行為。弥生時代の人がぐっと身近に感じるようになる。
すぐ横にレプリカがあったのでみんなで練習⇒これが音を出すだけでたいへんなんです。

この博物館の一番の目玉は、埋葬された遺体を飾っていた装飾をその地面ごときりとってきたこれ↓

赤いのは朱であろう。人間の肉体そのものは朽ちてしまっていたそうだが、勾玉などきれいに残っていたのだ。
この周辺の古墳からは青が美しいがガラスもたくさん発見されていて、その当時の豊かさが感じられる。

敷地の中にある弥生時代の家の再現↓

ここで弥生時代の御料理を再現して食べたりするのだとか。

午前中、三時間ほどだったけれど、「龍宮」メンバーの皆様、ほんとに一生懸命ご案内くださいました↓


*****
正午少し前に「和久傳の森」に到着↓昨年オープンしたばかり↓

安藤忠雄氏設計の安野光雅美術館が併設されている
★下見の時の写真ごらんください
この美術館は安藤氏の設計だが、食堂や売店のある建物は彼の設計ではないので、「間に仕切りをしてください」とリクエストがあったのだそうだ。
だが仕切り板をつくってしまっては施設の一体感がそがれてしまうので代わりに盛り土をして木を植えることにした↓

木が育てば自然と境界線になっていくが、塀をつくるようなぶった切り感はなくてすむ。良いアイデアですね。
レストランとお店の棟を入ると、安野さんの絵本のページを拡大した壁が↓隠れている動物、見えますか?

少し説明していただくだけでずいぶん見えてくるものがある。
「お時間あればお食事の後に椿園にしようとつくっているあたりご案内しますよ」と、お声掛けくださった。
たっぷり時間をとってあるし、お願いした。
まずは昼食↓黄色い液体は「山椒オイル」

テーブルの生姜麹が気に入って買ってしまった
 

食事の後、施設の方に「和久傳の森」をご案内いただいた。
斜面に植えられた椿はまだまだ小ぶりだが育っていけば「森」のようになるだろう↓

近隣の米蔵だった土蔵が壊されそうになったのを買い取って移築したものが階段の下に見えている↓

こうした地道な活動がこの場所をやがて「森」にしてゆく。
隣接した工場で働く人々にとっても誇りになる筈だ↓


今日お天気で、我々の行程にも余裕があったのでご案内いただくことができたのは幸いである(^.^)

******
午後二時過ぎ、一路京都駅へ向かう。
途中、再建された安土桃山城が見えた↓

1992年のスペインはセビリアの万国博覧会では、安土城の天守閣が復元されてメインパビリオンになっていた。
万博終了後、安土に移築されたときいていた。見えている城はちがうが、調べてみると安土の「信長館」にあるようだ。
そのうち訪れてみたいとおもう。

京都駅で、初日にオーダーしていた「わらび餅」をもってきてくださった。

今のところ後継はいないという亀屋博永さん。この味が途絶えないように願っております。
伝統の味というのは、システム化して拡大生産するとどこか無理が生じやすい。
結局のところ一人の職人の手の中からうまれてくるものでしか再現できないのかもしれない。
古都にはそういうものが市井に隠れている。
あのわらび餅、また注文させていただきます。

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雨の間人(たいざ)でカニを食べる

2018-03-22 20:20:20 | 国内
カーブの先に荒れた海が見えた↓

道は細く曲がりながら海へ降りてゆく。港で「龍宮」のメンバーが待っていてくださった。間人(たいざ)を盛り上げる地元有志のチームである京都から我々が乗ってきたバスでは大きすぎて登っていけない展望台へ、バン二台を用意してくださっていた。乗り換えてもっとくねくねした道を五分ほど登ると…

入江に瓦屋根を敷き詰めたような間人の町が一望できた。
印象的な突き出した岩は犬ヶ埼だろう。荒々しい海岸線が続いている↓

間人のカニをとることが許された、たった五隻の船が見えた↓


雨混じりの風が吹きつけるこの場所に、松本重太郎の墓がある↓

鉄道を敷き銀行を興して、明治維新から日清・日露戦争の頃までの日本を牽引したこの人は間人の出身で、京都で丁稚奉公からはじめたのだ↓
「龍宮」のメンバーが尽力して、近年整備されて解説版も設置されたのだ↓

あの時代、故郷間人へは帰るのも簡単ではなかっただろう

再び町へ降りる。この風景、たしかにひと目見ておくだけで、間人を理解する大きな手助けになる。
視覚的に全体を俯瞰することは重要なのです。この為だけに車を用意してくださっていたのか。
港の周辺は急な斜面に古い家がぎゅっと寄り集まっている。その間の路地を降りてゆく↓


繁盛と安全を祈って家々にこんなものが↓

↓この立派なのは江戸時代からのモノなのだそうだ↓

この家の持ち主はもう住んでおらず、この恵比寿様?も、いつ行き場所を失わないか心配されていた

カニのセリが行われる市場の裏に、さっきのカニ捕りの船五隻↓

3月20日で今カニの漁が認められたシーズンは終わった。
競の行われる場所で解説↓

熱の入ったお話は聴きたいけれど、ちょっと寒すぎるので宿へ急ぐことにした。

宿で迎えてくれたのは、我々の為にとっておいてくださった生きている間人カニ!

↑みどりいろのタッグが間人蟹の証。期待が高まります

部屋でひと休みして、いよいよカニ尽くしの夕食へ
まずはお刺身で↓

間人カニは比較すると臭みがすくないという。もちろん新鮮だから。
そして、身をしゃぶしゃぶ風にもする。
味噌と日本酒は絶妙に合う↓

この時期の子持ちカレイもぜったいお勧め↓

焼きカニ↓ちょうど良いように付きっきりで焼いてくださった。我々焼きすぎますもんね。

茹でカニ↓

こちらのミソもたっぷり↓

そして、鍋↓

雑炊にする↓これが絶品なんです↓

下見の時には雑炊が出るタイミングにはお腹張り裂けそうになっていて残念至極だったので、本番には「雑炊がおいしく食べられる量にしてください」とお願いしていたほどに(^.^)


夕食後、別室で「龍宮」メンバーの方々がいろんな間人の魅力を紹介してくださった。
本日はシンガポールにセールス旅でご不在のおかみさんも映像で登場↓

カニの買い付けにはおかみ本人が行っているので自信を持ってお勧めできるホンモノの間人カニを提供できるのだ。
夏場のカヤックの紹介や、古代の里の弥生時代の笛や↓

間人(たいざ)の名前の由来である間人皇女(はしひとのひめみこ)が住んでいた場所が今の中宮寺で、そこにおわす半跏思惟像がモデル?とか↓

いろいろな角度からお話をしてくださった↓

なにより、間人滞在の魅力はこうして迎えてくださる皆さんに出会えたことに違いない(^.^)

明日は晴れますように
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《手造の旅》あなたの知らない京都 宮津から間人へ

2018-03-22 07:29:08 | 国内
御苑の西にあるホテルから京都県北部、天橋立から丹後半島を目指す。

高速が発達したおかげで二時間ほどで西舞鶴駅に到着できた。

今日はこれから10:29発の丹後鉄道 特別列車「あかまつ号」に乗る↓

この列車は乗車券のほかに別料金が必要だが、予約が必要なので混み合う事はない↓

乗車時に記念チケットを収納してスタンプも押せる台紙をくださる

車内は明るいサロンのようなつくり。

あの「ななつ星」(JR九州のクルーズトレイン)と同じ水戸岡さんデザイン↓

観光案内資料もお土産も準備↓

景色や歴史の解説もあり、このな地ビールも注文できる↓

あ、普通の列車とすれちがった↓

古い車両を改造したのだが、よくできている。トイレや洗面所に苦労の跡が感じられた↓

海岸線はこんな天気の日でも見ていて飽きない↓
見所の鉄橋では少し止まってくれたりもする↓

駅にはこんな看板も↓森鴎外の「山椒大夫」の舞台になった地域なのだ

一時間ほど列車の旅、良いですねぇ(^.^)
**
天橋立の一つ手前、宮津駅で降りると「宮津観光アテンダントまちなか案内人」の堀田さんが待っていてくださった。

宮津の町は江戸時代以前から日本海の重要な港だった。商業港としてもそうだし、すぐ近くに「日本三景」のひとつである「天橋立」があるのだから。下の写真(Wikiから)下が宮津港、上に長く伸びているのが「天橋立」↓

この町ゆかりの人物でいちばん有名なのは明智光秀の娘細川ガラシャだろう。彼女ゆかりの地に建てられた、継続利用されているものとしては日本で二番目に古い教会↓
美しい木造の後ろ姿がオリジナル↓

ロマネスク風なアーチにゴシック風の小さな窓がつけられたファサードは、昭和のはじめに地震があった際に改築されてこの姿になった部分↓
その時入口上に聖歌隊席も付け加えられ二階建てに見えるが↓基本は平屋で、内部は当時のままの畳敷きだという。

老朽化で倒壊の危険があるため、2018年3月現在中には入れないが、修復されたらぜひまた訪れたいと思う
※下見の時、間人(たいざ)在住の亀田さんに宮津教会の存在をおしえられていなければ、今回の旅で宮津自体を組み込むアイデアはうまれなかった
細川ガラシャとの話もこちらに書きました


下見の時は自分たちで歩いただけだったのだが、今日は宮津案内の達人がご一緒。なので、同じ場所を歩いても見えていなかったものが見えてくる。理解できる。
↓下の写真、なんてことない古い家は江戸時代末期の下級武士が住んだ頃の原型を残しているのだった↓

トタンで囲ってあるが萱(実際は藁が多く使われたとか)の厚い様子が垣間見える↓

↓和貴宮神社はもともと海のすぐそばに位置していたと考えられている。
宮津の「宮」とは、ここのことなのか↓建立年は古すぎて不明

境内には「水超岩」がある↓ここまでが海だったと考えられている。

日本海沿岸の各地から参拝者寄進者があったことが、刻まれている名前からもわかる↓
ガイドさんに指摘されてはじめて「銭屋五兵衛」の名前を見つけた↓

加賀の豪商で鎖国時代にも藩の重役を巻き込んで海外との密貿易を推進し、さらには海外にも商取引の拠点を持っていたとされている人物。
金沢には記念館もあるようだから、今度是非行ってみよう
↓富山の薬売りからの寄進も↓

京都や丹波からのものもあって、宮津の経済ハブとしての役割が感じられた。

洋建築が建てられていった時代の名残も、この大きな医院の建物に見られる↓

現在も営業していて、後ろに長く木造の病院棟がつながっていた↓ドラマの撮影に使われそうだ


幕末に宮津を治めた本荘氏二代の墓があった↓目の前の石橋はかつて城の庭にあったものを移築したのだそうだ↓なるほど。そういわれなければあまりに唐突・場違いに見えます↓

葬られている父・本荘宗秀という人物は安政の大獄の折、実際に現場で実務にあたっていた人物。
第二次長州征伐でも副総督として現場を仕切っていた。長州藩の捕虜を独断で開放したことをとがめられて家督を息子に譲ることになったが、後にはその行動が彼の命を救うことになった。いつの世も、組織に盲従していてはダメなんですね。

家督を譲られた息子は、明治維新後に籠神社(このじんじゃ)の宮司になった。※本日後程訪れます


昼食に海鮮丼を用意してくださった↓

座ってようやく落ち着いてお話聴けました
「宮津まちあるきアテンダント」の方々と出会えていなければ、こんな宮津は見えてこなかったにちがいない。

昼食後、天橋立の南側に位置する文殊様を訪れる。日本三大文殊として江戸時代から多くの参拝客を集めた。

※《手造の旅》山形で訪れたもうひとつの文殊様についこちらに書いております
もうひとつ

18世紀はじめの絵にはすでに描かれていたというこの丸い石の輪は何?↓

輪っかの中に燈明を入れて、小さな灯台のような役割だっと考えらている。
現在の位置ではなく、小天橋の端にあったという。
「知恵の輪」というのは後世につけられた名前なのだ。

半島をつなぐ橋↓回転して船を通すときいたが↓

直後にほんとに船が通るのに回転がはじまった↓

観光用の船が通るのかと思ったら、二隻の大きな輸送船が通って意外だった。
「こんなところで何を運んでいるのですか?」と訊くと
「ニッケルの鉱石をインドネシアから輸入しているんです。精錬所があるので。」
※こちらにもう少し書きました



天橋立には松林がある。それは人が植えたのではなく自然のもの。この種類の松が塩に比較的強く自然にこうなったのだという。
大事な古木にはしっかり登録番号がある↓


今日はお天気が悪いので展望台に上がっても天橋立はよく見えないだろう。
景色が見えない展望台で時間を浪費するのは止めて、橋立の北側にある籠神社(このじんじゃ)に向かった。

●籠神社(このじんじゃ)は、伊勢神宮の前に大神が居られた場所とされ「元伊勢」の名がある。

本殿が古い寺社建築スタイル「神明造」↓棟持柱(むねもちばしら)が地面から棟まで通っているのが横から見えた。

高床式から発展したとされるこのスタイルは、よく復元図でみる日本古代の建築のようではないか

この本殿の奥、山を登ってたどりつく真名井神社 (まないじんじゃ)はパワースポットとして人気なんだそうな

境内の重要文化財の狛犬は鎌倉時代からのもの
足に切られたあとがある↓

伝説によると、天正年間に参拝者を驚かす獅子が出現するようになり、仇討物語で知られる岩見重太郎が待ち伏せをした。
夜、出現した方向へ太刀を一閃すると姿が消え、翌朝には狛犬の前足が切れてその後出現が止んだのだという。

***
今晩の宿泊地、丹後半島西部の間人(たいざ)まで向かいます


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《手造の旅》あなたの知らない京都 二日目

2018-03-21 11:16:32 | 国内
雨の朝だったが御苑には梅桜桃が同時に咲いていた
※ご希望の方と雨の御苑へ花見、こちらにもっと載せました

今日はいろいろな老舗食材店をめぐり、菓子作りも体験し、夕方にはそれら食材を使った料理を町家でいだたく予定。

帝が京都の御所におわした時代には御用達業者も近くにたくさんあった。明治維新、多くの業者は帝とともに東京へ移っていったが、
●本田味噌は麹菌の住むこの店を動かせなかった↓後に、西都の味噌という事で「西京」という名前をもらったのだそうだ。

この暖簾は祭日専用なので、一年に十数回しかかけられることがないのだそうだ↑
定番商品は白味噌とならんで、この紅麹味噌↓

赤いのは麹そのもの色。唐辛子ではありません(笑)
味噌をつかったチョコやクッキーも製作されている↓

たくさん試食してたくさん買っちゃいました(^.^)

●澤井醤油は昔ながらの桶をつかっている↓樽の中で熟成しているものを絞れば「生醤油」となる↓

ここでも醤油をつかった新しい商品がいろいろあった


○京都府庁の中庭の桜もきれい↓




ここは建物自体も見もの↓



**
●祇園祭の鉾の先頭をいくのは「長刀鉾」にきまっている

家々の入口にはその鉾で手に入るこういう厄除けをかざってある

●入山豆腐は昔ながらの方法で豆腐を作っている店↓

この古い竈で豆を焚く↓

なので、大量生産はできない。

その場で手軽に味わえるものが百六十円の豆乳↓

ひと口飲んでびっくり!市販しているものとまったく違う濃さ!
「ふつうに売ってる豆乳はストロー通らんとあかんからね(笑)」とご主人。
いわば市販の豆乳は『豆乳をつくるための豆乳』なのだ。
ここで売られているのは豆腐をつくったあとのホンモノだから味が違うのだと納得。
小松の豆乳に対する認識が変わりました(^.^)
今晩、夕食でここの豆腐をいただけるのが楽しみになった。

●亀屋博永

ここの看板商品はこのわらび餅↓

ひと口食べて皆さんその違いにびっくり!なんて柔らかいんだろう
「混ぜ物がないと五日ぐらいは冷蔵庫でも固くならないんですよ。よく売ってるのにはタピオカ粉とか入ってるんです」
きなこは特別に焙煎してもらっているそうな。使っている黒砂糖は波照間島のもの。
ううむ、これは買って帰りたい。が、東京へ戻るのはあさってだから無理か…すると
「新幹線の駅までもっていってあげますよ」とご主人が嬉しいことをおっしゃる
たくさん注文ちゃいました

ここで桜餅をつくる体験をおねがいしてある↓準備よ~し

↑最初にゴルフボールを握らされてなにをするのかと思ったら、あんこを包むイメージトレーニングでした
本番はこんな感じではじめる↓

これをゴルフボールを包むように丸めながら上部に指をあてる。
生地を回しながらあんこをおしていくと自然に包むかたちになってゆく↓


包む葉っぱは信州からのもの。塩漬けにされたものを水で洗って、葉脈を上にしてのせる。

生地は道明寺粉をつかう。道明寺粉とは糒(ほしいい)を挽いたもの。
小豆は丹波の大納言↓

↑右の白いほうはきんとんなどに使う備中岡山の小豆
飾り気ない奥座敷に通していただき、今さっき自分たちで包んだ出来立ての桜餅を抹茶とともにもりもり食べてお昼の代わりとした。


●山中油

油をつくってはいないが、良い油を選んできて売っきた店。休日なのに特別に開けてくださった。感謝。
店先に「食用油」と書かれた古い看板があがっている。明治期になる前、油はほとんど灯りの原料で、食品ではなかったのだそうだ。なるほど。店の前に水車と水路、立派な鯉が泳いでいた↓

道路に面して、第二次大戦で空襲をうけた際の爆弾の破片を展示してある↓

京都でもこういう事があったのだと伝えていく必要、ありますね。

特別に開けていただいた店内で、油の試食・品目当てクイズをしてくださった。胡麻油、菜種油、落花生油、「そんな違いすぐわかる」
いえいえ、実際に味わってみると難しい。 日本だけでなく、イタリア各地からのオリーブオイルなども多様に揃えておられた。

●今原町家 本日の集大成がこちらでの夕食

元は組紐職人の家だったのだという古いかたちを今に留めた貴重な家。
京都らしいこうした場所で、今日見てきた食材を使った食事を提供してくださっている。こうしたアイデアも町家オーナーが考えられたのだそうだ。

食事の前に建物を案内していただいた。歴史は細部に宿る↓

天井板は屋久杉なのだそうだ↓分かる人から「火事になったらこれは剥がしてにげなはれ」と言われたと笑っておられた↓


先ほどの山中油さんが、各種オリーブオイルと本田味噌さんの白味噌などを合わせた味比べをさせてくださった↓

いろいろあったなかで、100%小豆島産のオリーブと高知産柚子を絞ってつくったオリーブオイルに本田味噌の白味噌を合わせたものが素晴らしい味わいだった。野菜や豆腐にちょっとつけていただきます↓

入山豆腐ももちろん登場↓しっかりした生地

焼いたお麩
さいごに本田味噌の紅麹味噌をたっぷりつかった「聚楽鍋」↓※こちらで命名されたそうな


★忘れてならないのは、今原町屋「オーナー」りろさんと「支配人」柴田さんとお会いできること。日本酒もこだわって選んでくださる。今日は「春鹿」に「抱腹絶倒」(^.^)
今日一日に出会った食材が集まった夕食を囲んで、京都をそれぞれのかたちで愛する方々とお話できた旅の夜。

名所旧跡を見て歩いても楽しい旅になるわけではない。名物や高級料理を食べても必ず美味しいと思えるわけではない。
そこで出会う人によって、価値は決まるのだ。雨模様の京都でも心配ない(^.^)

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《手造の旅》あなたの知らない京都 一日目

2018-03-20 12:35:25 | 国内
午前十時に京都駅に集合し、そのまま「お香」のお店に直行。
「聞香(もんこう)」を体験した↓

※こちらから様子を見ていただけます

一時間ほど雅な香りの時間を楽しんでから昼食へ。五条の鴨川近くにある人気店「半兵衛麩」。予約がとれてよかった。
麩というのは食事の主役にはならない食材だが、どの器にも上手に生かされている↓


初代半兵衛からの復刻系図が展示してあった。幼くして父と死別し、母方の親戚に育てられ、御所に務めて警護し食事をつくる役の一人として麩の作り方を習い、創業したとあった。没年は元文元年(1736)。

昼食後、京阪電車で北上し、下賀茂神社近くで歩いて鴨川を渡る。ここまで来ると大文字の山も見える

あまり観光客が訪れない商店街通り


御苑へ、北東の方向から近づく。
北東は鬼門にあたるので御苑の形も少し欠けてつくってある。近くに厄難が去るように、「猿」を社の北東方向に置いた神社がある↓

あ、いた↓


御苑はもともと天皇陛下が住む御所があった場所。
現在も、京都御所、仙洞御所、大宮御所、三つが残されている。

そこに平成十七年、外国からの賓客をもてなすための「京都迎賓館」が建設された。
内部、ちょっとご覧いただきましょう。日本には珍しく内部の撮影もOK(^.^)

入場は整理券を必要とする。突然来ても入れません↓


一見現代風だが、細部には現代の名工の技が集積されている。最初の扉の持ち手から↓
椅子のデザインもおもしろい小テーブルの台座にさりげなく螺鈿の細工
廊下のライト、シンプルでほどよく暗い↓

西欧風の会食・会議室↓「藤の間」





確かにすばらしい細工なのだが、正直に言っていまひとつ美しくみえてこない…
賓客こそが主役で、我々下々が入る時には柵で仕切ってばかりあるからだろうか。
どんなに美しいモノでも、見せられる環境が悪ければ心に響きはしない。
「手を触れないように」は分かるが、えんぴつでメモをとることさえも禁止されているのには納得できなかった。

●和風の座敷↓「桐の間」↓

部屋としてはここが迎賓館の奥座敷。五十六畳に二十六席が用意されている。
十二メートルの漆塗りテーブルは一点の曇りもない。
壁は京土壁。今では入手困難なホンモノにこだわり、出土した古い土壁を再利用しているのだそうだ。
座椅子の背には桐の漆細工↓


迎賓館はそれでも海外からの賓客のためによく出来た空間になっている。
それは、この日本庭園の圧倒的な存在感による↓

雨の落ちる池に突き出した円柱は、秀吉の時代に五条大橋を支えていた石の柱なのだそうだ。
この柱や、その周囲に配置された長い石は、かつてまったく別の場所にあったものを庭師が再利用している。

↓石柱の逆側に「天正十七年」の文字が見える↓

翌年に「小田原征伐」を遂行する、秀吉のまさに全盛時代。
調べてみると、秀吉が建造した「五条橋」は現在の五条大橋よりもひとつ北の松原橋の場所にあった。
※こちらにもうすこし書きました


小舟で往来することもできる。この船を最初につかったのは、ブータンのワンチュク国王夫妻だったそうだ↓


橋を渡る

四隅にあるちょっとした意匠↓


***
御苑を出てすぐ東に「梨の木神社」という三条実美親子を祀った神社があって、その境内にマンションが建ってしまったのだときいた。
「マンションができたので、一の鳥居からは神社に入れなくなってしまったんですぅ」と説明されたのだが、
実際に目で見るまで、何がどんなふうになっているのか想像できなかった。それが、これ↓

↑写真の右端の部分、木陰に一の鳥居が見える↑
↓正面から見ると、こんな↓

え?これは想像を絶した場所に建てられている。
一の鳥居から二の鳥居への参道を遮断する位置にあるのだ。

参道を歩けないのでマンションに沿って歩いていくと二の鳥居がこんなふうに見えてくる↓

六十年の借地権なのだそうだが、三条さんもびっくりされていることでしょう。

****
夕食までまだ少し時間がある。
お茶の老舗に立ち寄った↓

良いお茶は熱湯でいれてはダメだときかされていたが、出してくださったお茶はほんとうにぬるく、そしてとても甘味があった。
「水出しの方が色がかわらなくて甘みもあってよいぐらいですぅ」とのこと。
今年の夏はやってみよう。
*****

夕食は「京都の野菜」を上手に使った若いオーナシェフがやっているお店へ↓

アミューズ(チーズのシュー、パイナップル、青海苔のフラン)

↓天然鯛のコンソメ仕立て季節の菜園野菜↓

★サーモンと鯛の炙りカルパッチョ、園部の農園地場野菜サラダ↓

味わいは視覚によっても大きく左右される。2012年に※スイスの山の中のレストランで出会ったサラダを思い出した
この時の花は蜂蜜でお皿にくっつけられてたっけ


園部野菜の温製ポタージュスープと豆乳フラン二層仕立て↓

園部は奥様の実家で、こちらから美味しいけれど形がよくなくて売りにくい野菜などを入手されているのだそうだ(^.^)

魚のメイン 
 
小松はホタテのグリル香草パン粉焼きました(^.^)

肉のメインチョイスは
牛フィレ、鴨の低温ロースト、和牛のいちぼグリル、鹿もも肉赤ワイン煮、鹿肉ロース

全部写真撮れておりません

口直し

デザートも目を楽しませてくれる↓




20時過ぎて、ホテル到着となりました。

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