大空に間人(たいざ)の蒼い海。子供の頃の聖徳太子も母と一緒にこの海と立岩を見たのだろう↓
柱状節理の大岩「立岩」は高さ二十メートル。近くで見ると迫力がある。観光バスだと時間がないので国道にある道の駅から「あれが立岩です」だけでおわるそうだが、やっぱり近くへいかなくちゃ。車をおりてゆっくり近づいてゆく↓
↑竹野川にかけられたこの橋、写真で見ていた時には電車か車のためのものだと思っていたが、歩行者用だったんですね。
自然のつくりだした巨石は、現代古代問わず、人の目には何か神がかった場所に見える。
同行してくださった古墳の発掘にも携わってきた市の方に
「この岩の上には何か祀られていたりしないんですか?」と訊ねてみたが、
「あったかもしれませんが、何も残ってません。風雨で飛ばされちゃいますよ。」
とのこと。そういうものなんですねぇ。
**車で少し移動
風雨や年月にも負けないがっちりした石組みの古墳群は「立岩」を見下ろす高台にあった↓もともとは盛り土がかぶさっていたものだが
二十基ちかくも見つかっている↓「大成(おおなる)古墳群」と称する
奈良の「石舞台」に似た印象をうける。同時期とされる。
内側は端正な石組み↓
これは復元ではなく掘っていって見つかったのをそのまま見せているのだそうだ↓
発掘の成果が目のあたりに出来るのは嬉しいが、地中にあった時よりも劣化してくるのが悩みだと話された。
観光で見学できることは、保全とは裏腹な事が多いのですね。
この場所から見晴らす間人の海。特別な場所にいる感じがします。
半世紀以上前、この場所に保養施設ができた。
建設途上で「なんだか大きな石がごろごろでてくる」というのが、古墳発見のきっかけだったのだそうだ。
保養施設は取り壊されて基礎だけが残っている。
***
再びバスに乗り、竹野神社(たかのじんじゃ)へ。この神社の後ろには巨大な前方後円墳(神明山古墳)がある。
今日は登る時間までないのが残念
参道の入り口に小さな石の太鼓橋があるのが目についた↓
促されて側面に刻まれた文字を読む↓
「石工 西山村 糸井成(?)右衛門」と読める
西山村は石がとれる場所なのだそうだ。右側には寄進者や人足を提供した村々の名前が列記してあった。
造られたのは天保十年(1839年)。
拝殿は大正期のものだが、その奥の本殿は江戸時代のものだそうだ↓
土壁には二本の線↓これは皇室ゆかりの神社であることを示している。なるほど。↓
神社のすぐ前が、道をはさんで「古代の里資料館」↓
町村合併のタイミングで分散していた発掘物を集めてつくられたそうで、展示は見やすく工夫されている。
★2月8日大雪の日に訪れた日記に博物館の事をもっと書いておりますのでごらんください
昨夜実演してくださった弥生時代の笛の実物があった↓
音楽を奏でて楽しむことは、人と動物を分ける決定的な行為。弥生時代の人がぐっと身近に感じるようになる。
すぐ横にレプリカがあったのでみんなで練習⇒これが音を出すだけでたいへんなんです。
この博物館の一番の目玉は、埋葬された遺体を飾っていた装飾をその地面ごときりとってきたこれ↓
赤いのは朱であろう。人間の肉体そのものは朽ちてしまっていたそうだが、勾玉などきれいに残っていたのだ。
この周辺の古墳からは青が美しいがガラスもたくさん発見されていて、その当時の豊かさが感じられる。
敷地の中にある弥生時代の家の再現↓
ここで弥生時代の御料理を再現して食べたりするのだとか。
午前中、三時間ほどだったけれど、「龍宮」メンバーの皆様、ほんとに一生懸命ご案内くださいました↓
*****
正午少し前に「和久傳の森」に到着↓昨年オープンしたばかり↓
安藤忠雄氏設計の安野光雅美術館が併設されている
★下見の時の写真ごらんください
この美術館は安藤氏の設計だが、食堂や売店のある建物は彼の設計ではないので、「間に仕切りをしてください」とリクエストがあったのだそうだ。
だが仕切り板をつくってしまっては施設の一体感がそがれてしまうので代わりに盛り土をして木を植えることにした↓
木が育てば自然と境界線になっていくが、塀をつくるようなぶった切り感はなくてすむ。良いアイデアですね。
レストランとお店の棟を入ると、安野さんの絵本のページを拡大した壁が↓隠れている動物、見えますか?
少し説明していただくだけでずいぶん見えてくるものがある。
「お時間あればお食事の後に椿園にしようとつくっているあたりご案内しますよ」と、お声掛けくださった。
たっぷり時間をとってあるし、お願いした。
まずは昼食↓黄色い液体は「山椒オイル」
テーブルの生姜麹が気に入って買ってしまった
食事の後、施設の方に「和久傳の森」をご案内いただいた。
斜面に植えられた椿はまだまだ小ぶりだが育っていけば「森」のようになるだろう↓
近隣の米蔵だった土蔵が壊されそうになったのを買い取って移築したものが階段の下に見えている↓
こうした地道な活動がこの場所をやがて「森」にしてゆく。
隣接した工場で働く人々にとっても誇りになる筈だ↓
今日お天気で、我々の行程にも余裕があったのでご案内いただくことができたのは幸いである(^.^)
******
午後二時過ぎ、一路京都駅へ向かう。
途中、再建された安土桃山城が見えた↓
1992年のスペインはセビリアの万国博覧会では、安土城の天守閣が復元されてメインパビリオンになっていた。
万博終了後、安土に移築されたときいていた。見えている城はちがうが、調べてみると安土の「信長館」にあるようだ。
そのうち訪れてみたいとおもう。
京都駅で、初日にオーダーしていた「わらび餅」をもってきてくださった。
今のところ後継はいないという亀屋博永さん。この味が途絶えないように願っております。
伝統の味というのは、システム化して拡大生産するとどこか無理が生じやすい。
結局のところ一人の職人の手の中からうまれてくるものでしか再現できないのかもしれない。
古都にはそういうものが市井に隠れている。
あのわらび餅、また注文させていただきます。
柱状節理の大岩「立岩」は高さ二十メートル。近くで見ると迫力がある。観光バスだと時間がないので国道にある道の駅から「あれが立岩です」だけでおわるそうだが、やっぱり近くへいかなくちゃ。車をおりてゆっくり近づいてゆく↓
↑竹野川にかけられたこの橋、写真で見ていた時には電車か車のためのものだと思っていたが、歩行者用だったんですね。
自然のつくりだした巨石は、現代古代問わず、人の目には何か神がかった場所に見える。
同行してくださった古墳の発掘にも携わってきた市の方に
「この岩の上には何か祀られていたりしないんですか?」と訊ねてみたが、
「あったかもしれませんが、何も残ってません。風雨で飛ばされちゃいますよ。」
とのこと。そういうものなんですねぇ。
**車で少し移動
風雨や年月にも負けないがっちりした石組みの古墳群は「立岩」を見下ろす高台にあった↓もともとは盛り土がかぶさっていたものだが
二十基ちかくも見つかっている↓「大成(おおなる)古墳群」と称する
奈良の「石舞台」に似た印象をうける。同時期とされる。
内側は端正な石組み↓
これは復元ではなく掘っていって見つかったのをそのまま見せているのだそうだ↓
発掘の成果が目のあたりに出来るのは嬉しいが、地中にあった時よりも劣化してくるのが悩みだと話された。
観光で見学できることは、保全とは裏腹な事が多いのですね。
この場所から見晴らす間人の海。特別な場所にいる感じがします。
半世紀以上前、この場所に保養施設ができた。
建設途上で「なんだか大きな石がごろごろでてくる」というのが、古墳発見のきっかけだったのだそうだ。
保養施設は取り壊されて基礎だけが残っている。
***
再びバスに乗り、竹野神社(たかのじんじゃ)へ。この神社の後ろには巨大な前方後円墳(神明山古墳)がある。
今日は登る時間までないのが残念
参道の入り口に小さな石の太鼓橋があるのが目についた↓
促されて側面に刻まれた文字を読む↓
「石工 西山村 糸井成(?)右衛門」と読める
西山村は石がとれる場所なのだそうだ。右側には寄進者や人足を提供した村々の名前が列記してあった。
造られたのは天保十年(1839年)。
拝殿は大正期のものだが、その奥の本殿は江戸時代のものだそうだ↓
土壁には二本の線↓これは皇室ゆかりの神社であることを示している。なるほど。↓
神社のすぐ前が、道をはさんで「古代の里資料館」↓
町村合併のタイミングで分散していた発掘物を集めてつくられたそうで、展示は見やすく工夫されている。
★2月8日大雪の日に訪れた日記に博物館の事をもっと書いておりますのでごらんください
昨夜実演してくださった弥生時代の笛の実物があった↓
音楽を奏でて楽しむことは、人と動物を分ける決定的な行為。弥生時代の人がぐっと身近に感じるようになる。
すぐ横にレプリカがあったのでみんなで練習⇒これが音を出すだけでたいへんなんです。
この博物館の一番の目玉は、埋葬された遺体を飾っていた装飾をその地面ごときりとってきたこれ↓
赤いのは朱であろう。人間の肉体そのものは朽ちてしまっていたそうだが、勾玉などきれいに残っていたのだ。
この周辺の古墳からは青が美しいがガラスもたくさん発見されていて、その当時の豊かさが感じられる。
敷地の中にある弥生時代の家の再現↓
ここで弥生時代の御料理を再現して食べたりするのだとか。
午前中、三時間ほどだったけれど、「龍宮」メンバーの皆様、ほんとに一生懸命ご案内くださいました↓
*****
正午少し前に「和久傳の森」に到着↓昨年オープンしたばかり↓
安藤忠雄氏設計の安野光雅美術館が併設されている
★下見の時の写真ごらんください
この美術館は安藤氏の設計だが、食堂や売店のある建物は彼の設計ではないので、「間に仕切りをしてください」とリクエストがあったのだそうだ。
だが仕切り板をつくってしまっては施設の一体感がそがれてしまうので代わりに盛り土をして木を植えることにした↓
木が育てば自然と境界線になっていくが、塀をつくるようなぶった切り感はなくてすむ。良いアイデアですね。
レストランとお店の棟を入ると、安野さんの絵本のページを拡大した壁が↓隠れている動物、見えますか?
少し説明していただくだけでずいぶん見えてくるものがある。
「お時間あればお食事の後に椿園にしようとつくっているあたりご案内しますよ」と、お声掛けくださった。
たっぷり時間をとってあるし、お願いした。
まずは昼食↓黄色い液体は「山椒オイル」
テーブルの生姜麹が気に入って買ってしまった
食事の後、施設の方に「和久傳の森」をご案内いただいた。
斜面に植えられた椿はまだまだ小ぶりだが育っていけば「森」のようになるだろう↓
近隣の米蔵だった土蔵が壊されそうになったのを買い取って移築したものが階段の下に見えている↓
こうした地道な活動がこの場所をやがて「森」にしてゆく。
隣接した工場で働く人々にとっても誇りになる筈だ↓
今日お天気で、我々の行程にも余裕があったのでご案内いただくことができたのは幸いである(^.^)
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午後二時過ぎ、一路京都駅へ向かう。
途中、再建された安土桃山城が見えた↓
1992年のスペインはセビリアの万国博覧会では、安土城の天守閣が復元されてメインパビリオンになっていた。
万博終了後、安土に移築されたときいていた。見えている城はちがうが、調べてみると安土の「信長館」にあるようだ。
そのうち訪れてみたいとおもう。
京都駅で、初日にオーダーしていた「わらび餅」をもってきてくださった。
今のところ後継はいないという亀屋博永さん。この味が途絶えないように願っております。
伝統の味というのは、システム化して拡大生産するとどこか無理が生じやすい。
結局のところ一人の職人の手の中からうまれてくるものでしか再現できないのかもしれない。
古都にはそういうものが市井に隠れている。
あのわらび餅、また注文させていただきます。