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国葬考

2022-07-23 | 時評

政府が安倍元首相の「国葬」を打ち出したことで、その是非をめぐる論争が激しくなっている。しかし、安倍氏が国葬に値するかどうかを議論しても不毛である。支持者にとって安倍氏は最後に国葬に付された吉田茂に匹敵する偉人なのであろうし、反対者にとっては安倍こそ日本社会を引き裂いた元凶とされているからである。そうした人物観の対立がそのまま論争に投影されているにすぎない。

国葬そのものは世界の多くの国で元首や元首級の人物あるいは国民的英雄のような私人に対してすら行われることもある代表的な国家儀礼であるから、安倍国葬も海外では奇異とは思われないだろう。

とはいえ、国葬という古めかしい制度が55年ぶりに持ち出されてきたことで、当惑と反発が広がっているのだろう。たしかに、吉田国葬を最後に一例も国葬が存在しない以上、慣例として確立されておらず、むしろ総理大臣経験者でも国葬には付さない慣例を破って、なぜ国葬を復活させるかの説明を政府において尽くす必要はある。

また、国葬が弔意の強制とならないためにも、学校その他の社会団体に対して、国葬当日に弔意を表明するよう政府が公式にも非公式にも指示・要請するようなことはないということを確約する必要がある。

日本でもかつて国葬は国葬令に基づくれっきとした国家儀礼であったが、戦後の1947年に廃止されている。その理由は定かでないが、戦後憲法の政教分離原則との抵触が考慮されたらしい。もっとも、国葬を無宗教で執行するなら憲法違反とならない可能性もあり、決定的理由とも言えない。

そもそも国葬とは「国家的功績」が認められた特定の国民を国家の費用により葬儀に付する特権的な葬礼であり、法の下の平等の精神にもとる古色蒼然たる制度である。それは元来、〝崩御〟した君主を送る葬礼が君主以外にも拡大されたもので、法の下の平等を基調とする現代には相応しくない風習と言える。

とはいえ、為政者のような公人の場合、親族が主宰する私的な葬儀とは別に、公的な葬儀を営むことはあってもよいだろう。安倍氏にもそうした「公葬」を執り行うことにまで反対する人はそう多くないだろう。

もし、安倍氏に「公葬」を執り行うとすれば、何と言っても長く総裁を務めた自由民主党に、一貫した連立相手の公明党、そして今や裏与党と言ってもよい与党浸透団体・日本会議の三者による合同葬が最もふさわしい(取り沙汰されている統一教会改名団体も、ゆかりがあるなら名を連ねてはいかがだろう)。

それにしても、国葬が持ち出されたうえは、その続編として、霊廟や神社の建立提案もあり得るのではないかとさえ、冗談抜きで想定したくなるような空気である。それについて容喙するつもりはないが、「安倍霊廟/神社」の建立はもはや政府でなく、支持者有志の手と金で行わなければならない。あるいは、かねてより改憲派が敵視する政教分離原則を廃棄した改憲後に政府が行うか、である。


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