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近代科学の政治経済史(連載第12回)

2022-07-03 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

発明家と知的所有権テーゼ
 18世紀産業革命の原動力となる発明家が発明資本家階級となるに際しての法的な担保は、特許権であった。18世紀のブルジョワ社会思想において、所有権、わけても土地所有権が最大の自由として謳われる中で、知識をも無形の所有物とみなす知的所有権の観念が現前してきた。
 このような知的所有権テーゼはしかし、18世紀当時はまだ不備な点が多く、発明家の中には紛糾する特許訴訟を抱え込む者もいた。中でも、同姓同名の二人のジョン・ケイである。
 一人目のジョン・ケイは前回も名を挙げた飛び杼(フライング・シャトル)のジョン・ケイである。彼が開発した飛び杼は伝統的な手織り機にローラーの付いた杼を取り付けることで短時間かつ職工一人で織れるようになるという便利なもので、多くの織物業者がまさに飛びついた。
 ところが、業者は特許料を支払わず無断使用したため、ケイは業者を提訴して争ったが、業者側もシャトルクラブなる互助団体を結成して対抗したため、ケイは裁判費用がかさみ破産状態となり、フランスへ移住した。
 当時海外からの発明家移民を歓迎していたフランスではケイに年金を保障することで囲い込みを図ったが、フランスでも無断使用にさらされ、特許料を得ることはできないまま、ケイは失意のうちにフランスで没した。
 もう一人のジョン・ケイはリチャード・アークライトとともに水力紡績機を開発した人物である。アークライトは元理髪師兼かつら職人であったが、紡績業に転じた後、時計職人ながら紡績機械の改良研究をしていたケイと共同で水力紡績機を開発した。これは伝統的な糸車を水力で動かす機械式ローラーに置換する画期的な機械であった。
 実のところ、アークライトは発明そのものより、広範囲な特許を元手とする経営手腕に長けていた人物であるが、目玉製品である水力紡績機の特許を独占するべく、ケイを排除して単独で特許を取得した。これに憤慨したケイはアークライトを提訴し、二人は決別することとなった。
 後に、別の特許裁判でケイが証言したところによると、元来のアイデアはケイの共同開発者トマス・ハイズのもので、それをケイが無断でアークライトに流したというのであった。紡績機に関しては、アークライトもケイも本来素人で、ハイズこそは織機職人であったので、あり得べき筋であった。
 しかし、専門的な特許裁判の制度が確立されていなかった当時、結局のところ、原開発者は特定できないまま、民事陪審はアークライトの特許を無効とする評決を下したため、ハイズの特許は認められなかった。
 一方、蒸気機関の改良者として名を残すジェームズ・ワットは実業家のパートナーであるマシュー・ボールトンとともに創立したボールトン・アンド・ワット社を通じて特許権侵害訴訟で実質勝訴し、自身いくつもの単独特許を取得するなど、近代的な特許権の成功者でもあった。

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