ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第456回)

2022-07-11 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(1)概観
 アラブ連続民衆革命は、2010年末に始まる北アフリカからアラビア半島に及ぶ広範囲なアラブ諸国で連続したドミノ的な民衆革命であるが、実際に革命と呼び得る実態を備える事象が発生したのは、チュニジア、エジプト、イエメン、リビア、シリア(未遂)の5か国にとどまる。
 これらの革命中核国を見ると、端緒となったチュニジアを含め、北アフリカ諸国が4か国を占めるため、「北アフリカ革命」としての性格も強い。
 これら5か国ではいずれも1950年代から60年代にかけての革命によって社会主義体制が樹立され、濃淡の差はあれ、冷戦時代はソ連圏に組み込まれていた諸国でありながら、いずれもソ連邦解体後の世界を生き延びていた。
 しかし、その生き延びは世襲を含む長期体制の強権によって担保されていたものであり、2010年代になると、人権抑圧や政治腐敗、経済失政に対する鬱積した国民的不満が革命的に表出されてきたのである。
 そうした意味で、「アラブの春」と総称された2010年代の連続革命は、およそ20年遅れでの中・東欧脱社会主義革命のアラブ版とも言えるが、その余波は、程度差はあれ、湾岸の専制君主制諸国や同様の体制が続くヨルダンやモロッコなどの君主制国家にも及び、一定の体制内改革を導いたため、必ずしも脱社会主義革命としてはくくれず、より広く民主化革命として把握される。
 とはいえ、革命の成否という点からみると、「アラブの春」の結果は芳しいものではなく、唯一成功例と言えるのは端緒となったチュニジアのみで(ただし、最近揺り戻しの動きあり)、エジプトは反革命反動、シリアやリビア、イエメンは凄惨な長期内戦に突入するなど、総じて未遂や失敗に終わっている。
 その結果、従来「独裁の中の平和」が保持されてきた中東アラブ地域にいくつもの内戦が並行する中、アメリカ、ロシアに地域の覇権を争うイランとサウジアラビアの利害が交錯し、従来からのイスラエルを軸とする対立紛争に付加された新たな中東紛争の動因を作り出す結果となった。
 なお、地方的な革命の独自の成功例として、シリア未遂革命から派生した同国北部ロジャヴァ地方における少数民族クルド人主体の革命は実験的な革命的自治体制を生み出したが、この革命は理念的にも連続革命を超えた独自のものがあるため、独立した派生章を設けて扱うことにしたい。

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比較:影の警察国家(連載第63回)

2022-07-10 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐2‐1:公安調査庁の再活性化

 公安調査庁は法務省(当時は法務府)の外局として1952年に設置された国内保安機関であり、暴力主義的破壊活動団体の強制解散を軸とする破壊活動防止法(破防法)を主要な所管法とする法執行機関としての性格も持つ。比較対象の類似例としては、イギリスの保安庁(MI5)やドイツの憲法擁護庁がある。
 もっとも、内務省系統の機関であるMI5やDGSIとは異なり、日本の公安調査庁は政府の組織上法務省系統の公安機関であるが、発足当初は旧内務省系の元特別高等警察要員の参加が多く、現在でも庁内主要部署の長に警察からの出向ポストがあり、警察庁とも一定の人事交流の慣例が見られる。 
 破壊活動防止法は、戦前の思想弾圧法として猛威を振るった治安維持法とは異なり、思想そのものではなく、いかなる思想であるかを問わず、政治上の主義や施策を推進・支持し、またはこれに反対する目的をもってする暴力主義的破壊活動を取り締まる治安立法であるが、その一見中立的な立法趣旨にもかかわらず、冷戦時代には圧倒的に共産党その他のいわゆる左翼組織の無力化工作に偏重していたことは否定できない。
 そうした点では、警察の枠を超えて国内諜報機関としても機能する公安警察とその業務の相当部分が重なるが、公安調査庁の業務はその名の通り「調査」(≒諜報)にとどまり、警察として強制捜査を実施することができない点で、法的な意味での警察機関ではなく、機能的な政治警察である。
 ただ、都道府県警察の担当部署の寄せ集めである公安警察とは異なり、公安調査庁は純粋な国家機関であり、全国に出先機関を持つ集権的な組織構制であるが、人員は全体でも警視庁公安部要員より少なく、マンパワーが不足しており、能力的な面でも公安警察に及ばないとされ、廃止論も取り沙汰される劣勢の立場にあった。
 そうした中、1994年(松本)と95年(東京)に連続して起きた新興宗教団体・オウム真理教による神経ガス・サリンによる化学テロ事件という前代未聞の大事件が公安調査庁の再活性化の契機となった。
 このような事案の発生は、信教の自由を保障する戦後憲法の下で、新興宗教団体という言わば公安調査活動の死角を突かれたもので、公安調査庁にとっては(公安警察にとっても)その組織的失敗と言うべき事態であり、公安調査庁は組織をかけて制定後初となる破防法に基づく団体解散の請求に踏み切った。
 しかし、請求を受けた公安審査委員会はこれを棄却し、公安調査庁は「敗訴」した。ところが、1999年、政府は破防法の要件を緩和した「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」(大量殺人団体規制法)なる新法を制定し、その所管を公安調査庁に委ねた。
 この法律はその一般的な名称にもかかわらず、事実上は専らオウム真理教及びその分裂後継団体に適用される処分的法律であるため、公安調査庁は今日まで継続的にオウム後継団体の監視を主要任務として存続している。
 こうして、公安調査庁は旧オウム真理教後継団体の監視という新任務を得て再活性化されたわけであるが、大量殺人団体規制法はその要件が曖昧であるため、拡大適用も可能である点、今後の情勢次第では、公安調査庁の監視対象の拡張につながる恐れもあり、公安警察の拡大とともに影の警察国家化を進展させる要因となり得る。

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〝民主主義への挑戦〟ではない

2022-07-09 | 時評

(独裁者以外の)政治家が襲撃される事件が発生した際における非難の国際的な決まり文句ともなっているのが、〝民主主義への挑戦〟なるレトリック(類似レトリックを含む)である。先般の安倍元首相射殺事件に際しても、各種声明に見られたところである。

実際に民主主義を否定するという動機を被疑者が供述しているならともかくであるが、今回の被疑者は現時点での報道による限り、個人的な怨恨を供述しているようである。だとすると、これは政治的な暗殺でもなく、怨恨殺人で、標的が元首相という大物だっただけということになる。

そのような怨恨事案を〝民主主義への挑戦〟と表現するのは、意図的な拡大解釈、フレームアップである。そうしたフレームアップによって起こり得ることの一つは、前記事でも記したように、刑事司法の原則を排除する対テロ立法のような抑圧的治安法規の制定である。

こうした抑圧的な立法は〝自由〟を重視するはずの欧米諸国でも、すでに現れている。それは、欧米で21世紀に入って続発した国内テロ事件を背景としているので、ある程度の立法理由はあるが、日本ではそうした事案の発生はなく、今般の事件もテロではない。

日本の場合、そこまで便乗的に進むかはわからないが、前記事でも例示したような国家要人の殺人に通常の殺人より重罰を科する刑法改正、あるいは警備の失策という「反省」に基づき、政治演説会周辺での過剰警備による大量拘束など法執行面での抑圧強化の可能性はある。

そもそも〝民主主義への挑戦〟を精力的に展開されていたのは故人だったのではないだろうか。実際、安倍政権は公安警備系警察官僚OBを内閣官房の中枢に長期間据え置き、人事を通じて官界全般に睨みを利かせつつ、官邸中心、国会軽視、対メディア圧力など非民主的な手法を用いて、憲政史上最長という記録的な政権となったのである。

そうした〝挑戦〟によりすっかり力を削がれ、断片化された野党や委縮させられたメディアまでが〝民主主義への挑戦〟レトリックを揃って使っていたのでは(使っていない党や社にはお詫びを)、情けない。

政治的テロの範疇には到底入りそうにない今般の事件の政治的な利用に加担させられないためにも、政権与党の部外者は事件のフレームアップに手を貸すべきではないと考えるが、近年の同調主義の風潮からして、もはや確信は持てない。

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今後起こるべきでないこと

2022-07-09 | 時評

8日に発生した安倍元首相射殺事件を契機に今後起こり得るけれども起こるべきでないと思うことを箇条列記しておきたい。


一 事件関連の報道洪水が起こり、今後何か月にもわたって他の重要問題に関する報道がかき消され、あるいは脇に追いやられること。

一 事件を機に安倍氏が美化され、長期に及んだ安倍政権時代の政策や不祥事に対する批判的検証が自粛・封印され、あるいは批判的検証がタブー化されること。

一 支持者の間で安倍氏が神格化され、故人の遺志の継承という名分から改憲勢力が大同団結し、故人が望んでいた方向での改憲発議が急速に推進されること。

一 〝民主主義への挑戦〟等のレトリックに基づき、事件に便乗する形で、国家要人の殺人を重罰化する刑法改正や適正手続き原則を排除した新たな治安対策法の制定などの抑圧的な治安管理政策が打ち出されること。

一 〝法秩序への挑戦〟等のレトリックに基づき、法の峻厳さを示すためとして行われる別事件の確定死刑囚への見せしめ的な死刑執行。*[追記]7月26日、秋葉原路上殺傷事件(2008年)の死刑囚への死刑が執行されたのは、白昼街頭での犯行であったことの部分的類似性などから、見せしめ執行の可能性がある。

一 被害者の特殊な地位が政治的に配慮され、被害者の名声にも関わる犯行経緯・動機などの詳細が秘匿され、あるいは歪曲されたまま、憎悪感情を背景に形式的な司法手続き(裁判員裁判)により拙速に死刑が科せられること。

一 警備態勢の不備・失策等の技術的な観点からの糾弾により、関係者の「引責自殺」が誘引されること。

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近代革命の社会力学(連載第455回)

2022-07-08 | 〆近代革命の社会力学

六十五 キルギス民主化革命

(4)地域間/民族紛争の惹起
 2010年革命はキルギスにおける南北間対立をも投影しており、バキエフ政権が南部を最大基盤としていたのに対し、革命側は、政権首班のオトゥンバエワは南部出身ながら、基調として北部に基盤があった。こうしたことから、革命後の移行プロセスは技術的には順調に進むも、その過程で暴力的な地域間/民族紛争を惹起し、国を南北分裂危機に立たせた。
 この危機は南北の政治的な対立と民族間の対立の双方を二重に内包していたが、前者は当初辞職を拒否したバキエフが首都を脱出して南部に逃れ、反攻の機を窺ったことで助長された。最終的に、バキエフが辞職に同意し、海外亡命した後も、5月から6月にかけて、南部では暫定政権主導の憲法改正に反対する反政府暴動が発生した。
 もう一つの対立軸である民族紛争は、全国の人口割合で15パーセント程度の少数民族ウズベク人が南部に集住しており、経済的に優勢な勢力として地域経済を握っていることで、キルギス人の間に反ウズベク感情が鬱積していたことが要因となっている。
 この民族紛争の芽はソヴィエト時代にまで遡り、人工的な境界線のもとに現キルギスの前身となるキルギス・ソヴィエト社会主義共和国を連邦構成国として作出したことから発生したもので、ソ連邦からの独立過程で1990年にも民族衝突が発生している。
 その点、2005年の革命で失権したアカエフはウズベク系を抑圧していたが、革命で誕生したバキエフは一転して、南部の支持基盤を固めるべく、親ウズベク政策を採ったため、ウズベク人はバキエフの支持者となっていた。そうしたことから、そのバキエフが追われた2010年の革命に対して多くのウズベク人は否定的であった。
 革命過程の2010年6月に頂点に達した南部での民族衝突の直接的要因については諸説あるが、カジノでの些細な喧嘩が引き金となったとされる。この大規模衝突ではウズベク人を中心に900人近くが死亡、10万人を超える難民が発生し、鎮静化後の当局による恣意的逮捕や拷問も革命政権の汚点となった。
 その後、2010年10月の総選挙では、バキエフの復権を訴える親バキエフ派の祖国党が革命政権の主軸である社会民主党をしのぎ、比較第一党となったことにも、南部勢力の根強さが示されている。南部勢力は、その後も政党の目まぐるしい離合集散の中で形を変えて力を保持しており、経済格差を伴う南北間対立は民主化により緩和されつつも解消はされていない。

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近代革命の社会力学(連載第454回)

2022-07-07 | 〆近代革命の社会力学

六十五 キルギス民主化革命

(3)革命政権の樹立と展開
 2010年の革命は、2005年の革命と同様に、暴動を伴うものとなり、その過程で深刻な地域間/民族衝突を内包しながら、前回と比べても、野党勢力は結束し、迅速に行動したと言える。
 事実上の革命政権となる暫定政府はバキエフ大統領が正式に辞職を表明する前の2010年4月7日に設立され、この種の革命政権の指導者としては稀有な女性指導者ローザ・オトゥンバエワが政府首班に就いた。
 オトゥンバエワは外交官出身の社会民主党員で、90年代の独立直後にも短期間外相を務めたが、05年革命にも参加し、バキエフ新政権の誕生にも関わりながら、政権の独裁化を批判して短期で離反していた人物である。
 そうした首班の経歴からしても、この暫定政府はまず外交的な面で成果を上げた。ロシアの支持を取り付けたことがその最初の成果である。ロシアの革命関与は公式には否定されているが、当初は支持していたバキエフ政権をロシアが見限ったことは確かであり、これも政権崩壊を早める要因となった。
 ロシアがバキエフ支持を取り下げたのは、政権の中国への傾斜に加え、アカエフ前政権時代からアフガニスタン戦争対応のためにキルギスに置かれてきた米軍出撃基地の撤去をロシア及び野党勢力が求めていたことに対し、バキエフ政権が消極的であったことも関わっていると見られる。
 当初、バキエフは支持基盤の南部に逃走し、辞職を拒否して反攻の機を窺っていたが、ロシアやベラルーシの仲介を得て辞職に同意し、最終的には家族らとともにベラルーシに亡命した。
 一方、暫定政府は憲法改正国民投票の6月実施を発表し、オトゥンバエワは5月、暫定大統領に就任したが、バキエフ支持基盤の南部では、バキエフの辞職後も、5月以降、支持勢力による反革命騒乱が発生、6月にはキルギス人とウズベク人の民族衝突も発生するなど、南北間内戦の危機も懸念される状況となる。
 しかし、そうした不穏な情勢下、6月の国民投票で憲法改正が90パーセント超の支持を受けて可決されたことで、革命は新たな局面を迎える。
 新憲法は大統領をほぼ象徴的存在に限局し、議院内閣制を基調としたうえ、議会では一政党が120議席中65以上の議席を獲得することを禁ずることで独裁につながる巨大与党の形成を阻止するユニークな条項も置かれた。―ただし、連立による巨大与党連合の存在は阻止できず、後の憲法改正で議員定数が90議席に削減されたことで、この制限条項の意義は薄れた。
 この後、2010年7月には、従前の暫定政府から、10月予定の総選挙及び翌年に延期された大統領選挙までのプロセスを監督する実務的な過渡期政府に移行し、改めてオトゥンバエワが大統領に就任した。

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近代革命の社会力学(連載第453回)

2022-07-05 | 〆近代革命の社会力学

六十五 キルギス民主化革命

(2)縁故独裁の再現前化と革命への急転
 20世紀末から21世紀初頭にかけて続発したユーラシア横断民衆諸革命の中で、キルギスのみ5年を置いて二次革命が発生した要因として、革命後の政権が前政権と酷似した縁故独裁政治に陥り、革命が巻き戻されたことがあった。
 その点、キルギスもアジア的な縁故政治の土壌を共有していたことが影響している。実際、革命後の選挙で勝利したバキエフ新大統領は、権力世襲も念頭にビジネスマンの次男を経済開発を担う政府経済機関の長に抜擢したほか、警察官出身の実弟を保安・警備機関の長に据えるなど、親族で政治経済の要職を固めていった。
 こうしてバキエフ政権が2005年革命から短期間で第二のアカエフ政権と化していく中、06年から野党勢力の抗議行動が開始され、07年4月には大規模な騒乱に発展するが、バキエフは大統領権限を縮小する憲法修正で譲歩したうえ、同年末の解散・総選挙では翼賛政党・輝ける道を結成して圧勝した。
 この選挙では不正疑惑が浮上したが、バキエフ政権は南部に強力な支持基盤を持つ一方、外交的には中国・ロシアとの関係を強化しつつ権力を護持した。09年7月の大統領選挙でも、野党候補者が投票日に政権側の不正を理由に立候補を取り下げたため、バキエフ現職が圧勝した。
 対する野党勢力は05年革命時にバキエフ政権の誕生にも貢献した社会民主党を中心に連合人民運動を組織していたが、不正選挙疑惑を革命蜂起に結びつけるほどの力量は示せず、抗議運動は不発に終わった。 
 こうして2009年の時点ではバキエフ政権の長期化の兆しが濃厚であったが、それが翌年には革命に急転する背景として、09年から燃料価格が高騰する中、電力供給の停滞による輪番停電が導入されるなど、市民生活を悪化させる経済危機が生じたことがある。
 バキエフ政権が経済対策として中国企業の支援による送電線の増設などの関係強化に動いたことは、キルギスを勢力圏とみなすロシアの不興を買い、ロシアが2010年4月、キルギス向けエネルギー輸出に関税をかける措置に出たため、燃費や輸送費の高騰を誘発した。
 そうした状況下、2010年4月、北西部の町タラスで大規模な反政府デモが発生した後、政権が発動した非常事態宣言下で有力野党指導者が拘束されたことに抗議するデモが首都ビシュケクでも発生、暴動を伴う騒乱に発展していく。

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近代革命の社会力学(連載第452回)

2022-07-04 | 〆近代革命の社会力学

六十五 キルギス民主化革命

(1)概観
 ユーラシア横断連続民衆革命の一環として、2005年の民衆革命を経験したキルギスでは、アカエフ政権からバキエフ政権への交代が起きたが、バキエフ新大統領は間もなく民主化に消極的であることが明らかとなった。
 2005年革命では、アカエフの縁故による腐敗した独裁政治が変革対象とされたはずであったが、政権を掌握したバキエフも、子息や実弟を政権高官に登用し、縁故政治を開始したことが、大きな失望をもたらしていた。
 こうして、バキエフが第二のアカエフと化していく中、早くも2006年から野党や民衆による抗議行動が隆起し始め、バキエフは議会を自派で固めるべく、07年に議会を解散し、大統領支持派の翼賛政党「輝ける道」を結党し、選挙で圧勝した。
 しかし、この選挙について、野党からは不正疑惑が提起されたが、同じく不正選挙疑惑を端緒とした05年革命当時とは異なり、今回は革命的な力学が作動しない中、09年の大統領選挙でもバキエフは再選を果たした。
 ところが、翌2010年4月、野党指導者が拘束されたことへの抗議集会が大規模な騒乱に発展したことを契機に、野党勢力が暫定政権を樹立すると、バキエフは首都から支持基盤の南部へ逃亡、最終的に友好的な独裁国ベラルーシへ亡命していった。
 このように、2010年の革命は、05年の革命から時間差を置いた二次革命という性格を持つが、今般の革命では暫定政権が05年革命の積み残した民主化に踏み込んだため、民主化革命としての性格がより濃厚になった。
 また、一連の革命過程では、女性のローザ・オトゥンバエワが首班として指導した点でも、男性優位の強いアジア諸国にとどまらず、大半が男性に指導されてきた諸国における従来の革命と異なる特徴であった。
 一方、この革命にはキルギス特有の南北地域間対立、さらにそれとも密接なキルギス人と少数派ウズベク人の民族対立が絡んでおり、革命直後には南部で大規模な民族衝突が勃発するなどの動乱を伴った。
 ともあれ、2010年民主化革命の結果、キルギスでは長期に及ぶ権威主義独裁体制が多い中央アジアの旧ソ連邦構成諸国の中では比較的民主化が進展し、周辺諸国とは別の道を進む契機となったこともたしかである。
 なお、キルギスは宗教上イスラーム圏に属するが、2010年民主化革命が同年末に開始されるアラブ連続民衆革命の直接的な触発契機となったかどうかについては充分な情報がなく、単に偶発的な共時事象であったかもしれない。

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近代科学の政治経済史(連載第12回)

2022-07-03 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

発明家と知的所有権テーゼ
 18世紀産業革命の原動力となる発明家が発明資本家階級となるに際しての法的な担保は、特許権であった。18世紀のブルジョワ社会思想において、所有権、わけても土地所有権が最大の自由として謳われる中で、知識をも無形の所有物とみなす知的所有権の観念が現前してきた。
 このような知的所有権テーゼはしかし、18世紀当時はまだ不備な点が多く、発明家の中には紛糾する特許訴訟を抱え込む者もいた。中でも、同姓同名の二人のジョン・ケイである。
 一人目のジョン・ケイは前回も名を挙げた飛び杼(フライング・シャトル)のジョン・ケイである。彼が開発した飛び杼は伝統的な手織り機にローラーの付いた杼を取り付けることで短時間かつ職工一人で織れるようになるという便利なもので、多くの織物業者がまさに飛びついた。
 ところが、業者は特許料を支払わず無断使用したため、ケイは業者を提訴して争ったが、業者側もシャトルクラブなる互助団体を結成して対抗したため、ケイは裁判費用がかさみ破産状態となり、フランスへ移住した。
 当時海外からの発明家移民を歓迎していたフランスではケイに年金を保障することで囲い込みを図ったが、フランスでも無断使用にさらされ、特許料を得ることはできないまま、ケイは失意のうちにフランスで没した。
 もう一人のジョン・ケイはリチャード・アークライトとともに水力紡績機を開発した人物である。アークライトは元理髪師兼かつら職人であったが、紡績業に転じた後、時計職人ながら紡績機械の改良研究をしていたケイと共同で水力紡績機を開発した。これは伝統的な糸車を水力で動かす機械式ローラーに置換する画期的な機械であった。
 実のところ、アークライトは発明そのものより、広範囲な特許を元手とする経営手腕に長けていた人物であるが、目玉製品である水力紡績機の特許を独占するべく、ケイを排除して単独で特許を取得した。これに憤慨したケイはアークライトを提訴し、二人は決別することとなった。
 後に、別の特許裁判でケイが証言したところによると、元来のアイデアはケイの共同開発者トマス・ハイズのもので、それをケイが無断でアークライトに流したというのであった。紡績機に関しては、アークライトもケイも本来素人で、ハイズこそは織機職人であったので、あり得べき筋であった。
 しかし、専門的な特許裁判の制度が確立されていなかった当時、結局のところ、原開発者は特定できないまま、民事陪審はアークライトの特許を無効とする評決を下したため、ハイズの特許は認められなかった。
 一方、蒸気機関の改良者として名を残すジェームズ・ワットは実業家のパートナーであるマシュー・ボールトンとともに創立したボールトン・アンド・ワット社を通じて特許権侵害訴訟で実質勝訴し、自身いくつもの単独特許を取得するなど、近代的な特許権の成功者でもあった。

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近代科学の政治経済史(連載第11回)

2022-07-02 | 〆近代科学の政治経済史

三 産業学術としての近代科学(続き)

発明資本家階級の誕生
 18世紀産業革命の原動力となる実用科学の分野は、多くは職人階級に属した発明家の出現に支えられていた。中でも、英国における輩出が際立っていたことが、同国を産業革命の発祥地としたのであった。
 それらの人士を逐一挙げていれば限界がないほどであるが、産業革命全体の端緒ともなった綿織物工業分野では、飛び杼(フライング・シャトル)を発明したジョン・ケイ、ジェニー紡績機を発明したジェームズ・ハーグリーブス、水力紡績機を発明したリチャード・アークライト(ただし、疑義あり)、ミュール紡績機を発明したサミュエル・クロンプトン、蒸気機関を利用した力織機を発明したエドモンド・カートライトなどがいる。
 また、最初の大容量動力源として広汎な応用性を示した蒸気機関の改良で名を残すジェームズ・ワットも、後の蒸気船や蒸気機関車といった最初の人為的な動力交通手段の開発につながる貢献をしている。
 さらに、産業革命を促進したもう一つの分野である製鉄関連でも、コークス製鉄法を開発したエイブラハム・ダービー(及びその子孫)、攪拌精錬法(パドル法)を開発したヘンリー・コートを挙げることができる。
 これらの発明家たちは、エドモンド・カートライトのように旧家の出でオックスフォード大卒(ただし、当初は牧師)というエリート出自の例外はあったが、ほとんどが職人階級出自であり、高等教育を受けた科学者ではなかった。
 しかし、実地で学んだ工学的知識に基づいて各種の発明をし、かつ自身が特許権を法的手段としつつ、起業するという形で資本家ともなった。18世紀の発明家の多くが、こうして言わば発明資本家階級という新しい社会階層を形成した。
  かれらは王立学会の威光とは無縁の者たちばかりであったが、まだ未発達だった不安定な特許権に支えられつつ、発明収入で一財産築き、ブルジョワ階級に上昇する資本主義的起業家の元祖ともなった。
 その点、自らコンピューターソフトやアプリケーションを開発しつつ、それをもとに起業する現代の情報資本家にも通ずるところがあり、かれらは18世紀発明資本家の現代的バージョンと言えるかもしれない。

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