ザ・コミュニスト

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〝民主主義への挑戦〟ではない

2022-07-09 | 時評

(独裁者以外の)政治家が襲撃される事件が発生した際における非難の国際的な決まり文句ともなっているのが、〝民主主義への挑戦〟なるレトリック(類似レトリックを含む)である。先般の安倍元首相射殺事件に際しても、各種声明に見られたところである。

実際に民主主義を否定するという動機を被疑者が供述しているならともかくであるが、今回の被疑者は現時点での報道による限り、個人的な怨恨を供述しているようである。だとすると、これは政治的な暗殺でもなく、怨恨殺人で、標的が元首相という大物だっただけということになる。

そのような怨恨事案を〝民主主義への挑戦〟と表現するのは、意図的な拡大解釈、フレームアップである。そうしたフレームアップによって起こり得ることの一つは、前記事でも記したように、刑事司法の原則を排除する対テロ立法のような抑圧的治安法規の制定である。

こうした抑圧的な立法は〝自由〟を重視するはずの欧米諸国でも、すでに現れている。それは、欧米で21世紀に入って続発した国内テロ事件を背景としているので、ある程度の立法理由はあるが、日本ではそうした事案の発生はなく、今般の事件もテロではない。

日本の場合、そこまで便乗的に進むかはわからないが、前記事でも例示したような国家要人の殺人に通常の殺人より重罰を科する刑法改正、あるいは警備の失策という「反省」に基づき、政治演説会周辺での過剰警備による大量拘束など法執行面での抑圧強化の可能性はある。

そもそも〝民主主義への挑戦〟を精力的に展開されていたのは故人だったのではないだろうか。実際、安倍政権は公安警備系警察官僚OBを内閣官房の中枢に長期間据え置き、人事を通じて官界全般に睨みを利かせつつ、官邸中心、国会軽視、対メディア圧力など非民主的な手法を用いて、憲政史上最長という記録的な政権となったのである。

そうした〝挑戦〟によりすっかり力を削がれ、断片化された野党や委縮させられたメディアまでが〝民主主義への挑戦〟レトリックを揃って使っていたのでは(使っていない党や社にはお詫びを)、情けない。

政治的テロの範疇には到底入りそうにない今般の事件の政治的な利用に加担させられないためにも、政権与党の部外者は事件のフレームアップに手を貸すべきではないと考えるが、近年の同調主義の風潮からして、もはや確信は持てない。

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今後起こるべきでないこと

2022-07-09 | 時評

8日に発生した安倍元首相射殺事件を契機に今後起こり得るけれども起こるべきでないと思うことを箇条列記しておきたい。


一 事件関連の報道洪水が起こり、今後何か月にもわたって他の重要問題に関する報道がかき消され、あるいは脇に追いやられること。

一 事件を機に安倍氏が美化され、長期に及んだ安倍政権時代の政策や不祥事に対する批判的検証が自粛・封印され、あるいは批判的検証がタブー化されること。

一 支持者の間で安倍氏が神格化され、故人の遺志の継承という名分から改憲勢力が大同団結し、故人が望んでいた方向での改憲発議が急速に推進されること。

一 〝民主主義への挑戦〟等のレトリックに基づき、事件に便乗する形で、国家要人の殺人を重罰化する刑法改正や適正手続き原則を排除した新たな治安対策法の制定などの抑圧的な治安管理政策が打ち出されること。

一 〝法秩序への挑戦〟等のレトリックに基づき、法の峻厳さを示すためとして行われる別事件の確定死刑囚への見せしめ的な死刑執行。*[追記]7月26日、秋葉原路上殺傷事件(2008年)の死刑囚への死刑が執行されたのは、白昼街頭での犯行であったことの部分的類似性などから、見せしめ執行の可能性がある。

一 被害者の特殊な地位が政治的に配慮され、被害者の名声にも関わる犯行経緯・動機などの詳細が秘匿され、あるいは歪曲されたまま、憎悪感情を背景に形式的な司法手続き(裁判員裁判)により拙速に死刑が科せられること。

一 警備態勢の不備・失策等の技術的な観点からの糾弾により、関係者の「引責自殺」が誘引されること。

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