九州の風来坊

今は自由人で風来坊、何処までも突っ走る男は何処に行くのやら

病気になんか負けるんじゃ無いぞ宇多由香

2009年06月25日 18時00分34秒 | Weblog
豊岡がホテルから駆け出してきた時嫌な予感がしたんだ。
部屋に急ぐ途中、ホテルのロビーに丁度ドクターと義理の息子がいたから全てが上手くいった。
部屋に行くとベッドで苦しむ姿を見て何にもしてやれない自分が悔く時間が止まって感じた。救急車よ早くと心の叫びが続く。
到着後、言葉の問題があるから病院には来なくてもいい、貴方が居なければ選手は上手く走ないぞ、だから私達に任せてレースに専念しなさいと言い残し医者は娘を連れて病院に向かった。大丈夫なのか考えれば考えるほど寝ない、心配の極地が帰国まで続き選手に悟られまいとから元気だったが食事は喉を通らない、やせ我慢が続く。
夜中何度も車で砂漠の中を往復する娘は、病院の状況と宇田の状態を連絡してくれる。翌々考えれば中東の砂漠の都市で自分達に何が出来るんだ、この時の娘の存在は大きかった。娘の交友関係でマダムが動いてくれた。もしマダムが居なかったら病院も飛行機も最高の手配はかなわなかっただろう。
夜中でも病院に娘を送り届けたアラブの少年も宇田の病気が直るように献身的に働いてくれた。
日本に緊急電話をして病院とへリコブターの手配をしてくれた新山先生にも感謝したい。
翌々考えれば、宇田の面倒を見始めてから自分は異変に気がついていた、坂に強く呼吸器が強い宇田の呼吸が荒くなり走りに精彩を欠き始めたのはジャパンカップ、この時血液検査をするように指示したが、検査に異常は見られなかった。
その後の練習でも少し疲れているとぐらいしか思われなかったが、自分はもう一度検査を進めた。
でも異常は見られず、元気にレースをスタート、しかし宇田の体は動かなかった。ゴール後は異常も無く、走れなくてすいませんと競技者ならではの言葉を俺に投げかけた。その数時間後、背中が痛いと言出だしたのだ、この時自分はもしかしてと頭をよぎった、自分の経験と胸騒ぎだ。
その後検査で重大な病気だと聞かされたとき、俺は眠る事が出来なかった。そして日本に帰国できるか解らないという?娘がカタールに残ると言ったが2人を置いて帰国出きる訳ないだろ、1ヶ月先かも知れないと医者に言われたが帰る訳にはいかない。メカの健吾に選手の事を頼み、夜の空港で待機した、時間は過ぎ、やはり宇田は乗れないのかと思っていると娘が空港に現れた。無事宇田さんを医者と共に乗せたから私達も帰るよ、急いでと搭乗の手配を進めた。この時外務省に電話を入れてくれたマダムが居たから帰れる事を聞いた。
日本に帰国して一時退院して見た姿も全然変りはしない宇田、精神力も強く明るい、大丈夫ですと言う言葉は俺を心配させないように言っているように聞こえる。
俺は新たな仲間と、新しいユニホームを宇田と萩原の為に作った。これを着て元気に走る姿を見せてくれ。
萩原と宇田の最強のコンビがあれば日本の女子レース界も必ず強くなれる。
病気と戦う宇田は骨髄移植を7月の初めに行う、もうすぐだ、頑張れ、そして秋には元気になり、冬には落ち込んだ体力を戻し、春にはレース参加、俺の頭の中はトレーニングプランで一杯だ。
病気なんかに負けるんじゃない、俺が攻撃しろと言ったら攻撃だ。不屈の闘志と精神力、何時も俺が口にする言葉、忘れるな宇田由香。
女子ナショナルチームの皆は、お前の復活劇を心から願ってる。

そんなに違うのか

2009年06月25日 11時30分31秒 | Weblog
ドルフィネリブレと言えば以前はツールの前の大事なレースでここで仕上がりを見るレースだった。
しかし今では強烈な山岳は影を潜めそれなりのコースだそうだ。
昨日、市川雅敏はこのコースを良く知るが昔とは違うんだよなと俺に力説。
そうえばドルフィネの主催者の親父が年取って、今は息子がオーガナイズしてるんだ、俺の義理の息子の友人が主催者。
ツールドスイスも以前のような山岳は無くなったらしい、昔は山又山、一度見に行ったけど凄かったですもんね。(師匠、市川)見に行った。
師匠スイス走りにいきますか?世界選手権が行われる町もコースも知り尽くしてますし、以前大門が住んでた所で師匠が好きな自転車屋もありますよ。
フルフトレックにサートレック、チューリッヒ湖、懐かしいでしょ。