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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

いま振り返る 植民地支配 歴史と実態② 抑圧36年、日本は朝鮮で何をしたか

2019-09-14 08:14:42 | 国際政治
いま振り返る 植民地支配 歴史と実態② 抑圧36年、日本は朝鮮で何をしたか
1910年8月22日、漢城府(現ソウル)に戒厳令が敷かれ軍と警察が巡回する中、日本と大韓帝国(韓国)は「韓国併合に関する条約」(以下、併合条約)に調印しました。以来36年、朝鮮半島は日本の植民地下に置かれます。その時、日本は朝鮮で何をしたのでしょうか。(栗原千鶴)

総督府設置し専制政治
一片の“権利”も付与せず

併合条約に調印直後、日本は朝鮮にあった結社を解散させ、政治集会を禁止します。29日に併合条約が公布されると呼称を「韓国」から「朝鮮」に変更。司法・行政・立法の三権を握る「朝鮮総督府」(写真①)を新設し、初代総督には現職の陸軍大臣だった寺内正毅が就任しました。
日本は併合条約の前文で、併合は両国の幸福や東洋平和のためだと合理化しました。しかしその約3カ月前には,併合後の韓国に対する施政方針」を閣議決定し、▽朝鮮には当分、憲法を施行せず大権(天皇)により統治する▽総督は天皇に直属し、朝鮮における一切の政務を統括する権限を有する―としていました。
当時の大日本帝国憲法は徴兵制など天皇絶対の専制政治を国民に強いるものでしたが、条件を満たした一部の男子には選挙権を与えていました。日本は朝鮮に対し、憲法のこのわずかな「権利」すら与えず、総督が天皇の代理人として民衆を弾圧できる専制政治を実践しました。



①1916年に起工した朝鮮総督府新庁舎の工事現場。朝鮮王朝時代の王宮前に26年完成(ソムンダン出版の『写真で見る独立運動・上』から)

憲兵警察制度
暴力支配と土地取り上げ

警察と憲兵が一体となった憲兵警察制度は、朝鮮の人々を苦しめました。全国すみずみに憲兵と巡査を配置し、暴力的な支配を行い、「武断政治」と呼ばれました。
10年から18年まで行われた土地調査事業は、多くの農民が書類の提出ができず、土地の所有権を失いました。取り上げた土地の大部分は総督府のものとなり、そのほとんどが日本人に安く払い下げられました。農民の80%が小作人になります。中国東北部や日本へ移住し、低賃金労働者となり苦しい生活を強いられた人もいました。不満が渦巻く中、19年3月1日に京城(現ソウル)で始まった朝鮮の独立・自主を求めた「三・一独立運動」は、約3カ月にわたり全国に広がりました。総督府は軍隊を動員し無差別に発砲したり、逮捕後も拷問するなどして徹底的に弾圧しました。

「文化政治」の名で
「親日派」養成し運動分断

独立運動によって、日本は武力一辺倒の政策から転換を迫られることになります。
19年8月、新しい朝鮮総督に海軍大将の斎藤実が就任します。斎藤は「文化政治」の実施を宣言します。一方で憲兵や驚官の駐在所の数を3倍に増やすなど、植民地支配体制を強化。治安維持法を朝鮮にも適用し、独立勢力の弾圧を強めていきます。
また一定の条件を満たす団体は結社や集会が認められ、日本の植民地支配に協力する親日勢力を養成します。文化政治の本質は、「親日派」を利用し、独立運動を分裂させることにありました。

皇民化政策
言葉や名前、誇りも奪い

日本軍は朝鮮半島を足場に「満州事変」(31年)以来の中国侵略をすすめ、「15年戦争」に突入します。戦況が長引くと、日本は38年に国家総動員法を制定。民衆を戦争に駆り出しました。
そのために日本は朝鮮で、朝鮮民族の誇りや文化、伝統を破壊し、天皇のためにすすんで命を捨てる人間をつくりだす「皇国臣民化政策」を進めました。

「広告臣民ノ誓詞」
私共は大日本帝国の臣民であります。私共は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私共は忍苦鍛錬して立派な強い国民になります―。37年に制定された「皇国臣民ノ誓詞」の一部です。朝鮮では学校の朝礼はもちろん、会社、工場などでも毎日、唱和させられました。(写真②)


②愛国朝会で毎日「皇国臣民ノ誓詞」を斉唱。正面には「国体明徴、内鮮一体、忍苦鍛錬」の文字(民族問題研究所所蔵)

神社参拝の強要
日本は、朝鮮の全ての村に神社をつくり、参拝を強要しました。神社には天照大神や明治天皇をまつり、天皇崇拝を押し付けます。これにはキリスト教徒の抵抗もあり、神社は戦後すぐ、ほとんどが取り壊されました。(写真③)



③第2陸軍支援兵訓練所入所式を終えて、平壌神社に参拝する陸軍支援兵(民族問題研究所所蔵)

朝鮮語の禁止
38年に朝鮮教育令の改定で、朝鮮籍の科目が消えます。学校で.切の朝鮮語が禁止され、日本語だけで教育を受けさせました。朝鮮語による新聞や雑誌が発売禁止となり、言論がますます統制されていきます。

創氏改名
朝鮮の人々は一族の系譜を記した「族譜」を大事にしてきた民族です。40年に日本が実施した創氏改名は、名前を日本式に変えさせようというものでした。
拒否する人にはさまざまな圧力が加えられました。
(写真④)


④創氏改名の書類を地方裁判所に提出するよう呼びかけたチラシ(民族問題研究所所蔵)

工場・戦場へ強制動員
徴兵・徴用工・「慰安婦」

30年代後半に入ると日本では成人男性の徴兵により、労働力不足が顕著となりました。日本は国民徴用令を発令。朝鮮の人々も日本の炭鉱や鉄工所、軍需工場などへ、強制的に動員されます。
「募集に応じ、2年働けば戻って工場長になれるといわれた」「学校の呼びかけに、級長だったので率先して応えた。日本では学校に行けるといわれた」―。
募集、官韓灘、徴用と時期によって動員された形態は異なりますが、植民地だった当時、最も弱い立場だった人たちが犠牲になったことは明らかです。
日本は、戦況が悪化した44年には、朝鮮に徴兵制を適用。23万人が戦場に送りこまれました。

徴用工被害
李春植(イ・チョンシク)さん(95)は41~43年、旧日本製鉄の鉄工所で強制労働させられました。危険な仕事に従事させられ、熱い鉄材の上に倒れて3カ月のけがを負います。賃金も支払われませんでした。韓国の最高裁は2018年10月、新日鉄住金(当時)に対し慰謝料の支払いを命じよした。(写真⑤)



⑤雨の中、日本大使館前で日本政府に謝罪と賠償を求める李春植さん(手前右)=8月15日、ソウル(栗原千鶴撮影)

「慰安婦」被害
日本軍は、戦場に「慰安所」をつくり、女性を性奴隷としました。韓国に住む被害者の李玉善(イ・オクソン)さん(93)は、16歳のころ朝鮮半島東南部・蔚山で、日本人と朝鮮人の2人組の男にトラックに押し込められ、中国の慰安所につれていかれました。性奴隷とされ、一日に何人もの軍人を相手にしなければなりませんでした。「あそこは慰安所ではない。死刑場だ」と語ります。

朝鮮人元BC級戦犯
日本軍は、連合国側の捕虜を監視させるために朝鮮人を動員しました。李鶴来(イ・ハンネ)さん(94)は17歳の時、人数を割り当てられた村役場のすすめで試験を受けます。実質的な強制徴用でした。泰緬鉄道建設に使役された捕虜の監視にあたります。2カ月の軍事訓練では、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は知らされませんでした。李さんら朝鮮の捕虜監視員は戦後、国際条約違反で148人がBC級戦犯とされ、そのうち23人が死刑となりました。
被害者らの苦しみは1945年8月15日に解放を迎えたあとも続きました。存命の被害者はほとんどが90歳を超えました。いまも名誉回復、真の謝罪、補償を求めてたたかい続けています。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月11日付掲載


日本の朝鮮・韓国の支配。「臣民」だと言いながら、大日本国憲法のもとでの限られた権利もなく、神社参拝の強要、朝鮮語の禁止、創氏改名などで民族の誇りを奪う。そして、徴兵・徴用工、慰安婦。
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いま振り返る 植民地支配 歴史と実態 ① 脅迫と強圧で実現した「韓国併合」

2019-09-13 10:32:00 | 国際政治
いま振り返る 植民地支配 歴史と実態① 脅迫と強圧で実現した「韓国併合」
「清日戦争、露日戦争、満州事変と中日戦争、太平洋戦争にいたるまで、60年以上にわたる長い戦争が終わった日」。韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領は、日本の植民地支配から解放されたことを記念する光復節(8月15日)の演説でこう述べました。戦前の日本帝国主義による侵略と36年間の植民地支配は、韓国の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。韓国国民の中にその傷痕と怒りは今も消えていません。日韓関係を改善するうえで、加害者である日本が過去の植民地支配にどう向き合うかは決定的です。日本の植民地支配はどのように進められたのか、改めて考えます。(若林明)


ソウルにある植民地歴史博物館で展示を見学する人たち=2018年12月(栗原千鶴撮影)

日清戦争と日露戦争
朝鮮支配めぐる侵略戦争

明治維新から10年もたたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。
当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。
そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。
日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃(ミンピ))を殺害し、遺体を井戸に投げ込むという暴挙を行いました。こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。
日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。
日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました。



第2次日韓条約締結時の日本と韓国の首脳(『画報日本近代の歴史7』から)

不法・不当な「併合」条約
どう喝・拉致・監禁下で

日露戦争後、韓国に対する日本の覇権は無制限になっていきました。韓国の外交権を取り上げた第2次日韓協約(韓国保護条約)は、日本による軍事的強圧のもとで締結されました。
特派大使の伊藤博文(初代首相、後に韓国統監)は「もし拒否するのであれば、帝国政府はすでに決心している。その結果はどのようなことになるか」(「伊藤特派大使内謁見始末」)と韓国の国王を脅迫。韓国政府の閣議の場に憲兵を連れて乗り込み、協約締結をためらう韓国の大臣を「あまり駄々をこねるようだったらやってしまえ」とどう喝しよした。
さらに、日本の特命全権公伸の林権助は回想『わが七十年を語る』で、韓国側の大臣が逃げないように「憲展か何かを予め手配しておいて、途中逃げださぬよう監視してもらいたい。勿論(もちろん)名目は護衛という形をとるのです」などと、事実上の拉致・監禁下での交渉であったことを記しています。
この条約で、日本は韓国に「統監府」をおき、属国化を進め、1910年に「韓国併合条約」を押しつけました。
当時の国際法でも国家の代表者を脅迫しての条約は無効でした。しかも第2次日韓協約で韓国から外交権を奪っておいて、条約を締結させたのですから二重三重に「不法・不当」なものでした。



全国に拡大した反日義兵運動の兵士(『画報日本近代の歴史7』から)

「義兵闘争」「独立運動」
抵抗する民衆 徹底弾圧

しかし、日本の乱暴な植民地化に朝鮮の民衆は抵抗し、1906~11年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がりました。これに対して、日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害し、日本軍に非協力的な民衆を見せしめに殺傷しました。
19年3月には、日本の侵略に抵抗を試みた前皇帝・高宗の死をきっかけに、植民地支配からの独立を目指す「三・一独立運動」が起こりました。ソウルで始まった運動は朝鮮全土に拡大。数百万人が参加したと言われています。この運動に対しても日本は徹底的に弾圧を行い、1年間で死者7千人、負傷者4万人、逮捕者は5万人に及びました。
戦後、日韓請求権協定(65年)の交渉で日本代表は「韓国併合」を不法・不当なものとは一切認めませんでした。それは、軍事的強圧のもとに締結したことを正当化する、国際的にも恥ずべき態度でした。

安倍「戦後70年談話」
反省語らず日露戦争美化

ところが安倍晋三首相は「戦後70年談話」(2015年)で、自らの言葉としては「侵略」「植民地支配」への反省を語らず、朝鮮の植民地化を進めた日露戦争について「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と美化しました。
日露戦争直後に、ロシアの敗北を帝国主義の抑圧に苦しむ諸民族から歓迎を受けたという事実はありますが、すぐに真実は明らかになります。インドの独立・建国の父の一人、ジャワハルラル・ネールは『父が子に語る世界史』で「その(日露戦争)直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった」と指摘しています。

このシリーズは今後、植民地支配の実態(第2回)、戦後日本政府の認識(第3回)、植民地主義をめぐる世界の流れ(第4回)を掲載します。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月8日付掲載


江華島事件から朝鮮を支配に乗り出し、日清戦争、日露戦争を経て、韓国併合へ。徹底してアジア進出の拠点として朝鮮・韓国を支配下に置いた日本。
植民地支配そのものです。
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日韓の歴史をたどる⑧ 「韓国併合」 “百年の長計”「帝国版図」に

2019-09-11 08:14:49 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑧ 「韓国併合」 “百年の長計”「帝国版図」に
糟谷憲一

1905年(明治38)11月の乙巳(いつし)保護条約(第2次日韓協約の韓国側呼称)によって、日本は韓国の外交権を奪い、漢城(ソウル)に統監を置きました。統監は皇帝に謁見(えっけん)する権利を持ち、内政への支配を進める役割を担いました。
翌年に初代統監として赴任した伊藤博文は、韓国政府の大臣を統監府に呼んで「韓国施政改善に関する協議会」を開催して重要政策を審議するとともに、日本人顧問官とその付属機関を通じて内政支配を進めました。
こうして韓国政府は統監府の操る傀儡(かいらい)機関と化しました。07年(明治40)5月に韓国政府の首班には日本の忠実な代理人、李完用が就任しました。



1907年7月20日、新皇帝の朝見式の日、ソウル市内を重装備で警備する日本軍(「絵入りロンドンニュース」07年8月号)(写真はともに『画報日本近代の歴史7』から)

ハーグ密使事件口実に譲位強要
皇帝の高宗は保護国化に強く反発。07年6月末にハーグで開かれていた第2回万国平和会議に高宗の使者が参加して、保護条約は日本の強圧によるもので無効だと主権の回復を訴えようとしました。しかし、すでに日本が桂・タフト協定、第2次日英同盟、日露講和条約で列強の支持を取り付けていたため訴えは取りあげられず失敗しました。
7月、日本政府(第1次西園寺公望(きんもち)内閣)は、このハーグ密使事件を口実にして韓国内政の全権を掌握する方針を閣議決定します。伊藤統監と李完用首相は高宗に強要して皇太子に譲位させ、新皇帝の純宗が即位しました。
漢城では数万名の参加する抗議集会が開かれ、韓国軍の一部もこれに同調しました。伊藤統監は、言論・集会・結社を取り締まるため、韓国政府に「新聞紙法」「保安法」を制定させるとともに、日本政府に要請して一個旅団の兵力を増派させました。
7月24日に伊藤統監は李完用首相と第3次日韓協約(韓国では丁未七(ていびしち)条約と呼称)を調印。日本案を提示したその日のうちに無修正での調印が強いられました。同協約によって、日本は、統監による内政の指導、高官の任免に対する統監の承認、法令制定および重要な行政処分に対する統監の事前承認、韓国政府官吏への日本人の任命などの権限を得ました。
これ以後、韓国政府各部の次官をはじめとする中央・地方の要職に日本人官吏が任命されました。日本人の次官によって政府の行政が動かされるさまは「次官政治」と称されました。8月には韓国軍が解散させられました。



漫画誌『東京パック』08年11月1日号に載った風刺画。伊藤の大亀が韓国皇太子を抱いて「イロハ」を教え、尻尾のへびは韓国人にかみついている


09年、韓国の皇太子の「太伝」(先生)となり、日本に連れて帰った伊藤博文(右)と皇太子

反日抵抗運動を武力で抑えこむ
日本の内政支配は表面的には強化されましたが、植民地化政策に対する反発・抵抗の動きが大きくなり、農村部・山間部では義兵運動、都市部では愛国啓蒙運動が本格的に展開されました。
義兵運動は、日本の侵略政策に反対した武装闘争です。1905年ごろから始まっていましたが、07年8月以降、解散させられた韓国軍の軍人が加わることで戦闘力が強化され、活動地域も全国に広がりました。日本は韓国駐箚(ちゅうさつ)軍の兵力を増強して義兵運動の鎮圧をはかりました。
愛国啓蒙運動は学校教員や新聞記者など新知識人が大韓協会、畿湖興(ぎここう)学会などの啓蒙団体を組織し、集会・演説会・機関誌発行、私立学校設置などを通じて民族独立、立憲思想、国民意識の培養をよびかけた運動です。統監府は韓国政府に学会令、私立学校令などを制定させて、愛国啓蒙運動の抑圧をはかりました。
1909年(明治42)7月、日本政府(第2次桂太郎内閣)は「適当な時機」に韓国を併合する方針を閣議決定しました。韓国を「帝国版図の一部」とするのは、帝国の実力確立のための最確実なる方法であり、併合は「帝国百年の長計」であるとしたのです。
1910年(明治43)4~5月に英露から「韓国併合」について承認を得ました。並行して「併合」後の統治方針について検討が進められ、6月3日に閣議決定されました。この閣議決定に加わった陸軍大臣の寺内正毅が第3代統監として7月23日に着任。日本の用意した条約案などにほとんど異議を許されないまま、8月22日に寺内統監と李完用首相との間で「併合条約」が調印されました。
(かすや・けんいち 一橋大学名誉教授)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月3日付掲載


韓国には皇帝はいたけど、実質的には日本の傀儡政府が握る。
植民地支配へのたたかいは、東学農民から義兵運動や愛国啓蒙運動に引き継がれた。
ちなみに、ハーグはオランダの都市。自分的には平和のイメージがあるんですが…。
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日韓の歴史をたどる⑦ 保護国化 内政に介入 外交権も奪う

2019-09-10 08:16:21 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑦ 保護国化 内政に介入 外交権も奪う
糟谷憲一
かすや・けんいち 1949年生まれ。一橋大学名誉教授。朝鮮史研究会元会長。『朝鮮の近代』、『朝鮮現代史』(共著)、『世界歴史大系朝鮮史』(共編著)ほか

1876年(明治9)に武力で威圧して強要した不平等条約・日朝修好条規の調印以来、日本政府は朝鮮における勢力拡大政策を進めてきましたが、1904年(明治37)、日露戦争を起こすことで韓国の独立を奪い植民地と化す道を突き進むことになりました。
1903年12月30日に「対露交渉決裂の際日本の採るべき対清韓方針」を閣議決定。韓国に対してはどんな場合でも実力をもって臨み、日本の権勢の下に置くべきはもちろんであるとしました。
04年2月、日露開戦と同時に、日本は一挙に一個師団の兵力をソウルに入れ、日韓議定書を強要。議定書は、韓国政府は施政改善について日本の忠告を入れることも定めており、日本は朝鮮半島での日本軍の軍事行動の自由を確保するとともに、韓国の内政に干渉する「名分」を得ました。
3月に日本陸軍は、韓国の軍事的制圧のために韓国駐箚軍(ちゅうさつぐん)を編成し、その兵力を次第に増強。同軍は7月に「軍律」と呼ぶ命令を発布し、軍用の電信線・鉄道に危害を加えたものなどを死刑にするとしたのをはじめ、反日運動をきびしく抑圧しました。



日韓協約に反発する韓国の民衆によって打ち壊されたソウルの日本人商店=1904年9月30日

日韓協約を強要 韓国の行政掌握
04年8月には韓国政府に第1次日韓協約を結ばせました。日本政府が推薦する財務・外交顧問を韓国政府が招聘(しょうへい)すること、外国との条約締結など外交の重要案件は日本政府と協議することを認めさせたこの協約により、日本の大蔵省の局長だった目賀田(めがた)種太郎が財政顧問に就きました。
目賀田は貨幣整理を実施し、日本貨幣と同一品位の新貨幣を通用させ、韓国の貨幣制度を日本の貨幣制度に従属させました。ほかにも警察・教育などの部門に日本人顧問が就き、これらの部門の行政を実質的に掌握しました。
日露戦争中に日本は、京釜鉄道(ソウル―釜山間)・京義鉄道(ソウル―新義州間)を開通させ、05年4月には日韓通信機関協定を調印させて韓国の郵便・電信・電話を委託経営の名の下に日本政府の管理下に移しました。
日露戦争下で日本は韓国の主権を侵害し支配を強化したのですが、それにあきたらず、外交権を奪って保護国化し、支配をいっそう強化することをはかりました。
05年4月に韓国保護国化の方針を決定すると、列強から承認を取り付けました。アメリカとの桂・タフト協定(7月成立)、第2回日英同盟(8月)によって、アメリカのフィリピン支配、イギリスのインド支配を承認するのと引き換えに、韓国保護国化を承認させたのです。9月調印の日露講和条約(ポーツマス条約)によってロシアも保護国化を承認しました。



第1次日韓協約締結の記念写真=1904年8月22日(ともに『画報日本近代の歴史6』から)

皇帝を威嚇して保護条約を結ぶ
保護国化の方針は実行に移されます。11月15日、伊藤博文は特派大使として皇帝の高宗に謁見(えっけん)し、保護条約への調印を「勧告」する明治天皇の親書を渡し、条約案は変更の余地のない確定案なので、拒否すればいっそう不利益となると威嚇しました。
高宗が、臣下に諮り、人民の意向も察しなければならないと述べると、君主専制国家なのに、人民の意向を察するとは人民を扇動して日本へ反抗させようとするものだと、さらに威圧を加えました。(『日本外交文書』伊藤特派大使復命書)
同月17日に伊藤大使、林権助(ごんすけ)韓国駐箚公使は韓国政府の会議に臨席し、保護条約案への賛否を問い、反対意思の表示が不徹底なものは賛成とみなし、賛成多数であるとして調印させました。双方の「合意」によって結ばれたとは到底言いがたい条約を根拠として、日本は韓国の保護国化を進めました。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月21日付掲載


日本の韓国支配。鉄道建設、通貨に郵便・電信・電話を支配。内政だけでなく外交権も奪っていったのですね。
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日韓の歴史をたどる⑥ 日露戦争 韓国の中立宣言を軍事で圧殺

2019-09-09 08:08:06 | 日韓の歴史をたどる
日韓の歴史をたどる⑥ 日露戦争 韓国の中立宣言を軍事で圧殺
金文子

1895年(明治28)の王后閔(みん)氏殺害事件の2年後、1897年(明治30)10月、第26代朝鮮国王高宗は皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。
これより1910年(明治43)8月に日本に「併合」されて滅亡するまでの13年間を大韓帝国、略して韓国と呼ぶ。
韓国は世界の主要国11カ国と修好通商条約を締結し、そのうちの7力国に公使館を設置していた。また首都ソウルには9カ国の公使館があった。

諸国に向けての高宗の外交努力
日露開戦前年の1903年(明治36)8月、韓国政府は日露両国に駐在する韓国公使に次のように訓令した。
「日露両国が我々を中立国とみなすように要求しなければならない。よって、将来戦争が起こった場合、いかなる作戦も我が国の国境内で行うことはできず、いかなる軍隊もわが国の領土を通過することはできない。明確な回答が我が国境の保全の保障として必要とされる」(『日本外交文書』)
駐日韓国公使は訓令に従い書簡を作成して外務省に持参した。これに対する小村寿太郎外務大臣の回答は、日本政府は戦争にならないように努力しているので、戦時中立を語ることは適当ではないというものであった。
一方、ロシアの対応については今のところ詳しく分かっていない。しかし、日露交渉の中でロシアが主張した、韓国領土を軍略上の目的に使用しないことや、韓国北部に中立地帯を設定して日露双方の軍隊の立ち入りを禁止すること等は、ロシアが韓国の要求を受け入れたものと見ることができる。日本は最後までこれらに同意しなかった。
日露開戦の危機が迫るや、韓国は世界に向けて次のように発信した。
「ロシアと日本の間に発生した紛争に鑑み、また、平和的な帰結を達成するのに交渉当事者が直面している困難に鑑み、韓国政府は、皇帝陛下のご命令により、現在上記の二強国が現実におこなっている談判の結果がどうであれ、もっとも厳正な中立を守るとかたく決意したことをここに宣言する」(『日本外交文書』)これは、よく知られている韓国の中立宣言である。1904年(明治37)1月21日に、韓国の外部大臣・李址鎔(イジヨン)名の仏文電報で、修好諸国の外務大臣と各国駐在の韓国公使あてに発信された。
日本では、この中立宣言は世界から無視されたかのように語られてきた。とりわけ、ロシアも日本と同様に回答しなかったと論じられてきたが、これが誤りであり、ロシアの外務大臣が「全く共感をもって迎えられた」と回答していることが、2010年に初めて明らかにされた。(和田春樹『日露戦争』下巻)
このような明確な韓国の意思表示を日本は軍事力で圧殺した。1904年2月8日深夜、日本の連合艦隊の主力がロシアの旅順艦隊を奇襲した時、韓国の仁川港にも日本の大艦隊が出現し、九州北部でひそかに編成された一二師団(司令部は小倉)の兵士、2千数百名が上陸、直ちにソウルに進入した。引き続き19日には一二師団の後続部隊が到着、ソウルを完全に軍時占領下に置いた。



一二師団先発隊のソウル進入=1904年2月9日(博文館『日露戦争写真画報』第1巻、1904年初版のみに収録)

「議定書」を強要 保護国化に進む
こうして2月23日に韓国に強要したのが「日韓議定書」である。そこには、日本の軍事行動を容易にするために韓国が十分便宜を与えることや、日本が軍略上必要な地点を臨機収用することができることなど、韓国の主権を著しく侵害する文言が並んでいた。
調印に先立って、駐韓公使・林権助(ごんすけ)が度支部(たくしぶ)(財務)大臣・李容翊(イヨンイク)らを日本へ拉致することを計画、日本軍により実行された。天皇をはじめ日本政府首脳は林の計画を承認していた。
同年5月31日、韓国全土を軍事占領下に置いた日本政府は「帝国ノ対韓方針」を閣議決定し、韓国の保護国化とそのための具体的方策を定めた。それより日本による韓国の外交・軍事・財政権の掌握と経済利権の剥奪が進行した。
日露戦争とは、大韓帝国を日本の支配下に置くために、それを妨害するロシアに対して日本が仕掛けた侵略戦争である。
(キム・ムンジャ朝鮮史研究者)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年8月7日付掲載


日清戦争と同様に日露戦争も、日本とロシアが直接ドンパチやった戦争ではなくって、韓国の支配をめぐって闘った戦争。
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