仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

まずは前提を疑う

2011-06-07 10:54:43 | 議論の豹韜
大震災後、研究者の仲間うちでいちばん耳にしたのは、「後からみたら、時代の転換する大きな画期となる出来事かもしれませんね」という発言である。4月5日付Ustreamでの鼎談を単行本化した『大津波と原発』のまえがきでも、中沢新一氏が、「今回の出来事をきっかけとして、日本人が大きく変わっていくだろうということ、また変わっていかなければならないということについて、私たちは認識を共有していた」と述べている。しかし、本当にそうだろうか。

これらは、古今東西において惹起したあらゆる自然災害を捨象し、東日本大震災のみを特別視しようとするベクトルを持つが、その核にあるのは原子力エネルギーをどうするかという問題である(上記の本の第5章「原子力と〈神〉」は酷かった。日本の宗教文化に対する中沢新一の思考は、一神教×多神教の二項対立に縛られていて大変に浅い。神仏習合についても、基本的な理解の仕方自体が間違っているし、もちろん現在の研究水準はまるで押さえていない。この人は、口寄せをしないと本当にダメなのだ)。ぼくも原発には反対だが、注意したいのは、分節したい、画期を作りたいという〈歴史学的欲望〉である。これはまさに物語りの構成で、過去のさまざまな事情を整理してポイントを浮かび上がらせ、未来をいかに変えてゆくかという提言を打ち出す。「歴史」という語が冠されると、その目線は過去にばかり向いていると誤解してしまうが、実は歴史を構築することとは、特定の未来を実現させようとする戦略なのである(殷代甲骨卜辞以来、歴史はそのために叙述されてきたといっても過言ではなかろう)。しかしその欲望が巨大な分だけ、時代的思潮によって正当化されている分だけ、「構成」の過程でこぼれ落ちてしまうものも多い。自覚がない場合がほとんどだろうが、時には意識的な過去の〈修正〉が許容されることもある(まあ、いかなる歴史構築にも、どこかしらに修正主義的なベクトルは作用しているものだ)。「後からみたら、時代の転換する大きな画期となる」のではなく、人間が整理・分節して画期に「する」のである。上記の錚錚たる語り手が集った本からも、何か、東日本大震災の肝腎なところが、ごっそりと抜け落ちているような気がする。ヒロイズムへの陶酔がちらつくのも、いやだった。中沢氏は本文で、「ぼくはですからね、数十年先に日本史を書く人がですね、『2011年に起こった出来事が、日本においては第7次エネルギー革命にひとつの挫折を生じさせて、そこから別のエネルギーの形態がはじまった』というふうに記述するようにしたいんです」とも述べている。「数十年先」の歴史学が、革命というレトリックに依拠せず過去を語れるようになっていることを願ってやまない。

とにかく、ぼくがみつめたいのは〈こぼれ落ちてゆくもの〉だ。今回の騒動で自分に振られた役回りにおいて、ぼく自身がやるべきこととして納得できるのは、画期作りのなかで捨象され、こぼれ落ちてゆくものを掬いあげる作業だろうと思う。原発についても意見は持っているが、それを口にすることは、自分を〈被害者〉化し、時代思潮と同一化しているがごとき高揚感と、極度の〈自己正当化〉をもたらす。現状を形作った経緯を検証するのは大切だが、予言を喧伝する柄ではないのである。
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