仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

人間性の解体構築:〈ディスホミニゼーション〉に有効性はあるか?

2008-06-11 13:11:12 | 議論の豹韜
5/28(水)、文学部の共同研究会「人間の尊厳を問いなおす」において、「人間性の脱構築と仏教-草木成仏論と他者表象の力-」なる報告を行った。

最初「人間の尊厳」がテーマだといわれて、いったい何をやるべきか悩みに悩んだ。何しろ、ここ何年も関わっている環境史・環境倫理研究では、西欧哲学史において「人間の尊厳」として構築されてきたものをいかに相対化するか、解体するかが至上命題だったのだから。しかしよくよく考えてみれば、環境倫理において近代的人間像を解体することも、尊厳を「問いなおす」、もしくは新たな枠組みにおいて「更新する」行為にほかならないのだ。そこで開き直って上記のようなタイトルを付し、さらに調子に乗って、「人間性の脱構築」に「ディスホミニゼーション(dishominization)」とルビをふってみた。そもそもホミニゼーション(hominization)という言葉は、進化の歴史における人間性の成立過程を意味する。いわば、〈人間化〉ということだろう。哲学や宗教学、生態・形質・文化人類学などでは、この括りのなかで、他の動物と人間とを分かつ特徴が探究されている。古いところでは、ダートによる狩猟仮説(すなわち、人間の暴力的ありようを狩猟民としての人間化に求める)が想起されるし、新しいところでは、野家啓一によるホモ・ナランス説(物語り行為こそが人間の人間たる由縁とする)などが注目される。自然主義的傾向がみられはするが、このホミニゼーションという観点が、自然/人間の関係を考える学問の共通のプラットホームになりつつあるのだ。翻って環境哲学や環境倫理についてみてみると、キリスト教的(ストア派的)人間像を環境問題の起源として批判したホワイトの『機械と神』、反近代の枠組みでやはり西欧的人間のありようを問題視するディープ・エコロジーなど、ホミニゼーションとはまったく逆のベクトルを持ちながら、それでも人間の可能性を追求する方向性が見出せる。大ざっぱにいえば、空、縁、無我といった仏教の概念にも類似の意味があろう。これを人間化過程の解体構築、すなわちディスホミニゼーションと括ることで何か新しい地平が見出せるのではないか、そんな思いつきが頭をよぎったのである。

しかし、やはり思いつきは思いつきに過ぎず、報告自体の内容としては、中国から日本へかけての草木成仏論の展開を跡づけただけに終わってしまった。挙げ句の果てに結論では、前稿で触れた良源と木鎮め集団の問題を例に持ち出し、理論的帰結として導き出された中国の草木成仏論(依正不二・唯心論・一念三千・色心不二の立場)が草木を器世間としかみないのに対し、日本天台の草木発心修行成仏論は樹木との存在論的交渉に支えられている、といった経験至上主義に陥ってしまう始末。ポストモダンだなんだといいつつ、まさにオントロジカル・ゲリマンダリングである。昨年『国文学 解釈と教材の研究』に発表した駄文でも「歴史学は存在を扱うべき」説を強調し、一応の理論的整理はしているのだが、何か個別研究に向かうと旧来の枠組みに吸収されてしまう感じだ。哲学科の先生方には割合に受けがよかったものの、構築主義の向こう側で実存を問う表現を鍛えなければならない。そのためのツールとしても、果たしてディスホミニゼーションに有効性があるかどうか、もう少し思考を深めてみる必要がある。

ところで。昨日6/13(金)は『法苑珠林』講読会で発表を担当したのだが、慧嵬という僧侶の伝記に幾つか面白い表現を発見した。「後冬時天甚寒雪。有一女子、來求寄宿。形貌端正、衣服鮮明、姿媚柔雅。自稱天女」。これって雪女の言説形式では? 調べてみる価値があるだろうか。
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