7月に入って、今年最大のヤマ場が続いている。このヤマ場は山脈のようで、ひとつ越えるとまた次のヤマが待っているのだから、なかなか安らげない。ほとんど寝られないし、どうしても眠くなると仮眠を取るが、30分後には起きねば、1時間後には起きねばと思って横になっているので、結局は疲れが取れない。勢い、ブログにも「おことわり」を表示して更新をストップしていたが、今日学会で「北條さんがブログにあんな掲示を出すのは初めてなので、みんな心配している」との噂を聞いた。あんまり心配をかけては申し訳ないので、少し近況をアップしておくことにする。順番からいうと、6/18(木)に大妻大学の草稿・テキスト研究所を見学させていただいた件、6/27(土)の上智史学会の例会の件を先に書かねばいけないのだが、まずは記憶の新しい今日のことから。
今日4日(土)は、かねてから準備を進めていた、古代文学会の連続シンポジウム「トポスの引力」の当日だった。6/8の打ち合わせ以来、ようやく方向性は定まったのだが、準備に割ける時間がなくレジュメの作成は困難を極めた。それこそ、通勤・帰宅の電車のなかでも研究文献・漢籍資料を読み込んでいったが、予行演習に当てていた前日金曜の院ゼミの時点でも、未だ内容が完成していない。これは困ったと思ったが、だからといって、方針を変更し内容をコンパクトにする感性は持ち合わせていない。金曜の完成度80%の時点でレジュメ枚数はA4版17ページに及んでいたが、さらに資料を付け加えたうえで全体を整理し、徹夜で16枚程度にまとめることができた。しかし報告時間は30分なので、通常の講義なら半期は喋れるこの内容を、全体の主旨を損なわずかいつまんで説明できるかどうかがポイントとなる。会場へ向かう電車のなかでも予行演習してみたが(観相行!)、なんとか30分強で話せそうなラインを掴むことができた。
そして、共立女子大学での本番。30分は越えたが、40分弱でまとめることができた。それで聴いている側は分かってくれるのか?、報告として無理があるのではないか?、という批判が出るのはもっとものことだろう。しかし、それでもちゃんと受けとめてくれるのが古代文学会の恐ろしさである。質疑応答で次々繰り出された本質的な質問が、そのことを証明してくれていた。天皇なるものの誕生の問題(これを、歴史学のように政治や制度のみから語っても回答にはならない)、祭儀に関わる湧水・流水の意味の相違、都に穴がある意味、王と穴の関係などなど、頭をフルに回転させなければ答えられない質問が続出した。これこそが古代文学会だ(呉さんにいただいた天皇への昇華の質問は、歴史学的には答えようもあったが、それで満足いただけないのは分かっていた。自分で限界が分かっているので消極的な答えとなったが、やはり以前も「樹霊に揺れる心の行方」で述べたように、自然神を越える新たな神としての立場を喧伝する祭儀の繰り返しに意味があろう。そして、その〈事実〉を人々の身心に刻印する大規模開発である。今回の報告ではシンボリズム的分析に終始したが、伊勢や熊野が苦行の果てに現れるように、造都事業の重要さを忘れてはならない)。
一緒に報告した安藤礼二さんのご報告も面白かった。ライフワークである折口信夫の『死者の書』『死者の書 続編』が持つ意味を、中上健次の創作活動における折口との格闘から明らかにし、現在ベストセラー中の村上春樹『1Q84』へと繋げてゆく。彼らが発見し、再構築することで文学的営為の再生を試みた想像力の源泉こそが、うつろな穴の持つ求心力とコモリによる転生の問題なのだ。量は多いが浅薄なぼくの語りと異なり、安藤さんのひとつひとつの言葉には力が籠もっていた。
中上の折口学も、そして安藤さんの折口論・中上論も、茅山道教の修行者が洞天と一体化するために自分の身体の隅々へ心の眼を凝す存思の行、空海が一如と一体化する境地を目指した即身成仏の行に重なるものがある。折口が書くことができなかった「頼長のみた空海の姿」は、どんなものだったのか。質疑応答のなかでも触れたが、中国の屍体不壊伝承でも、最終的にはその記述=物語化を拒否してゆくベクトルがある。繭のなかには何があるのか、箱の中身は何なのか。戦慄を呼ぶその秘密の開陳にこそ、穴というものの持つ本当の意味が隠されているのだ。歴史学というディシプリンでどこまで立ち向かえるかは別として、それを明らかにすることにはきっと大きな意義があろう。
安藤さんとぼくの話が噛み合い過ぎており、対立点がほとんどなかったので、シンポジウムとしては少し盛り上がりに欠けたかも知れない。しかし、90分に及ぶ質疑応答の長丁場も間断なく議論が続き、それなりに意味のある内容にはなったと思う。終了後は、頭も体もフラフラになった。懇親会では、古代文学会の重鎮の方々から、さらにいろいろなご意見をいただくことができた。新たなシンポジウムの仕事も舞い込み、来年度以降の研究の方向性もみえてきた。毎年2~3回シンポのパネリストを務める状態が続いているので大変だが、その都度見聞を広めることができているのでありがたい限りだ。
それにしても、今回の報告は、周囲の仲間たちの研究やアドバイスに支えられて成り立ったといっても過言ではない。安藤さんはもちろん、運営委員のうち今回の担当の津田博幸さん、山田純さん、首都大OUの後に話を聞いてくださった猪股ときわさん、三品泰子さん、院ゼミで示唆を与えてくれた早藤美奈子さん、松浦晶子さん、深澤瞳さん、林直樹君に感謝である。また、会場には卒業生のM君とN君が駆け付けてくれた。企業の荒波に揉まれる彼らが、学問に真剣に取り組む人間たちの姿から、何かを感じてくれればよかったのだが…。徹夜の準備中BGMとしてずっとテンションを維持してくれていた、東京事変「閃光少女」にも感謝しよう。
※ 写真は、中沢新一訳のレヴィ=ストロースの講義録集と、ユリイカのメビウス特集。レヴィ=ストロースは、ぼくのナラティヴの起源でもあり、その意味でとても巨大な穴だ。メビウスは、ぼくがマンガ家修行をしていた頃、生きた伝説として手塚治虫より遠くにいた。行きたいが行けなかったシンポの記録が出ており、感激。
今日4日(土)は、かねてから準備を進めていた、古代文学会の連続シンポジウム「トポスの引力」の当日だった。6/8の打ち合わせ以来、ようやく方向性は定まったのだが、準備に割ける時間がなくレジュメの作成は困難を極めた。それこそ、通勤・帰宅の電車のなかでも研究文献・漢籍資料を読み込んでいったが、予行演習に当てていた前日金曜の院ゼミの時点でも、未だ内容が完成していない。これは困ったと思ったが、だからといって、方針を変更し内容をコンパクトにする感性は持ち合わせていない。金曜の完成度80%の時点でレジュメ枚数はA4版17ページに及んでいたが、さらに資料を付け加えたうえで全体を整理し、徹夜で16枚程度にまとめることができた。しかし報告時間は30分なので、通常の講義なら半期は喋れるこの内容を、全体の主旨を損なわずかいつまんで説明できるかどうかがポイントとなる。会場へ向かう電車のなかでも予行演習してみたが(観相行!)、なんとか30分強で話せそうなラインを掴むことができた。
そして、共立女子大学での本番。30分は越えたが、40分弱でまとめることができた。それで聴いている側は分かってくれるのか?、報告として無理があるのではないか?、という批判が出るのはもっとものことだろう。しかし、それでもちゃんと受けとめてくれるのが古代文学会の恐ろしさである。質疑応答で次々繰り出された本質的な質問が、そのことを証明してくれていた。天皇なるものの誕生の問題(これを、歴史学のように政治や制度のみから語っても回答にはならない)、祭儀に関わる湧水・流水の意味の相違、都に穴がある意味、王と穴の関係などなど、頭をフルに回転させなければ答えられない質問が続出した。これこそが古代文学会だ(呉さんにいただいた天皇への昇華の質問は、歴史学的には答えようもあったが、それで満足いただけないのは分かっていた。自分で限界が分かっているので消極的な答えとなったが、やはり以前も「樹霊に揺れる心の行方」で述べたように、自然神を越える新たな神としての立場を喧伝する祭儀の繰り返しに意味があろう。そして、その〈事実〉を人々の身心に刻印する大規模開発である。今回の報告ではシンボリズム的分析に終始したが、伊勢や熊野が苦行の果てに現れるように、造都事業の重要さを忘れてはならない)。
一緒に報告した安藤礼二さんのご報告も面白かった。ライフワークである折口信夫の『死者の書』『死者の書 続編』が持つ意味を、中上健次の創作活動における折口との格闘から明らかにし、現在ベストセラー中の村上春樹『1Q84』へと繋げてゆく。彼らが発見し、再構築することで文学的営為の再生を試みた想像力の源泉こそが、うつろな穴の持つ求心力とコモリによる転生の問題なのだ。量は多いが浅薄なぼくの語りと異なり、安藤さんのひとつひとつの言葉には力が籠もっていた。
中上の折口学も、そして安藤さんの折口論・中上論も、茅山道教の修行者が洞天と一体化するために自分の身体の隅々へ心の眼を凝す存思の行、空海が一如と一体化する境地を目指した即身成仏の行に重なるものがある。折口が書くことができなかった「頼長のみた空海の姿」は、どんなものだったのか。質疑応答のなかでも触れたが、中国の屍体不壊伝承でも、最終的にはその記述=物語化を拒否してゆくベクトルがある。繭のなかには何があるのか、箱の中身は何なのか。戦慄を呼ぶその秘密の開陳にこそ、穴というものの持つ本当の意味が隠されているのだ。歴史学というディシプリンでどこまで立ち向かえるかは別として、それを明らかにすることにはきっと大きな意義があろう。
安藤さんとぼくの話が噛み合い過ぎており、対立点がほとんどなかったので、シンポジウムとしては少し盛り上がりに欠けたかも知れない。しかし、90分に及ぶ質疑応答の長丁場も間断なく議論が続き、それなりに意味のある内容にはなったと思う。終了後は、頭も体もフラフラになった。懇親会では、古代文学会の重鎮の方々から、さらにいろいろなご意見をいただくことができた。新たなシンポジウムの仕事も舞い込み、来年度以降の研究の方向性もみえてきた。毎年2~3回シンポのパネリストを務める状態が続いているので大変だが、その都度見聞を広めることができているのでありがたい限りだ。
それにしても、今回の報告は、周囲の仲間たちの研究やアドバイスに支えられて成り立ったといっても過言ではない。安藤さんはもちろん、運営委員のうち今回の担当の津田博幸さん、山田純さん、首都大OUの後に話を聞いてくださった猪股ときわさん、三品泰子さん、院ゼミで示唆を与えてくれた早藤美奈子さん、松浦晶子さん、深澤瞳さん、林直樹君に感謝である。また、会場には卒業生のM君とN君が駆け付けてくれた。企業の荒波に揉まれる彼らが、学問に真剣に取り組む人間たちの姿から、何かを感じてくれればよかったのだが…。徹夜の準備中BGMとしてずっとテンションを維持してくれていた、東京事変「閃光少女」にも感謝しよう。
※ 写真は、中沢新一訳のレヴィ=ストロースの講義録集と、ユリイカのメビウス特集。レヴィ=ストロースは、ぼくのナラティヴの起源でもあり、その意味でとても巨大な穴だ。メビウスは、ぼくがマンガ家修行をしていた頃、生きた伝説として手塚治虫より遠くにいた。行きたいが行けなかったシンポの記録が出ており、感激。